「広島ブログ」

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2020年9月

2020年9月30日 (水)

9月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町)

安芸区の自宅から農園まで週末農業でブルーベリー栽培に通う日々を四季折々のカメラを通して見るメモランダムの記録。農園の標高はおおよそ400mの地にある。

夏のブルーベリーの摘み取りの忙しさから解放されて9月も後半になり作業しやすい気温をありがたく思う季節になった。

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9月26日(土)。

①近くの農事法人から購入した玄米を蔵に運んでいるといい香りがする。蔵の横に植えてあるギンモクセイの花の香りだった。

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②夕暮れ時。近所の子どもたちも農園の周囲の道の散歩を終えてそろそろ家路につく。

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子どもの頃はセミやトンボやヤンマなどを網をもって追っかけるのが夏休みの過ごし方だった。農園の赤トンボを3枚アップしてみた。

①9月26日撮影。この写真をパソコンのデスクトップの背景に取り込んでからよく見ると、右の下の羽が4分の1なくなっているのが分かった。でも羽は透明だし尻尾はきれいな赤色。

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②9月27日撮影。電気柵に2匹。

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③9月27日撮影。庭の花壇に咲くツルボの撮影をしていると近くに寄ってきて枯れたジャーマンアイリスの葉の先にとまる赤トンボ。ツルボを入れて撮影したかったが入りきれなかった。

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④そのツルボの花。先週はまだ蕾だったが1週間たって少し花びらがのぞき始めた。

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9月27日(日)。

①春から伸びたブルーベリーの枝の切り詰め作業を晩生のホームベルという品種に絞って行った。ちょっと残ったので来週に回す。

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②夏中除草が出来ないでいたジャーマンアイリスの畑の草取りを4連休からすこしずつはじめてこの日にやっと終了。猛暑のせいか手入れが悪いせいか花が終わってから成長できない株がちょっと多かった。

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③農園の周囲の里山のヒガンバナ。後ろはブルーベリー畑。農園に来る途中の福富町や豊栄町の道路べりの田んぼの法面にも一斉に咲きだした。

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④最初に色づいた富有柿ひとつ。

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⑤農園の花壇のマユミの実。

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⑥農園のあちこちで咲く野菊(ヨメナ)。秋が深まるにつれて花数が増えていく。

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⑦親戚からたくさんの栗の実を頂いた。今年は実が小さいとのこと。安芸の郷の事業所でスイーツを作る材料として毎年使わせて頂いている。無農薬栽培なので安心して素材として生かせる。感謝。

 

2020年9月30日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年9月29日 (火)

「核のない未来を」-世界核被害者フォーラム報告記録集

昨日の中国新聞で紹介された「核のない未来を―世界核被害者フォーラム」報告集の発送作業が、昨日の午後行われましたので、私もそれに参加しました。今回の発送先は、国立大学、公立大学の図書館、各都道府県立図書館、県内の公立図書館などの280冊余りでした。

「世界核被害者フォーラム」は、ちょうど5年前の2015年11月21日から23日までの3日間、広島国際会議場を会場に開かれ、世界各地から招待した11カ国20人の核被害者・運動家・専門家など自主参加者を含め18カ国延べ1026人が結集して核被害をもたらす核利用サイクル(核サイクル)を根絶しようと熱心な討論が繰り広げられました。「核のない未来を!」は、その報告記録集です。

編集後記にも記されていますが、このフォーラムの議題に原発のことが含まれているとの理由で、広島市長の挨拶や支援が全く受けられなかったことを、参加者の一人として今思い出します。

昨日の中国新聞記事で森滝春子さんが触れておられますが、この「世界核被害者フォーラム」には、原水禁国民会議や広島県原水禁が深くかかわってきた「核被害者世界大会」という前史がります。この世界核被害者フォーラムの報告記録集を手にし、改めてそのことを思い起こしています。

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原水禁国民会議が主催する原水禁世界大会で広島・長崎以外の世界の核被害者が声を上げ、連帯が始まったのは、被爆26周年(1971年)原水禁世界大会にミクロネシア代表団の参加した時からです。ミクロネシア代表団は、「核被害の状況を調査するための代表団を派遣してほしい」と訴えます。私たちは、この時初めて「原水爆被爆国が日本だけでなかった」ことを知ることになったのです。そして、この大会の「ヒロシマアピール」で「世界の全ての被爆者核被害者の連帯」を呼びかけ、ミクロネシアへの調査団を派遣する「国際行動決議」を採択します。この年1971年12月、原水禁国民会議は、日本で初のミクロネシア被曝調査団を派遣しました。さらに1975年の3.1ビキニデーの集会には、マーシャル諸島ロンゲラップの代表団が参加し、核実験による被害を訴えます。

その後開催された「非核太平洋会議」などで、核実験被害者のみならず、ウラン採掘現場での先住民族の核被害を知ることになり、1975年に開催された被爆30周年原水禁世界大会で「核絶対否定」「核と人類は共存できない」の理念が、打ち出されました。私たち原水禁は、この時から「核と人類は共存できない」という理念を掲げることになりました。

その後も世界の核被害者、特にアメリカの核実験場の風下住民やウラン採掘場の先住民族との連携を深め、1985年8月5日には、原水禁世界大会実行委員会が中心となって15カ国約150人の核被害者が一堂に会する世界で初めての「国際核ヒバクシャフォーラム」が広島市で開催されました。そして翌年には、長崎で「核被害者フォーラム」が開催され、1987年9月にアメリカニューヨークで30カ国約350人が集まって開催された「第1回核被害者世界大会」に結びついていきました。この第1回核被害者世界大会には、私も森瀧市郎先生のカバン持ちとして同行し参加しましたので、忘れられない思い出となっています。1992年には、ドイツベルリンで60カ国450人が参加し「第2回核被害者世界大会」が開催されましたが、残念ながら第3回以降の「核被害者世界大会」は、開催できずに来ていました。

長い空白の後、森瀧春子さんを中心として広島や長崎の人たちの努力によって、「世界核被害者フォーラム」が開催されることとなり、広島県原水禁も賛同団体として参加しました。

世界核被害者フォーラム報告記録集「核のない未来を!ヒロシマから世界へ 届けよう核被害者の声を!」は、テープに録音された3日間の熱い議論が、全て掘り起こされた貴重な資料です。そして、このフォーラムに深くかかわってこられた広大名誉教授の鎌田七男先生による医学的立場からの校正や最近の新たな知見も踏まえ、最後の最後まで校正を続けてこられた中味の深い記録集となっています。

この「世界核被害者フォーラム」につながる原水禁運動の歴史も思い起こしながら、多くの人に読んでいただきたい資料です。

いのちとうとし

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2020年9月28日 (月)

平和大通りの供木運動の樹木

平和大通りがつくられた時、緑豊かな大通りをつくるために取り組まれたのが「供木運動」だったことは、このブログでも紹介したことがあります。しかし、供木運動によって植えられた樹木がどの木なのかは不明だと勝手に思い込んでいたのですが、広島市が発行する「市政と市民」の8月1日号の「中区版」に「平和大通りの木に会いに行こう」のタイトルで下のような記事が掲載されていました。そこには、私が不明だと思っていた供木運動の樹木の一部が紹介されています。

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 ちょっとびっくりです。「不明だ」と思っていた樹木が特定されているのです。しかも寄付者の名前まで書かれています。しばらくほったらかしにしていたのですが、来月3日に「かき船問題を考える会」の呼びかけで「平和大通りを歩く会」を開催することになりましたので、詳しく調べてみようと思い、先日、問合せ先となっている中区役所の「区政調整課」に電話を入れました。「確かにこの課が作成したものですが、供木運動の樹木の情報は、市の緑政課から得たものですから、詳しいことはそちらに聞いてください」との返答です。

「市民と市政」を手に市の緑政課を訪ねました。対応していただいたのは、緑政課花と緑の施策係のKさんです。Kさんの名刺には「技師」と書かれています。専門職のようです。「市政と市民」の「区報なか」を示し「供木運動の樹木を記した資料があったら、見せていただけませんか」とお願いしたところ「確かに調査はしたのですが、絶対的な特定ができていないものですから、お見せすることができないのですが」さらに「区報なかでは、寄付者が特定されていますが、ここまで特定するのは・・・」との答えです。「どうして見させていただけないのですか。ちょっと課内で相談して下さい。」とお願いし、その日は帰宅しました。

その後、電話があり「先日の件ですが、やはり資料を直接提供できないことになりました。ただお越しいただければ、口頭での説明ならできます」とのことです。再び緑政課を訪ねました。やはり資料の提供はできないということでしたが、Kさんから丁寧な説明がありました。

「1957年(昭和32年)から1958年にかけて行われた供木運動で贈られた木は、全部で9,578本。比治山やお城にも植えられたので、平和大通りに植えられたのは、約6、000本です。2015年(平成27年)に実施した調査で、ほぼ間違いなく供木運動の樹木だと確認できたのは208本、おそらくと思われる樹木は360本ぐらいです。調査方法は、1962年(昭和37年)の航空写真に写っている樹木をもとに、現在もあるかどうかで調べました。供木運動当時の植樹台帳はあるのですが、ブロックごとにしか記載されていないため、なかなか特定が難しいのです。」との説明です。そして「先日言われていた白神社前から、田中町交差点までには、20本ほどあります。」と言いながら、その20本の位置を記した地図を広げ、「これは私が作成したものですが」と断りながら、その地図を見せてくれました。無理を言って、この図だけ写真を撮らせてもらいました。

昨日、この図面を手に現地を訪れて、確認しながら写した写真を紹介します。

最初は、「区報なか」でも紹介されているANAホテル前の2本のメタセコイヤです。

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東隣のクリスタルビルの前のブロックには、クスノキ8本がまとまって残っています。

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供木運動の樹木よりも大きく育っている樹木もたくさんあり、見分けるのはなかなか難しい作業ですが、図面には木の種類が書かれていますので、何とかこれはと思う樹木を写してきました。「移動演劇さくら隊受難碑」が建つ並木通り入口の西側緑地帯です。右端が、この範囲で唯一の杉の木です。

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そのすぐ左側奥に見える木も供木運動の樹木ケヤキですが、その左側に写っている大きなクスノキは、供木運動の樹木ではありません。ちょっと不思議な気がします。

ところで、どういう理由かわかりませんが、20本のうち北側の緑地帯に16本、南側の緑地帯に4本と圧倒的に北側に多くの樹木が現存しています。下の右側の木が、南側で現存するケヤキです。

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供木運動の樹木のクスノキの1本に「名札」が付けられ、そこに「QRコード」がありましたので検索したところ、「クスノキの説明」が詳しく記載されているのですが、供木運動の情報は全くありませんでした。

Kさんの話では「1978年(昭和53年)の調査で、活着率は55%だったようです」とのことでしたので、現存している樹木は貴重なものです。せっかくの調査したのですから、それを活かして、何らかの形で「供木運動の樹木」だということが分かるような表示をぜひつけてほしいものだと思います。

いのちとうとし

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2020年9月27日 (日)

ドイツから見た日本の内閣

長年ドイツに住む私の友人福本まさおさんに「ドイツから見た菅政権発足についてのコメントしてほしい」とメールを送ったところ、この便りが届きました。ドイツにいるからこそ見える指摘が沢山あります。本人の了解を得ましたので全文を紹介します。


安倍首相が退陣して、菅新政権が誕生しました。新政権の支持率が65%だという新聞記事を読んで、それにはちょっとびっくりしました。

ええ、日本ではみんな何を考えているんだろう、どうしたんだろうと、信じられませんでした。単なる日本とドイツの温度差ではありません。

今回の組閣では、ドイツから見ていて、不思議に感じることがいろいろありました。それは日本の政治の根本的な問題で、組閣がある毎に感じる問題でもあります。

一つは、大臣が高齢だということです。大臣に指名されるかされないかは、当選回数や所属派閥が関係しているのは知っています。それにしても高齢すぎます。

これでは、老人クラブとそのかばん持ちたちです。いや、小泉進次郎さんは30代じゃないかという人もいると思います。でも小泉さんは、看板とはいえ、まだかばん持ちです。

たとえばオーストリアのクルツ首相は30代です。20代で外相になっています。フィンランドのサンナ・マリン首相も30代です。その連立5与党のうち、3党の党首が30代の女性です。

老人クラブにも関わらず、若い世代の支持率が高いのも良く理解できません。日本には、世代交代が必要だという意識はないのでしょうか。ぼくは日本では、若い人たちの新しいアイディアで国と政治を活性化させることが必要だと思います。

高齢者に頼るのではなく、若い人たちにどんどん出てきて、活躍してほしいと期待しています。

この内閣の顔ぶれを見て、そういう議論が起こらないのも不思議でしようがありません。それとも日本の若い世代には、国に対する責任を持ちたくないという意識が強いのでしょうか。

ドイツでは政治家に、定年退職年齢は規定されていません。でも定年退職年齢に達すると、政治家自らが引退して、若い世代に席を譲るケースが多く見られます。

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2014年4月の安倍首相訪独時に抗議デモに参加する現地女性たち

次は、女性大臣が2人しかいないことです。ドイツの内閣は、メルケル首相が女性。その他女性大臣が6人、男性大臣が9人です。フィンランドの内閣は、女性のサンナ・マリン首相をはじめとして、大臣19人のうち12人が女性です。

日本の場合、女性の政治家は男性社会で生き延びていくために、男性と同じことをしなければなりません。だから女性政治家といっても、男性だと思っていたほうがいいのもわかっています。

でもぼくは、これからは女性としての見方を政治と社会に取り入れていかなかればならないと思っています。女性の見方のできる、女性として生きる女性に大臣になってもらいたい。そう思っています。

でもまずは、男性気質の女性大臣でもいい。女性大臣が増えれば、女性として政治をやっていける土壌ができていくのではないか。少しでもそう期待したいと思います。

この点でも、日本で活発な議論にならないのが不思議でしようがありません。今日本は、若い世代ばかりでなく、女性の力を必要としていると思います。そうしなと、日本は世界から取り残されるだけになります。

