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2020年11月 1日 (日)

憲法を、文字通り、素直に読んでみませんか ――『数学書として憲法を読む』で伝えたかったこと――

憲法を、文字通り、素直に読んでみませんか

――『数学書として憲法を読む』で伝えたかったこと――

 

 このブログで10月1日に問題提起したのは、日本の子どもたちの多くが、「国に対する責任を持ちたくない」というよりは、「自分が何をしても社会は変らない」と諦めてしまっているのではないかということでした。9月27日のエントリー「ドイツから見た日本の内閣」中、ドイツ在住の福本まさおさんによる問題提起に、私なりの視点で答えてみたかったからです。

それは、『法学セミナー』9月号に「論説」として掲載して貰った拙稿の一部を引用したものでしたが、是非その全体をお読み頂きたく、今回は論説の最初の約3分の1だけ引用しました。

 **************************************

『法学セミナー』2020年9月号62ページから69ページまでの内、64ページまで。

  1. はしがき

読者の皆さんは、物心ついて初めて憲法を読んだときの感動を覚えていらっしゃるだろうか。その気持ちは皆さんが成長するにつれどう変化していったのだろうか。筆者はそんな思いに駆られて、もう一度初心に戻って憲法を読んでみたらどうなるだろうと考えるようになった。その結果、2019年7月に、法政大学出版局から『数学書として憲法を読む--前広島市長の憲法・天皇論』 (以下、『数学書』という) を上梓した。

実は、この本を書くに至ったのには40年ほど前のアメリカでの経験も関係している。その経緯は、『数学書』の冒頭で説明した通りだが、本稿では、そこでは明示的には表せなかった、ことによるとそれ以上に大切な問題提起をしたい。

まず、「数学書として憲法を読む」とはどのような読み方なのかについては、次述2で説明するが、簡単には、「字義通り素直に、論理的に読む」と言って良いだろう。問題は、そのように憲法を読んだ結果、結論のいくつかが、裁判所の判決、そして通説・定説 (「通定説」という) とは矛盾していたことである。そもそも矛盾のあることも問題なのだが、本稿では、この矛盾の持つ意味や社会的影響等が、看過できないくらい深刻であることにも注意を喚起したい。

  1. 「数学書として憲法を読む」とは

通常、専門家ではない一般市民が憲法を読む際には、憲法の文言通り、字義通り、素直に条文を読むことになる。『数学書』では、その延長線上で、憲法の条文を数学における「公理」(*)と見立てた上で読む試みを行った。本来の公理系は「何の矛盾も存在しない文書」を指すが、憲法内には矛盾が存在する。「論理性」という面では完璧とは言えない文書である憲法を、できるだけ「論理的」に読むためのルールを「律」としてまとめた。その全体を、語呂の良さから「九大律」と呼ぶ。以下を御覧頂きたい。

  • [正文律] 対象とする日本国憲法の正文は日本語とする。
  • [素読律] 書かれていることを字義通り素直に読む。定義される順序も必要に応じて尊重する。
  • [一意律] 一つの単語、フレーズは、憲法の中では同じ意味を持つと仮定する。
  • [公理律] 憲法を「公理」の集合として扱う。
  • [論理律] 憲法解釈は論理的に行う。法律やそれに準ずるものは、公理からの論理的帰結であると位置付け、論理的に考えて憲法と整合性があるかどうかの判断をする。
  • [無矛盾律] 条文間には矛盾がないという前提で読み、解釈を行う。
  • [矛盾解消律] とは言っても現実問題として、憲法内には文言上、一見、矛盾している記述が存在する。条文間の矛盾や使われている概念間の矛盾について、「論理的」で憲法の趣旨が生きるような、かつ出来るだけ無理のないしかも説得力のある解釈を探し、可能であれば「矛盾」を解消する。最低限、「矛盾度」が低くなるように読む。
  • [自己完結律] 憲法は、基本的には自己完結的な文書であると仮定する。つまり、書かれていることにはすべて意味があると仮定し、書かれていないことには依存しない。また、立法趣旨等も条文に掲げられていないものは無視する。
  • [常識律] 定義されていない言葉や概念が使われている場合は、日本語の常識で解釈する。それもできるだけ自然な解釈による。

本稿では公理として読むこと自体を中心的テーマとしてはいないので、(4)の「公理律」と (8)の「自己完結律」は適用しない。この読み方を、『数学書』64ページの「abuse of language」によって、「論理的に憲法を読む」あるいは「論理的に読む」と呼ぶ。

以下、憲法の条文のいくつかについて、字義通りの解釈と、裁判所の判決や通定説とでは正反対の解釈になっている例を示す。憲法では「○○は××である」と述べているのに判決や通定説等では「○○は××ではない」と解釈する場合である。これを「憲法マジック」と呼ぶ。

(*)ユークリッド幾何学の公理が有名だが、例えば、「公理5  直線外の一点を通り、その直線に平行な直線は一本だけである」がその一つである。

  1. 置換禁止律

憲法を「論理的に読む」上で、最初に確認しておきたいのは、条文中の個々の字句は、そのまま読まなくてはならないことだ。これは、数学の等式で考えると分り易い。[1+1=2]という式の中で、[1]を勝手に[3]と変えたり読んだりしてはいけないのである。当り前のことなのだが、重要なルールなのでその点から確認しておく。

