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2020年8月

2020年8月31日 (月)

8月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町)

8月は殆ど雨が降らない。ブルーベリーが雨で痛むこともないのでほぼ毎日摘み取りが行われている。30日の午後20分ほど強い雨が降った。摘み取りももう一息の所まできた。収穫量は幸い不作の昨年より上回っていて、納品先の安芸の郷のたくさんの生食の販売、加工用の材料確保にも貢献できておりちょっと安堵。

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823日(日)。ブルーベリーの摘み取りスタート。一人の知人を介してママ友と子どもが来園。摘み取りの楽しさやブルーベリーのおいしさを満喫された。結果安芸の郷にたくさんのブルーベリーを納品することができた。

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828日(金)。

 ①.安芸の郷の事業所の森の工房みみずくの利用者と職員の摘み取り研修。クーラー室からコンテナに入ったブルーベリーを車に積み込む。

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 ②.摘み取りはとても暑い中での作業だが見上げる空は広い。青い空と白い雲がごちそう。

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830日(日)

 ①.午前中はミノムシの駆除を行う。一つ一つ手で取ってつぶしていく。2時間近くかかった。放置しておくと木が枯れてしまうので急ぎ仕事だった。

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 ②.午後1時過ぎ遠くで雷が鳴り空の半分が暗くなり雨が降ってきた。20分くらいでやんだ。その後3時までブルーベリーの摘み取りを行うが気温が下がったのではかどった。

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 ③.安芸の郷の職員と家族、友人が摘み取り援農に来園。50キロを終える実を安芸の郷に納品できた。8月は雨がほとんど降っていないのでいい状態でたくさん実がある。

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 ④.里山のブルーベリー園のそばの栗の木。いがぐりが見える。

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 ⑤.そのそばにひしめくように立っているハゼの先端に白い花が咲いている。

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 ⑥.近くの田んぼの農作業。法面の刈った草を焼く煙。

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 ⑦.もうすぐ刈り取りが始まる稲穂

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 ⑧.年季の入った木の椅子。傾いたまま補修に補修を重ねて今の形に。腐った足の部分を一部切って安定させて再利用。クーラー室入口のブルーベリーのコンテナの一時置き場に使用している。

 暑い日が続くが稲穂をみるともう秋。暑い暑いと言っているうちにミノムシといい、栗も稲もいろんな植物は季節の移り変わりに向けて準備万端の風情。晩夏から初秋に移る時。

 2020年8月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年8月30日 (日)

誓願寺訪問記

今日のブログは、広島無償化裁判を支援する会が呼びかけ、昨日午後3時から予定されていた朝鮮学園への高校無償化を実現させるための「「公正な判決および無償化適用を求める街頭行動」の報告をする予定でしたが、諸般の事情により急遽中止となりましたので、こちらも急きょ「誓願寺訪問記」に変更しました。

誓願寺は、1590年に毛利輝元によって、材木町(現在の平和公園の原爆資料館附近)に開基され、1945年原爆によって焼失し、その後一度は中島新町(ご住職の話によれば、現在トヨタカローラ広島があるところ)に移転しましたが、1963年5月3日に現在の広島市西区三滝本町へ再建されました。

これから紹介する誓願寺にまつわる話は、誓願寺の廣瀬隆慶住職からお聞きしたことです。

1963年に三滝に再建する際、準隆前住職がこだわられたことが三つあったそうです。

一つは、山門です。境内入り口には、立派な山門が建っています。JR三滝駅から三滝寺や墓苑に上がっていくとき、この山門の前で道が二手に分かれますので、真正面に見えます。

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被爆前の誓願寺には、高さ13メートル、幅9メートルもある壮大な大門があり、「広島っ子は、大きなもののたとえに『誓願寺の門のように』とよくいった」というエピソードがあったようです。ですから、再建に当たっては、山門はきちんとしたものを建てなければならないというのが、前住職の強い思いで、今の立派な山門がつくられたそうです。

二つは、本堂と庫裏の間に作られている池です。かつての誓願寺は、約1万6000平方メートルという広島でも一、二を競うほどの大きさの境内を持ち、そこには瓢箪池があり、沢山の亀が泳ぎ、境内にあった無徳幼稚園の子どもたちの遊び場、そして市民の憩いの場でした。

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瓢箪池を再現するのが願いだったようです。しかし、移転後の境内は小さくなり、往時の大きさを再現することはできず、今は小さな池となりましたが、静かなたたずまいを見せています。池には、沢山のハスが植わっています。

三つめは、被爆前の誓願寺にあった茶室を作ることです。残念ながら、今回の訪問では、この茶室は見学することはできませんでしたが、今も現存しているそうです。

誓願寺のホームページでも、「山門、池、茶室が僅かに往時の誓願寺を忍ばせている」と紹介されています。

私が気になったのは、「この境内には、被爆時のものは何かないのか」ということでした。昨日紹介した「佐東町原爆精霊供養塔」の建つ墓地へ移動の前、住職から二つのものを案内していただきました。

一つは、本堂上り口右側に置かれている水盤石(手水鉢)です。天明3年(1783)2月と刻印されています。

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原爆の影響で、後側の左右の角が、両方とも欠けています。実は、今回の訪問には同行者がありました。被爆者の森川高明さんです。森川さんは、被爆した年の6月まで、無徳幼稚園に通っていたそうです。帰宅後、私が映した上の写真を送ったところ「手水鉢は、私にとって75年振りの再会でウルウルでした。大切にします。」と返事が返ってきました。

もう一つは、本堂の中に保管されている「釣灯篭」です。

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この「釣灯籠」は高さ30cmの鋳物製で、さび付いています。戦前お寺の本堂の四方に掛けてあったものの一つです。原爆投下から5日後にこの付近を訪れた佐伯区石内の窪田さんが、誓願寺境内で拾い、持ち帰って自宅の軒下に吊されていたのですが、被爆後50年目の1995年にお寺に届けられてものです。ところどころが欠け、長年軒下に吊るされていたためでしょうか錆が噴出しています。今はケースに入れられ大切に保管されています。

誓願寺は、他にも歴史的なものが沢山ありますが、原爆と関わる境内の紹介は終わりです。境内ではありませんが、誓願寺を訪れた時にはもう一カ所行ってほしい場所があります。

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本堂裏の山手にある誓願寺の墓地に建つ原爆犠牲者の無縁仏をまつる供養塔です。「佐東町原爆精霊供養塔」と同じ段にあります。もちろん被爆してはいませんが、ぜひお参りをしてほしいと思います。

境内には大きなイチョウの木もありますので、秋にはもう一度訪れてみたいと思う誓願寺です。

いのちとうとし

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2020年8月29日 (土)

誓願寺の佐東町原爆精霊供養塔

三滝の誓願寺を訪れようと思ったのは、西井麻里奈さんの「広島復興の戦後史」を読んだからです。この本の「第2章死者の都市 -移動する墓碑の軌跡」には、誓願寺が材木町(現在の平和公園)から、三滝に移動する経緯が詳しく記載されています。

旧川内村の義勇隊犠牲者の供養塔は、1946年に材木町の誓願寺跡に木柱の供養塔が建立されたのが最初です。この場所が選ばれたのは「義勇隊で動員された人々が亡くなった場所に近かった」からです。その後、誓願寺の土地の移転によって、紆余曲折はありますが、この供養塔も市が建設した三滝墓苑に移ることになります。

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この経緯が記載された「広島復興の戦後史」を読み進んでいくと、「元は『川内村原爆犠牲者供養塔』であったものが、木碑では限界があるということで、誓願寺の前住職廣瀬準隆さんの協力によって新しい石碑『佐東町原爆精霊供養塔』が、当時お寺のあった中島町に建立されました。その後、お寺が手狭になり三滝墓苑近くの現在地に移転するとともに、この『佐東町原爆精霊供養塔』も移転した」ことが分かります。

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これを読みながら、私にはどうしても理解のできないことが出てきました。それは、もともと「川内村」の犠牲者の供養塔だったのになぜ「佐東町」になったのかです。「広島復興の戦後史」の中にもその理由は書かれていません。川内地区温井にある浄行寺の坂山住職にも電話で問い合わせたのですが、「その経緯はよくわかりません」とのことでした。

いつごろ、なぜ名称が変わったのか、その経緯を解明するのは難しいとは思いながらも、一度誓願寺でお話を聞こうと、盆明けの先日、あらかじめ電話でお願いし、誓願寺を訪れました。快く応対していただいたのは、住職の廣瀬隆慶さんです。

予想されたことでしたが、廣瀬住職の話では「父の前住職準隆の時代のことですので、父からは何も聞かされておらず、その経緯はわからない」とのことでした。その他にもいろいろなお話を聞いた後、廣瀬住職の案内で、三滝墓苑にある「佐東町原爆精霊供養塔」を訪ねました。少し坂道を上るので、車での移動です。

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墓苑に入り供養塔の前に立つ、新たな事実を見つけることができました。上の写真をよく見てほしいのですが、「原爆精霊供養塔」の文字とその下の「佐東町」の文字では、明らかに書体が違っています。写真では見にくいのですが、「佐東町」の文字が彫られている部分は、なぜか表面が削られ溝のようにへこんでいます。「佐東町」の文字は、少し時間がたってから刻まれたことが想像できます。

この私の指摘に、廣瀬隆慶住職も「初めて気づきました」とのことです。そして「佐東町」の文字を見て「これは間違いなく父が書いた字です」と明言されました。

ここからは、私の推測です。この「原爆精霊供養塔」には、建立時は「川内村」と刻まれていたはずです。1963年に三滝墓苑に移転した時もまだ「川内村」だったはずです。それ他の墓石が、三滝墓苑に移った後も、「原爆精霊供養塔」だけはお寺に残り、供養が続けられていたからです。川内村の人たちにとって、三滝墓苑への移転は、義勇隊の犠牲者が亡くなった場所近くでの供養が継続できなくなったことを意味しました。だから遺族たちの強い思いから、旧材木町付近である平和公園の現在地に旧川内地区の「義勇隊の碑」が1964年に建立されたのです。これにより三滝墓苑に移された「原爆精霊供養塔」は、川内村の人たちにとっては役割を終えることになったのです。しかし、誓願寺前住職準隆さんの配慮で、佐東町の供養塔として新たな役割を果たすことになったと思われます。

三滝墓苑にある「佐東町原爆精霊供養塔」には、何故か建立時期が刻まれていませんので建立時期が特定できません。しかし誓願寺でいただいた「区報あさみなみ」のコピーには、「川内の人たちの休憩所であったことから、同寺へ昭和26年に建立。」と明記されています。これによれば、誓願寺が中島町に仮本殿を再建された1951年にこの石碑の「原爆精霊供養塔」は建立されていたことになります。この「区報」が発行されたのは、建立時から34年後の1985年ですから、当時はまだ建立に関わった人たちがたくさん生存されていたはずですから、かなり正確な情報だといえます。また1951年は、誓願寺の仮本堂が再建された年と同じ年です。そうであれば、今「佐東町原爆精霊供養塔」と呼ばれている碑は、絶対に「川内村の碑」であったことは間違いありません。その最も大きな理由は、「佐東町」という地名は、1955年7月1日に川内、緑井、八木の三村が対等合併して生まれた町に使われているからです。