今回の組閣でさらに気になったのは、菅新首相をはじめ、政治家の政治思想が伝えられることがごく稀だったことです。それよりも、こどもの時のことや政治手腕、生活臭を匂わせる報道が多く目立ちました。国民への近さをアピールしたかったのだと思います。でもそれでは、広告代理店がタレントを売る売り方とまったく変わりません。

日本のメディアもそうですが、政治の世界も、広告代理店に牛耳られてしまっているのかと思うと、とても情けなく感じます。


福本さんからの便り、どう読まれましたか。フィンランドの内閣は、19人の内閣のうち12人が女性だということは、最近国内のニュースでも取り上げることがありますので、すでにご存じの人も多いと思いますが、それにしても日本は、と思わずにはいられません。そして最後の「広告代理店」の問題、「そうだ、そうだ」という共感とともに、コロナ対策支援事業問題で明るみに出たどんな分野にも電通が深くかかわっている実態を改めて思い起こしました。

いのちとうとし

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2020年9月26日 (土)

長崎市が、広島の原爆犠牲者数を修正

8月27日のブログ「広島の原爆犠牲者は11万8661人―長崎市原爆被爆者対策概要」(https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/08/post-90cc30.html)で、「長崎市原爆被爆者対策概要」で「広島の人的被災 死者数は『118,661人』」となっていることを紹介しました。

このことに関し、8月31日広島市に対して次の4項目の問題提起をしました。

「1、長崎市原爆被爆者援護事業概要に『広島の死者数として118,661人』が掲載されていることは、承知されていますか。

2、広島市原爆被爆者援護事業概要のP.15の『3 社会的破壊』の『1被爆時の人口及び死亡者数』に掲載されている5つの推計では記載されていない『S.21.8.10 広島市調査』が、長崎市原爆被爆者援護事業概要に採用されていることについて、どうお考えですか。

3、広島市と長崎市は、1976年の『国連への要請書』並びに1979年7月作成の『広島・長崎の原爆災害』において、両市は共同で原爆犠牲者数を推計する作業を実施されたはずです。にもかかわらず、長崎市原爆碑学者援護事業概要において、全く違う人数が記載されていることをどうお考えですか。

4、当然、それぞれの市に資料採用に当たっては独自性があって良いとは理解しますが、広島市であれ長崎市であれ、他市の原爆被害を表すときには、当該市の意見が尊重され、出来得る限り齟齬が無いようにすることがベターだと考えますが、どうお考えでしょうか。

5、『長崎市原爆被爆者援護事業概要』に対し、修正を求める考えはありませんか。」

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私からの申し入れを受け、広島市としても「問題がある」と判断されたのでしょう、長崎市と協議されてようです。

一昨日、「長崎市から返事がありました」と広島市の担当課から連絡があり、昨日広島市を訪れ、報告を受けました。

広島市から長崎市に対し「広島市は、原爆犠牲者数について『国連への要請書』に記載した14万人±1万人を公式に数字として使用しているので、ぜひ『118,661人』という数字を修正してほしい」と伝えたところ、長崎市から「過去の資料がないためなぜあの人数が使われているのかわかりませんが、広島市の指摘通りに修正します。」と回答があったとのことです。広島市からは「もし原爆資料館など別のところでもこの人数が使用されているようでしたら、すべて修正していただきたい」とも要望したということでした。

どのように修正するかは、長崎市が判断することですが、1979年には共同作業を行いながら「なぜ広島と長崎の間で、こんな行き違いが」という疑問は残ります。被害に対する考え方の違いでしょうか。

広島市の担当課長からは、「広島県の原爆被爆者援護事業概要に記載された人数の違いについても、県と連絡を取り、修正してもらうことになりました。長崎ともですが、広島の県と市でこんな違いがあったとは思いませんでした」と付け加えての報告がありました。

「広島県の事業概要の人数を修正します」という返事は、県からすでに受けていましたが、承知はしていましたが、これからも県・市の連携が深まることを願わずにはいられません。

広島県・市に関わる疑問は一応解決したのですが、長崎市の「長崎の原爆犠牲者(死者)は、1945年末までに73,884人」という一ケタの数字がどうなるのかは不明です。犠牲者数を一ケタまで特定することが困難なのが原爆被害の実態であることを考えれば「一ケタまでの犠牲者数が使われ続ける」ことへの疑問は残ったままです。長崎の人たちと連絡を取り、長崎市の見解を問いたいと思います。

いのちとうとし

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2020年9月25日 (金)

今、上関原発をめぐる状況は!

埋め立てをしなければ建設できない上関原発、このことは何度もブログなどを含め発信していますが、山口県知事が予定地の海の埋め立て免許の延長を許可して7月で1年になりました。

 中国電力は昨年11月から、その前提になる海底の活断層の有無を探るボーリング調査の準備に入る予定でしたが、地元の反対派の人たちを中心にした抗議行動で出来ない状況になっています。昨年末、中国電力は冬場の海は荒れるということで、この春まで延期するとしていました。 

 そして今年の春になった時点で、こんどは掘削用の機械を運ぶ大型台船が確保できないとして、10月以降に再延期するとしました。やがて10月ですが、中電からは何の発表もありません。何もないまま延長が許可されて、1年2か月を超えるのです。元をただせば、中国電力が免許の申請をしたのは2008年ですから、10年以上も前のことなのです。

 免許を許可した山口県知事を含めた幹部といわれる連中の発言、まさに上関町民を含め、県民のことをまったく考えもしていない無責任そのものです。新聞記事からその発言をチェックしてみました。

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 ◎知事

「中電に何らかの考えがあると思う。あらためて話があるのでは」

 ◎県商工労働部担当者

「再延期の報告後、中電から新たに入った情報はない」

 ◎県の幹部

「反対派が現場で行動を起こし続けるうちは堂々巡りが続くだろう」

 ◎県の幹部

「福島の事故後、原発を新増設する大義はもはや薄れている。中電側も国が何らかの判断を下すのを待っているのではないか」

 

まさにノー天気、無責任、他人事極まりないというか、県民のことを考えて県政を担っているのかと、怒りがこみ上げてきます。この度の埋め立て免許での、工事を終わらせなければならない期限は2023年1月です。残り2年5か月です。

これに対して中電の上関事務所の広報部長は「タイトな状況だが、期間内に完了できるよう鋭意取り組む」と。これまた無責任の極みですし、まさにこれは犯罪です。

中電さん、あと2年5か月で埋め立てが完了すると本気で思っているのですか。いつも言うのですが、とりあえずいったん埋め立て免許を取り消して失効させることで、上関の町民の人たちを安心させてあげることではないでしょうか。海を埋め立てた後になって、「あれはやる必要が無かった」で、海が元に戻るわけがないのですよ。さっさと計画を撤回することですよ。

コロナ禍により4年に一度開催される上関町祝島の伝統行事「神舞(かんまい)」は、来年に延期されました。祝島で毎週月曜日に行われている「島内デモ」も現在は中止されているそうです。そして島での緊急時の医療体制の問題、高齢の方が多いということで、不要不急の来島は遠慮して欲しいという連絡も入っています。

しかし暗い話しだけではありません。休校していた小学校に、来年春には8人の新入生が入るそうです。

木原省治

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2020年9月24日 (木)

Think globally, Act locally

1991年、4人の白人警官による1人の黒人男性への過剰な暴力により起訴されたが、924月に無罪。これをきっかけにロサンゼルスでは数日間に及ぶ暴動が発生した。

日本でも、襲撃、略奪、暴力、放火などが連日報道された。

彼らが何に怒り、なぜこのような行動を取らざるを得なかったのかはほとんど報道されず、ただただ暴力だけが映し出された「ロサンゼルス暴動」。

彼らをここまでさせた差別の実態。「自由と民主主義」の国と呼ばれるアメリカの本当の姿だと思った。

 

20年前と変わらないもの。人種差別

20年間で変わったこと。「暴動」から「運動」へ

 

大坂なおみ選手の行動がマスコミに大きくとりあげられた。「スポーツに政治を持ち込むな」という批判に、静かに、しかし力強く、彼女は反差別の姿勢を貫いた。

 

あらためて、考えてみたい。

 

Black Lives Matterの運動については報道した日本のマスコミは、同じ熱量で、日本にある差別の実態を報道しているだろうか。

BLMに共感する日本の若者は、自分たちのルーツを知りたい、文化を学びたいと朝鮮学校に通う生徒が、高校無償化制度から除外されていることを、知っているのだろうか。

SNS上での誹謗中傷に憤りを感じる人たちは、被差別部落の地域や出身者が公然とインターネット上に流されていることに、気がついているのだろうか。

「障害があるのにすごい」「障害者でもやればできる」と障害者を憐れみの対象として賞賛する人たちは、その延長線上に、「できない」ことを理由に命を奪われてきた事実を、考えたことはあるだろうか。

 

「大坂選手はすごい」と思いながら、自分の目の前に、自分の中にある差別に対して気づき、行動しているだろうか。

 

自分を問い直したい。

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Think globally, Act locally(地球規模で考え、足元から行動を!)

 

ふじわら

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2020年9月23日 (水)

9月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

4連休が始まった19日に農園に車で行ったが、車の混雑で行きも帰りも時間がかかったが、20日も21日も同じ状態だった。安芸区から東広島市八本松までの2号線の安芸バイパス開通は2022年だそうだがそれまでまだ長い。道路は多いに密だった。ブルーベリーの摘み取りが13日ですべて終わり農園はひっそりしていて農作業もブルーベリーの剪定とジャーマンアイリス畑の草取りだけで、一人でひっそりしずしずと行った。連休4日目は道路の混雑を避けて家族で彼岸の墓参りだけにした。

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9月19日(土)。

 ①.晩生のブルーベリーの春から伸びた枝の秋の剪定開始。9月末までが花芽がつく期間なのでできるだけのつもりでスタート。伸びた半分から3分の1を切っていく。

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 ②.里山のブルーベリー園周囲に一か所ヒガンバナの咲く場所があるが、今年も開花。だんだん花数が増える。

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 ③.庭の花壇のツルボの花はまだ咲いていない。落としは咲くのが遅い。

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9月20日(日)。

 ①.農園のあちこちにススキの穂がて来た。

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 ②.里山の法面にはイワジャシンが開花。

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 ③.アカトンボも草や電気柵のあちこちにとまっている。

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9月21日(月)

 ①.ブルーベリーの花芽(晩生のウッダードという品種)

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 ②.今夏はサルスベリの開花が遅いし少ない。2週間前位からちらほらと咲きだした。

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 ③.お茶の木の実。手入れしないので実がたくさんなる。

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 ④.農園の周囲にまだ稲刈りが済んでいないところもある。稲田の向こうの稲刈りの終わった田んぼでは藁を広げて燃やす煙がたなびく。

 

2020年9月23日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年9月22日 (火)

三原地区、府中地区の19の日行動

戦争法が強行採決された5周年の19日には、県内各地で街頭行動が取り組まれました。その内、三原地区と府中地区での行動報告が届きましたので、添付された写真とともに掲載します。

三原地区の19の日行動

最初は、三原の藤本講治さんから送られた報告です。


安全保障関連法案が参議院本会議で強行採決されて丸5年目を迎えた919日,夕刻,三原駅前において「戦争法強行からまる5年 戦争法は許さない!忘れない!19日行動」を25人が参加して実施しました。

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街頭行動の冒頭,事務局から「私たちは忘れていません。919日を!」と本日の行動の意義と三原市民行動の取り組み経過などを述べた後,市民運動に軸足を置いて活動している市議会議員安藤志保さんなど6人の弁士が78か月にわたる安倍政権の暴走政治を指摘。「憲法違反の戦争法は廃止を」,「改憲発議を止めよう」,「今こそ安倍政治からの転換を」「戦争こそ最大の人権侵害」 ,「憲法の理念を守り続けよう」などと訴えました。

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また,今回の街宣活動には「議員インターンシップ」の受け入れで2人の広島大学の学生がマイクを持って,「化学兵器の脅威」「安保法に対する考え」について若者の新鮮な意見を述べました。

5周年という節目の行動,そして菅政権の発足,新たな自公政権下で戦争させない運動を進めていく「心合せ」ができた街頭行動でした。


 

府中地区の19の日行動

次は、府中の小川敏男さんから送られた報告です。府中では、毎月、上下町Aコープ前と府中天満屋店前の2か所で実施されています。今回の参加者は、上下、府中とも10名の参加だったようです。小川さんの報告は、街宣での訴えが届けられました。全文紹介します。


今月19日は戦争法と言われています安保法制が自民党と公明党によって強行採決されて5年目になります。この安保法制の問題点はこの安保法制と同時進行で行われた政治をみれば分かって頂けると思います。

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上下町Aコープ前

例えば日本のコロナ対策が進まないのは、この間の病院や保健所を縮小したしっぺ返しだと言われています。諸外国と日本の医療を比べた場合、PCR検査がドイツに比べて日本は17分の1であることや、集中治療室の数は人口10万人当たりドイツは29床、日本は約7床しかありません。

また、地域の公衆衛生の拠点である保健所は約30年前の1991年には全国で852カ所ありましたが2019年には472カ所と半分になっています。人員も34,000人から28,000人と6,000人も削減されています。未知の感染症にヒト、モノ、カネの備えをしてこなかったことがわかります。

安倍前首相の新型コロナ対策が不十分なことやアベノマスクにより、国民の怒りは頂点に達し、安倍首相は病気を理由に辞任せざる得ない状況に追い込まれました(828日に退陣表明をしました)。

2020919

府中天満屋前

にもかかわらず、菅(スガ)新首相は安倍前首相を継承して、新型コロナ感染症対策に力を入れると言っていますが、これまでの延長なら収束は難しく、生活苦の国民が増えるばかりです。平時に豊かな生活、ゆとりある医療と教育に力を入れないと災害時にしっぺ返しが来るのです。

教育と福祉の施設が充実していればしているほど、教育と福祉にたずさわる人が多ければ多いほどまちは住みやすくなります。行革の名のもとに福祉や教育の現場を切り捨てるほどバカげたことはありません。こうしたゆとりある医療と教育に力を入れることこそが新型コロナ対策でもあります。

