川内村義勇隊遺族の心のよりどころ浄行寺を訪ねて
8月28日のブログ「『義勇隊の碑』余話」(https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/08/post-ea2659.html)で少しだけ紹介した旧川内村温井の浄行寺を再訪しました。
今回の訪問では、三滝の誓願寺を訪れて分かった「佐東町原爆供養塔」の経緯(8月29日のブログ)をお伝えしたいとの思いがありましたので、まずその話からです。「そういう経過があったのですね。そこまでは思いが至っていませんでした。ありがとうございます」
もう一つは、前回訪れた時坂山さんが話されていた古い写真を見せていただくことでした。坂山さんは、求められて毎年、地元の幼稚園や保育園で原爆のことや昔の温井地区のことなどを話されることがあるため、子どもたちがわかり易いようにと「パワーポイント」を作成されているそうです。今年のタイトルは「むかしのかわうちとへいわのはなし」です。その中に多くの写真が納まっているということですので、無理にお願いし、そこの入っている写真を見させていただくことになりました。
その中に温井地区のすぐ東を流れる太田川の写真が数枚あります。帆掛け船が浮かぶ写真もあります。その中で目を引いたのが、下の写真です。
当時、交通手段の一つであった川船を利用する様子が映っています。
あの被爆当日、温井地区の義勇隊が今の平和公園付近で直爆の被害を受け、何とか自宅までたどり着き息を引き取った人はわずかに7人です。前回訪問した時、坂山さんから「7人は戸板に乗せられ、川船で帰りつくことができた」と聞いていましたので、当時の船着き場の様子を知りたいなと思っていました。ですから船着き場の様子が映ったこの写真が気になったのです。この船着き場には、息のあった7人だけでなく、犠牲になった多くの遺体が、この川船で帰って来たそうです。
パワーポイントには、集落の人たちが、吉島沖で潮干狩りをする様子を写したものもあります。この写真には、何艘もの船が横付けされ、沢山の人たちが映っていますので、その時のものかもしれません。
また戦後、この地域が「野菜大国」と呼ばれ、「バタンコ(オート三輪車」野村」と呼ばれていたことも紹介されています。残された遺族が、「野菜づくり」によって必死に生活していたことが偲ばれます。
さらにパワーポイントのコマを進めていくと「義勇隊の碑」の裏面に刻まれた犠牲者の名前を写した一枚が出てきました。よく見ると、その犠牲者名の中に1名だけ、名前が削られていることが分かります。(上から2段目の左から6人目)
私も、8月にこの碑を訪れた時「なぜこの名前は、削られたのだろう」と疑問を感じていました。そのことを訊ねる相手もなく、そのままになっていたのですが、今回坂山さんの話を聞き、その時の疑問がようやく解けました。
「この人も、確かに原爆で犠牲になられたのですが、義勇隊の犠牲者でないことが後でわかったのです。当時市内に働きに出ておられて犠牲になられたからです。そのことが分かったので、この碑からは名前を削ることになったのです。」「温井地区の義勇隊の犠牲者は、180人ということで、その名前が刻まれていますが、本当ところ正確な人数は、今もはっきりしていないのです。というのも、当日の義勇隊参加者の名簿は作られていなかったからです。だから、参加者は『約200人』と、今でも『約』が付いたままですよ。これが原爆被害なんですよね」
被害の実相が分かっていると思われる旧川内村温井地区の義勇隊の犠牲でも、こうなんだということを知らされることになりました。
ここまでの報告で、今日のタイトルは「心のよりどころ浄行寺」なのに、そこにまだたどり着くことができていません。このつづきは、明後日報告することにします。
いのちとうとし
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