誓願寺の佐東町原爆精霊供養塔
三滝の誓願寺を訪れようと思ったのは、西井麻里奈さんの「広島復興の戦後史」を読んだからです。この本の「第2章死者の都市 -移動する墓碑の軌跡」には、誓願寺が材木町(現在の平和公園)から、三滝に移動する経緯が詳しく記載されています。
旧川内村の義勇隊犠牲者の供養塔は、1946年に材木町の誓願寺跡に木柱の供養塔が建立されたのが最初です。この場所が選ばれたのは「義勇隊で動員された人々が亡くなった場所に近かった」からです。その後、誓願寺の土地の移転によって、紆余曲折はありますが、この供養塔も市が建設した三滝墓苑に移ることになります。
この経緯が記載された「広島復興の戦後史」を読み進んでいくと、「元は『川内村原爆犠牲者供養塔』であったものが、木碑では限界があるということで、誓願寺の前住職廣瀬準隆さんの協力によって新しい石碑『佐東町原爆精霊供養塔』が、当時お寺のあった中島町に建立されました。その後、お寺が手狭になり三滝墓苑近くの現在地に移転するとともに、この『佐東町原爆精霊供養塔』も移転した」ことが分かります。
これを読みながら、私にはどうしても理解のできないことが出てきました。それは、もともと「川内村」の犠牲者の供養塔だったのになぜ「佐東町」になったのかです。「広島復興の戦後史」の中にもその理由は書かれていません。川内地区温井にある浄行寺の坂山住職にも電話で問い合わせたのですが、「その経緯はよくわかりません」とのことでした。
いつごろ、なぜ名称が変わったのか、その経緯を解明するのは難しいとは思いながらも、一度誓願寺でお話を聞こうと、盆明けの先日、あらかじめ電話でお願いし、誓願寺を訪れました。快く応対していただいたのは、住職の廣瀬隆慶さんです。
予想されたことでしたが、廣瀬住職の話では「父の前住職準隆の時代のことですので、父からは何も聞かされておらず、その経緯はわからない」とのことでした。その他にもいろいろなお話を聞いた後、廣瀬住職の案内で、三滝墓苑にある「佐東町原爆精霊供養塔」を訪ねました。少し坂道を上るので、車での移動です。
墓苑に入り供養塔の前に立つ、新たな事実を見つけることができました。上の写真をよく見てほしいのですが、「原爆精霊供養塔」の文字とその下の「佐東町」の文字では、明らかに書体が違っています。写真では見にくいのですが、「佐東町」の文字が彫られている部分は、なぜか表面が削られ溝のようにへこんでいます。「佐東町」の文字は、少し時間がたってから刻まれたことが想像できます。
この私の指摘に、廣瀬隆慶住職も「初めて気づきました」とのことです。そして「佐東町」の文字を見て「これは間違いなく父が書いた字です」と明言されました。
ここからは、私の推測です。この「原爆精霊供養塔」には、建立時は「川内村」と刻まれていたはずです。1963年に三滝墓苑に移転した時もまだ「川内村」だったはずです。それ他の墓石が、三滝墓苑に移った後も、「原爆精霊供養塔」だけはお寺に残り、供養が続けられていたからです。川内村の人たちにとって、三滝墓苑への移転は、義勇隊の犠牲者が亡くなった場所近くでの供養が継続できなくなったことを意味しました。だから遺族たちの強い思いから、旧材木町付近である平和公園の現在地に旧川内地区の「義勇隊の碑」が1964年に建立されたのです。これにより三滝墓苑に移された「原爆精霊供養塔」は、川内村の人たちにとっては役割を終えることになったのです。しかし、誓願寺前住職準隆さんの配慮で、佐東町の供養塔として新たな役割を果たすことになったと思われます。
三滝墓苑にある「佐東町原爆精霊供養塔」には、何故か建立時期が刻まれていませんので建立時期が特定できません。しかし誓願寺でいただいた「区報あさみなみ」のコピーには、「川内の人たちの休憩所であったことから、同寺へ昭和26年に建立。」と明記されています。これによれば、誓願寺が中島町に仮本殿を再建された1951年にこの石碑の「原爆精霊供養塔」は建立されていたことになります。この「区報」が発行されたのは、建立時から34年後の1985年ですから、当時はまだ建立に関わった人たちがたくさん生存されていたはずですから、かなり正確な情報だといえます。また1951年は、誓願寺の仮本堂が再建された年と同じ年です。そうであれば、今「佐東町原爆精霊供養塔」と呼ばれている碑は、絶対に「川内村の碑」であったことは間違いありません。その最も大きな理由は、「佐東町」という地名は、1955年7月1日に川内、緑井、八木の三村が対等合併して生まれた町に使われているからです。
これで疑問がひとつ、ようやく解けました。
誓願寺の訪問では、いろいろなことを知ることができました。それは、また別の機会に報告したいと思います。
いのちとうとし
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