戦争のできる国を目指した安倍首相を継承する菅新首相は間違っております。今こそ「戦争のできる国を目指す政治ではなくて」、「この世界から戦争をなくすことに努力する政治」に変えるときです。戦争法の廃止に向けて一緒に頑張りましょう。


藤本さん、小川さん、ありがとうございました。県内各地での頑張りを共有し、これからも一緒に訴えつづけましょう。

いのちとうとし

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2020年9月21日 (月)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (7) ――党議拘束は憲法違反――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (7)

――党議拘束は憲法違反――

 

 前回の問題提起のお浚いから始めましょう。「政権交代が可能だから」という「政治論」のレベルで小選挙区制を論じる前に、「憲法論」として論じておくことで、日本政治の本質を見抜くことができ、より良い政治を創るためのヒントが得られるはずです。という結論から、今回は、小選挙区制を考える上で参考になる憲法上の問題の一つ、「党議拘束は憲法違反」であることを俎上に載せます。

 小選挙区制導入のために提出された「政治改革法案」の採決に当り、社会党からは、勇気ある造反議員が反対票を投じました。等の遺構に反対したのです。それは、選挙について、日本社会の未来について真剣に学び議論し、悩みながらの結論でした。

そして、衆参両院で可決されなければ法律にはならないという憲法59条が遵守されるという大前提の下、誠心誠意、良心に従って行動したのです。その真摯な行動が、党の決めた方針に合わないという理由で、つまり党議拘束違反という廉で処罰の対象になりました。実は、このような形で、国会以外の場で国会内の言動について処分するのも憲法違反です。それは憲法19条、21条そして51条によって保障されています。

その前に、小選挙区制導入に反対した議員を社会党が処分するということ自体、第40回総選挙における有権者に対する公約違反であることを指摘しておきましょう。つまり、選挙の時点では社会党は小選挙区制に反対しており、有権者はその前提で一票を投じているからです。社会党が小選挙区を導入するための政治改革関連4法案賛成に転向したのは細川内閣の成立時で、あくまでも政権党の一翼を担いたいという権力志向の現れだったと解釈することが一般的に受け入れられているからです。

敢て付け加えれば、社民党は2006年には小選挙区制導入が誤りだったことを認め、造反議員の処分取り消しによる名誉回復を行いました。遅きに失した感は否めません。自分で自分の首を絞めておいて、息絶える直前になって、首を絞めたのが間違いと言っても遅過ぎるのではないでしょうか。

しかし、公約違反かどうかという問題以上に深刻なのは、党議拘束は憲法違反だという点です。次の3条がそれを示しています。

思想や良心の自由、そして表現の自由は民主主義の礎です。それを保障しているのが19条と21条です。特に表現の自由は、それが社会的に意味のある時にこそ大切にされなくてはならないものです。誰も住まない山奥でなら何を言っても良いが、多くの人が読む雑誌に発表することが制限されるのでは表現の自由の意味がありません。表現の自由とはあくまでも、多くの人に聞いて貰える環境で、しかも実質的な力を伴うときにこそ発揮されるべき原則です。そして、国会における、特に本会議における一票が最も公共性が高いことを考えれば、この時に表現の自由が保障されないのでは、「表現の自由」を掲げる意味がなくなってしまいます。それを保証しているのが51条です。

 

第19条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 

第21条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 

第51条  両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。

 

ここでいう「院外」とは、「議院」の外側を指していますが、物理的な意味での内と外ではなく、「国会」に与えられている任務を果しているときは「院内」で、それ以外は「院外」ということになるのだと思います。本会議や委員会、議員としての視察や調査、出張等、たとえそれが国会議事堂という建物の外で行われたとしても、「院内」の仕事に属するはずです。対して、仮に議事堂という物理的な存在の中で行われても、所属政党内での活動は院外でなくてはなりません。政党毎に政策も党の仕組みも活動資金の調達方法も支持者も全く違う存在です。民主的な党であれば、党員の意思により、それも多くの場合は選挙等の民主的な方法で決定されているはずです。

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より具体的な例を挙げると、自民党は憲法改正が党是の一つです。そのために様々な党活動を行っています。その内容が必ずしも憲法99条の憲法遵守規定に沿ったものでないことはある意味、当然です。では、国会議事堂内にある自民党の控室で、憲法について違憲と考えられる解釈を採用するための手続きを検討する党議を開いた場合、それを「院内」の活動と認めるかというと、それはあり得ないでしょう。つまり、政党の存在も、その活動も明確に「院外」に属します。

となると、政治改革関連4法案の採決で、(自党の党議拘束に反する場合であっても) 51条に規定されている院内の表決に際して意思表示をした議員を、政党活動の規則によって「院外」で処罰するということは許されません。51条によって責任は問われないのですから。

念のために書き添えておくと、現時点では日本の政党が党議拘束を掛けることは当たり前だと考えられています。それについての処罰も常識的には受け入れられています。それにはそれなりの理由があると思いますが、憲法を文字通り読むと、これは許されることではありません。このような矛盾について、政治のあり方そのものについてまで立ち返って改めて議論をする必要があるのではないでしょうか。選挙制度とは切っても切れ離せない、しかも政治資金の問題や議員の倫理、質等とも深く関わっている政党のあり方について、合理的な結論を得るための努力を始めるべき時なのではないでしょうか。

党議拘束がなくなった場合、政党が自答の方針を国会内で実現するためにはどうすれば良いのでしょうか。それは、事実に基づいた議論によって説得することです。「説得」が大切なのは、選挙の際には有権者に一票入れてもうための手段としてそれしか存在しないからです。何らかの力によって、誰に入れろということを強制することなど以ての外ですし、お金を渡して投票を依頼する「買収」も当然許されません。この政策が素晴らしい、この候補が信頼できる等、説得による以外の方法はないのです。

その説得で、党の一番根幹の部分を担っている国会議員を納得させることができなかったとしたら、有権者の説得など考えられなくなるのではないでしょうか。逆に言えば、今まで、国会議員を事実に基づいた論理的な議論によって説得する努力をして来なかった政党が、説得によって有権者の支持を得ようとしても、それは至難の業だということになりはしないでしょうか。

  [2020/9/21 イライザ]

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2020年9月20日 (日)

二つの9.19行動―「戦争法強行から5年 戦争法廃止!」と「朝鮮学校への無償化適用を求める」行動

昨日19日は、二つの街頭行動が行われました。

「戦争法強行から5年 戦争法廃止!活かせ9条!」

午後1時から本通電停前で始まったのが、戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会が主催する「戦争法強行から5年 戦争法廃止!活かせ9条!9.19行動」です。

安倍政権が、国民の多くの反対の声を無視し、憲法違反の「安全保障法制」(戦争法)を参議院本会議で強行採決し成立させたのが、ちょうど5年前の9月19日早朝でした。その後、広島でも「ヒロシマ総がかり行動実行委員会」が主催し、この強行採決に抗議し、戦争法廃止を求める19の日行動を続けてきました。そして2018年2月からは、安倍政権の憲法改悪の動きに対抗し、この行動は「3の日行動」として、毎月3日に継続して取り組まれてきました。すでに今月も「3の日行動」を実施しましたが、今年の9月19日は「戦争法強行採決から5周年」ということで、9.19行動も実施することになりました。

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1000人委員会の佐藤奈保子さんの司会で始まった昨日の街頭行動は、立憲野党(立憲民主党、日本共産党、社民党、新社会党)の各代表とすでに決まっている次期衆議院選挙の予定候補7名がマイクを握り、それぞれの立場から市民へのアピールを行いました。

安倍前総理の辞任を受けた菅政権は、「安倍政権の継続」を強調して誕生した政権です。「縦割り行政の廃止」「携帯電話料金の値下げ」など耳当たりの良い政策を声高にアピールしていますが、菅首相自身が、安倍政権の官房長官として「公文書の改ざん」や「森友加計学園・桜を見る会の名簿隠ぺい」に深くかかわってきたことは紛れもない事実です。また官房長官時代の記者会見での記者の質問にまともに答えず、強圧的な姿勢で答える姿も忘れてはならない事実です。そして広島にとってとりわけ重要なことは、「河井夫妻」を強力に支援してきたのが、菅さんだということです。この問題に対し、安倍前首相は全く説明責任を果たさなかったのですから、同じ穴なムジナともいえる菅首相に説明責任が求められるのは当然のことです。

そうした思いのこもった昨日の9.19行動でした。

 

「高校無償化裁判控訴審の公正な判決及び朝鮮学校無償化適用を求める街頭行動」

二つ目の行動は、午後5時から本通電停前とメルパルク前の二カ所で行われた「高校無償化裁判控訴審の公正な判決及び朝鮮学校無償化適用を求める街頭行動」です。

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この行動は、2017年7月19日に広島地裁が「朝鮮学園に学ぶ子どもたちの民族教育を受ける権利を認めない」という不当判決を言い渡したことに抗議し、それ以降、市民に対し理解と支援を求める行動として毎月19日に実施してきました。その中心は、朝鮮学園の生徒・保護者、関係者のみなさんですが、私たち日本の支援団体、支援者も一緒に行動してきました。

既にこのブログでも紹介していますが、広島高裁による控訴審での判決言い渡しが、来月16日と迫っていますので、19の日行動も最後の訴えということになりました。

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土曜日の授業を終えた朝鮮高校の生徒も多数参加し、約1時間道行く人たちに訴えつづけました。一人ひとりがマイクを握り、市民に訴える姿には、いつものことですが胸を打たれます。そして、この問題は日本人自身の問題だということを改めて思い起こさせられました。

高校無償化は、民主党政権時に始まった制度ですが、当初は対象(実施はされていなかったが)とされていた朝鮮学校を「無償化の対象にしない」という方針を表明したのは、2012年12月26日に発足した第2次安倍政権の下村博文文部科学大臣の就任直後の記者会見でした。そして翌年、文科省の省令を改正(改悪)し、朝鮮学校を完全に対象から除外しました。

安倍首相が退陣し菅政権が発足した今、そのことを改めて思い起こさなければなりません。菅自民党総裁は、役員人事で確信犯として朝鮮学校を無償化から除外した下村博文元文科大臣を、政策づくりのかなめである政調会長という要職に就任させたのですから、残念ながら菅政権にも「朝鮮学校高校無償化問題の解決」の期待を寄せることはできません。

だからと言って、明らかな政治による朝鮮学校高校生への差別をこのまま許したままでいるということは、私たち自身が差別に手を貸すことになってしまします。民族差別を許すかどうかは、私たち自身の問題でもあります。

差別が当たり前という政治を変えることができるのは、裁判に勝利することはもちろんですが、「『差別はおかしい』『差別は許さない』という大きな国民世論を作るしかない」ということを改めて突き付けられた昨日の行動でした。

いのちとうとし

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2020年9月19日 (土)

フェンスの中に隠れた大田洋子文学碑-つづき

昨日のつづきです。

調べた結果と言っても、すでに多くの人が承知のことですが、少しふりかえってみたいと思います。

このサッカースタジアルの建設場所は、当初中央公園の東半分に広がる自由広場でした。これが、現在予定されている「芝生広場」に変更されたのは、今年に入ってからです。

「平和記念公園など周辺の観光施設へのアクセスや、広場隣に住む基町地区の住民からの要望を考慮した」ことが理由とされていますが、最も大きな理由は「広場東寄りは、地中に広島城の出入り口だった『西御門(にしのごもん)』などの跡が残っている可能性があり、発掘調査などのために建設スケジュールが大幅に延びる」ことだったようです。「広島城の重要な遺跡がある」ことは、昨年末から今年にかけての「自由広場」での掘削調査で、判明したことのようですが、これらは事前の資料調査でもわかっていたはずです。あまりにも杜撰な調査によって計画が進められてきたことが分かります。その結果として「芝生広場」への変更となったようです。

そこで問題になるのが、「芝生広場」の西側にある大田洋子文学碑をどうするかということです。

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昨日紹介したように、今までのところ広島市は具体的な移動場所を決めていないとのことです。決めていないというか、決めることができないでいるといった方が良いと思いますが。

ここで問題になるのは、「大田洋子文学碑の移設がどうしても必要だ」というのであれば、なぜ今回の「発掘調査」作業開始前に、きちんと移設場所決め、移設を完了させなかったかということです。そして、事前に関係する人を探して、きちんと説明し、了解を求める努力をするべきだったはずです。残念ながらそのような努力がされた形跡は見当たりません。

そのことは、広島文学資料保全の会が、8月31日に広島市長に提出した「大田洋子『文学碑』についての要望」で明らかになっています。この碑を建立した「大田洋子文学碑建立委員会」は現在存在しませんので、誰に説明するのかという難しい問題はあると思いますが。工事を急ぐあまり、こうしたことがおろそかになってよいはずはありません。

この碑が、この地に建立されたのは「大田洋子が、たびたび広島に帰省し、原爆スラムとよばれた実妹・中川一枝宅を訪ね、『夕凪の街と人びと』の舞台とした」というゆかりの場所であり、多くの人たちの努力によって建立された経緯を考えればおさらです。

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除幕式の時写された大田洋子文学碑

私の記憶では、当初この碑は、空鞘橋屋橋東詰め北側に建立された(1978年)のですが、1992年に広島市と重慶市との友好都市提携5周年を記念し「中国式庭園・渝華園(中国庭園)渝華園(中国庭園)渝華園(中国庭園)渝華園(ゆかえん)」が建設されることになり、現在の場所に移動しています。今度の移動は2回目ということになります。

不思議なことがあるものです。この原稿を書いている途中で、紙屋町シャレオで開催されている「第22回古本まつり」(20日まで)をのぞいたところ、平台に積まれた本の中に、1978年9月に発刊された「大田洋子文学碑建立記念誌」を見つけました。

Photo_20200918163002

すでに手元にあるような気もしましたが、これも縁かなと、すぐに購入しました。

この「記念誌」の最初のページに建立委員会代表お二人の名前による「御礼」のあいさつが掲載されています。その代表の一人が、栗原貞子さんですから、昨日のブログに書いた「栗原さんが深くかかわった」どころか、その中心だったことがはっきりしました。さらにこの「御礼」の文章からは、募金を呼びかけたわずか四カ月余りの間に「目標額300万円」を超える「365万円」の募金が集まったことが分かります。「記念誌」の最後には「募金協賛・御芳名録」が掲載されていますが、ざっと数えて900を超える個人・団体の名前が書かれていますので、多くの人たちが深い関心を持っていたこともわかります。さらに「碑の建立場所につきましては、大田洋子ゆかりの地であり、新たに整備されました広島市中央公園の、希望しました地を市から与えられました。」とも記されています。

