持明院にある市女の慰霊碑―フィールドワーク余話その2
27日の予告からずいぶん時間が経ってしまいましたが、つづき「余話その2」です。
その後、他のお寺を訪れた時同じように境内にある墓地を回って見ました。このお寺の墓地は、2カ所に分かれています。「市女原爆追悼碑」の横と本堂の裏にあります。追悼碑の横は小さな墓地ですのでお墓の数は少ないのですが、ここでも、命日に「昭和20年8月6日」と刻まれたお墓がいくつも目に付きます。
その後、本堂裏の墓地に廻りました。ここでもいくつも目に付きます。
こちらには、墓石に割れ目のある古い墓もありますが、新しく作り替えられた墓が多く、市内中心部のお寺より少ないように思います。前回紹介したように、持明院は、1967年に旧中島地区木挽町から、現在地の東区戸坂に移動しています。この移転により現在地は爆心地から5kmの距離にありますが、被爆時は爆心地から500mぐらいしか離れていなかったのですから、「昭和20年8月6日」の命日が多いのも当然のことだと考えられます。
墓地を回っている時、たまたまご住職光森文昭さんにお会いし、いろいろとお話を伺うことができました。額に入れて大切にされている中国新聞社が作成した被爆前の中島地区の地図を手にしながらのお話です。
真ん中最下段に水平に引かれた紫の線のすぐ上に持明院(赤い囲み)がある
最初は、市女の追悼碑のことです。「遺族が高齢化され、このお寺での市女の追悼式は、50回忌を最後に終えられることになりました。しかし縁がありますので、お寺としてその後も毎年8月6日にこの碑の前で供養をしています」
今度は、このお寺にまつわる被爆の話です。「私の前々住職、祖父も原爆で亡くなりました。あの日、お寺の大事なものを空鞘神社に預けに行く途中の本川土手で被爆したようです。どこかはわかっていませんので、もちろん遺骨も見つかっていません。平和公園の供養塔の中に入っているのでしょう」「実はね、その日、祖父は私の父、前住職を訪ねるため下関に行くことになっていたのです。ところが当日になって体調不良となり、行けなかったのですよ。父は、当時高野山大学の学生だったのですが、学徒動員で兵役に就き、下関から出兵する予定になっていたのです。祖父は、そこを訪ねようとしたのですね。もし下関に行っておれば・・・」。ここでも「もし」のお話を聞くことになりました。
「お寺の中で、墓石の他に被爆したものはありませんか」と訊ねたところ、「そうですね、見ていただいたと思いますが、墓石にも古いものがありますので、特定したことはないのですが、被爆しているものがあると思います。お寺として保有しているものでは、本堂入り口の手水鉢だけです。江戸時代に作られたものですから、被爆したことは間違いありません。本堂の新築を機会に、みなさんの目にも触れるここに置くことにしました。」大きな手水鉢です。
その後、ご住職にお断りをし、本堂に上がり、本尊にお参りしました。
真ん中のご本尊は、「市女追悼碑」の前にある「説明碑」に「本会寄進のご本尊聖観音像の大非大慈のみ光により」と書かれているように、広島市女原爆遺族会が寄進されたものです。お寺で大切にされていました。
不思議な出会いを体験する持明院探訪となりました。
「市女の慰霊碑」については、新しい出会いがありましたので、明後日のブログで「余話の余話」を紹介します。
いのちとうとし
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