「市女の慰霊碑」余話の余話
持明院を訪れた後、「証 被爆70周年慰霊の記」が入手したいと思い、広島舟入・市女同窓会事務局(舟入高校内)を訪ねました。事前に電話を入れた時、「学校内には、被爆時のものは何か残っていませんか」と訊ねていましたので、帰る時に次期事務局長(今年度総会で就任予定)の住田恒三さんに案内していただきました。舟入高校もすべてが新しくなっていますので、「原爆遺構」としては、校門を入ってすぐ右に、当時の門柱と壁が保存されているだけでした。
門柱や壁と一緒に、「市女慰霊碑銘板」があります。2007年に交換されるまで平和大橋西詰の「市女慰霊碑」に設置されていた最初の「銘板」です。住田さんから「銘板に刻まれた名前のうち、何名かが新しく張り替えられていますよ」と教えていただきましたので、その部分を写真に写して帰宅しました。帰宅し写真を拡大して調べると6名の名前が修正されています。設置当時はどんな名前で刻まれていたのだろうかと「広島市女原爆追悼記『流燈』」に掲載された「原爆犠牲者芳名録」で調べてみました。例えば、「須郷光枝」の下に刻まれていた名前が「須郷ミツヱ」だったことが分かります。6名全員について、修正前の名前を確認することができました。
「この岩田明子さんの名前が一番新しく修正されたものですよ」と住田さんから教えていただいていましたので、いつごろ修正されたのか気になり、平和大橋西詰の「市女慰霊碑銘板」を再び訪れ、銘板を確認しました。
この新しい銘板で修正されている名前は、1名だけでした。「岩田明子」さんです。下に刻まれていた名前は「岩田昭子」さんです。この銘板では1名しか修正されていませんので、他の5名は2007年以前に修正されたことが分かります。住田さんに後日電話でお聞きしたところ、「名前の修正は、ご遺族などからの指摘があったからです。一番最近に修正された岩田明子さんの名前は、2017年にご遺族の方からの指摘を受けて修正しました。」とのことでした。岩田明子さんは、被爆死から72年後にようやく本名を取り戻したことになります。この事実からも、原爆被害の実相を明らかにすることの難しさを改めて知ることになりました。
実は、同窓会事務所を訪れた時、無理にお願いして「広島市女原爆追悼記『流燈』」を2冊お譲りいただきました。今回知ったのですが、「広島市女原爆追悼記『流燈』」は、同じ表紙のデザインで、実は第3編まで発刊されています。「流燈」の初編は、昭和32年(1957年)に200予部が製作されていますが、ご遺族の一部の人のみに配布されたということで、増刷の要望があり、平成6年(1994年)に再刊されました。私の手元にある2冊は、この再刊本と昭和62年(1987年)に発行された第3編です。先の銘板の名前を調べたのは、この再刊本によってです。初編にあたる再刊本の巻末には「原爆犠牲者芳名録」が掲載されていますが、その最後に「(註)この名簿は原爆当時作成した『原爆犠牲者名簿』と『生徒調査票』によったもの。なお原簿自体の正誤は、確認することが不可能だったので、もし誤りがあるときは御許しの程を。」と、その後の修正を予感させるような注意書きが記されています。
もう一つ紹介したかったことは、持明院に関わることです。手元にない「流燈 第二編(本では「続編」となっている)を、県立図書館から借りだし、ページを繰っていきました。34ページに持明院18世光森公宣ご住職が書かれた「慰霊碑追憶と本尊縁起」と題する一文が掲載されています。
「広島市女原爆追憶の記 流燈」より
この文章を読んでいて、びっくりしました。西福院から持明院に「慰霊木碑」が移動した経緯が記されていますので、そこの個所だけ引用します。
「想えば、昭和24年秋頃、今の原爆資料館真向いの、百米道路南側緑地帯に位置する処にありました慰霊木碑を、当時の国の指示とかとの事で、むやみに取り除かれるところに出くわしたのです。余りの無謀に憤慨し、きつく中止を迫り、早速先生並に遺族の方を尋ね廻り、やっと連絡がつき斜向かいであった、当寺内之移転されることとなったのです。(原文のまま)」その後に、本尊のことや、戸坂に移転することになった時のことなどが書かれています。
光森公宣住職は、私がお会いした文昭住職のお父様だと思いますが、戦時中と変わらぬ「立ち退き強制」する国の姿勢に対し、強い憤りの姿があったことがよくわかります。「追悼碑」であるにもかかわらずです。こうした縁があったからこそ持明院が、臨終の地とは遠く離れた戸坂へ移転することとなった時に「慰霊碑」も一緒に移転し、この地で追悼の行事が営まれ続けたのです。光森公宣住職は、その縁を「これこそ亡き霊の引き合わせでなくてなんであり得ましょう」と書かれています。この思いがあったからこそ持明院と市女遺族会が強くつながり、「ご本尊の寄進」となったのだと思われます。
「市女慰霊碑」が戸坂まで移る経緯を詳しく知りましたので、もう一度持明院を訪れ、思いを新たにしたいと思っています。
いのちとうとし
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