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2020年10月12日 (月)

川内村義勇隊遺族の心のよりどころ浄行寺を訪ねてーその3

浄行寺は、戦国時代の1570年に創建されたという長い歴史を持った浄土真宗本願寺派のお寺です。それを示すものは、本堂にまつられた本尊上の天井に描かれた絵と、本堂前に本堂の幅を上回るほどに枝を大きく横に広げた松です。山門をくぐり境内に入るとすぐに入るのが、横に伸びた松の枝です。本堂の幅を超えています。樹齢は、約300年ぐらいとのことです。本堂から移した写真にようやく納まっています。

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門を入ってすぐ左側に鐘撞堂があります。この鐘楼は、外からでも目に入ります。毎朝6時になると決まった坂山厚住職の手によって、朝の訪れを告げる鐘がつかれます。時刻6時は、義勇隊として動員され大きな犠牲者を出した8月6日の意が込められています。原爆に夫を奪われた妻たちは家族を養うため早朝から働いていたのですが、鐘の音が響くと農作業を止め、手を合わせたといわれています。

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浄行寺でも、他のお寺と同様に戦争中には金属醵出ということで釣り鐘が拠出されました。坂山さんの話では、拠出された釣り鐘は、すぐにドリルのようなもので穴があけられ、再び使用は不可能な状態にされたということです。当然のことですが、拠出された浄行寺の釣り鐘が、戻ることはありませんでした。

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今の鐘は、1952年(昭和27年)5月に川内村(当時はまだ川内村)の門徒たちが、金を出し合って、新たに造ったものです。この時から、坂山さんの祖父で先々代の住職輝秀(きしゅう)さんが、朝の鐘突きを始められ、今も「犠牲者への追悼と平和への思い」を込めて撞き続いているのです。

このことも遺族の人たちにとっての「心のよりどころ」となっていたはずです。

陸軍被服支廠川内村分工場

ところで、今回の浄行寺訪問ではぜひ聞きたいと思っていたことがあります。それは、旧被服支廠の保全を願う懇談会が発行した「赤レンガ倉庫は語りつぐ」の最後の方(P.139,140)に掲載されている「被服支廠年表」の中に出てくる「県立第一県女の教生徒が動員された川内村分工場」という言葉です。

先日の訪問の時、坂山さんに「戦争末期、陸軍被服支廠の一部が、川内村に移転し、第一県女の人たちがここで作業をしたことになっているのですが、温井のどこかご存知ないですか」と尋ねたのですが、その時は「えーそんなことがあったのですか。よくわかりませんね」という返事でした。

「無理かな」とあきらめていたのですが、7日に「義勇隊の碑」のことで再度確認したいことがあり、坂山さんに電話したところ「陸軍被服支廠のことが分かりましたよ。昨日、中温井の公民館で月命日の法要がありましたので、そこに参加された高齢の女性に『陸軍被服支廠』のことを尋ねたら『確か川内小学校だったと思いますよ。小学生で学校に通っていたので、学校の中に県女の人たちが来ていたことを覚えていますから』と教えてもらいました。」との返事です。このブログでもずっと前に触れていた疑問がまた一つ解明できました。私の質問を気にかけていただいていたのだと坂山さんに感謝です。

この電話でもう一つのことを知ることになりました。それは、旧川内村温井地区では今も場所を変えて月命日の法要が毎月6日に続けられていることです。もちろん法要を営むのは浄行寺の坂山住職です

いのちとうとし

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