これで疑問がひとつ、ようやく解けました。

誓願寺の訪問では、いろいろなことを知ることができました。それは、また別の機会に報告したいと思います。

いのちとうとし

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2020年8月28日 (金)

「義勇隊の碑」余話

「この付近に、原爆で犠牲になった人たちを慰霊する碑はないですか」と訊ねたところ「川内小学校に慰霊碑が建っていますよ」との答え。

平和公園にある「義勇隊の碑」を原水禁大会のフィールドワークで紹介して以来、地元の川内地区では、「慰霊の碑はどうなっているのだろうか」と気になったいましたので、現地を訪れることにしました。現地を訪れたのは、フィールドワーク余話として紹介した東区戸坂の「持明院」を訪れた日です。せっかくここまで来たのだからと、自転車で安芸大橋を渡り安佐南区に入りました。少しは知っている地理ですので、路地を縫いながら北へと進みました。しばらく行くと、古い農家の前で女性二人の姿を見かけましたので、聞いてみることにしました。最初の問いと答えは、その時の会話です。古い農家を選んだのは、地元に長く住んでおられるだろうと想像したからです。偶然ですが、「ちょうど私の家から、川内地区ですよ」住宅地図を示しながら、川内小学校への道を教えていただきました。さらに「この地図、持っていきなさい」と親切に手渡していただきました。後にこの地図に大変助けられました。

地図を手に、川内小学校に着きました。門に取り付けられたインターホンを通じて、お願いをすると、やがて教頭先生が出てこられ、碑に案内していただきました。

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碑には「川内村戦没者戦災者供養塔」と刻まれています。そこには、「原爆」という文字は見当たりません。案内をしていただいた教頭先生に「いわれはご存知ですか」と訊ねたところ、「私は、この学校に4月に赴任したばかりで、何もわからないのです。山陽高速道路の北側にあるお寺のご住職がよくご存じですので、そこで訊ねてみていただけませんか」との答えでした。地図を頼りに何とかお寺にたどり着くことができました。お寺の名前は「浄行寺」です。川内地区温井にあるお寺で、義勇隊で犠牲者を出した家のほとんどが、ここの檀家です。このお寺には、市内のお寺のように、境内には墓地がありません。ちょうど姿を見かけた奥様と思える方に、ここを訪れた趣旨を話しながら「どこかにまとまったお墓はないですか」と訊ねたところ、「ちょっと待ってください。今住職が返ってきましたので」と返事をされ、引き返されました。しばらくすると「どうぞお上がりください。住職が話すといっていますので」と屋内に案内されました。

部屋に入りあいさつを交わすと、ご住職の坂山厚さんが「いま川内幼稚園で、原爆の話をして帰ったところです。どうぞ何でも聞いてください」と快く対応していただきました。坂山さんは、毎年この時期になると川内幼稚園でお話をされるそうです。話しながら分かったことですが、坂山さんは大下学園で先生をされており、以前から私のことをご存じだったようで、時間をとって教えていただきました。「川内村戦没者戦災者供養塔」は、働き手を失った女性たちの互助組織「白梅会」の手で「原爆犠牲者だけでなく、村の戦争犠牲者全体を供養する」目的で

1953年に建立されたため、この碑の名前が刻まれてことが分かりました。

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平和公園にある「義勇隊の碑」では、毎年8月6日に坂山住職によって法要が営まれていますが、この川内小学校にある「供養塔」では、毎年地域の盆踊りが行われる日の午前中に法要が営まれているそうです。

坂山さんからは、その他にも沢山お話を伺いましたが、再訪を約束してお寺を辞しましたので、その時に改めて詳しく紹介したいと思います。そのお話の中に出てきた西井麻里奈さん著「広島戦後の復興史」で、新たな「義勇隊の碑」の歴史を知ることになりました。そこで三滝にある「誓願寺」を訪問することになるのですが、そのことは次回紹介したいと思います。

坂山さんから、川内地区温井の共同墓地の場所を教えていただきましたので、浄行寺を辞して、この墓地を訪ねることにしました。

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沢山の墓石が並んでいます。その多くのお墓で「昭和二十年八月六日」の命日を見つけることができます。ちょうどお墓参りをされている女性の方がおられたので、聞いてみました。「どなたか原爆で犠牲になられた方がおられるのですか」「はい、私のおばあさんが、今の原爆ドーム当りの清掃に行っている時犠牲になったと聞いています。」との答えです。義勇隊のことを話したところ、「初めて聞く話です。そうなのですか」とのこと。

この会話を思い出し、後日改めて調べ直したことがあります。原爆で夫を奪われた女性19人の証言を集めた「原爆に夫を奪われて」(82年、岩波新書)などの印象が強いため、「犠牲者は男性が多い」と勝手に思い込んでいたのですが、男女がほぼ半数ずつだったことを知りました。

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後日改めて訪れた「義勇隊の碑」の裏面に刻まれた犠牲者名でそのことを確認しました。

いのちとうとし

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2020年8月27日 (木)

広島の原爆犠牲者は11万8661人―長崎市原爆被爆者対策概要

昨日、長崎市では「長崎の原爆犠牲者(死者)は、1945年末までに73,884人」とされていることを紹介しました。その資料の一つとして長崎市原爆被爆者対策概要をあげました。実はこの概要には、長崎と広島の被害の比較表が掲載されています。その比較表では、広島の「人的被災 死者数」は「118,661人」と一ケタまで明示され、出典として「人的被害 S.21.8.10 広島市調査を採用」と書かれています。長崎市の概要の全てを読み込んだわけではありませんので、他の個所で「広島の死者数」の記載があるかもしれませんが、少なくとも「原子爆弾の投下と被害状況」の項では、「広島の死者数」として「118,661人」があげられているということです。

この人数の出典元が明示されてはいますが、公式な文書に記載されている「広島の死者数」としては、あまりにも少なすぎる気がしますので、確認のため広島の原爆資料館に「資料館で明示されている死者数は、何人ですか」と問い合わせました。答えは明快です。「資料館の導入展示にある『焦土と化した広島』コーナーの『爆心地を中心に直径5キロメートルの範囲を表した広島市の地形模型に映像を投影したところでは、14万人』と表示しています。資料館のホームページでは、14万人±1万人としています」この人数は、まさに広島の原爆被害の死亡者数として「定説」となっている数字です。

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この回答を得た後、さらに手元にあった「広島市原爆被爆者対策概要2020年版」(以下「広島市の概要」という)も調べてみました。「第1編 原子爆弾投下と被害状況」の「第1章 被害状況 3 社会的破壊」の項の「1 被爆時の人口及び死亡者数」に、死亡者数が記載されています。

その最初に「原爆による人的被害の状況については、現在では正確な実態は明らかにされていない」としながら、次の5つの推計数字が掲載されています。

「(1)1953年広島市の推計では、死亡者約20万人(2)1961年「広島原爆医療史」推計では、被爆人口のみで死者数はあげられていません(3)1971年「原爆戦災誌」推計でも被爆者人口のみ(4)1976年「国連への要請書」推計では、死亡者は約14万人(±1万人)と推計(5)1979年「広島・長崎の原爆災害」推計では、死者数は、1945年11月1日現在で13万人」となっています。

「広島市の概要」の特徴は、いずれも「推計」という文字が記載されていることです。ただ、原爆資料館が明示している「14万人±1万人」は、(4)の「国連への要請書」推計で記載されているだけです。「広島市の概要」では、長崎市の被害についての記載を見つけることができませんでした。

さらに気になったので、「広島県原爆被爆者対策概要」(以下「広島県の概要」という)も調べてみました。「第1章 原爆被害の実態」の「〔1〕人体への影響〔A〕急性期死亡・急性障害」に「要約」として、「広島、長崎の急性期死亡者数はそれぞれ11.4万人、7.3万人前後と推定される。」と推定値が記載されています。「広島県の概要」には、「広島市の「要」にはなかった長崎の死亡者数が掲載されています。ところで、この「11.4万人」の数字を見てびっくりです。広島市と大きな違いがあります。県の担当課に「根拠」を問い合わせました。答えは「放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)の協力を得た『原爆放射線の人体影響 改訂第2版』の一部を転載したものです。」とのことでした。調べると確かに「第1章の脚注」にそのことが記載されています。この「原爆放射線の人体影響 改訂第2版」は、2012年3月に発刊されています。その要約版で確認すると、11,4万人には、軍人が含まれていないため、少ない死亡者数になっていると推察できます。

しかし、「広島県の概要」の数字に疑問が湧きます。「なぜ軍人を含まないのか、これでは原爆被害の実像を伝えることにはならないのではないか」ということです。さらに言えば、「この11.4万人の中には、朝鮮半島出身者の人数は含まれているのかいないのか」がはっきりしていないことです。

長崎の原爆犠牲者数の疑問からスタートしていろいろと調べてみたのですが、いくつかの疑問が残ります。

1、なぜ長崎市、県は、その後様々な検討、検証が行われているにもかかわらず、推定としながらも一ケタまでの死亡者数を明示した1950年(昭和25年)7月発表の数字を、現在も公的に使っているのか。

2、長崎市原爆被爆者対策概要に「広島市の死者数」として、「広島市の概要」では取り上げられていない人数が、掲載され続けているのだろうか。広島市は、このことをどう考えているのか。

3、広島の県と市の「原爆被爆者対策概要」で使われている死亡者数が、違う数字が掲載されているのはなぜなのか。

ということなどです。

もちろん、被害の実数を明確にできないのが原爆の被害なのだということは、理解していますが、被爆地である広島、長崎の両県市で、ここまで違いがあってよいのだろかと強く感じました。

これまでにも何度か指摘してきたことですが、こうした犠牲者数の違いが出る基本的な問題は、政府が責任を持った調査を未だ行っていないことにあります。しかし、被爆県市としても、その真相に近づける努力が必要だと改めて感じました。

こんな疑問の残る数字を示したままでよいのかということです。このままでよいのかということです。

いのちとうとし

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2020年8月26日 (水)

長崎の原爆犠牲者数―7万3884人

8月9日24時55分から広島テレビで放映された「NNNドキュメント シリーズ戦後75年 8.9長崎が壊された日~下平作江 75年の闘い~」の中で、「えつ」と思う数字に出会いました。この番組は、10歳の時爆心地から約800メートルで被爆し、母、兄、姉を原爆で奪われ、一緒に被爆した妹さんは、10年後に自殺するという苦しい体験を語り続ける下平作江さんをとりあげた作品でした。下平さんは、私たち広島県原水禁が、原水禁長崎大会に参加した時、8月9日の閉会総会前にお参りする城山小学校(当時は城山国民学校)

