「1945年8月9日 鶴見橋のたもとで」
私の父は、14歳の時に今のマツダスタジアムがある辺りで被爆しました。
ピカッと光った後に、近くの防空壕に走り込んだ父は間一髪で助かりました。
8月6日原爆投下直後から8日は、同じ職場の仲間を泊まりがけで探索したそうです。
8月9日の朝からは、近所の元気な者で行方不明の人を探しに行くことになりました。
父は、朝、4時に起きて、広島駅から出る市電の軌道を西へたどって、十日市、横川、己斐の方まで、探しに行きました。
「両側を見ながら探そうとしたけど、右も左も焼死体が転がっとった。何ぶんにも悪臭で口をふさぎながら探索して歩いたんじゃ。」と言っていました。でも、行方不明の人は全然見つけることができなかったそうです。
そして、父は、この探索の帰りに、鶴見橋のたもとにあった公衆便所に立ち寄りました。
そこで、父は、晩年までいつまでも心に染みついて忘れることのできなかった光景を見ました。
「便所の入り口にあったたたみ一帖くらいの防火用水に、これ以上積もれない程の焼死体があったんじゃ。」
「便所の中も天井まで人がびっしり詰まっとった。どうしてこがあになったんか不思議でやれん。」
「仕方がないけえ、裏の土手から小便をしたけど、可哀想で可哀想で泣きじゃくりながらじゃったけえ、ちょぼちょぼしか出んかったんじゃ。」
父は、この話をする度に涙をいっぱいためて話をしてくれました。
そんな父も、3か月前にあの世に旅立ちました。亡くなるまでの10年間は特にたくさん原爆や戦争の話をしてくれました。父の場合は、話す度に少しずつ少しずつつらさがはがれ落ちていったように思っています。
あの世で、早くに生き別れた大切な人たちと75年ぶりに再会できているといいなと思います。
(のまは)
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