そして「記念誌」に書かれた「経過報告」には、この碑の所有が今どうなっているのかが書かれています。「建立予定地として、最初から市立図書館周辺の地を求めることにし、関係当局の理解ある協力を得て、整地完了前の中央公園の一隅に設計どおりの地が決定しました。なお碑建設以後は、公園施設設置許可をおこなった広島市に寄附、碑および附帯する工作等はすべて市当局の管理に帰属します。」と。

これを読むと「現在の管理者(所有者)は広島市」ということになります。だからと言って建立者の意思を無視してよいということにはならないと思います。

建立者が、設置場所として中央公園を選んだ思いを尊重して、サッカースタジアム建設工事を待たずに、一日も早く新たな移設場所を決め、フェンスの外に移動することを望まずにいられません。

いのちとうとし

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2020年9月18日 (金)

フェンスの中に隠れた大田洋子文学碑

広島県原水禁の事務局に行く道すがら、ちょっと気になる景色が目に入りました。

中央公園の芝生広場の芝がかられてむき出しになっているのです。周囲は、白いフェンスで囲まれています。中央公園は、新しく作られるサッカースタジアム建設予定地になっていますので、もう工事が始まったのかなと思う一方で「確かいま開催中の9月議会にサッカースタジアム建設のための予算が提案されたはずなのに?」との思いがよぎりました。

気にはなったのですが、会議に行く途中でしたので、その日は現場を通り過ぎるだけにしました。そして数日後、改めて現場を訪れました。

中央公園の西側半分が、フェンスだけでなく、網で囲われた個所もありますので、全体を見ることができます。緑でおおわれていた小高い広場は、土がむき出しになっています。片隅には、無残に切り倒された樹木が積み上がっています。真ん中の大きなクスノキだけが残っています。

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公園の真ん中あたりを南北に横切る歩道附近に看板が立っています。近づいてみると「サッカースタジアム建設に伴う埋蔵文化財発掘調査実施のお知らせ」と書かれているのが目に入ります。業務委託期間は、「2020年7月1日から2022年3月31日まで(予定)」となっており、その下に注意書きとして「*仮囲い設置工事を2020年8月3日からはじめます。」書かれています。この「お知らせ」によって、この工事は「サッカースタジアムの本体工事」を前にした「埋蔵文化財発掘調査」のため、そしてフェンスは、一月ほど前から設置されたことが分かりました。

「まさか?」と思った予算との関係は、一応理解でしました。それにしても、樹木が簡単に切り倒されていることには、腹が立ちます。

自転車で行っていましたので、フェンスの周囲をめぐることにしました。気になっていることがあったからです。それは、小高い丘の西側に広がる樹木の林の中にあった「大田洋子の文学碑がどうなっているのだろうか」ということです。この辺りにあったはずだと思える場所を探したのですが、なかなか見つかりません。囲われたフェンスには、数メートルおきに網上の窓が明けられていますので、そこから中をのぞいてみました。すっかり周囲の樹木は切り取られていますが、四國五郎がデザインし15個の大小の自然石で作られた文学碑のみが、そのまま残っています。

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小さな金網越しの写真です。そう思って探さなければ、フェンスの中ですから簡単に見つけることはできませんし、見ることも容易ではありません。

何故こんなことになっているのか、これからどうなるのか気になりましたので、広島市役所を訪ねました。担当者とのやり取りです。

「文学碑は、現在の場所からそのまま移動しないのですか?」答えは「埋蔵文化財の調査中は、あのフェンスの中で、移動させながら作業をすることにしています。」。さらに「そうすると調査中は、ずっとフェンスの中ですね?」「その通りです。きちんとした場所が決まっていないものですから」。何となく腑に落ちないのですが、次の質問です。「ところで、サッカースタジアムは、この碑のどの辺りになりますか?」「サッカースタジアムが建つと、この場所と重なることになります。」「それでは、移動することになりますよね?もう場所は決まっているのですか」「確かに移動することになります。でも場所はまだ決まっていませんが、今フェンスの西側に残っている木立の中のどこかを考えています。」一応、今回の広島市とのやり取りは、これで終わりです。

次への移動場所も決めないで「工事優先」だからと「埋蔵文化財発掘調査」が始まったことなど、どうも納得いかないことや、「大田洋子文学碑」設置には、広島県原水禁の常任理事を長く務められた原爆詩人の栗原貞子さんが、深くかかわっておられたことを思い出しましたので、少し最近の動きを調べることにしました。

その結果は、明日報告します。

いのちとうとし

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2020年9月17日 (木)

「第2次別姓訴訟広島高裁判決言い渡し」傍聴記

二日続きで、裁判傍聴に参加しました。

昨日は、昨年1119日に出された広島地裁での不当判決を不服として控訴していた「第2次別姓訴訟」の広島高裁で判決の言い渡しがありました。

午後2時に開廷した裁判は、「控訴を棄却する」という主文のみが読み上げられ、あっという間に閉廷しました。原告敗訴です。

この訴訟、広島高裁での審理は、今年68日に一度開廷されただけで、結審したものです。判決言い渡し後の報告集会で、原告の恩地いづみさんは、判決を厳しく批判するとともに 「私の思いは、控訴審で弁護団が主張した『控訴理由』の『おわりに』に書いてある通りです。その思いで、今後もがんばります」と訴え、次の闘いへの決意を表明されました。

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恩地さんが紹介された、「控訴理由」の「おわりに」を全文紹介します。

「私たちは、この訴訟に必ず勝ちます。

なぜなら、それが世界の常識だからです。

かつて、生存権が社会の常識となったようにプライバシー権が社会の常識となったように、どちらかが自分の氏を変えることなく結婚することができることが、やがて国の常識になります。

私たちの中には、法務省も含まれています。なぜなら、法務省は、すでに平成8年に、選択的夫婦別姓制度を導入すべきであるとの結論に至っているからです。

また、私たちの中には、裁判官も含まれています。なぜなら、裁判官こそが、この社会を変える力を持っており、その判断によって、あるべき社会をもたらすことを、使命としているからです。

そうして、私たちは、新しい社会をもたらします。結婚したいと望む全ての人が結婚することができる、誰もが幸せな社会です。

私たちは、その社会を導いたものとして、れきしにのこることになるでしょう。」

そして原告恩地いづみさんの「控訴審第1回公判での訴え」の最後の部分も掲載します。

「私の名前。いつでもどこでも、何の注釈や追加の書類も必要なく名乗れる、私の名前を、改姓を強要され奪われることなく結婚後も使い続けられるあたりまえの権利が、別氏という選択肢を設けないことによって、共に生きることを誓う対のうち一人には保証され、一人からは奪われていることを問題ないとするならその合理的な理由を示してください。」

昨日の判決では、最も重要な憲法14条、24条、そして国際条約(自由権規約や女性差別撤廃条約など)などについては、全く解釈を放棄するものでしたが、その中で評価できる点が二つありました。一つは「夫婦別姓問題では、地方議会で意見書が採択されていること、国連の委員会が勧告を出していることを国会は重く受け止めるべきだ。」と指摘したことです。もう一つは「通称使用」について言及したことです。この通称使用の問題は、原告弁護団が「銀行口座の開設や不動産登記が全くできないこと」を調査して提出したことが大きな力となり、判決での言及を引き出したのです。

原告は当然上告することになりますので、他の地域で争われている「夫婦別姓訴訟」と合わせて最高裁でどう判断するのかが問われることになります。その最高裁の15人の判事のうち、判決文で旧姓を使用する判事が2名いることなど、最高裁の判事構成にも大きな変化が現れていますので、新たな最高裁判断が出ることも期待できます。

「くじけず、はぶてず、諦めず」

この言葉は、恩地さんのメールの最後に必ずつけられています。

この思いに応えて、これからも「夫婦別姓問題」の解決のための支援を続けたいと思います。

いのちとうとし

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2020年9月16日 (水)

「原爆被爆二世国家賠償請求訴訟」が8カ月ぶりに開廷

昨日、広島、長崎の被爆二世が2017年に、日本政府が「被爆二世」対策を全く置き去りにしていることに対し「損害賠償」を求めて提訴して始まった「被爆二世裁判」の第11回口頭弁論が、8カ月ぶりに広島地裁で開廷しました。

昨日の公判は、裁判官の交代後初めてとなったため、「弁論更新」の手続きが取られ、原告側から原告1名、弁護士1名が意見陳述を行いました。

原告代表の角田拓さんの意見陳述は次のような内容でした。

「2018年、ジュネーブで行われたNPT再検討会議準備委員会からの帰りに列車の中に届いた妹のメールで『姉が肺腺ガンで全身に転移しており、ステージ4、余命五ヶ月の宣告を受けた』ということを知った。」そして告知から一年以上たった7月にお姉さんが亡くなるまでの間、被爆者であるお母さんにどう伝えるのか苦悩した時のことが、時に声を詰まらせながら陳述されました。この経緯は聞く者の胸を打たずにはいられません。そして角田さんは訴えます。

「私には一生忘れることはできない、私は死ぬまで抱え込んでいかなければならない。

 病気と闘った姉の不安、苦しさ、体のつらさ。子どもを自分より早くなくした、しかも被爆者であるが故の母の、これからも続く苦しみ。母や姉のことを思いながら迷い続け、そうした中ふと湧き上がる自分の体への不安。

 被爆二世として私は自分自身の健康不安は言うに及ばず、兄弟や両親のことも向き合いながら生きていかなければならない。この苦しみはすべてあの日広島に落とされた一発の原子爆弾に始まる。」「 私たち被爆二世は紛れもなく原爆による被害者です。その影響から一生逃れられないのです。」と。

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報告集会の弁護団

次に在間秀和弁護士の意見陳述です。

在間弁護士は、「被爆者援護法1条の『被爆者』の定義の3号では、『原子爆弾が投下された際又はその後において、身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情にあった者と規定』されている」ことを強調し、「原爆の放射線被害を受けたことが証明された者が被爆者として定義されているのではない」ことを主張。特に、今年7月29日広島地裁の「黒い雨訴訟の判決」を引用しながら、そのことを補充しました。続けて「原爆症認定訴訟、在外被爆者訴訟、被爆体験者訴訟、黒い雨訴訟などなど、被爆関連訴訟で国が相次いで敗訴してきた」ことを強調し、「それにもかかわらず従前の姿勢を改めようとしない」国の対応を批判しました。最後に「国の立法不作為」を指摘するとともに「裁判所においては、原告ら被爆二世が、これまで放射線被害の恐怖を覚えながらどのような状況に置かれてきたのか、そして何故訴訟に踏み切らざるを得なかったのか、真摯に事実に向き合ってほしい」と訴え、意見陳述が終わりました。

この間原告側は、自らの主張を述べた2通の準備書面を提出しました。

「原告ら準備書面7」は、被爆二世である原告25人一人ひとりが、それぞれ置かれている立場を述べた「意見陳述書」を要約したものです。

「原告ら準備書面8」は、これまでの被爆二世問題の歴史「被爆二世に対する援護措置の要求の経緯と国側の対応」について、詳細に記述したものです。加えた、国が被爆二世対策を置き去りにする中で、地方自治体が独自に取り組んでいる被爆二世対策の実情が詳しく述べられています。この「準備書面8」を作成するための資料は、全て原告自身の手によって作成されました。これは意見書として裁判所に提出されています。

裁判官から、「準備署名書面に対する反論」を求められた国の代理人弁護士の答えは、驚くことに「反証はしません」との一言でした。一人ひとりの原告が、それぞれの生き様を訴えるため苦悩しながら作り上げた意見書に対し、全く向き合おうとせず、無視する姿勢には、改めて強い怒りを覚えました。

公判終了後は、弁護士会館での報告集会。今回は小さな法廷ということで、傍聴できなかった人も多く出ましたので、熱心な意見交換が行われました。

次回の公判は、来年1月19日午後1時30分から開廷することに決まりましたが、原告弁護団は、12月下旬までに「放射線被害の遺伝的影響」を立証する準備署名を提出することになりました。

いのちとうとし

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2020年9月15日 (火)

9月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

9月中旬になった。農園のブルーベリーの摘み取りは大きな事故もなく無事13日の日曜日で終了。静かな農園に戻った。片づけを兼ねた総ざらいの摘み取りを初めて企画してたくさんの援農者に手伝って頂いた。

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9月11日(金)。

 ①森の工房みみずくの就労継続支援B型あきの利用者と職員全員が最後の摘み取り研修に来園。

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 ②2時前に少し雨が降ったが農園からブルーベリージュースをふるまわれたのち無事研修終了。

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9月12日(土)。

 ①ブルーベリーへの施肥を行う。油粕を手づかみで2回ずつ木の周囲にまいていく。

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 ②コスモスが咲きだした。

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9月13日(日)。今シーズン最後の摘み取りをたくさんの援農者の皆さんに手伝って頂いて片づけを兼ねた摘み取りを行った。

 ①家族連れで最後の摘み取りを楽しむ。

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 ②摘み取りが終わると手がブルーベリーの果汁でべたつくので手洗いが欠かせない。午前中でお帰りになるグループ。いつものように3時までのグループなどで農園全体を摘み取り完了。

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 ③赤い実を残してほとんどの木のブルーベリーが摘み取りとられた。皆さんに感謝。

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 ④一方ミノムシが今年は多く、農園のあちこちに葉に粟の開いた木が見られる。発見するたびに根気づくで手でむしって駆除する。

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 ⑤農園の空もすっかり秋の様相。

2091510

9月14日(月)。

農園では摘み取りシーズン中日よけテントや机、ブルーベリーを入れるコンテナなどを整えてきたがこれらの後片付けを午後から行う。

 ①片付け前。

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 ②片付け後。

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 ③摘み取り期間中咲いていた庭のカクトラノオもそろそろ終わり。

2020年9月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年9月14日 (月)