の生徒でしたので、余計な関心を持ってみました。「観た」と言っても、当日の深夜の放映でしたので、数日後に録画した映像を見たのですが。

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その画面を写したものですので、ちょっと見にくいのですが、右下に「死者 7万3884人 負傷者 7万4909人 (昭和20年末までの推定」)」と書かれています。録画した画面ですので、ここで一時停止をして、スマホで映しました。

「えっ」と思ったのは、この数字です。死者数が、一ケタまではっきりと示されていたことです。広島の犠牲者は、「14万人±1万人」と言われているのに、どうして長崎は一ケタまではっきりしているのだろうか、疑問が湧きます。

番組は、長崎国際テレビが製作したものだということが分かりましたので、「視聴者の声投稿フォーム (視聴者の声)」を通じて「この数字の根拠は何でしょうか」と問い合わせました。その日のうちに答えが返ってきました。

「お尋ねの件ですが、原爆資料館のホームページをみると、『死者73,884人 重軽傷者74,909人』と記載されています。『この数字は長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の報告によったものですが、これが今日の通説になっている』と書いてあります。」

さらに、「長崎原爆資料館のhttps://nagasakipeace.jp/japanese/abm.htmlホームページを開き、「原爆の記録」→「被爆の惨状」→「原爆の威力」の順に開いていくと、上記の記述が出てきます。よろしいでしょうか?」と検索方法まで教えていただきました。

早速、指示された通りに検索していくと、確かに「被害状況」として「回答のとおりの数字と『この数字は』という但し書き」が記載されていました。さらに、死者のみならず重軽症者、罹災人員、罹災戸数、全焼、全壊、半壊についてもすべて一ケタまで明示した数字が記載されています。

しかし、ここにはテレビ画面にあった「昭和20年末までの推定」という「推定」という言葉は全く見当たりません。にもかかわらず「今日の通説」という言葉が使われています。「通説」をどう理解すればよいのかと、他の資料をさがしてみることにしました。

広島、長崎両県市が毎年7月に発行している「原爆被爆者援護事業概要」の長崎市版をホームページで検索しました。その中の「第2 原子爆弾の投下と被害状況」の「2 被害状況」に長崎原爆資料館に記載されている「長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の報告」の数字が記載されていました。ただし、ここでは前段に「原爆中心地は、ほとんど全滅の状態でたまたま被爆地域外に旅行中の者、又は外出中の者あるいは横穴壕などに入っていたごく僅少の者が被害を受けなかった程度で、町内会長、隣組長等の町内の幹部も大部分死亡又は行方不明となったため、正確な死傷者を調査することは困難であった。」と、この数字が正確な数字でなかったことが推測できることが明記されています。

もう一つは、1976年に広島・長崎市の連名で出された「核兵器の廃絶と全面軍縮のために-国連事務総長への要請」です。ここでは、1945年末までの原爆による死亡者数として「長崎は、約7万人(誤差±1万人)」としています。

私が、「死者 7万3884人」という数字にこだわるのは、一ケタ台まで明示するということは「犠牲者の名前が明らかになっている」と誤解を与える危険性があるからです。ここまでの人数を明示するのであれば、その中に外国人被爆者は何人、特に朝鮮半島出身者はと明示されてもおかしくないはずです。

しかし、広島がそうであるように、長崎でも実態調査は事実上困難なのですから、そうであればそのような死者数を掲げるべきだと思います。

長崎市の「原爆被爆者援護事業概要」を調べていると、そこに意外な広島の犠牲者数が明示されていることを知りました。次回報告したいと思います。

いのちとうとし

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2020年8月25日 (火)

難しい問題なら、まずは元を断つこと

北海道の寿都(すっつ)町長が、原発の使用済み燃料から出る高レベル放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分場に応募することを検討しているという問題。この国の行政が上から下まで、まさに「今だけ、金だけ、自分だけ」の「3だけ主義」に汚染されているとしか思えてならないのです。

手元に、1998年1月14日に福岡市で開催された「高レベル放射性廃棄物処分への今後の取組みに関する意見交換会(第5回)」という資料があります。もう20年以上前の物ですから、表紙は日焼けして茶色に変色しています。

僕は、この意見交換会に地域参加者として推薦され参加しました。この時の一般傍聴者は、応募者が214名、当選者が150名という厳しい難関を通ってきた人でした。

ちなみに第1回は、前年の9月に大阪市で開催されています。今は会の名前は変わりましたが、同じような説明会が全国で開催されています。しかし傍聴者が少なく、学生に日当を支払って動員して形に整えるしかなったということは、数年前に大きな社会問題になりました。

最初の頃は多くの人たちが関心をして傍聴していたのに、今は何故それが無くなったのか。それは20年間この高レベル放射性廃棄物の処分方法について、まったく新しい考えや政策の変更、すぐに変更しないにしても市民の意見を聞こうともしないことにあると思うのです。

高レベル放射性廃棄物の処分は、難しく困難な問題だとしながら、その量を減らすことも、そもそも出すこと自体を変えようとしない。

「申しわけない。これまでの政策の間違いから、高レベル放射性廃棄物が溜まりました。もうこれ以上は出すことはしませんから、現在存在している物の扱いをみんなで考えてください」というのなら、まだ考えてみようという気になるかとも思いまが。

また政策は主に国の経済産業省が決め、その実行は特別法によって作られた、原子力発電環境整備機構(NUMO)が行います。ここで働いている人の多くは、中国電力など地域の電力会社からの出向者が多く、大過なく数年間を過ごして早く元に戻りたい、これが本音ではないでしょうか。

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「難しい困難だ!」としながらも、原発を推進し、再稼働も新設も高レベル放射性廃棄物を作る前提である再処理事業も行うというのでは、誰が理解をするでしょうか。もうこれ以上は増やさないというのがなければ、誰も本気で考えないでしょう。

寿都町には文献調査に応じるだけで、最大20億円入ります。調査が実施されている期間は年20億円で70億円、そして最終的に処分場になるまで何年かかるというのでしょうか。そしてこの町長、「町民の反対意見は聞くけど、町外からのは聞かない」と話しているようです。決して核燃料サイクル政策に協力するとは言いません。

現在71歳の町長、もし処分場が完成したとしても、その時に町長は間違いなく、この世の人ではないでしょうね。

 木原省治

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2020年8月24日 (月)

安保法制に反対する府中市民の会の8.19リレートーク

府中市の小川敏男さんから、「府中市民の会の8.19行動」の写真とともに次の原稿が送られてきました。小川さんの了解をいただきましたので、紹介します。


今年は戦後75年、広島の暑い夏が終わりました。今年は新型コロナウイルス対策のため平和祈念式典などの行事に参加できませんでした。そこで阿川弘之さんの「春の城」を読んでみました。いまや阿川弘之さんより娘さんの阿川佐和子の方が有名です。土曜日の朝7時30分からの「サワコの朝」を見ておられる方も多いと思います。肝心な小説「春の城」のことですが、内容は第二次世界大戦という激動の時代を生きた青春物語です。広島の原爆の惨状などが詳しく書かれていますが、戦争の状況について次のように書かれています。

大学を卒業と同時に海軍の軍務に服し、コロナウイルス発祥の地・武漢(漢口)へ派遣されますが、その地の海軍の状況を『海軍士官専用の慰安所がある。参謀達もその他の士官達も、連夜此処で酒と歌と女で暮らしていた。耕二も着任後屡々(しばしば)此処へ遊びに通ったが、比島沖海戦の終わった頃、知らない民間人から『毎晩あの馬鹿騒ぎでは、海軍も負けるのが当たり前ですね』と云われ、なさけない気がして、それ以来ふっつり行くのを止めて了(しま)った。」と。

比島沖海戦とは、1944年10月23日~26日、フィリピン周辺海域で行われた日米両艦隊による海戦で、参加兵力(日本側水上艦艇77隻、飛行機約700機、アメリカ側152隻、約1300機)、先頭距離、死傷者数などにおいて史上最大の海戦と言われている。 

8月8日付の中国新聞には、一橋大名誉教授(東京大空襲記念館の館長でもある)吉田裕(ゆたか)さんの「日中戦争以降の全ての日本人の戦没者は軍人と民間人を合わせて約310万人だった。戦艦大和などの艦船の沈没による戦死者が約36万人にもなっている」との記事が掲載されていました。

 片や毎晩の馬鹿騒ぎ、片や海軍の艦船の沈没による戦死者が約36万人。いろんな行事に参加はできませんでしたが小説「春の城」を読んで学ぶことは多いと思ったところです。

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そして8月15日夜に放映されたNHKの「忘れられた戦後補償」では、「国家総動員体制で行われた日本の戦争で310万の日本人が命を落としたが、そのうち80万は民間人だった。しかし、国は民間被害者への補償を避け続けてきた。一方、戦前、軍事同盟を結んでいたドイツやイタリアは、軍人と民間人を区別することなく補償の対象として補償してきた」という内容をとりあげていました。

この「忘れられた戦後補償」は、「軍人と民間人を区別しないドイツとイタリアと、民間人を補償の対象としない日本の違いは何なのか、国家が進めた戦争の責任を問う」番組でした。日本は軍人や軍属には60兆円の補償がされましたが、空襲被害者などは何も補償されていません。

現在の福島原発の被災者や新型コロナウイルスで休業を求められた商売人の人はわずかしか補償されない理由がよくわかります。日本政府は民間人に冷たく権力に近い人には手厚いというのが戦後一貫国の政治姿勢だということです。

安倍首相は、森友や加計学園に見られる民間人に冷たく権力に近い人には手厚いという政治姿勢を貫き、いま日本の防衛を「専守防衛」から、新しく外国の基地を攻撃する「敵基地攻撃」という方向に変えようとしています。

しかし、8月2日の中国新聞に掲載された全国世論調査では「専守防衛を厳守」が76%だったのに対し「憲法9条を改正し軍隊として明記」は17%だったと報道しています。世論調査結果からも国民は誰も敵基地攻撃を求めていません。安倍首相が進めている敵基地攻撃という新しい方向に反対していきましょう。そのためにも安保法制反対の取り組みにご支援をお願いいたします。

小川敏男


小川さん、ありがとうございました。私もNHKの「忘れられた戦後補償」を同じ思いで見ました。

いのちとうとし

       

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2020年8月23日 (日)

8月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

お盆が過ぎても毎日暑い日が続く。8月に入ってほとんど雨が降らないのでブルーベリーにとっては甘さが増してくること、実が割れないことから摘み取り作業は厳しいがいい状態で居れる。いつも手伝って頂く福富町の障害者の事業所が今年は摘み取り研修に参加できないのでお盆明けから8月末まで地元豊栄町のシルバー人材センターの派遣をお願いした。作業時間は朝8時から12時まで。特に昼前の暑い作業にもひるまず摘み取りして頂いている。安芸の郷のブルーベリー生食の注文もたくさん来ているので8月後半もブルーベリーの納品が欠かせない。

