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2020年10月25日 (日)

中曽根康弘とヒロシマ

広島市平和公園の東側対岸に、中曽根康弘句碑というのがあります。俳句自慢を自画自賛していた彼が書いた句は「悲しみの 夏雲へむけ 鳩放つ 康弘」で、自筆が刻まれています。平和公園周辺にあるほんとどの碑には、千羽鶴が掛けられてありますが、この碑では千羽鶴を見たことはあまりないです。建てたのは広島市内にあるライオンズクラブでした。

1987年11月、広島の市民団体「デルタ女の会」の人たちが中心になって、強い反対運動が起こりました。

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中曽根康弘については今さら語るほどもないと思いますが、およそ「ヒロシマの心」とは縁遠いことを語っていた政治家だったと思います。ロン・ヤス関係の中で「日本をアメリカのための不沈空母にする」と言い、更には被爆者の前での「病は気から」発言。韓国人被爆者の前では「日本は昔から単一民族だからうまくいくんです」と確信犯的に話していました。

この句碑建設のために土地の使用を許可した広島市は、彼が首相在任中(82年11月~87年11月)に3回広島に来たことを挙げました。それが広島市の平和尺度なのです。回数だけでいえば、安倍晋三には何を提供するというでしょうか。

これは秘密ですけど彼が参列した平和式典で、僕は知人5人と式典の挨拶中に中曽根に向かって無言で小さな黒旗を振る行動を行いました。この黒旗はアナキストを意味するものではありません。しかし行動に参加してくれた一人の若者が警察に連行され、約3時間の取り調べを受けました。行動を実行する前に、ある新聞記者に連絡していたので、翌朝の新聞には写真とともに警察での取り調べについて、「表現の自由という視点から、やり過ぎではないか」と書いてくれました。一緒に参加した知人は今でもその時の旗を記念に持っているといいますから、まさに「若気の至り」の思い出なのでしょうか。

話しがそれましたが、中曽根康弘は原発推進でも大いに「活躍」しています。1954年3月3日、彼は改進党の国会議員として、2億3500万円の原子力予算を成立させました。原発の燃料であるウラン235から、この額になったというのは有名な話しです。

また1988年、3度目の日米原子力協定締結の時、米国はインドが原発の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを使った核実験を実施したことから再処理推奨路線の転換を主張し始めていました。日本にも再処理をしないように求め、フォード政権もカーターも政権も強く求めたのですが、米国がロン(ロナルド・レーガン大統領)に交代していて、日本への働きかけは弱まりました。協定締結時には総理大臣は交代していましたが、この協定改定を強引に推し進めたのも中曽根です。

10月17日に行われた自民党と政府の合同葬には、約1億9,300万円の費用が使われ、その半分の9,650万円は国の予算予備費から支出されたといいます。友人代表には「ナベツネ」こと、読売新聞の渡辺恒雄が務めました。

読売新聞といえば正力松太郎、1955年11月に東京日比谷公園で開催した原子力平和利用大博覧会を開いたのを皮切りに、翌56年5月には広島原爆資料館で広島原子力平和利用博覧会を開催させた張本人です。

合同葬の開かれたこの日、平和公園内の原爆慰霊碑北側に掲げられている「日の丸」が半旗なっていたと新聞が報じていました。「半旗」でなくて「反旗」なら良いと思いましたが、「反旗」に「日の丸」は似合わないでしょうね。

「黒旗が良いか~??」、30年くらい前のあの日のことを思いだしました。まだ若かった時です。

木原省治

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