「広島無償化裁判控訴審勝利のための総決起集会」開催

2017年7月19日の広島地裁での不当判決を不服として広島高裁に控訴して審理が続けられて「広島無償化裁判」の判決まで、あと一月余りとなった9月11日午後7時から広島朝鮮学園体育館で「広島無償化裁判控訴審勝利のための総決起集会」が開催されました。

ちょうどこの日は、午後6時から被爆75周年原水爆禁止世界大会広島県実行委員会の第3回実行委員会が開催されました。実行委員会は、今年の特徴的な取り組みとなった①オンライン集会②8月6日の新聞意見広告③同じく8月6日の原爆ドーム前行動などの取り組みについての総括を行いました。会議で出された意見などの報告は、別の機会に譲りたいと思います。

1時間余りで会議は終了し、何人かがこの「総決起集会」会場へ急ぎ移動しました。

私たちが会場に到着した時は、広島無償化訴訟弁護団の平田かおり弁護士による「控訴審報告」が行われている最中でした。平田弁護士の報告は「控訴審で特に問題としてきた点」を強調した内容でした。会場は、150余り用意されたと思われるイス席がほぼ満席の状態でした。

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続いて、意見発表。原告、原告の保護者、支援者、そして学園代表。いずれもウリハッキョ(直訳すると「私たちの学校」という意味で、日本の在日社会では朝鮮学校を示す固有名詞として使われている)が果たしてきた役割や思い、そして「不当な差別を許さない」「裁判に必ず勝利する」という決意が語られました。

次に応援のメッセージの紹介。続いてビデオメッセージが流されました。いずれも勇気づけられるメッセージでしたが、その中で特に印象に残ったのは、文科省元事務次官の前川喜平さんのメッセージです。「この制度設計に関わってきたが、すべての高校生に適用されるのは当然のことだと考えてきた。すでに出された最高裁判決では『裁量の問題とし排除を容認』しているが、そうであるなら今後裁量でこの考え方を変えることができることも意味している。なら、最後は政権を変えるしかない。力を尽くそう」という内容で、今後の運動を示唆するものでした。

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そして集会アピールが提案されました。全文は長いので、一部を紹介します。

「すべての子どもたちは,どの国に住もうとも,学校選択の自由や民族的アイデンティティを保持しながら教育を受ける権利を有しており,政治的理由から子どもたちを差別・分断することは決して許されるものではない。日本政府には在日朝鮮人の民族教育権を保障し,諸条件を整える責任があり,植民地支配の結果として日本で生活している在日朝鮮人の民族教育に対して,歴史的経緯を踏まえ植民地支配被害者の原状回復の問題として対応すべきである。日本政府には,在日朝鮮人をはじめすべての外国人の子どもたちの学習権・教育権を速やかに認め,民族教育を保障するために国庫補助を行い,税制上の問題をはじめとする様々な差別的な処遇を速やかに是正する責務がある。

私たちはこれまで広島朝鮮学園当事者・弁護団・朝鮮学園支援者の三者の協力のもとに街頭宣伝・署名活動は言うに及ばず,できることは何でもやる決意で裁判を闘ってきた。とりわけ一審判決後は毎月19日行動を通して県民・市民への情宣活動に取り組むと同時に,裁判を闘う意義を学び・広げるための講演会,映画上映会の開催などに取り組んできた。広島では6月12日午後控訴審が結審し,あとは10月16日の判決を待つばかりになっているが,私たちはこの間も逆転勝利を目めざして決して怯むことなく闘い続け,最後まで諦めずに扉を叩き続ける所存である。私たちにこそ正義があるのだから。

最後に,本日の決起集会を通じて民族教育権の保障問題を一人でも多くの県民・市民に訴え,朝鮮学校への「無償化」適用を勝ち取ることができるよう最後まで闘い抜くことをここに決意表明する。」

全体の力強い拍手で確認されました。

続いて広島朝鮮高級学校生徒によるアピールと歌。終わりに生徒と一緒に「声よ集まれ」を参加者全員で声高らかに歌いました。

そして閉会にあたり、控訴審で「控訴人意見陳述」に立たれた金英雄朝鮮学園理事長から怒りを込めた力強いあいさつがあり、決起集会は終了しました。

今後は、10月16日午後3時からの控訴審判決言い渡しに向け、今月19日午後17時から本通電停前とメルパルク前の2か所で、「裁判の勝利を勝ち取るための街頭行動」を行うことになっています。

いのちとうとし

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2020年9月13日 (日)

碑めぐり案内が復活しました

毎月10日と25日に「原発問題の特集」記事を書いていただいている木原省治さんから、コロナ禍で途絶えていた「碑めぐり案内」が久しぶりに再開できた様子を知らせる番外編が、写真とともに届きました。


 9月9日、待ちに待っていた修学旅行生への碑めぐり案内を行いました。スケジュール表を調べてみると2月19日以来です。コロナ禍で広島への修学旅行が中止になり、原爆資料館も閉館になっていたので本当に久しぶりという感じでした。

 この度案内をしたのは三重県四日市市の中学校、それでもコロナを心配してとても対策をしておられました。資料館の見学も、入場者の人数制限が行われているので普通なら全員が入るのですが、分散して行うということでした。

本来なら約130人の生徒たちが資料館見学の後は、みんな揃って宮島での宿泊となるのでしたが、もう1泊広島市内に泊まり10日に資料館見学となっていたのでした。

 そこまでして広島に来てくれたというのが、最大の喜びというか感激でした。僕の自己紹介をしたときに、そういう気持ちが高ぶってきて少し声が上ずった感じになりました。

案内役も生徒4~5人に一人というように分けられました。一グループの人数が少ないだけ、やり易かったという感じではありましたし、平和公園内内にはまだ修学旅行生の姿は無く、案内も余裕を持って出来るという状況でした。

 コロナ禍の中で、修学旅行生らのバスが停車するスペースにはほとんどバスを見られなかったのですが、それでも4~5台は停まっていたでしょうか。

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 少し涼しくなっていて、空気がカラッとした感じではありましたが、マスクをしているので、生徒たちも汗を流しながらで頑張りました。僕が担当したグループは5人だったのですが、一生懸命に聞いてくれて「しおり」にメモしていました。時間は1時間と短く、案内には1時間30分は欲しいのです。生徒たちも「短すぎ」と話してくれました。これは僕を喜ばせようとした忖度があったのかも知れませんが、単純に喜びました。

 学校からは「案内コースはガイドさんに任せます」と聞いていましたが、「韓国人慰霊碑」と「原爆の子の像」は入れて欲しいとリクエストされていました。このように自らの希望を言われるのがとても嬉しいのです。

 1時間という時間はあっという間にやってきましたが、最後に「大きくなって、また広島に来ることがあったら、中学校の修学旅行で広島に来た時に案内のおじさん話してくれたなあーと思い出してくれたら嬉しい」と話したら、大きくうなずいてくれました。

 広島修学旅行は少しづつ復活しているようですが、平和公園の中を多くの生徒たちが「しおり」を持ちながら、ワイワイと行き来している光景が早く戻ってほしいものです。

木原省治


木原さん、ようやく復活した修学旅行のの様子が伝わる嬉しい便り、ありがとうございました。

いのちとうとし

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2020年9月12日 (土)

「1945年8月9日 鶴見橋のたもとで」

私の父は、14歳の時に今のマツダスタジアムがある辺りで被爆しました。

ピカッと光った後に、近くの防空壕に走り込んだ父は間一髪で助かりました。

8月6日原爆投下直後から8日は、同じ職場の仲間を泊まりがけで探索したそうです。

 

8月9日の朝からは、近所の元気な者で行方不明の人を探しに行くことになりました。

父は、朝、4時に起きて、広島駅から出る市電の軌道を西へたどって、十日市、横川、己斐の方まで、探しに行きました。

「両側を見ながら探そうとしたけど、右も左も焼死体が転がっとった。何ぶんにも悪臭で口をふさぎながら探索して歩いたんじゃ。」と言っていました。でも、行方不明の人は全然見つけることができなかったそうです。

そして、父は、この探索の帰りに、鶴見橋のたもとにあった公衆便所に立ち寄りました。

そこで、父は、晩年までいつまでも心に染みついて忘れることのできなかった光景を見ました。

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「便所の入り口にあったたたみ一帖くらいの防火用水に、これ以上積もれない程の焼死体があったんじゃ。」

「便所の中も天井まで人がびっしり詰まっとった。どうしてこがあになったんか不思議でやれん。」

「仕方がないけえ、裏の土手から小便をしたけど、可哀想で可哀想で泣きじゃくりながらじゃったけえ、ちょぼちょぼしか出んかったんじゃ。」

父は、この話をする度に涙をいっぱいためて話をしてくれました。

 

そんな父も、3か月前にあの世に旅立ちました。亡くなるまでの10年間は特にたくさん原爆や戦争の話をしてくれました。父の場合は、話す度に少しずつ少しずつつらさがはがれ落ちていったように思っています。

あの世で、早くに生き別れた大切な人たちと75年ぶりに再会できているといいなと思います。

(のまは)

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2020年9月11日 (金)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (6) ――憲法違反の小選挙区制度 (5) ――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (6)

――憲法違反の小選挙区制度 (5) ――

 

 《小選挙区制は、政治論ではなく憲法論で扱うべし》

小選挙区制を考える視点はいくつかありますが、これまでの議論では、主に「政治論」として扱われてきました。その中でも強調されて来たのが、「政権交代がし易くなる」でした。常識的には、これも大切なことです。腐り切った政権が何年も続くことには大きな問題があるからです。

しかし、仮にそれが事実だとしても、そのような政治を民意が望んでいるとしたらどうなのでしょうか。そんな政治を民意が許すとは思えないのですが、仮に「思考実験」として、そんなことが起ったとしましょう。圧倒的多数の人々が、腐っていてもその政権を支持し続けているという事実があったとしましょう。

私たちは、「政治」についてそれなりの期待を持ち、理想を掲げています。それは、これまでの人類の歴史、日本の歴史に基づいた「常識」です。その前提で考えると、「圧倒的多数の人々が、腐っていてもその政権を支持し続けているという事実」などあってはならないのです。

しかし、「思考実験」では、その「あってはならない」ことが現実に起きているという仮定を設けて、それを前提として、その先を考えるのです。つまり、人類進化の過程で人類が獲得した「知性」により、長い歴史の中で積み重ねた「経験」を凝縮した「知恵」があるにもかかわらず、圧倒的多数の人たちが、「腐敗した政権」を支持し続けるということが「現実」だと仮定するのです。

ここで「思考実験」としてもう一つの仮定も導入しましょう。それは、そのような「圧倒的多数」の選択が間違っていると考える人たちがいるという仮定です。人類の多様性を仮定すると、ある一つの「意見」について、100パーセントの人が賛成することは不可能だからです。その「少数派」の人たちが、「腐敗した政権」が間違っていることを指摘したとして、それでも「圧倒的多数」は、腐敗政権を支持し続けたとしましょう。

さらに、このような「政治劇」が、あたかもあなたの足元に置かれている「箱庭」のような場所で起きていて、あなたはその劇の演出を任されていたとしましょう。小人国に辿り着いたガリバーのような立場だと考えて下さい。ここであなたは、腐敗政権を支持し続ける「圧倒的多数」の立場に立つのか、それを間違いだと指摘している「少数派」の側のどちらかの選択をして、これから後のシナリオを決めなくてはならないとしましょう。

実は、二つの選択肢の内、「少数派」の立場を現実の社会で体現しているグループが存在します。霞が関に多く見られる、いわゆる高級官僚と呼ばれる人たちです。自分たちの知性や能力に絶対的自信を持ち、日本という国家を指導し動かすのは自分たちであるという自覚とともに、「衆愚」の上に立って当然だと考える傾向があります。良く言えば「賢人政治」ですが、安倍政権で問題になった、「森・加計・桜」のような現象が、その結果であることも冷静に評価しなくてはなりません。

官僚たちの実態は多くの人々によって告発されています。彼らには大きな権力があるからです。中でも、1995年に出版された宮本政於著の『お役所のご法度』一冊だけ読んでも、その恐ろしさを十分に知ることができます。

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恐らく、そのような可能性も含めて、「演出者」としてのあなたが、長い歴史の中で選択したのが、多数派の意見で政治を動かすという原則なのです。「賢人政治」にリスクがあるように、多数派の意見で政治的決定を行うシステム、それを「民主主義」と呼ぶことにして、それにもリスクは付き物です。しかし、長い人類史の中で、こちらの方のリスクがより少ない、そしてより良い結果を生む可能性が高いという判断が、世界

的に行われて来たのだと考えられます。

その判断の助けになったのが、「力の支配ではなく法の支配」によって、物事を動かすという原則です。つまり言葉に対する信頼が大きかったのです。さらに、「法の支配」が現実の場面で効果的に機能するために、憲法を出発点とする法体系が作られるようになりました。特に日本国憲法を丁寧に読むと、現実の政治が私たちの期待を裏切らないように様々な工夫が凝らされていることに気付きます。

前口上が長くなりましたが、「政権交代が可能だから」という「政治論」のレベルで小選挙区制を論じる前に、「憲法論」として論じておくことで、日本政治の本質を見抜くことができ、より良い政治を創るためのヒントが得られるのではないかと思います。という結論から、小選挙区制を考える上で、参考になる憲法上の問題を取り上げておきましょう。

本論は次回に回しますが、「党議拘束は憲法違反」であることを俎上に載せます。

 [2020/9/11 イライザ]

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2020年9月10日 (木)

第6次エネルギー基本計画の議論が始まった

7月1日、経済産業省で「総合資源エネルギー調査会基本政策分科会」が開催され、第6次エネルギー基本計画の改訂に向けての議論が始まりました。来年のたぶん夏頃の閣議決定に向けて、この年末から本格的な議論が始まります。

これまでこの分科会の会長をしていたのは、東レ会長を務めながら日本経済団体連合会(経団連)の榊原定征(さかきばら さだゆき)会長でした。しかしいくら何でも、このたびあの不正事件を犯した関西電力の会長に就任したばかりの人物で、引き続きは世論が許されないだろうと、白石隆(しらいし たかし)熊本県立大学理事長に交代しました。分科会委員は20名、委員の顔ぶれは榊原前会長で想像できるように、言い回しに多少の違いがあるものの原発推進です。