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816日(日)はお盆。雲一つない青空とブルーベリーの農園。

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お盆だし暑いし。それでもブルーベリーの摘み取り援農に知人家族が来園。

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817日(月)里山のブルーベリー園の防諜ネットを撤去した。

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里山の道端のちこちにはアキノタムラソウが咲いている。

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820日(木)。

 ① 今週からシルバー人材センターから午前中だけの摘み取りの作業に来ていただいている。黄色いカラーのホンダカブでお帰り。まだ新しいバイクだ。

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 ② 安芸区矢野の森の工房みみずくからブルーベリー摘み取り研修に来ている皆さん。脚立を使ってブルーベリーの摘み取り。高いところに大きな実が結構ある。

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 ③ 午後2時過ぎ研修作業終わり。汗だく。摘み取りしたブルーベリーの計量をして車に積み込み帰路につく。

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 ④ まだ実っていない実が半分近くある。(ラビットアイ系ティフブルー)

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821日。

 ① シルバー人材センターの皆さんのブルーベリーの摘み取り。折りたたみ式の椅子にちょこんと座っての作業。作業中の疲労軽減に抜かりはない。

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 ② 安芸の郷のボランティアグループのフレンドベリーとみのり会の方が援農。たくさんのブルーベリーの実を安芸の郷に納品することができた。感謝。

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 ③ ミノムシ発生

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 ④ やっと名前が分かった花はオオハンゴンソウの八重咲きタイプと判明。

8月いっぱいほぼ晴天が続きそう。今年の摘み取りは9月に入っても収穫作業が行われる気配だ。ツクツクボウシがせわし気に鳴いている。

2020年8月23日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年8月22日 (土)

戦後75年の夏 戦争させない決意をあらたに

コロナ禍、猛暑が続く中、6日の広島原爆の日、9日の長崎原爆の日、そして、15日の戦没者を追悼し平和を祈念する日を迎え、あらためて不戦を誓う場となりました。8月は、原爆や戦争の悲惨さ、被爆建物の保存などを扱うテレビ番組が多く報道されました。戦争を知らない世代の私たちは、あらゆる機会を通じて戦争の凄惨さを学び、今ある平和の尊さを守りたいです。

8月19日の三原における安倍9条改憲NO!戦争させない「19日行動」は、三原駅前に20人が参加して、安倍政権の戦争する国づくりに対峙し、平和への誓いを新たにしました。

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マイクを持った4名の市議会議員(寺田元子さん・政平智春さん・高木武子さん・安藤志保さん)ら7人のスピーカーは「5年前の安保法制(戦争法)強行採決」、「75年前の戦争の惨禍」、「日本軍によるアジアへの侵略戦争・日本の加害責任」など歴史的事実を忘れてはならない。私たちは、戦争に突き進もうとする勢力に厳しい目を向け、再び戦争を起こすことのないように政治に関心を持ちましょう!」などと訴えました。

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8月6日に原爆ドームを囲むアピール行動に小学生の孫と参加した岡崎敏彦さんは、戦争で人を殺すことも、殺されることもないよう次代に平和を引き継がなければならない。「戦争NO!」の声を上げていこう。と熱くアピールしました。

最後に事務局(藤本)から、「来月9月は戦争法強行採決から5年目となります。さらにギアアップした街頭宣伝活動にしていきましょう。」とまとめをして行動を終了しました。

せっかくの機会なので「黒い雨」裁判について投稿させていただきます。ご承知のように、原告全員を被爆者と認定し、被爆者健康手帳の交付を命じる判決を言い渡した広島地裁に対して、国および広島県・広島市は812日、高裁に控訴しました。被爆75年をかけた被爆者の苦しみ・思いを踏みにじるものであり憤りを感じます。

16年前の9月にガンで亡くなった私の母は、近所におられた被爆者の方の再三にわたる勧めもあり、1975年(昭和50年)に被爆者健康手帳を取得し、健康管理手当や医療費など健康維持のために支援を受けてきました。母は病院に行くたびに「手帳があるので大変ありがたい」と口癖のように話していました。今回の「黒い雨」裁判での国の控訴のニュースを聞いて、思わずアルバムから母の被爆者健康手帳の写しを取り出しました。

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広島県原水禁・広島県平和運動センターの事務局で走り続けた5年間、そして退いた今も、核も戦争もない平和な社会の実現に向け、微力ながら三原の地で戦争をさせない運動をがんばり続けていきたいです。「戦争をさせない1000人委員会」の旗を県内各地で掲げましょう!

藤本講治

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2020年8月21日 (金)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (4) ――憲法違反の小選挙区制度 (3) ――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (4)

――憲法違反の小選挙区制度 (3) ――

 

長い間、憲法と付き合ってきて、さらに昨年には『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』を法政大学出版局から上梓して気付いたことの一つを格言風にまとめておきたいと思います。それは、

深刻な政治問題の陰には、必ず「憲法違反」が隠れている

です。

「諸悪の根源」と言っても良い「小選挙区制」についても当然、この格言が当てはまります。今回は、その検証です。

《両院協議会》

憲法違反は、一連の出来事の最終段階で起きました。1993年11月18日、衆議院で賛成270、反対226、棄権10で可決されました。翌1994年の1月21日には、この案が、参議院で反対130、賛成118の12票差で否決されました。つまり、小選挙区制度を導入するための政治改革4法案は、衆議院で可決、参議院で否決されたのですが、このような場合に法案はどうなるのか、憲法には当然規定があります。

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59  法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。

 衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。

 前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。

 参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。

大原則としては、両院で可決されない限り、法案は廃案になるということです。つまり、「政治改革4法案」は廃案にされるべきだったのです。これが2院制の存在意義だと言っても良いでしょう。参議院が常に衆議院と同じ判断を下すのであれば、2院制は必要ではないからです。仮に衆議院で可決されても、別の視点から法案を見直すことで、よりよい判断ができる場合のあることは、最近はかなり普及してきた医療面での「セカンド・オピニオン」が大切なことからも理解して頂けると思います。

しかし、第3項では両院協議会を開いて妥協案を作っても構いませんよという、「仲裁」的な可能性も認めています。衆議院と参議院が真っ向から対立するのではなく、歩み寄ることでより良い結果が生じることも考えられるからです。そして、予算や条約、首班指名の場合は衆議院の優越が認められています。両院協議会を開くことが義務付けられ、そこで成案が得られなければ衆議院の決定に従うことになっています。もう一つの可能性もあります。衆議院が3分の2以上の賛成で再度可決すれば、参議院が反対しても法律ができるのです。

ただし、通常の法律案の場合には、両院協議会を開く必要はありません。しかし衆議院が開催を請求した場合は参議院がそれに従わなくてはなりません。

政治改革4法案の場合は、衆議院が両院協議会の開催を請求して、1月26日の夜に両院協議会が開かれました。衆参それぞれ10人の委員で構成し、議長は衆参それぞれで選ばれ、一日交替で議長を務めます。しかし、協議は整わず、27日に、両院協議会の議長が衆参両院の議長に協議会終了の報告に行っています。

当時細川総理大臣の政務秘書官だった成田憲彦氏が北海道大学の法学論集46に寄稿している「政治改革法案の成立過程 -官邸と与党の動きを中心として-」によると、当時の土井議長は、その報告を受け付けず、協議会を続けるよう指示したというのです。その部分の引用です。ページは(6・473)です。

(http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/15657/1/46%286%29_p405-486.pdf)

この時に、市川書記長が両院協議会打ち切りについての衆議院議長への報告から戻ります。

市川「議長は『明日もやってください。もったいない』という話でした。私と大出(俊)さんで説明。―――(打ち切るのは)山本(富雄・参議院自民党幹事長)さんも議長の責任を出すのは反対だがやむを得ないと。二回駄目を押した。委員部も『瑕疵があるとは思えない』と。共産党の橋本(敦)さんまで『やむを得ない』と。出てきたところに河野さんと森さんが。大出さん、議長に『組織を潰すつもりですか』、とカンカンに怒っていた。」

(中略)

与党のラインに沿って、市川さんとコンビを組んで、議長に対しても、「議長の対応はけしからん」と大出さんが怒ってくれたのです。

[引用終り]

その間、細川総理と河野自民党総裁とのトップ会談が行われ、妥協案が作られました。以下、表面的に「正史」として語られる内容ですが、それを受けて、(終了したはずの)両院協議会が再度開かれ、成案を得たのち、国会法の規定に従って両議院で可決、政治改革4法案が法律になったのです。その結果として、日本の政治が大きく歪んだ、ということは最初に指摘した通りです。

次号では、当時の土井議長の役割を軸に、憲法59条の意味についてまとめたいと思います。

 [2020/8/21 イライザ]

 

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2020年8月20日 (木)

慈仙寺の被爆墓石に挟まった小石

かつて森瀧市郎先生が案内された平和公園のフィールドワークに同行したことがあります。いつ頃だったか、どんなグループだったのか、なぜ私が一緒について歩いたのかなど全く思い出せないのですが、森瀧先生の説明で強く印象に残っている場所が二カ所あります。

一カ所は、平和記念資料館本館の南側の広場にある、時には高く吹き上がる噴水が設けられた「平和の泉」です。森瀧先生が、この「平和の泉」を「この泉は、有名なイタリアのトレビの泉とは全く違います。この泉は、あの日『水を、水が飲みたい』と言いながら亡くなって逝った多くの原爆犠牲者を慰める思いが込められて作られた泉です」と紹介されました。

もう一カ所は、今日のテーマである「慈仙寺跡」です。

森瀧先生のフィールドワークを思い出すきっかけとなったのは、他の写真を探していて目に留まった(以前にも中国新聞の記事で目にしていた)下の写真です。

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この写真は、川本俊雄さんが、1945年末ころに写された「国泰寺境内の石灯ろう」を写したものです。国泰寺は、当時現在の「ANAクラウンプラザホテル」の位置にあり、爆心地から約600mです。広島市が、1947年に選定した「原爆十景」の一つとして選ばれています。写真集には、「爆風で浮き上がった瞬間に小石が挟まった」と説明文が付されています。

この写真を見て思い出したのが、平和公園内の慈仙寺跡にある被爆墓石です。国泰寺の石灯ろうと同じように大きな墓石の間に小石が挟まっています。

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森瀧先生は、「この小石は、原爆の爆風の揺り戻しの風によって浮き上がった時に、挟まったものです。原爆の爆風の威力を示しています。」と説明されました。そのことが今も強く印象に残っています。ですから、私もフィールドワークをする時には、そう説明していたのです。

