慈仙寺の被爆墓石に挟まった小石
かつて森瀧市郎先生が案内された平和公園のフィールドワークに同行したことがあります。いつ頃だったか、どんなグループだったのか、なぜ私が一緒について歩いたのかなど全く思い出せないのですが、森瀧先生の説明で強く印象に残っている場所が二カ所あります。
一カ所は、平和記念資料館本館の南側の広場にある、時には高く吹き上がる噴水が設けられた「平和の泉」です。森瀧先生が、この「平和の泉」を「この泉は、有名なイタリアのトレビの泉とは全く違います。この泉は、あの日『水を、水が飲みたい』と言いながら亡くなって逝った多くの原爆犠牲者を慰める思いが込められて作られた泉です」と紹介されました。
もう一カ所は、今日のテーマである「慈仙寺跡」です。
森瀧先生のフィールドワークを思い出すきっかけとなったのは、他の写真を探していて目に留まった(以前にも中国新聞の記事で目にしていた)下の写真です。
この写真は、川本俊雄さんが、1945年末ころに写された「国泰寺境内の石灯ろう」を写したものです。国泰寺は、当時現在の「ANAクラウンプラザホテル」の位置にあり、爆心地から約600mです。広島市が、1947年に選定した「原爆十景」の一つとして選ばれています。写真集には、「爆風で浮き上がった瞬間に小石が挟まった」と説明文が付されています。
この写真を見て思い出したのが、平和公園内の慈仙寺跡にある被爆墓石です。国泰寺の石灯ろうと同じように大きな墓石の間に小石が挟まっています。
森瀧先生は、「この小石は、原爆の爆風の揺り戻しの風によって浮き上がった時に、挟まったものです。原爆の爆風の威力を示しています。」と説明されました。そのことが今も強く印象に残っています。ですから、私もフィールドワークをする時には、そう説明していたのです。
ところが、「慈仙寺跡」を紹介する資料をいろいろと調べてみると「爆風で浮き上がった時に挟まった小石」と説明しているものが、意外と少ないことに気づきました。例えば、広島平和祈念資料館が提供する「平和祈念公園マップ」では、「12 被爆した墓石(慈仙寺の墓石)」の特記事項「墓石と爆風」で「強烈な爆風で境内にあったたくさんの墓石も吹き飛ばされ散乱しました。被爆当時の姿で残されているこの墓(爆心地から約270m)は、広島藩浅野家御年寄の岡本宮内のものです。」と記載されているだけで、挟まった小石については全く触れていません。私が、いろいろと教えていただいた「ヒロシマのいまから過去を見て回る会」のホームページでも「墓の笠にあたる相輪が原爆の爆風により飛び崩れており、爆風のすさまじさを物語っています。」としているだけです。
一方で、名前は記載しませんが、「また、たたきつけた爆風によって、さすが大きな墓石も本体が浮き上がりましたが、台座との隙間に引き寄せられた石の破片が飛び込んでいます。浮き上がった墓石は少し傾いたまま、飛び込んだ石片はその墓石を支えたまま戦後ずっと立ち続けてきたわけです。」と紹介しているホームページもあります。
ところがさらに検索すると「隙間に石がはさまっています。この石は『爆風の吹き戻しで墓石が浮き上がり、その隙間に石が飛び込んだ』という説明がありますが、このようなことが起きることはありません。地面が軟弱のために土台が傾いたので、倒れないように石を入れたのです。」と全く違う解説をしているホームページが見つかりました。実は、この説をこれまでにも何度か聞いたことがあります。
そこで改めて現場に行ってきました。今までは、気づかなかったのですが、確かに「挟まった石の下の台座は傾斜し、上の石は水平になっている」ように見えてきます。
しかし、この説にも「傾きを収めるのであれば、なぜ上側の石と同じ大きさの石をはめなかったのだろうか。あまりにも小さすぎる」という疑問が生じます。
さらに「この石をはめようとすれば、上の石はすべて移動したはず。台座はよく見ると1枚石ではなく何枚かの石で構成されていますから、上の石(周辺に散乱している石を考えれば)よりも台座の方が移動は可能だったはずです。わざわざあの位置に石をはめ込む作業をしたのなら、なぜ台座を水平に戻さなかったのだろうか」ということです。
残念ながら、私には今どちらが正しいという結論を出すことはできません。ただ、慈仙寺の被爆墓石とは大きさが違うとはいえ、同じように石灯ろうに「小石が挟まった」写真があるのですから、私は森瀧先生が説明された「原爆の爆風に威力を示す」という説を否定することはできないと思います。私は、これからも森瀧先生が話されたように説明しようと思います。もちろん、他の説もあることを紹介しながらですが。
もし有力な情報があれば、ぜひ教えていただきたいと思います。
いのちとうとし
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