7月1日の会合は、オンラインによる参加者を含め開催されました。

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オンラインで参加する杉本達治福井県知事(福井県ホームページより)

この度のエネルギー基本計画については最初の会合ということで、資源エネルギー庁職員の概要説明の後、新委員の自己紹介、その後各委員から自由な発言が行われました。その発言の内容から、この度のエネルギー基本計画で議論の焦点になるだろうと思われる事を考えてみました。様ざまな視点から原発の再稼働、新増設、リプレースの必要性が発言されています。

順不同で書くと次のようなものです

・原発規制のあり様が厳しすぎる。見直しが必要だ。

・電源三法交付金について、原発の廃止措置期間中も廃炉前の水準にするな どの措置が必要。

・国民理解を得るためにも、立地や廃炉について見える化に取り組む必要がある。地域社会との連携が重要。

・パリ協定目標達成に向けて原発の活用は不可欠。二酸化炭素を出さない原発は必要だ。

・原発技術の技術基盤を維持していくには、人材育成が重要。

・再稼働・安全投資へのインセンチィブ作りが必要。新設炉の原発審査体制構築が急務。

・リプレース、核燃料サイクルを含めて正面から議論を行う必要がある。

・アフターコロナについて、居住地選択の多様化が進むと考える。自己完結型エネルギー需給構造が求められるところもあり、大規模集中型と小規模分散型の両立が今後の課題。

という具合です。

一番多かった発言は、日本への脱炭素化という世界的な要請の中で、原発が必要だというのが目につきした。議事録をじっくりと読んでいると、俳優の石坂浩二が使われている電気事業連合会の“「環境にやさしいエネルギー」といえば、何を思い浮かべますか。 発電時にCO₂を出さないのは、「再生可能エネルギー」と「原子力」です”の新聞広告が目に浮かびました。

想定される審議の最大の焦点は●新増設(原発比率)だと思います。

その他には

 • 40年超の原発運転。

 • 「原子力産業イノベーション」の実現。

   ・安全性向上の技術開発・導入促進、革新的原子力技術開発の推進

   ・原子力産業の維持・強化・革新。

 • 持続的なバックエンドシステムの確立。

   ・中間貯蔵、再処理、プルトニウム利用。

   ・放射性廃棄物の最終処分に向けた取り組み。

私は、その他に次の課題についても議論される必要性があると思っています。

  • 電力システム改革が完了したことによる、その後の改善課題として

   ▶広域的運営推進機関の在り方

   ▶新電力会社の保護対策

   ▶発送電分離の今後(法的分離から所有権分離への移行、各種市場の公平、公正性の確保)

  • 原発40年運転の厳守。
  • 原発事故時の避難問題と30㌔自治体と電力会社との安全協定締結の義務 化。
  • 原子力規制委員会の権限および独立性の強化。
  • 石炭火力発電の廃止に向けた工程の提示。

【私たちの取り組むこと】

 何よりも私たちの側からの、「私たちの、エネルギー基本計画」を策定することが重要ではなかろうかと思います。コンパクトで分かりやすい物を作ることを提案したいと思います。この取りまとめは、原子力資料情報室、原水禁、原子力市民委員会でリードを取ってもらいたいのです。この「私たちの、エネルギー基本計画」を国が定めようとしている「第6次エネルギー基本計画」と対峙させて議論をすることを提案したいと思います。

また、2012年の民主党政権のときの「革新的エネルギー・環境戦略」議論で行われた、全国各地での討論会を開催することも提案したいのです。

政治(国会)が原子力を止める。機会あるごとに脱原発派の議員を増やすこと(統合される予定の立憲民主、国民)での「原発ゼロを目指す」の綱領案を言葉だけにしないこと)。その為には、地元選出の議員に要請する行動が必要だろう。もちろん自治体議員への働きかけも重要です。

その他、・エネルギー基本計画の問題点、重要性 課題などについての、大小様ざまな形での学習会・街宣行動などを集中的に開催する。・コロナ禍での島根原発避難計画の問題点を指摘し追究する。・新聞投書などを活用することです。

18年に決定された第5次エネルギー基本計画の審議の中では、経済団体や原発立地自治体などから原発新増設の強い圧力が、この分科会に掛けられたといわれています。しかし新増設を入れられなかったのは、「原発はいらない」という世論の大きさでした。「新増設には触れない」だけでは、40年近くも上関原発を建てさせないために戦っている、地元の人たちをはじめ多くの人たちは救われません。

様ざまな取り組みが、脱原発社会へ向かう一歩だという確信を持つことが重要でしょう。勝負に勝つために一番大切なこと、それは「勝つんだ」という気持ちを持ち続けることだと私は思うのです。それが最大の武器ではないでしょうか。

木原省治

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2020年9月 9日 (水)

今日の「安全保障法制違憲訴訟」第10回口頭弁論で意見陳述

今日は、午後1時半から広島地裁で「安全保障法制違憲訴訟」の公判が開かれます。裁判官が交代したということで、弁論更新の手続きが取られます。弁論更新が行われる場合には、原告や原告弁護団による意見陳述が行われます。今日は、原告団を代表して私が意見陳述を行います。少し長いのですが、その意見陳述のうち「安全保障法制について」を除いた部分を掲載します。

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1 私の家族の戦争体験

私は、1948年(昭和23年)生れです。直接戦争体験のない世代の一人です。しかし、私にとって、戦争は全く無縁のことではありません。

私は、6人兄弟の末っ子として生まれました。私を除く兄弟は、全て戦前の生れで、先の大戦中は、旧満州国・奉天、現在の中華人民共和国の東北省瀋陽で終戦を迎えました。

私の両親は、水飲み百姓といわれる貧しい農家に生まれ育ちました。結婚後、新たな生活の糧を求めて、旧満州国に渡り、私以外の五人の子どもを産み育ててきました。

両親と兄弟は、その満州で終戦を迎えることとなりました。しかし、父は、終戦間際に現地召集として徴兵され、侵攻してきたソ連軍の捕虜となっていました。父はシベリアでの抑留を体験することになりました。幸いにも父は2年足らずで解放され、帰国することができ,私は、父の帰国後に生まれました。

父の徴兵後,残された家族は、日本に帰国するまで大変な辛酸を味わうことになったと聞いています。私のすぐ上の兄は、1945年(昭和20年)6月生れですので、母は、まさに「乳飲み子を抱えて」帰国しなければなりませんでした。その兄の名前は「治」です。名づけは、軍人だった叔父が付けたそうですが、「もうすぐ戦争が終わるから」といって、「おさまるという意味で治」と付けたということです。軍人の間では、すでに終戦が近いことは認識されていたのでしょう。

父を欠いた家族は、終戦の翌年の6月に、幸いにして誰一人欠けることなく、全員が無事に帰国することができました。しかし、全ての財産は失っての帰国ですから、戦後の生活は本当に苦しいものになりました。その苦しかった生活のことは、私もよく覚えています。

以上は,私たち家族には、決して忘れることのできない戦争被害の歴史です。

一方,戦争を語る時、被害だけを語ることはできません。

私にとって忘れられない兄との会話があります。日中国交回復が実現し、日本から中国への訪問が可能となった時期、私が兄に「中国を訪問する気はないか」と訊ねた時のことです。兄は,「懐かしそうに笑いながら中国を訪問する人がいるが、当時日本人が中国人にしたことを思えば、自分は絶対に行く気にはなれない。」と話してくれました。

戦争によって,日本人が加害者になってしまった,多くの他国の人々を苦しめてしまった,戦中世代の兄はこのことを実感していたのでしょう。私は,この兄の言葉を忘れることはできません。

2 国会議員として政府に質した「国民への償い」

私は、2000年6月から、1期衆議院議員を務めました。

安全保障関連法の提案・審議の際も何度も聞いた言葉ですが、政府は、有事法制の目的について,いつも「国民の生命や財産を守るため」と説明します。

私の衆議院議員任期中には小泉純一郎内閣が「有事関連三法案」を上程したことがありました。有事関連三法案のうち,武力攻撃事態法は,「武力攻撃事態」を定義づけし,国民にも有事の際の協力義務を課す法律でした。

私は、衆議院本会議において、社民党を代表し、代表質問を行い「もし有事の際、犠牲となった一般市民の生命や財産に対し、国民が主権者となっている今度は国はきちんと償いをするのでしょうね」と質したことがあります。しかし、小泉総理は「武力攻撃による国民の被害にはさまざまな場合があり、個別具体的な判断が必要であります。補償の問題については、武力攻撃事態終了後の復興施策のあり方の一環として、政府全体で検討していかなければならないものと考えます。」と答えるのみで、一般市民に対する補償に対して明確にしませんでした。

私は,有事の際に「国民の生命や財産を守ること」に全力を尽くすとは思えません。先の戦争によって失われた市民の命や財産に対し、国家は何の償いもしていません。残念ながらこれが日本政府の姿なのです。

今回の安全保障関連法の中にも、一般市民の犠牲に対する補償については、全く盛り込まれていません。

3 安全保障法制について

〈略〉

4 さいごに

最後に一言申し上げます。

私は、国会議員であった時、衆議院の憲法調査会に所属し、憲法問題を論議してきました。その任期中に、憲法調査会の海外視察団の一員として、ヨーロッパの「憲法裁判所」事情を調査したことがあります。その調査を通じて、各国が、全ての国民に対し、違憲審査を求める権利を保障していることを学びました。

しかし、日本国憲法は、多くの諸外国が設置している「憲法裁判所」による違憲審査の制度をとっていません。その代わり、日本国憲法は、第81条によって最高裁判所に「法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかどうか」を判断する権限を与えています。私は、これを「違憲立法審査権」と学校で習ってきました。

また日本国憲法は、第99条の「憲法尊重擁護義務」を負うものの一人として、裁判官を明示しています。

法の番人である裁判官のみなさん、「違憲立法審査権」と「憲法尊重擁護義務」を重く受け止め、安全保障法制が違憲であることを問うこの裁判でしっかりとその役割を果たしていただきたいと思います。

それこそが、国民が期待する裁判所の役割であると強く訴え、私の意見陳述を終わります。


いのちとうとし

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2020年9月 8日 (火)

9月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

ブルーベリーの実の収穫もそろそろ終わり。9月に入っても雨が降らず暑い日が続いたのでブルーベリーの実も甘いままの状態で摘みとりが出来ていて、納品先の安芸の郷のお客さんからも生食がおいしいとの声が良せ寄せられ、中には再度の購入もあるようだ。6月から始まったブルーベリーの収穫ももそろそろおしまい。7日には台風10号が強い風を伴って九州の西の海上を通ったので農園のブルーベリーも強風で実が残っているかどうか。おしまいを決めてくれるのがやはり自然の気候。

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9月2日(水)。摘みとりの最中目の前のブルーベリーの実の上に座るのはアマガエル。

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9月5日(土)。

①この日はご夫婦のかたが摘みとりの援農に来園。昼休憩後真ん中の畑に入る。しばらくすると、

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②しゃがんでブルーベリーの下側にある実を丁寧に摘みとりする姿が見えた。

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③摘みとりの場所を毎日変えるのだがその先々でミノムシと出くわす。そのたびにブルーベリーの葉から外して駆除していく。葉のあちこちにミノムシがかじった後の穴が開いている。

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④ブルーベリー畑の地面のあちこちに咲くのはゲンノショウコと、

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⑤イボクサ(ツユクサ科)の花。小さい3つの花びら。近くにはムラサキツユクサも咲いている。

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9月6日(日)。

①台風10号が近づいているが、少しの風が吹くだけで、薄曇りの中の摘みとりなので小さい子ども連れの知人の家族もブルーベリーを食べながらの摘みとりが楽しそうだった。

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②午後2時に休憩をして、摘みとりしたブルーベリーで冷たいジュースを飲む。そうしていたら雨が降ってきたので摘みとりを終了。皆さんの援農がおわってからブルーベリーの実を見回ってみると、ぶどうの実のような形からまだらな粒が転々とする姿に変わっている。この様子ではもうすぐ摘みとりも終わる。

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③周辺の稲田の稲の刈り取りが始まっている。ブルーベリーは一粒一粒人の手で摘みとりするが稲の稲穂は大きなトラクターで一気に刈り取りしてしまう。

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④帰り道のいつもの田んぼ。何段もの田んぼの稲が刈られている。

安芸の郷ではこの地域の農事法人から給食で食べるコメを年間を通して購入している。8月末に受け取った米はもう新米だった。

2020年9月8日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年9月 7日 (月)

やはり元は「川内村原爆精霊供養塔」でした。

8月29日の「誓願寺の佐東町原爆精霊供養塔」(https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/08/post-82fb8e.html)で紹介した誓願寺にある「原爆精霊供養塔」が最初に建立された時は、「川内村」の供養塔として建てられたことが、確認できました。

このブログで何度か登場した「広島戦後の復興史」の著者の西井麻里奈さんに、先日ブログで紹介した「現在『佐東町原爆精霊供養塔』は、誓願寺から三滝に移転し、平和公園にある『義勇隊の碑』が建立されるまでは、ずっと『佐東町』ではなく『川内村原爆精霊供養塔』だった」という私の推論をメールで送りました。

数日後、西井さんから次のようなメールが返ってきました。

「誓願寺に行かれたとのことです。廣瀬さんとは本が出たときに電話でご挨拶をしたのみで、お会いできておりません。本来ならば、長年のご協力に直接お礼に出向くべきところでした。お元気だったようで、うれしく思います。

『佐東町』のこと、ご指摘をありがとうございました。この部分がへこんでいるのはそういうことかと思うと同時に、もっと写真をよく見ておくべきだったと思いました。

この碑が中島町時代の再建誓願寺の敷地内にあったころの写真を改めて確認しましたが、『安佐郡川内村』となっています。(この写真、元も不鮮明なのですが、拙著にも掲載したものはさらに小さくて見えにくいですね…)