ところが、「慈仙寺跡」を紹介する資料をいろいろと調べてみると「爆風で浮き上がった時に挟まった小石」と説明しているものが、意外と少ないことに気づきました。例えば、広島平和祈念資料館が提供する「平和祈念公園マップ」では、「12 被爆した墓石(慈仙寺の墓石)」の特記事項「墓石と爆風」で「強烈な爆風で境内にあったたくさんの墓石も吹き飛ばされ散乱しました。被爆当時の姿で残されているこの墓(爆心地から約270m)は、広島藩浅野家御年寄の岡本宮内のものです。」と記載されているだけで、挟まった小石については全く触れていません。私が、いろいろと教えていただいた「ヒロシマのいまから過去を見て回る会」のホームページでも「墓の笠にあたる相輪が原爆の爆風により飛び崩れており、爆風のすさまじさを物語っています。」としているだけです。

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一方で、名前は記載しませんが、「また、たたきつけた爆風によって、さすが大きな墓石も本体が浮き上がりましたが、台座との隙間に引き寄せられた石の破片が飛び込んでいます。浮き上がった墓石は少し傾いたまま、飛び込んだ石片はその墓石を支えたまま戦後ずっと立ち続けてきたわけです。」と紹介しているホームページもあります。

ところがさらに検索すると「隙間に石がはさまっています。この石は『爆風の吹き戻しで墓石が浮き上がり、その隙間に石が飛び込んだ』という説明がありますが、このようなことが起きることはありません。地面が軟弱のために土台が傾いたので、倒れないように石を入れたのです。」と全く違う解説をしているホームページが見つかりました。実は、この説をこれまでにも何度か聞いたことがあります。

そこで改めて現場に行ってきました。今までは、気づかなかったのですが、確かに「挟まった石の下の台座は傾斜し、上の石は水平になっている」ように見えてきます。

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しかし、この説にも「傾きを収めるのであれば、なぜ上側の石と同じ大きさの石をはめなかったのだろうか。あまりにも小さすぎる」という疑問が生じます。

さらに「この石をはめようとすれば、上の石はすべて移動したはず。台座はよく見ると1枚石ではなく何枚かの石で構成されていますから、上の石(周辺に散乱している石を考えれば)よりも台座の方が移動は可能だったはずです。わざわざあの位置に石をはめ込む作業をしたのなら、なぜ台座を水平に戻さなかったのだろうか」ということです。

残念ながら、私には今どちらが正しいという結論を出すことはできません。ただ、慈仙寺の被爆墓石とは大きさが違うとはいえ、同じように石灯ろうに「小石が挟まった」写真があるのですから、私は森瀧先生が説明された「原爆の爆風に威力を示す」という説を否定することはできないと思います。私は、これからも森瀧先生が話されたように説明しようと思います。もちろん、他の説もあることを紹介しながらですが。

もし有力な情報があれば、ぜひ教えていただきたいと思います。

いのちとうとし

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2020年8月19日 (水)

広島大学原爆死没者追悼之碑

広大千田キャンパスの門を入ってすぐ右手に「広島大学原爆死没者追悼之碑」(以下「追悼之碑」と略)と書かれた石柱が目に入ります。

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この「追悼之碑」は、昨日紹介した「広島文理科大学・広島高等師範学校原爆死没者遺骨埋葬の地碑」とは少し斜めですが向き合う位置に建っています。写真の右手奥。この碑は、「建っている」という言葉がふさわしいのかと思える形をしています。

この「追悼之碑」は、1972年の3月に発足した広島大学原爆死没者慰霊行事委員会(委員長は飯島学長)が、その主要事業の一つとして建立したものです。

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長文の碑文が刻まれています。全文をそのまま紹介します。

「昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投ぜられた。一瞬、莫大な破壊を生じ、無数の人命を奪ったのみならず、その被害は長く今日に及び、身心の傷痕なお癒ゆることがない。本学前身諸学校のうち、広島文理科大学、広島高等学校、広島工業専門学校、広島高等師範学校、同附属中学校、同附属国民学校、広島女子高等師範学校、同附属山中高等女学校、広島師範学校、同附属国民学校、広島県立医学専門学校、広島市立工業専門学校は当時市内に所在し、直接被災した。その教職員並びに学生生徒児童は学校の内外において死傷し、また後遺症により没した者多きを数える。爾来星30年を経て、被爆により死没せられた人々を悼む心吾人において益々ふかく、核兵器を憎み、その完全な廃絶と、世界恒久の平和を願うこと切なるものがある。ここに有志相はかり、建碑して追悼の意を表するとともに、広島大学が人類平和の確立に敢然寄与すべきふかい学問的責務を負う所以を永久に銘記する。 昭和49年8月6日 広島大学学長 飯島宗一撰 元広島大学教授 井上政雄書」

この碑文からいくつかのことを知ることができます。「有志相はかり」とありますから、多くの人たちの浄財によって建立されたようです。びっくりするのは、広大の前身校の多さです。ですからこの碑は、付属する中学校や国民学校の犠牲者を含めた追悼碑ということです。またこの碑が建立されたのは、昭和49年(1974年)の8月6日だったことも分かります。

昨日紹介した「遺骨埋葬の地碑」は、この「追悼之碑」よりも1年7カ月余り前に建立されていますので、「遺骨」に対する敬虔の念を強く感じることができます。

広島大学では、翌年から毎年8月6日に同碑の前で追悼式を行っています。同碑の内部には、広島大学及び前身校の原爆死没者名簿が納められており、関係者の申し出により毎年書き加えられているとのことです。その死没者名簿の中には、原爆の犠牲となった海外からの留学生や1994年に亡くなられて森瀧市郎先生の名前も書き加えられていると思われます。確認しようと広大文書館の石田雅春さんに今問い合わせているとことです。石田さんからは「きちんと調べてから返事をします」と回答をいただいています。

「追悼之碑」の特色は、その造形にあります。多くの碑が、一つの石を造形して作られていますが、この碑は多数の自然石が積み上げて作られています。この碑の右下隅には設計を担当された佐藤重夫(当時工学部教授)さんの名前が刻まれています。

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佐藤さんはその造形について「原爆の重大な犠牲となられた悲しみは推し測ることも出来ない重いことで、動かしえない現実に、我々は本当に静かなご冥福を祈る気持ちでいっぱいである。したがって静かにどっしりと安定した、無限の自然が造りあげた重い重い大きな石で、しかも自然の美しい形のものがどんな人工の碑よりもこの原爆碑に最もふさわしく、永遠に祈りの碑となるものと私は思った。裂き砕かれた鋭い大小の割石を下部に乱積にしたものは、世の矛盾、悲しみ、争いを連想して、碑石の底部に押しつぶして積むことにしたものである。」と語っておられます。

その設計者の意図を知ることによって、より深い思いでこの碑に向き合うことができるように感じます。

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この碑の傍には、多くのベンチが設置されています。広大が東広島に移転し、この千田キャンパスで学ぶ学生は少なくなっていると思いますが、ベンチに座りこの碑と向き合った時、あの日のことを想像してほしいと思います。

いのちとうとし

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2020年8月18日 (火)

広島文理科大学・広島高等師範学校原爆死没者遺骨埋葬の地碑

先日、中国新聞に掲載された「創立70周年記念写真集広島大学の70年」を「広島大学75年史編集室」から送っていただきました。表紙カバーに使われている写真は、1045年10月頃に菊池俊吉さんが撮影された被爆後の広島文理科大学付近の写真です。左側には、広島赤十字病院も映っています。

冊子を開いていた気になる写真が目に入りました。

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タイトル「平和を希求する精神」の項に使われている写真です。その写真の解説には「『原爆死没者遺骨埋葬の地』碑建設式であいさつする飯島学長(1972年12月25日) 前身校の原爆被災の実相解明が進められることにより、全学的な慰霊の機運が高まってゆくことになった。」と書かれています。

実は、数年前広島大学千田キャンパスを訪れた時、正門入ってすぐ右側に建つ建物・共用施設の南側に「広島文理科大学・広島高等師範 学校原爆死没者遺骨埋葬の地」碑が建っているのを見つけたのですが、その時は「ここにお骨が埋葬されているのだろうか」とちょっと不思議な気はしたのですが、あまり深く考えずに、写真だけ撮って帰った記憶があります。下の写真は、今回改めて撮影したものです。

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「創立70周年記念写真集」で「碑建設式」のことを知り、改めて興味が湧き、同誌の発行者である広大文書館の石田雅春さんにメールでお問い合わせました。石田さんからすぐに「以下の広島市のホームページ(https://www.city.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/32119.pdf)に紹介記事がございます。広島市からの執筆依頼に応じて広島大学文書館が作成した説明文です。PDF11ページ目に関連記述があるのでご覧いただければと思います。」と丁寧な返事が返ってきました。早速そのホームページを開くと「原爆死没者遺骨埋葬の地碑」について「1945年8月6日の夕方及び翌7日にかけて広島文理大学・広島高等師範学校の構内や周辺から遺体89体及び遺骨10数体が発見された。遺体及び遺骨は学校関係者が氏名を確認し、遺体は構内において茶毘に付した。大半の遺骨は遺族に渡されたが、1945年末の段階でなお小量(鉄かぶと 1杯足らず)が残った。そこで、これを鉄かぶとに納め広島文理科大学本館(旧広島大学理学部1号館)の裏に埋葬した。1970年に埋葬地にボイラー室が建設され、工事の際に鉄かぶとが発見されたものの遺骨は完全に土化していた。広島大学原爆死没者慰霊行事委員会が被爆時の実態調査を進める中で、こうした事情が判明したため、遺骨埋葬地付近に石碑を建立した。その後、広島大学の移転に伴い、同石碑は 1996年に現在地へ移設された。」

これで「広島文理科大学・広島高等師範 学校原爆死没者遺骨埋葬の地碑」の建立の経緯と現在地にある理由が理解できました。ただ、この文章を読みながら、少し気になったことは「1945年末に埋葬されてから1970年までは、「遺骨の埋葬地」であることを知らせるものはなかったのかということです。

石田さんのメールには、丁寧に「もともと石碑のあった場所(本来遺骨が埋葬されていた場所)は、旧理学部1号館の裏で,現在はスポーツクラブルネサンスと梶川病院の間の場所のあたりになります。」と記されていましたので、その場所も訪ねてみました。

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写真の右側の建物の奥に映っているのが、旧理学部1号館です。老朽化が進んでいることがうかがえます。保存工事が急がれます。

ところで、「原爆死没者遺骨埋葬の地碑」が1996年に移設されるとき、この場所が選ばれたのは、この碑のほぼ真向かいには、1974年8月6日に建立された「広島大学原爆死没者追悼の碑」があるからだと思われます。

石田さんによると、「毎年86日に『広島大学原爆死没者追悼之碑』の前で広島大学主催の慰霊祭を行います。その際に『原爆死没者遺骨埋葬の地碑』にも献花と献水をすることになっています。」ということで、この碑も大切に扱われていることが分かりました。私が訪れた7日にも、6日に供えられたと思われる花がありました。

いのちとうとし

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2020年8月17日 (月)

