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2020年10月 2日 (金)

益田市匹見町の朝鮮人のお墓

一昨日、以前豊永恵三郎さんから話に聞いていた益田市匹見町にある朝鮮人のお墓参りをすることができました。

豊永さんに紹介していただいた地元の城市優(さとし)さんとその誘いでご一緒する熊谷チエコさん(91歳)、河野敏幸さん(62歳)の3人と益田市匹見総合支所で会い、歩いて行けるほどの近い距離でしたが、河野さんの運転する車で移動します。

お墓近くで車を道路端に止めて、50mほど墓地の方に移動します。一段高くなったところに、めざすお墓がありました。自然石にハングルで「チェカクバン」と刻まれています。お墓の周りには、小さな石が敷き詰められています。

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線香に火をつける城市さん。お墓の大きさが分かります。

墓石の横には「韓国の原爆被爆者 救援する市民の会2019年8月吉日」と刻まれていました。

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城市さんが「線香は半分に折って、ここは真宗が多いので横に寝かせて供えるのですよ」と話しながら、私が持参した線香に手際よく火をつけてくださいました。合掌し頭を垂れます。先日(9月27日)に訪れた韓国の原爆被爆者を支援する市民の会のみなさんががお供えしたお花が、元気な姿で残っていました。

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案内をしていただいた3人。右端が城市さん、後ろにお墓があります。

と、ここまでお墓参りの様子を書いてきたのですが、肝心なことは「お墓の由来」です。匹見を豊永さんたちが訪れるきっかけとなったのは、韓国人被爆者崔英順(チェ・ヨンスン)が、1975年に渡日治療のため訪日された時、自分が生まれ育った匹見を訪れたいと希望され、同行されたことがきっかけだったようです。そしてこの地に、異国で亡くなった崔英順さんの弟カクバンさんのお墓があることを分かり、その後この地の訪問を何度か訪れることになったようです。

チェカクバンさんのお墓は、小さな自然石の墓石です。日本が朝鮮を植民地支配する時代の1930年代に仕事を求めて、多くの朝鮮人が働いていた島根県匹見に移り住んだ崔さん一家。その生活の中で、命を失ったのがチェカクバンさんです。このお墓は、崔さん一家とご近所だった竹内一夫さんの好意で、竹内さんの墓地の一角にカクバンさんの小さな自然石の無名の墓標がたてられることになりました。

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左奥、建物の手前に見えるのが竹内家のお墓

 竹内さんの温情溢れる対応を感ずることができます。そのような由来があり、お墓をお参りすることができたのです。

当時は、名前の刻まれていなかったお墓でしたが、地元益田市で在日朝鮮・韓国人やハンセン病問題などを取り組む人権活動家の福原孝浩さんや韓国の原爆被爆者を救援する市民の会の人たちのカンパなどによって、昨年8月に無名だった墓標に「チェカクバン」さんの墓銘が刻まれました。

慕銘が刻まれたことの意味について、福原さんは次のように述べておられます。「今回の匹見町でのチェカクバンさんの墓票に名前を刻む小さな取り組みは、これからの日本人と朝鮮にルーツを持つ人たちが共に生きていく道を切り開いていくきっかけになると思う」(韓国の原爆被害者を救援する市民の会機関誌「早く援護を!」第155号より引用)と。

私のお墓参りに同行していただいた3人は、いずれもそうした思いを継承しようという強い思いを持っておられる人たちでした。

この匹見の地での朝鮮人と日本人との交流から学ぶことは、まだまだたくさんあるのですが、私のもう一つの関心は、韓国人被爆者崔英順さんのことです。匹見で生活していた英順さんがなぜ広島で被爆することになったのかについて、明日に詳しく報告します。

ちょうど車を止めたところに建っている家が、屋根などは吹き替えられているようですが、間違いなく当時崔さん一家が暮らしていた家です。この建物は、現在倉庫として使われているが、骨組みなどは当時のままの形で残っていると教えられました。城市さんは、大工の仕事もされていますので、よくご存じでした。

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3人と別れたあと、この地の訪問目的である学習会まで少し時間がありましたので、小学校の跡地をさがしていました。崔さんが通っていた当時の小学校は、戦後新しい道路が学校敷地の真ん中を通るということで別の場所に移転し、跡地には、保健センターが建ち、道路の反対側は公園になっています。私の姿を見つけた城市さんが再び、声をかけてくださいました。「何か古い小学校の痕跡はないですかね」と訊ねると「保健センターの裏に立っている建物が、当時の講堂のはずですよ。私も通っていましたから。今は、洋裁工場として使われていますが」とのことです。壁には少し飾りのついたような立派な外観を保っています。

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城市さんは、私と一つ違いの71歳です。本当に崔英順さんが通っていた戦前の建物かお互いに確信が持てません。近所のお店で聞いても、「さーて、どうかね」という返事です。その日は、確認ができなかったのですが、翌朝「そうだ、英順さんの一級下だと言っておられた熊谷さんならご存知のはず」と電話で訊ねました。「間違いありません。私たちもあの講堂を使っていましたから」との返事で、ようやく間違いないことが確認でしました。

3人のおかげで、お墓参りを無事におけることができました。皆さん本当にありがとうございました。

いのちとうとし

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コメント

ハンセン病。世界中で、撲滅。.撲滅したと、思っていましたが、まだでした。   公衆衛生問題としての、ハンセン病の制圧は、全世界レベルにおいては、達成された。2000年末。…と、あります。。でも、今だ、0、では、ありません。。今回ののブログの、おかげ様で、いろいろに、調べる事と、なりました。ありがとうございました。

匿名希望さま
コメントありがとうございます。
私もちょっとだけですが、ハンセン病問題には関わってきました。
何か新しい情報が入手できましたら、ぜひ教えてください。

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