字の感じもつかみにくいですが、『原爆精霊供養塔』の文字のスタイルと似ているように思います。

『佐東町』の文字がお父様のものということも納得ができます。この碑には一度だけ、坂山さん・廣瀬さんとご一緒に訪れました。

この下に、最初の木碑を建設したときに埋めていた名簿があるのかもしれない、という話題になり、そのことばかり頭に残っていました。」

メールの中に記載されている「写真」が、下の写真です。

Photo_20200906103101

本に掲載されている写真をスマホで写していますので、不鮮明ですが、よく見れば、私が先日、誓願寺を訪れて映した「原爆精霊供養塔」と形や刻まれた文字は同じものだということが分かります。

Dsc_6812

西井さんに、改めて手元の写真を再確認していただいた結果現在「佐東町」となっているところに以前は、「安佐郡川内村」と刻まれていたことが再確認でしました。これで、私が推論した「もともと『安佐郡川内村』と刻まれていた」ことが証明されました。

ところで、西井さんのメールに書かれている「最初の木碑」が次の写真です。

Photo_20200906103401

この写真も西井さんの本からの転写ですので、かなりひずんでしまいました。ところで写真に写っている右後ろに立つ碑は、原爆で亡くなられた誓願寺の住職の供養塔です。ですから、この場所が被爆時に誓願寺があった場所に間違いありません。

西井さんがメールで「話題となった」名簿は、この木碑の「供養塔」が建立された時に埋められた「犠牲者の名簿」のことですが、5年後に「石碑」に替わった時にも埋められたのか、そして今どうなっているのかは不明のようです。

前回も書きましたが、1963年に誓願寺本堂が三滝に移転するのに伴い、この「石碑」も三滝の墓地に移転することになったのです。

もともと木碑の建立場所に誓願寺が選ばれたのは、「川内の義勇隊が亡くなった場所の近くで供養したい」との思いが理由ですから、「石碑」が三滝墓苑に移転することは、木碑を誓願寺に建立した意味(亡くなった場所の近くで供養する)を失わせることになったのです。そのため、川内地区の人たちの努力によって1964年に現在の平和公園内に新たな供養碑「義勇隊の碑」が完成することになったわけです。そして今度は、名簿を地下に埋めるのではなく、裏面に犠牲者の名前が刻まれることになったようです。

広島平和祈念資料館の「平和記念公園マップ」に掲載された「義勇隊の碑」の説明では、「建立年月日 1964年(昭和39年)8月6日」だけでなく、三滝墓苑に「原爆精霊供養塔がある」ことも記載されています。しかし、そこには誓願寺とのかかわりは出てきません。これまで私もフィールドワークでは、この「平和公園マップ」を参考にしていましたので、「義勇隊の碑」について「この碑は1964年に建立されました」と紹介し「木碑」のことや「原爆精霊供養塔」のことには、触れたことがありません。しかし「木碑建立」からの経緯を知ることができましたので、「義勇隊の碑」には「1946年からの前史」があり、「遺族の人たちの特に強い思いがあって、この場所に建立された」ことを紹介しなければならないと思っています。

いのちとうとし

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2020年9月 6日 (日)

今年も開催された「平和の旅」

反核平和の火リレーを取り組み平和友好祭実行委員会が主催する「平和の旅」が、今年も昨日(5日)、今日の2日間の日程で、広島市で開催されました。「平和の旅」は、原水禁運動の原点である広島の実相を学ぶ場として、毎年5月から6月初めの頃(昨年は、5月31日から6月2日)2泊3日の日程で開催されてきました。被爆75周年原水禁世界大会も、コロナ禍の影響を受け、今年は集会形式による大会は開催せず、オンライン集会となりましたので、「平和の旅」も今年の開催が危惧されましたが、少し時期をずらすことになりましたが、今年も無事に実施されました。しかし、日程は1泊2日に短縮しての開催です。もちろん、例年よりも参加者は少なくなりましたが、それでも、現地広島やスタッフを含め7都道県から33名(昨年は50名)の参加者を数えることができました。今年は、31回目の開催です。

短縮された二日間の日程は次のとおりです。

初日は、受付後、今年初めての試みとなった被爆電車への搭乗です。原爆ドーム前で下車し、広島平和祈念資料館の見学。午後5時からアステールプラザで開会行事。私が、広島県原水禁を代表して歓迎のあいさつをしたのは、この開会集会です。

20200905_165729  

開会行事といっても、主催者、地元実行委員会、そして私の3人があいさつするだけですので、すぐ終わりました。その後「ヒロシマ・母たちの祈り」の映画鑑賞。そして今日のメイン企画「世界のヒバクシャと出会って」の講演です。講演者は、広島生れ出安芸高田市在住の福岡奈織さん。福岡さんは、ピースボート主催の「ヒバクシャ地球一周証言の航海」に被爆者とともに参加し、2015年大学の卒業論文執筆のため、フランス領ポリネシアタヒチ島に滞在し、元核実験場労働者に聞き取り調査を行い、その後も韓国やハワイに住む被爆者と出会う旅を続けています。今回の講演は、その体験に基づいたお話のようです。ようですというのは、私はあいさつを終えて会場を後にしましたので、配布されたレジュメをもとにこの原稿を書いているからです。このレジュメのとおりのお話なら、「ヒロシマの旅」で、世界のヒバクシャ、特にフランス領ポリネシアの元核実験労働者のことが取り上げられるのは、今回が初めてだと思います。参加者がどんな感想を持って帰るのか、ちょっと興味が湧きます。一日目はこれで終了です。

二日目の今日は、広島県被団協の高品健二さんの「被爆体験」を聞き、その後、平和公園の慰霊碑巡りの日程です。高品さんは、八歳の時、爆心地から2.5kmの出汐町の自宅で被爆。母は原爆で、父は戦争でなくされています。大阪に在住している時から、小学校教師たなった次男の勧めもあり、証言活動を始められ、2010年に広島に帰ってからも続いています。「被爆体験」を聞いた後は、平和公園に移動し、「慰霊碑巡り」です。

昨年は、この日の行事に参加したのですが、今年は厳しい暑さが続いていますので、歳を考え参加を断念しましたので、これ以上の詳細を報告することはできません。

これで今年の「ヒロシマの旅」が終わります。

昨年までの日程では、加害の歴史を学ぶための「毒ガス製造の島大久野島」見学が加わっていました。残念ですが、今年は「日本の戦争加害責任」を考える企画が組めなかったようです。それに代わるということではないでしょうが、

ところで、主催者のあいさつによれば、今年の反核平和の火リレーが実施された県は、高知、鹿児島、島根と地元広島の4県にとどまってようです。広島の反核平和の火リレーも大幅に短縮して実施されましたので、やむを得ないこととは思いますが、昨年は27都道県で実施されています。来年の復活を強く期待します。

今年は、コロナ禍で異例ずくめの行事が続いていますが、「『平和の旅』が、参加者は少数になったとはいえ今年も実施されて本当によかった」と思いながら会場を後にしました。

いのちとうとし

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2020年9月 5日 (土)

ヒロシマとベトナム(その16) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅲ〕

非人道的な枯葉剤(ダイオキシン)散布

私が初めて枯葉剤被害児と出会ったのはベトちゃん・ドクちゃんの分離手術が報道されてから3年後、1991年でした。北爆の痕跡を残した大きなクレーターや破壊された橋脚が残り、まちには戦傷者やストリートチルドレンが溢れていたハノイでのことでした。その時の衝撃は「ヒロシマとベトナム」(その1)に書きましたが、以降幾度も「ホアビン村」(枯葉剤児施設)や病院、枯葉剤被害者団体(VAVA)や被害児者宅を訪れています。

右の写真は1998年にベトちゃんとドクちゃんが分離手術を受け、過ごしていたホーチミン市にあるツーヅー病院を訪れたときのものです。枯葉剤(ダイオキシン)の影響により、生を受けることなく亡くなった数多くの嬰児が安置されていました。

1998

この写真を見ただけで、アメリカ軍が10年間もジャングルと散在する村々の上空から枯葉剤(ダイオキシン)を撒き続けたことが、いかに非人道的なものか分かると思います。

多様な形で現れる人体への影響

青酸カリの1,000倍を持つというダイオキシンの毒性については、前号(85日)で述べましたが。その人体への影響は、奇形児、子宮外妊娠、早産、流産、死産、胞状奇胎、新生児死亡などの生殖障害として現れています。

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生殖障害の中でも注目されるのは先天奇形で、奇形にはベトちゃん・ドクちゃんの例にある結合性双生児の他、無脳症、手足の奇形、目などの感覚器官の無形成や奇形、口蓋裂などがあります。

その他、枯葉剤(ダイオキシン)による人体への影響は多くの器官や機能に及び、循環器や呼吸器障害、癌など極めて多様です。

最も枯葉剤被害児の多いタイビン省

480万人以上もの人々が被曝し、100万人以上に何らかの傷害や疾病があると言われていますが、最も被害児者が多いのがハノイ近郊のタイビン省です。ベトナム戦争中、北部地域から激戦地帯の中部地域に派遣された多くの若者が大量の枯葉剤を浴び、帰国後の偏頭痛や倦怠感などの健康不調になり、また結婚・出産により世代を超えた障害が続いているのです。

2012年に中国新聞の同行取材を得ながらタイビン省枯葉剤被害者団体(VAVA)を訪れたときの状況を紹介します。ハン会長(写真左)は、「1968年、ベトナム中部クアンナム省とラオス国境付近で枯葉剤を浴びた。子どもには影響が出なかったが、孫が2人死んだ。娘の子どもは死産(奇形)だった。第二世代に障害が出なくても第三世代に出てくる。」と世代を超えた被害について強調されました。

2012年当時のタイビン省の人口は182万人(2019年:194万2千人)、うち被害者はベトナムで最も多い3万3千人。その内訳は第1世代(直接被曝者)が2万4千人、第2世代(子)が8千人、第3世代(孫)が1千人、第4世代(ひ孫)は今のところ1人と言うことでした。その後、第3世代、第4世代への影響がどうなっているのか気にかかります。

身体・健康への影響では第一世代は癌が最も多く、第2世代に現れている特徴的な被害は下表です。

手足の奇形

8.2%

知的障害

2.0%

精神疾患

8.2%

手足の障害

4.3%

皮膚障害

6.1%

言語障害

4.9%

骨血液癌

1.6%

視覚障害

3.3%

歩行障害

8.8%

関節障害

7.6%

心臓障害

3.0%

神経障害

9.2%

指障害(合着、6本など)

8.6%

口唇口蓋裂

3.7%

白血病

0.8%

激戦地クアンチの状況

 私たち一般社団法人広島ベトナム平和友好協会(HVPF)が2009年以来、毎年「訪問団」を派遣しているクアンチ省は、旧南北国境線が敷かれたベトナム戦争の最激戦地であり、枯葉剤被害者もタイビン省に次ぎ多い地域です。枯葉剤の直接被曝による人や土地・森林への影響、不発弾など負の遺産を抱えるクアンチ省は、「ベトナムで最も貧しい地域の一つ」と言われています。

「3万人の被害者は、貧しいクアンチの中でも最も貧困な状況で生活に追われています。植物状態の被害者も260人おり、その家族は仕事に就くことすら困難」と、リ・キム・トゥ被害者の会会長は訴えています。

2012

上の写真はグエン・ルク・タンくんです。17歳ですが体重は僅か12kg、腕と足は細く立つことも、ものを持つこともできません。肺の病気で吐血し、最近退院したばかりというタンくんは、うつろに目を向けますが会話はできません。

軍隊時代に強い枯葉剤を浴びて身体が弱い父親(41歳)は、65キロ離れたフエでタクシーのドライバーをしており、母親は2歳のときに家を出たきりとのことです。老いた祖母が政府の援助月36万ドンと息子の仕送り10万ドン余りとで50万ドン(注1)ほど暮らしているとのことでした。(注1)1万ドンが約50円ですので2,500円。

「コロナ禍」でチャリティー・コンサート中止

2001年に初めて東広島市で「枯葉剤被害児救援のためのベトナム民族アンサンブル・チャリティーコンサート」を開催、以降、今日まで県内12市町・22会場でのコンサート通じ、タイビン省の枯葉剤被害児のためのリハビリセンター建設をはじめとする支援を続けています。

「被爆75周年」を迎えた今年は、「ベトナム戦争集結45周年」でもありました。そこで、10月に東広島市だけでなく、広島ベトナム協会や日本ベトナム友好協会広島県支部などのご協力をいただき、広島市と福山市での開催も予定していました。しかし残念ながら「コロナ禍」で中止し、来年以降の開催を目指すことにしました。

次号(10月5日)では、枯葉剤被害児などに対する支援活動について述べたいと思います。

(2020年9月5日、あかたつ)

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2020年9月 4日 (金)

安倍政治の継承は許さないー9月「3の日行動」の訴え

昨日、午後5時半から「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」が呼びかけた「9月の『3の日行動』」が、本通電停前で実施されました。

「参院選1年ヒロシマ・アピール行動『さよなら安倍政権』」と銘うって行った7月21日以来1か月半ぶりの行動です。そして、先月28日の安倍首相の辞任表明以降、初めての街頭行動となりました。

ですから当初予定していた「さよなら安倍政権」のテーマを「安倍政治の継承を許さず 今こそ憲法を活かす政治の実現を!」に変えての行動です。

昨日は、「歌声9条の会」の歌でのアピールを入れながら、各団体の代表5人が、それぞれの立場から次々とアピール。私も世話人の一人として「戦争をさせないヒロシマ千人委員会」を代表してマイクを握りました。締めくくりは石口俊一代表世話人のアピールで行動は終了しました。参加者は、41人です。

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私は、次のような内容を訴えました。

安倍首相の辞任会見を聞きながら違和感を覚えたのは私だけなのだろうかということです。中でも一番の違和感は、森友・加計学園問題などを質された時です。相変わらずの「間違いはなかった。問題はなかった」との強弁が今回も繰り返されました。あまり期待はしていなかったのですが、首相を辞任するのですから、少しは謝罪の言葉があるのかと会見の模様を眺めつづけたのですが、強引だった国会答弁をなぞるだけでした。公文書が改ざんされ、一人の命が失われたことへの反省の姿をついに見ることはできませんでした。そして河井問題をはじめ、「責任を重く感じた」すべてについても、今回も説明責任を果たすことは全くありませんでした。