聞き、描く。共に、描く。高校生が描いたヒロシマ 原爆の絵画展

広島国際会議場で開催されている「高校生が描いたヒロシマ 原爆の絵画展」に行ってきました。私がこの絵画展に訪れるのは、昨年に続き3回目です。

今年はコロナ対策ということもあるのでしょうか、会場が昨年までの地下1階の会議室から地下2階の大会議室ダリアに変わっていました。

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上のチラシには、このプロジェクトについて次のように書かれています。

「広島市立基町高等学校創造表現コースでは12年前より、毎年原爆の実相を後世に伝えるため被爆体験証言者とともに『原爆の絵」の製作に取り組んでおり、これまでに152点の絵を描いてきました。今回は、今年7月に完成した15点を含む約40点を展示します。何度にもわたる打合せを重ねながら描かれる絵は、当時の惨状を克明に描き出すものでありながら証言者の記憶や思いを高校生が寄り添いつつ描いた、双方の「気持ち」もともに描き出しています。記憶の継承の一つの形として、多くの方にご覧いただければ幸いです。」

会期は、今月27日までです。

会場に入ると、最初に今年7月に完成した作品群に出合います。少し進むと、私がよく知る被爆者の証言を描いた絵に出合います。前広島県被団協事務局長の志水弘士さんです。

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左から「合掌する母」「闇市で生きる」「原爆後遺症」の三点です。同じ被爆者の話から描き手によって、場面構成がこんなにも違うのかと思いながら、キャプションを丁寧に読んでいきます。「描いた場面の説明」「生徒のコメント」「被爆体験証言者のコメント」が書かれています。今年の作品の「生徒のコメント」はずいぶんと詳しく書かれているのが印象的です。

進んでいくと一枚、他の絵とは違う場面を描いた絵に出合います。証言者は、私の知人小倉桂子さんです。絵のタイトルは「空襲警報が鳴る中、学校から泣きながら家に帰る」です。

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他の絵は、ほとんどが(全部を見たわけではないが)、被爆当日、その後の様子を描いていますが、この絵だけが被爆前の日常を描いた絵です。被爆証言者のコメントには「被爆後の絵はたくさん見たけれど、被爆前に子どもがどんな経験をしたか、どんな恐怖を味わったのかを描いてほしかった。原爆が落とされたその日だけでなく、それ以前の戦時中の生活が良く表現されている。」と書かれています。小倉さんらしいと思いながら見ました。

広島県被団協理事長代行の箕牧智之さんの被爆証言を描いた絵もあります。

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この絵は、油絵でなくアクリル絵の具が使われていますので、絵の質がちょっと違います。タイトルは「広島第二機関区で働く父を捜しに」となっています。8月7日に母と弟の三人で飯室から父をさがしに広島駅に向かう様子が描かれています。この絵も今年完成した作品の一つです。

全作品を見終えたところに、絵の映像が流れるパソコンが置かれています。昨年のこの絵画展では、「現在作成中」と紹介されていた小倉桂子さんの証言をもとにした絵本と紙芝居が今年完成し、それが映像となって上映されていました。手前に絵本が置かれています。ちょうど上映されていたのは、タイトル「ケイコの8月6日」で絵は前濱穂乃果さん、文は横山栞央さんの作品です。

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映っているのは、その15番目の絵です。文には次のように書かれています。「一方、ケイコは、自分の家がひどく壊れていたので他の家はどうなっているのだろうかと気になり、すぐに家を飛び出しました。すると、ボタボタと大粒の雨が降ってきました。ケイコ:「ア、白いブラウスが汚れちゃった!お母ちゃんに怒られる!」ケイコの着ていた白いブラウスには黒い斑点がついていました。これが黒い雨でした。」

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展示された絵画を見終えたところに、このプロジェクトに関わる様々な資料が展示されています。その一つとして、7月20日に行われた「原爆の絵 完成披露会」の様子と生徒たちによる作品紹介の映像が流れています。熱心に見ている人の姿が目に付きます。

その横には、感想を書くコーナーが設けられています。

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コロナ対策を施した鉛筆が準備されていました。左側は消毒済みの鉛筆、右側は使用済みの鉛筆入れ。私も感想を書いて、会場を後にしました。

いのちとうとし

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2020年8月16日 (日)

原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい

島文学資料保全の会・広島花幻忌の会・四國五郎追悼の会が共催し、2002年から毎年8月15日に開催されてきた「8・15のつどい」が、今年も昨日開催されました。

8月6日が過ぎるとすべての活動が休止したような状況に置かれる広島で、終戦記念日(と言われている)の8月15日に「ヒロシマの意味を問い直す」ための企画です。

主催者には、「広島は、原爆で多くの市民が犠牲となった都市ですが、同時に、大陸にむけての軍事都市であったことを忘れてはならない」という強い思いがあります。

昨年は、台風が接近通過する中、新幹線はもとより市内電車・バスなど交通機関が全面ストップするという悪条件でしたが、主催者の強い思いで挙行されました。前日から広島入りをしておられた俳優の木内みどりさんによる「おこりじぞう」の朗読・対談が行われました。私は、会場が近いということもあり、参加をしました。

今年は、初めて屋外に会場が設けられました。「全棟の保存・活用」が大きな課題となっている旧陸軍被服支廠です。

一日で最も暑い午後2時半からのスタートでした。テントはあるものの被服支廠の建物の影はまだ届かず、暑さが身に沁みます。

土屋時子さんの司会で始まった「つどい」のオープニングは、花幻忌の会の大学生、高校生による原民喜の詩朗読。原爆小景から「日ノクレチカク」「コレガ人間ナノデス」そして「永遠のみどり」の三編です。

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次に朝鮮半島の伝統的民族打楽器「チャンゴ」の演奏です。鎮魂の思いを込めての演奏は、私の友人でもある裵学泰さんです。民族衣装に身を包んだ裵さんの演奏にはいつも感動を覚えます。後で「タイトルは?」と聞くと「この日のため自分で作った曲だから、特にタイトルは付けていません」とのことでした。

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つづいて、四國五郎さんの「わが青春の記録」に掲載された「就職」の朗読。朗読者は西田勝彦さん。初めて知ったのですが、四國五郎さんは、15歳から召集を受けるまでの約5年間、この陸軍被服支廠で働いていたということです。当時、廠内誌に特技を生かし、挿絵をたくさん書いていたことが紹介されました。

続いて、今田洋二さんによるバリトンの独唱です。四國五郎さんが、亡くなった弟さんへの鎮魂の思いを込めて作詞したとされる「奪われたもの」と「灯ろう流し」の2曲です。いずれも作曲は、今田さんの歌のピアノ伴奏を務められる山下雅春さんです。

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心にしみる歌声でした。

次は、栗原貞子さんの詩「ヒロシマというとき」の朗読です。朗読者は、NHKの杉浦圭子さん。読み終えて杉浦さんは「この詩は、1972年5月、沖縄が返還された時に作られた詩です。栗原さんには生前に一度だけ会いました。ある集会でのことです。そこで栗原さんは、『戦争遂行者の強者だけを追及するだけではなく自分の加害者の側面を考えてきた』と話されたことが印象に残っています」と栗原さんとの出会いを紹介されました。栗原貞子さんの詩は、今日の企画にふさわしい詩だと思います。

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さらに詩の朗読が続きました。被爆者林幸子さん作詞「ヒロシマの空」です。朗読者はお孫さんの中山涼子さん。

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次に峠三吉の「倉庫の記録」の朗読です。どうしてもこの場所ではこの詩の朗読を逃すことはできません。朗読者は、2017年12月に原爆詩人峠三吉の半生を題材にした市民劇「河」を演じたメンバーです。

そしてこのメンバーによって、峠三吉の原爆詩集の「序」「ちちをかえせ ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ/へいわをかえせ わたしにつながる/にんげんをかえせ/にんげんの にんげんのよのあるかぎり/くずれぬへいわを/へいわをかえせ」が高らかに詠われて、「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」は終了しました。

途中から暑さで頭も少しぼーっとしながらのメモ・記憶ですので、間違いがあるかもしれません。

この「つどい」は、2002年以来、昨年までは袋町の市民交流プラザで開催されていましたが、今年は「広島の原点 旧陸軍・被服支廠の全棟保存・活用を考える」ということで、この会場が選ばれました。この夏一番とも思える暑さでしたが、そんな思いを共有する人たち約100人が集まりました。

いのちとうとし

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2020年8月15日 (土)

8月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

ブルーベリーの実がたくさん実るため摘み取りの援農に来ていただくので8月は農園が人、人、人でにぎやかになる。農園のブルーベリーが実る時期は安芸の郷のある安芸区矢野東よりも2週間近く遅くなる。標高が400m近くあるためだ。ブルーベリーの生食の注文が安芸の郷にたくさん来ているのでお盆の前後でも援農者がお見えになる。その心根に感謝の気持ちが一年で一番大きく膨らむ。

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88日(土)。里山のブルーベリー園から摘み取りの一休みで農園の家に戻る。

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コンテナに摘み取ったブルーベリーがたくさん入っている。

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89日(日)。広島市内からお見えなったのは土木会社の方とベトアムの実習生。実習1年目だとかでブルーベリーの摘み取りを体験させたい思いで同行された。とても楽しそうだった。

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新しい手袋の指先を鋏で切ってブルーベリーの摘み取りがしやすいように改造。

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810日(月)は山の日で休日。家族連れでゆったりとしたペースで摘み取り。

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もう一組の友人の昼ごはんは玄関前のテントタープの下で。

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811日(火)。元の会社の同僚も広島市内から援農。

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812日(水)農園の周囲の田んぼ。稲穂が揺れる季節に。

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814日(土)。安芸の郷の事業所森の工房みみずくの職員が援農。摘み取りした後すぐに選別して1キロパックにして安芸の郷に納品。

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ハギの花が咲きだした。

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夕方5時過ぎ。気温も下がるが、日差しに秋めいた気配が漂う。それでもブルーベリーの摘み取りのピークは8月末まで続くがあとは天気次第。

2020年8月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年8月14日 (金)

子どもたちの思いに寄り添う

1学期は成績つけない」ある私立の決断 真摯な姿勢自体が子どもへのメッセージ

7月初め頃の新聞にこのような見出しを見つけました。新型コロナの影響で臨時休業が約2カ月間続いたことにより、成績をつけるための材料が十分にない教科もあることや休業中の家庭学習の内容を成績に加味するにしても、様々な家庭環境があることに配慮した結果、1学期の成績をつけることを見送る決断をある学校はしたようです。学期の終わりに「成績はつけるもの」との価値観が優先されれば、成績をつけることは決して不可能ではなかったでしょう。それをそうせずに、子どもの立場に立ち、子どもの思いに寄り添うことを優先したことが素晴らしいと思います。

学校現場を見渡した時に、果たしてどれほど子どもたちの立場に立ち、その思いに寄り添おうとしているのか、はなはだ疑問です。

 