また数学では、対象を定めることも重要である。念のため、ここで対象にしているのは、日本国憲法である。それは、国会の議を経て、1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行された、我が国の最高法規を指す。物理的には、どの六法全書にも記されている、日本語によって書かれた文書である。

その中の特定の字句は憲法という存在の必要不可欠な構成要素であり、それを物理的に変更することは許されない。たとえば、「国民」という字句を「臣民」という字句に訂正することは当然、許されない。これは誰にでも賛成して貰える初歩的なルールのはずである。これを、「置換禁止律」と呼ぶことにする。

次に確認しておきたいのは、字句は変えずにその意味を変える読み方である。意味を変えるということは、「論理的」には、その字句を変えることと同じだからである。たとえば11条で使われている「永久の権利」の「永久」の意味を、「長期にわたって」と変えることは許されない。それでは意味が違ってしまうからだ。

加えて、死刑についての考察 (⇨後述6) で明らかにするが、字句の意味から論理的に帰結される結論も同じように変更は許されず、そのまま受け入れなくてはならない。これらの変更も、「abuse of language」によって、「置き換え」に含まれると考える。

大切なのは、これらの「置き換え」を許すことは、「尊重する」という99条の規定に反するという事実であり、かつ98条によって憲法が「最高法規」であることにも反する。「最高法規」として認められているのは、どの六法全書にも収められている日本国憲法である。それとは異なったもの (その中の字句を変更したもの) がそれと全く同一のものではあり得ない。かつ置き換えられたものまで「最高法規」であると主張することは、「最高法規」が二つになってしまい、理屈にもならないからだ。

念のため付け加えておくが、厳密に考えると、字句の変更はもちろんのこと、字句はそのままであってもその意味を変更するということは、憲法改正に当る。となると、その変更を行うためには、96条の改正手続きに従わなくてはならない。その手続きを経ずに変更を行おうとするのであれば、最低限、96条に依らない「改正」の正当性を、しっかりした根拠とともに示す必要がある。

  1. 憲法遵守「義務」を「道徳的要請」に置き換えて良いのか

以上の準備の下、これまで見過ごされ勝ちだった「憲法マジック」を考える。99条の解釈である。憲法全体を律する条文の解釈が「置換禁止律」違反を犯しており、憲法の存在そのものに関わる最大の問題点の一つである。まず条文を掲げる。

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

「尊重し擁護する義務を負ふ」のだから、これは「義務」以外の何物でもあり得ない。しかし、1977年2月17日に水戸地方裁判所が百里基地訴訟の第一審で下した判決では、99条について「憲法遵守・擁護義務を明示しているのであるが、この公務員に対する憲法への忠誠と護憲の要請は、道義的な要請であり、倫理的性格を有するにとどまる」と述べ、法的義務ではないことを明確に示している。(水戸地判昭52・2・17判時842-22頁)。また、1981年7月7日には東京高等裁判所が同訴訟の控訴審の判決で、99条は「憲法を尊重し擁護すべき旨を宣明したにすぎない」との判断を述べた後、「本条の定める公務員の義務は、いわば、倫理的な性格のものであって、この義務に違反したからといって、直ちに本条により法的制裁が加えられたり、当該公務員のした個々の行為が無効になるわけのものではな」い、と倫理性を強調している。(東京高判昭56・7・7判時1004-3頁)

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つまり、意味の上で、「義務」という字句を「道義的要請」という字句に置き換えており、これは「置換禁止律」違反である。

最高裁の判決は先例拘束性を持つと理解されているが、仮に上記の東京高裁の判決にはその力がないとしても、このような「先例」を参照しつつ、99条に依拠して公務員の憲法遵守義務違反の訴訟が受け付けられない状況があったとしてもおかしくはない。その意味でも、東京高裁判決の意味は大きい。

さらに、両判決では、条文の「義務」を「道徳的要請」に置き換えて読むべきだという十分な論理的根拠が示されていない点が問題である。

「根拠」として読めなくはない一節はある。東京高裁の判決の、「国家の公権力を行使するものが憲法を遵守して国政を行うべきことは、当然の要請であるから、本条の定める公務員の義務はいわば、倫理的な性格のものであつて」という下りだ。仮に前半が「根拠」だとすると、論理的には理解不能になってしまう。

それは次のような理由からだ。常識では公務員には遵守義務がある、それゆえ、我が国の法律体系の「最高法規」である憲法では、「倫理的性格のもの」になる、という因果関係は、筆者には理解不可能だからだ。

加えて、もしこの理屈が正当であるのなら、主語は国民、動詞は納税する、に置き換えることで、「主権者たる国民が税金を納付すべきことは、当然の要請であるから、本条の定める国民の義務はいわば倫理的性格のものであって」となり、30条の納税の義務は、倫理的な性格のものになってしまう。

以下、次回をお楽しみに!

[2020/11/1 イライザ]

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