それどころか、辞任を表明しながら、残された在任中に、「敵地基地攻撃能力の保有」の方向性を決めるというのですから、あきれるばかりです。この政策が、「専守防衛」の理念すら逸脱する憲法違反であることは明白です。どこまで憲法違反の政策を推し進めれば満足するというのでしょうか。

ところで、自民党の総裁選びがはじまりましたが、すでに選挙告示前にもかかわらず菅総裁の誕生が確実と言われています。菅さんは「安倍政権の取り組みをしっかり継承し、さらに前に進めるために私の持てる力をすべて尽くす覚悟だ」と強調しています。憲法違反の政策をごり押しし、お友だち優先の政治、失敗した「アベノミクス」の強調、差別分断の拡大固定化、間違いだらけだった新型コロナウイルス対策などなどが、継承され引き継がれたのではたまったものではありません。また沖縄・辺野古基地建設が推進されることも間違いありません。そして河井夫妻を押し続けてきたのも安倍首相とともに菅官房長官であったことを忘れてはなりません。そして何よりも危惧されるのは、官房長官記者会見での「記者の質問を無視し、記者を小ばかにした上から目線の姿勢」に象徴的に表れている政治姿勢です。その姿からだけでも、安倍政権を継承するという菅政治の危険性が見えてきます。

安倍首相が辞任したといっても、政治の姿勢・方向が変わることがないのは、はっきりしています。残念ながら、私たちの行動によって安倍政権に終止符を打ち事はできませんでした。ですから今まで以上に、安倍政権とその後継政権が進める民主主義を無視した政治の姿勢を厳しく問い、憲法を擁護し誰もが安心して暮らせる政治を取り戻すための運動を強化することが、これからも続く私たちの課題です。

いのちとうとし

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2020年9月 3日 (木)

広島県が「原爆犠牲者数の修正」を約束

先月の26日、27日と2回にわたって「広島、長崎の原爆犠牲者数」についての両県市の公文書での人数の違いについて指摘しました。その2回目「広島の原爆犠牲者は11万8661人―長崎市原爆被爆者対策概要」(https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/08/post-90cc30.html)では、広島県の「原爆被爆者援護事業概要」に触れながら、「広島の県と市の『原爆被爆者対策概要』で使われている死亡者数が、違う数字が掲載されているのはなぜなのか。」という問題提起をしました。

私は、同時に広島県の見解が聞きたいと、26日付で「①なぜ全体像が明らかにできない軍人・朝鮮人を含まない11.4万人の人数を掲載しているのか②広島原爆資料館が明示している14万人±1万人との整合性は?③被爆地の県、市が発行する『原爆被爆者対策事業概要』及び 原爆資料館に明示されている死亡者数が、ばらばらであることに強い疑問を感じる。県・市において調整することは考えられないのか」など6項目の問い合わせのメールを送りました。

広島県の担当課からは、わずか2日後の28日に、以下のメールによる回答がありました。少しわかりづらい部分があるかもしれませんが、県の回答を正しく伝えるため、全文をそのまま掲載します。

Img023_20200902101301

「本県の原爆被爆者援護事業概要に関するご指摘とご提言,ありがとうございます。

『第1章 原爆被害の実態』については,放射線被曝者医療国際協力推進協議会の協力を得て『原爆放射線の人体影響 改訂第2版』(以下「改訂版」という)の一部を転載しています。(1頁の<注>参照) この改訂版の著作権も考慮し,そのままの記載としています。

この改訂版では,広島市の『広島原爆戦災誌』のデータを用いて分析されていますが,死亡者数の記録が乏しく実態が不明となっている軍人,朝鮮半島の方々を除く数の11.4万人という記載になっています。

一方で,1頁の<注>のとおり,『改訂版の一部転載』と明記しているものの,ご指摘の“14万人±1万人”の広島市等での公表数字と異なり混乱する可能性があるため,来年度発行する県事業概要においては,国連報告の14万人±1万人の表記を加えるとともに,11.4万人の説明として“軍人,朝鮮半島の方々を除く数であること”を記載することについて,広島市及び改訂版の関係者と調整し,これらを記載した改定を行いたいと考えております。」

この回答によれば、「次年度広島県が発行する「原爆被爆者対策事業概要」には、『国連報告の14万人±1万人』」に明記されることになり、県と市の犠牲者数の整合性が、とられることになったようです。

ただ、「原爆放射線の人体影響 改訂第2版」では、「なぜ軍人や朝鮮半島出身者を除いたのか」などの疑問は依然として残ったままです。

確かに原爆被害を検討した様々な報告の多くで「軍人や朝鮮半島出身者は含まれていない」とする死亡者数が、あたりまえのように示されていることには、どうしても納得出来ない思いが残ります。

今後「11.4万人の説明がどうなるのか」などの課題は残りますが、ただ今回、広島県が、一県民の指摘に対し、「修正する」の回答を含め迅速に対応したことを評価したいと思い、その経過を報告することにしました。

いのちとうとし

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2020年9月 2日 (水)

「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑」前―高暮平和の集い

8月30日、庄原市高暮(旧高野町)に建立されている「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑」前で、今年で24回目となる「高暮平和の集い」が開催されました。

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地元高暮の草谷末広さんの司会で始まった集いは、最初に参加者全員による1分間の黙祷。今年の黙祷は、高暮ダム工事で犠牲となった人たちとともに、今年3月に90歳で亡くなられた李実根さんの冥福を祈る黙祷となりました。

地元町内会代表のあいさつに続いて、広島県朝鮮人被爆者協議会金鎮湖理事長が「李さんが願っていた朝鮮半島の統一はいまも実現していません。李さんは、朝鮮人被爆者の権利拡大のため、5000回にも上る証言活動によって訴え続けてこられました。このことは決して忘れず、引き継がなければなりません。安倍首相の辞任表明がありましたが、安倍政権ほど朝鮮民族にとって悪い政治はありませんでした。」とあいさつ。

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続いて、朝鮮式儀礼・チュサ(祭祀)が行われました。何人かが、このチュサの儀礼を行いましたが、その中に李実根さんの妻朴玉順さんの姿があります。

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朴さんは、李さんが健在なころには何度もこの平和の集いに参加されたそうですが、「李実根が亡くなった今年は、ぜひ参加したいと思い、久しぶりに参加することができました」と話されていました。

チュサが終わると、若者による平和の誓いです。最初は、広島朝鮮高等学校1年生の二人。「植民地政策の犠牲になった同朋に日本政府は、補償どころか謝罪もしてこなかった。在日朝鮮人に対する蔑視と差別はいまも続いている。誰もが平和で幸せに社会を日本のみなさんと力を合わせて作りたい」とハングルと日本語で誓いました。続いて、広島地区高社協・広島高校生平和ゼミナールの代表が「本当の歴史を学ぶことが大切」と平和の誓いを述べました。例年は、多くの朝鮮人、日本人の高校生が参加しますが、今年はコロナの影響で朝鮮高校からは5名、高校生平和ゼミナールから代表1名の参加となりました。

ここからは、吉川徹忍さんの読経の中、参加者全員による献花です。

Dsc_6835

お花は、地元にみなさんに準備していただいた「ムクゲ」です。ムクゲは、朝鮮半島で最も大切にされている花の一つです。

全員の献花が終わると、最後に「アリラン」を合唱して、碑前での集いは終了しました。

その後、参加者はダムの堰堤に移動し、四車ユキ子さんのお話を聞きました。

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中学校の教師時代から「高暮ダムの歴史」の掘り起こしに参加されてきた四車さんは、例年は、この場で参加者に高暮ダムの歴史について詳しく話されますが、今年は猛暑ということもあり、短めの話となりました。しかし、「朝鮮学校の生徒がこの堰堤に立つとき、『私の祖父がこの堰堤の底に眠っているかもしれない』と靴を脱いだことを紹介したところ日本人の子どもが靴を脱ぐかどうか迷った時に父が『靴は脱がんでもいいが、心の靴は脱いで渡れよ』と言った」という「心の靴を脱いで」と題した話は、今年もされました。

「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑」前での行事は、すべて終了し、旧高暮小学校を活用した「ふるさと村高暮」に全員が移動し、ここで「追悼碑」建立のために尽力された旧高野町長田中五郎さんのお話を聞き、全ての行事は終了しました。

李実根さんが、初めてこの高暮の地に足を踏み入れたのは、1975年9月5日。それ以来、地元の人たちとも協力して、高暮ダム建設における朝鮮人強制労働の実態が掘り起こされ、その後多くの人たちの努力によって1995年5月に高暮ダムの堰堤が間近に見下ろせるこの地に「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑」が建立されました。李さんの努力なしには、実現しなかったことです。

最後に碑の裏面に刻まれた文章の一部を紹介します。

「われわれは、過去の日本が行ってきた朝鮮半島の植民地支配が、このような悲劇を生んだことを反省するとともに、日本とアジアの平和を守る決意を新たにし、日本と朝鮮の両民族の変わらぬ友好を誓うものである。」

碑が建立されて35年が過ぎましたが、果たしてこの誓いはどれだけ実現しているでしょうか。そのことを改めて反省させられることになった今年の「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑」前「高暮平和の集い」でした。

いのちとうとし

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2020年9月 1日 (火)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (5) ――憲法違反の小選挙区制度 (4) ――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (5)

――憲法違反の小選挙区制度 (4) ――

 

 《両院の可決がなければ法律はできない》

前回の問題提起を思い起して頂ければ、もう皆さんには何が問題なのかお分りだと思います。憲法は、国会に衆議院と参議院を設置し、それぞれが意味のある活動を行い、採決を通じてその意味を表明することを大前提としています。そして、衆参両院で可決されなければ基本的には法律はできないのです。そんな場合でも、両院協議会の可能性を認め両院で協議ができるメカニズムを用意しています。しかし、その両院協議会が成案を得られず、打ち切りを決めたのであれば、当然、元の大原則である憲法59条の第一項に従って、法律案は廃案になる、つまり法律にはならないという結論が論理的な筋道です。

政治の根幹にかかわる問題について、杓子定規に考えるだけではなく高度に政治的な配慮や駆け引きがあるだろう、ということはほとんどの人が認めている考え方だと思います。しかし、憲法を字義通り素直に読むという立場も重要です。その立場からの問題提起を最近では、『法学セミナー』の9月号の62ページから69ページに、「憲法を、文字通りに、素直に読んでみませんか」として掲載して頂きました。その立場からは、国権の最高機関としての国会の存在意義とその国会が賢明な判断を行うために二院制を採用しているという大前提の意味も重要です。

 

《土井議長の役割》

宮川隆義著『小選挙区比例代表並立制の魔術』(政治広報センター刊、1996)では、小選挙区制が導入された国会での最終段階を次のように捉えています。「憲法と国会法を遵守すれば、この政治改革関連4法案は、両院協議会決裂の段階で廃案になったはずだった。細川・河野のトップ会談を斡旋した土井たか子衆議院議長の仲裁案は、『施行日を空白にして議決し、施行日の決定は各党協議機関に委ねる』という、事実上の廃案だった。土井議長の仲裁通りに妥協しておけば、政治改革熱病が醒めた時期に、頭を冷やした与野党で現実的な最終決着がつけられるはずだった。」

宮川氏も「憲法と国会法を遵守すれば、この政治改革関連4法案は、両院協議会決裂の段階で廃案になったはずだった」ことを確認しています。つまり憲法と国会法が守られなかったために、小選挙区制が導入されたのです。

宮川氏の記述は土井さんに好意的な解釈をしていますが、それを要約すると、土井さんは4法案を廃案にしたかった。そのためにトップ会談を斡旋して、廃案にするための自分の「仲裁案」を示した、ということになります。でも、本当に廃案が目的なら、仲裁などせずに、両院協議会の報告をそのまま受ければ良かったのではないでしょうか。協議が決裂したのですから、憲法と国会法の規定に従ってこの法案は廃案という結果になったのです。このシナリオの方が簡単で手続き的にも問題がなかったはずです。

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加えて成田氏の述懐を信じると、土井さんは議長権限を逸脱して、両院協議会決裂の報告を受け取らなかったことになります。両院協議会の議長が公式にその結果を報告に来た以上、それは「報告」であって、議長が決定する権限を持っているのではありませんから、それを受けないということはあり得ません。きつい表現をすれば、これは憲法59条違反です。

もっとも、日本の官庁では、届や申請を受け取らないでいじめをするという慣行が広く行われています。以前、北九州市で問題になり、未だに全国的に行われている、生活保護申請の不受理が典型例です。これはもう「慢性的な病」とでも言っても良いほどだと思います。だからこそ、「定期的」と言って良いくらいの頻度で、マスコミが取り上げることになっています。

広島市でも、特別支援学校の設置場所について広島県との協議を申し入れた際に、理由もなしに、ということは県の恣意的な「いじめ」とさえ解釈できるのですが、申し入れが受け入れられずに一年も放置されていた経験があります。まさかそれと同じレベルでの対応ではないと信じていますが、一国の政治について、しかもこれほど重い課題を扱うに当って、こんな疑問が浮かぶような対応、それも憲法違反と考えられる対応がなされていたこと自体、私にはショッキングな発見でした。

高度に政治的判断があり、善意で、しかもこの法案を通してはいけないという熱い思いがあったのかもしれません。そしてそのためには、少々超法規的な手法さえ辞さないという覚悟で行動したのかもしれません。そうだとしたら、他の超法規的手段も考えられたのではないでしょうか。例えば、両院協議会を開く請求を数日先延ばしにする、ということもできたのではないかと思います。国会の会期が終了すればそれで廃案になったのですから。

成田氏の回想も、当時の総理周辺の裏の動きが分って興味は尽きないのですが、政治的な駆け引きに重きが置かれ、手続きとしての合法性や憲法の原理原則に照らしての判断についての記述ではない点が残念だと思います。当時、権力の中枢にいた人々は、憲法59条に従っての手続きを取っているのですから、当然、59条についての判断があったはずです。それがどのようなものだったのか、言語化されていないのかもしれませんが、是非、言語化した上で後世に残しておいて貰いたいと思うのは私だけでしょうか。

 [2020/9/1 イライザ]

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