2月末の突然の安倍首相による全国一斉臨時休業の要請、それを受けての各自治体の臨時休業の決定はその最たるものです。卒業を、あるいはその学年の終わりを前にして、友と別れを惜しみつつもどこか温かな思いで過ごしていた日々が突然、何の前ぶれもなく打ち切られたのです。私のクラス(当時中学3年生)の男子は日記にこう思いを綴りました。

「政治をする人はボクたちの気持ちをわかっていません。ボクたちの思いを聞いてほしいです。クラスのみんなや先生とまだ一緒にいたかったです。まだまだ話をしたかった。悲しいです。悔しいです」……

この生徒は普段は日記を書いて提出することをあまりしなかったのですが、悲しみ・怒りが彼にそんな行動を取らせたのでしょう。臨時休業の措置については賛否両論あると思いますが、臨時休業を要請・決定した人たちはどれだけ子どもの立場に立ってその思いに寄り添おうとしたのか、ということです。

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≪卒業式までのカウントダウンが、この日で突然途切れます≫

また、臨時休業が長引くにつれ学びの遅れの解消が最大の関心事になり、「9月入学」論争が巻き起こりました。子どもの思いそっちのけで話が進んでいきました。「9月入学」論争の発端は、高校3年生による、授業だけでなく、仲間と過ごすかけがえのない学校生活が奪われていくことへの悲痛な叫びだったはずです。大人たちが勝手に学力保障のみに話をすり替えていったのです。

県内の小中学校では、運動会(体育祭)や学習発表会・文化祭などの行事がなくなったり縮小の方向で進んでいるようです。小6・中3の子どもたちにとっては、その学校における最後の学校生活です。これまでに上級生の姿を見ながら、自分たちも最終学年になったらあんな風にしたいと夢見ていた子どもたちも多くいることでしょう。それがかなわなくなってしまった失望感は計り知れません。そう思うと、仮に「中止」を決めるにしても、どれほど子どもの側に立ってその思いを推し量って「苦渋の」決断をしたのか、問うてみたくなるのです。

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≪子どもたちは行事で育ちます!≫

学校は誰のために、何のためにあるのでしょうか。子どものことを一番よく知っているのは子どもたち自身です。子どもに関わることを大人だけで決めずに、権利の主体者である子どもたちとともに、その権利の保障を考える姿勢が今、私たち大人に求められているのだと思います。

休憩時間を削って毎日7時間授業をする、感染リスクを低減させつつ、学びの遅れを取り戻すことに懸命に尽力している学校現場に、平気で全国学力テスト(国は中止を決めたが、問題用紙は現場に提供された)の実施を課し採点・分析を求める教育委員会……子どものことを1番に考えていますか?休憩を削りつつ詰め込んで7時間も授業をすることが、子どもたちにとってどんな意味がありますか?臨時休業が3月から約3カ月間あったにもかかわらず、学力テストを全児童生徒に課し、子どもたちに対してもさることながら、ただでさえ時間外勤務に追われている教職員にさらなる負担を負わせることに、心は痛みませんか?憂うべき学校現場の実態です。

子どもたちの思いを大切にし、しっかりそこに寄り添う大人でありたい、と心から思います。

<みらいのそら>

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2020年8月13日 (木)

せこへいART MUSEUM美術館―せかいのこどものへいわの美術館

日銀広島支店で開催されている「せこへいART MUSEUM美術館」(せこへい美術館)に行ってきました。「せこへい美術館」は、世界の子どもの平和のための美術展です。

会場に入るとすぐ左手に「貝の標本」が展示されています。

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米軍基地埋立てが強行される辺野古に隣接する大浦湾で上原一路(ひろ)さんと諒さん姉妹が採取した貝殻です。中には、絶滅危惧9種も含まれています。

「この貝殻を拾った頃は、まだ良かった。(略)土砂投入の為の護岸工事が終わって、海が囲われてしまいました。その中いいる貝や生き物たちはきっと沖縄県民と同じ、苦しい厳しい環境の中で必死で生きています。(略)どうかこの貝殻の言わんとしていることを感じてほしいです。」2年前に書かれてお父さんのメッセージが添えられていました。

この美術館のメインは、1階フロアーに広がる「BODY MAP」です。

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畳1畳台の紙に自分の体の輪郭を型取って、生まれ故郷、将来のビジョン、身体で感じる苦しみや希望、支えなどをマッピングして、1枚の絵がつくられます。2002年に南アフリカでエイズと共に生きる女性たちの間で始まったものだそうです。

世界各地で実践されていますが、今回日本で初めてワークショップが実施され、その作品が展示されています。

1階には、世界の子どもたちが描いた絵が展示されています。イラク、カンボジア、マダガスカル、カザフスタン。

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マダガスカルの子どもの絵は初めて見ました。

その横に、2階からつるされた大きな絵があります。パレスチナの子どもたちの作品です。

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「希望の街」とタイトルが付けられ「パレスチナと日本の子どもたちが道と道をつないだ」と解説されています。パレスチナから送られてきた絵に日本の子どもたちが自分たちの絵を加えて作品にしたようです。どの絵が、パレスチナの子どもの絵かははっきりとわかりませんが、真ん中のグリーンの絵や、その右上の赤い十字のマークがある絵など少し大きめの絵がそうではないかと想像できます。

3階には、日本の子どもたちの作品が並んでします。

3階の最後の展示室には、私にこの展覧会の案内状を送っていただいた原仲裕三さんの作品が展示されていました。

原仲さんの作品は、案内状に同封されたはがき(あて先は、旧日本銀行広島支店)

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に受け取り手の思いが描かれた返信はがきを並べたものです。

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原仲さんは、この手法をよく使われています。

この文章でお分かりと思いますが、原仲さんは、子どもではありません。高等学校の美術の先生です。私が、このブログで紹介したことのある「原爆の絵碑」の台座をデザインされています。

このように、この美術館には、子どもたちの運動を支援する大人の作品もいくつが展示されているようです。

「せこへい美術館」の会期は、16日までです。16日は、午後3時で閉館となりますが、それ以外の日は午後6時まで開館しています。

会場の作品を見て、子どもたちの平和への思いを受け止めてほしいと思います。

いのちとうとし

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2020年8月12日 (水)

ドイツの8月6日

ドイツ・ベルリン在住の福本榮夫(まさお)さんから、ドイツの8月6日の様子を伝える写真と共にメールが届きました。少し遅くなったのですが、紹介します。


昨日のベルインでのイベントから2枚写真を添付します。

一つは、グリーンピースのもの。昨日の午前1時15分(広島8時15分)にあったブランデンブルク門前でのイベントです。

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そこでは、被爆者中村澄子さんの被爆体験がドイツ語で朗読されたはずです。拙訳ですが。版権上問題ないものがいいと相談受けて。2006年にドイツにいらしています。その時話された体験談です。中村さんは、2006年に自治労だったと記憶するのですが、被爆者を送るプロジェクトで山岡秀則さんと一緒にいらしていました。その前の年は、佐々木愛子さんと坪井直さんでした。

いずれも小生が被爆体験を語っていただく場を現地のかたにお願いしてアレンジしています。

もう一つは、ベルリンのフリードリヒスハイン公園にある平和の鐘でのイベントの写真です。鐘は東独時代に日本から寄贈されたもので、毎年8月6日に式典があり、最後に白い鳩が放たれます。

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今年は、平和の鐘も、参加者は事前登録で、40人に限定でした。日本人女性と韓国人女性、それからICANの代表の女性でした。日本人女性と韓国人女性には、一番最初に一緒に平和の鐘をたたいてもらいました。韓国人の方を呼んだのははじめてです。続けたいと思います。

私たちにかかわりが深い、ポツダムのヒロシマ・ナガサキ広場では、7月25日に簡単な式典をしました。記念碑を制作していただいた彫刻家の藤原信の追悼も兼ね、信さんの友人二人に話してもらいました。

ポツダム会談のあった宮殿(いのちとうとし注:ツェツィーリエンホーフ宮殿)では、今ポツダム会談75年という特別展をやっていて、広島から被爆品2点きていると聞いています。


調べてみると、福本さんのメールに登場する中村澄子さんは、本郷町原爆被害者友の会の役員で広島県被団協の役員で広島県三原市在住だということが分かりました。中村さんは、1945年8月6日、安佐郡伴村(現在の広島市安佐北区沼田町)の国民学校6年生の時、被爆。ドイツで中村さんが話された被爆体験(8月6日に紹介されたもの)は、「ポツダムヒロシマ広場をつくる会」のホームページ(http://www.hiroshima-platz-potsdam.de/jp/ueberunsjp.htm)の「原爆の体験を語る」のコーナーに掲載されています。それを福本さんがドイツ語に訳し、紹介されたようです。

こんなより取りをしていたら福本さんから当時(2006年)様子が届きました。「2006年は、ドレスデン大空襲の生存者との交流のほか、当時はまだトルーマンハウスの前に記念碑がなかったのですが、広場に公式ポスターをはったパネルを置いて、二人の被爆者の方にもお話いただいたと記憶しています。中村さんと山岡さんには、トルーマンハウスの中にも入ってもらっています。」

中村さんの被爆体験記を検索している時、今年のポツダム・ヒロシマナガサキ広場での式典の様子が、「ベルリン通信」のホームページに、池永記代美さんの「原爆投下指令から75年、ポツダムで行われた式典」(https://midori1kwh.de/2020/08/01/11662)として詳しく掲載されていることを知りました。

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今年は被爆75周年、そしてポツダムヒロシマナガサキ広場が完成して10周年の節目の年。もう一度訪ねてみたい気持ちになりました。でもコロナ禍・・・。

いのちとうとし

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2020年8月11日 (火)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (3) ――憲法違反の小選挙区制度 (2) ――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (3)

――憲法違反の小選挙区制度 (2) ――

政治家になる人たちの質が悪ければ、その結果として政治は悪くなるでしょう。となると、政治家になった人たちがどのような経緯で政治家になったのかを知ることは大切です。そして、官僚出身者、世襲議員、さらに松下政経塾出身者という三つのグループが多くの議員や首長の「供給元」であることを確認しました。これらのグループが政治に与えている影響を客観的に把握した上で、より良い政治を創るための新たな供給源がないものなのか、あるいは作れないものなのかを考えることも重要です。また政治の劣化の原因になっているグループについては、選挙の際に投票しないといった選択をすることが有効です。

しかしながら、その選挙が有権者の意図を反映しないものであれば、私たちがどう足掻いても、望むような結果にはなりません。そして小選挙区比例代表並立制(以下、小選挙区制と略)は、民意を反映しない制度なのです。1994年に導入され、1996年の衆議院選挙からその制度による選挙が行われてきたのですが、それからほぼ20年経った、2015年の時点では、小選挙区制の弊害は広く理解されていました。しかし、それから5年経った今、危機感はどこかに消えてしまい、小選挙区制を廃止してより良い制度を導入しようといった声もほとんど聞こえなくなってしまいました。身近な所での政治の腐敗に対処するだけで時間もエネルギーも使い果たしてしまい、選挙制度にまで目が向かなくなってしまったのだと思います。

しかし、社会構造の本質を忘れては、どんな改革も不毛に終りますので、「定期的に」問題提起をしています。今回は、何故小選挙区制が駄目なのかについて、ザっとお浚いしておきましょう。

まず、小選挙区制導入の立役者として何時も挙げられるのは三人です。当時衆議院議長だった土井たか子さん、自民党総裁だった河野洋平さん、総理大臣だった細川護熙さんです。小選挙区関連法案が衆議院で可決され、参議院では否決という結果になった時、本来はこの法案は廃案になるのが憲法59条の本則です。しかし、両院協議会を開くことも許されていますので、両院協議会が開かれ、その結果は不調、つまり協議会としての結論はなく、廃案になるはずでした。その際に、土井さんが河野・細川の二人を招いて妥協案を作るよう指示し、その結果が今の小選挙区制なのです。

その一人、河野洋平さんの反省の弁が注目されました。それは、もう一人の立役者だった土井たか子衆議院議長(当時)お別れの会(2014年11月25日)での次のような言葉です。

最後にあなたに大変申しわけないことをした。おわびしなくてはならない、謝らなければならない大きな間違いをした。

 細川護煕さんと2人で最後に政治改革、選挙制度を右にするか、左にするか、決めようという会談の最中、議長公邸にあなたに呼ばれた。直接的な言葉ではなかったけれども、「ここで変なことをしてはいけない。この問題はできるだけ慎重にやらなくてはいけませんよ」と言われた。あなたは小選挙区に対して非常な警戒心を持たれていた。

 しかし、社会全体の動きはさまざまな議論をすべて飲み込んで、最終段階になだれ込んだ。私はその流れの中で小選挙区制を選択してしまった。今日の日本の政治、劣化が指摘される、あるいは信用ができるかできないかという議論まである。そうした一つの原因が小選挙区制にあるかもしれない。そう思った時に、私は議長公邸における土井さんのあの顔つき、あの言葉を忘れることができません。

当時の首相で、河野氏と共に、葬り去られるはずだった小選挙区制を復活させ、導入した細川護熙氏も導入は誤りだったことを認め、あまつさえ、自分はずっと中選挙区制度が良いと思ってきたのだ、と朝日新聞のインタビューで述べているほどです。

これだけで、小選挙区制の罪状は明らかなのですが、とは言っても、客観的な数字も掲げておきましょう。説得力のあるデータの内、得票率と議席の獲得率の乖離がやはりこの選挙制度の歪みを最も忠実に反映しています。まずはグラフを御覧下さい。

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この4回の選挙全てにおいて、自民党は過半数には達しない得票率で、70パーセント以上の議席を占有しています。特に、2012年の選挙では、4割そこそこの得票率で8割近い議席を獲得しているのですから、自民党支持者の意思は、野党支持者の意思の約二倍の価値があることになります。

「一票の格差」が問題にされるときには、選挙区内の人口を比較して、人口の少ない選挙区と多い選挙区では、一票の価値に差があることが問題にされるのですが、それと同様に、得票率と獲得議席との乖離もやはり「一票の格差」として議論されるべきですし、違憲であるとの問題提起がなされるべきだと思います。

選挙の年

得票率   

議席獲得率

死票

死票率

2005年

48

73

3300万

49

2009年

47

74

3270万

46

2012年

43

79

3163万

53

2014年

48

76

2540万

48

これとほぼ同じ意味を持つのが死票の問題です。誰かに投票したのに、その票が生きなかったケースですが、これも、50パーセント近くですし、2012年には53パーセントです。その年の自民党の得票率は43パーセントですので、有権者が投票した通りに当選者が決っていれば、その年には、野党全体として自民党より多い議員が誕生していたのですから、政権は野党が握ることになっていたはずです。

この点については、有権者の意識も高く、小選挙区制では民意が反映されない事実を認識しています。内閣府が定期的に行っている、国の政策への「民意の反映程度」のグラフです。小選挙区制が導入されたのは、1994年、つまり平成6年ですが、それ以降、「反映されていない」が増え、「反映されている」の減っている様子がはっきりと表れています。

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こう見てくると、小選挙区制という選挙制度の結果は国民の意思を反映していないどころか、大きく歪めていることが分ります。そして、今見てきたようなデータからは、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて」と憲法で定めている、「厳粛な信託」とは大きくかけ離れた形で権力の委託が行われていることが分ります。つまり、この制度は憲法違反です。

次回は、成立の過程でも憲法違反が行われていたこと、そしてこれらの点を問題にした訴訟でも憲法違反が行われるなど、何重もの憲法違反があって初めて続いている制度であることを検証します。

 [2020/8/11 イライザ]

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2020年8月10日 (月)

「黒い雨」判決の意味するもの

例年の「8・6」と様変わりして、オンラインを使っての集まりが多かったのですが、「友有り 遠方より来たる 亦 楽しからずや」で、大いに語りあって、とても有意義な時間を過ごすことができました。

今の大きな関心事は7月29日に広島地裁が下した「黒い雨」訴訟について、被告である広島県・市が控訴するかどうかということです。8月8日の中国新聞は一面に「控訴検討」と書いていました。

控訴期限は12日、判決が示した拡大された「黒い雨」地域に住んでいる被爆者の人だけの問題なら、「人道上の…」などの理由を言って、「控訴しない」との「政治判断」を、支持率が低下している安倍晋三首相の「英断」によって行われるかも知れませんが、今日(8月9日)の時点では、結論が出ていません。

この裁判の結論は、単に原告の方だけでなく原発問題などにも大きな影響を与えます。

その影響とは、被曝線量基準、内部被曝の問題に関することです。具体的には福島原発事故で避難地域になっている自治体に対し、国が強引に進められている「帰還を進める」政策に大きく影響してくるからです。結果、賠償問題にも波及します。

裁判の中で争われた主な主張の部分を、新聞記事により再現してみたいと思います。(被告については、実質的には国ですが、訴訟に忠実に広島県・市としました)

 被告(広島県・市):「100㍉シーベルトを下回る放射線に被曝した場合に健康被害が発症するかどうか定かでない」

 原告(「黒い雨地域」住民):「残留放射線による内部被曝は、実効線量(シーベルト)によって人体に影響があるかを評価できない」

 被告(広島県・市):「黒い雨に必ず放射性微粒子が含まれているという科学的根拠を欠く」「(内部被曝の影響については)論ずるまでもない」

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中国新聞 2020年7月30日より転載

 また、この判決は長崎の被爆者によって第3陣の裁判として起こされている「長崎被爆体験者訴訟」にも、良い影響を与えるものと期待しています。この訴訟は南北に長く東西に短い(南北12キロ、東西7キロ)という、長崎市の線引きの主に東西の外側に住んでいた人について、被爆者として認めるようにと求めている裁判です。

 広島地裁の全面・完全勝訴判決について、8月3日、長崎被爆体験者訴訟原告団は「国が線引きした援護区域の妥当性を否定し、救済の道を開いた」と評価した上で、国や広島、長崎両県などに対し、手帳交付の要件となる援護区域の抜本的な見直しなどを求めた要望書を、関係する行政機関に送付しました。

 訴訟の原告団長である岩永千代子さんは「希望を持って広島の人たちと手をつなぎ、私たちは被爆者だと訴えたい」と話したと、地元新聞は報じていました。

広島市長の発する平和宣言では、日本政府に対して「黒い雨降雨地域を拡大」をいいます。しかし裁判の場では被告となり、「現在の区域の指定範囲が不合理とはいえない」と主張します。原爆被爆者援護法による、「法定受託事務」として仕事を代行しているのだからという主張は、まさに「ねじれ」としかいえません。広島市としての自主性が感じられません。

 現に東京都は被爆二世への医療保証を、都独自の施策としてやっているからです。要は本気で「被爆者の立場に立つか」の問題だと思うのですが。

木原省治

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2020年8月 9日 (日)

李実根さんのお墓参り

8月に入り一気に暑さが厳しくなった2日、納骨式が終わった李実根さんのお墓参りに行きました。

6月に入って李実根さんの葬儀の導師を務めた吉川徹忍さんから「李実根さんの納骨式が終わりました」と連絡を受け、「梅雨が明けたら案内してください」とお願いしていたのですが、長雨にたたられなかなかお墓参りをする機会がありませんでした。7月も終わりに近づき、やっと長い梅雨が明け、お墓参りを実現させることができました。

当日お墓参りに同行したのは、李さんのあとを受け朝鮮人被爆者協議会の理事長を務める金鎮湖さん、案内役の吉川さん、「葬儀に参加できなかったからお墓参りをする時には声をかけてください」と以前から頼まれていた平和フォーラムの福山真劫顧問、そして私の4人です。福山さんは、2000年代に入って原水禁国民会議の事務局長として、在朝被爆者問題解決のため何度も李さんと一緒に訪朝したことがあり、東京からの日帰り日程での参加でした。広島駅で待ち合わせをし、金さん運転の車で坂町に移動しました。

坂町のパルティ・フジ坂店の駐車場で、李さんの長男英一さんと合流し、お墓へ移動しました。坂町漁協のカキ打ち場が横につづく道をさらに400mほど進むと李家のお墓がある墓地に到着しました。

英一さんに用意していただいた線香に火をともし、金鎮湖さんに準備していただいた花を活けて、吉川さんの読経の中、一人ひとり、李さんが愛してやまなかったお酒をお供えし、墓前にぬかずきました。

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お参りを終えて、英一さんの話を聞きました。この場所を決めたのは、李実根さん。墓地から振り返ると眼前に海田湾が広がっています。「父は、『この海は祖国朝鮮半島にまでつながっている』と非常に気に入っていました」との話。長男の英一さんが現在坂町に住んでおられることもここを選ばれた理由の一つのようですが、朝鮮半島に繋がる海が見える丘ということも大きかったようです。

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2008年にここに墓地を選びお墓を建立された李さんは、山口にあったご両親の遺骨もここに移されたそうです。ところが、この墓地一昨年の豪雨災害で、土砂崩れの被害に遭い、墓石はもちろん遺骨までもが流されてしまい、見つかっていないそうです。李家の周りのお墓には、傷ついた墓石が目に付きます。英一さんは、「砂防工事もままならないこの墓地にお墓を再建するのはどうかと思ってのですが、アボジが『海が見える場所』と喜んでいた墓地でしたので、ここに新しいお墓を作ることにしました」と話してくださいました。

新しく作られた李家のお墓には、英一さんの父李実根さんへの強い思いがこもっています。

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お墓の右面には、「価値ある生き方を」という李さんの言葉が刻まれています。そして、右側には墓銘碑ともいえる石があり、長男英一さんの「父実根への追悼のことば」が刻まれています。全文紹介します。

「祖国と民族は私の胸に 父が残した強固な信念、無数の勇断、万古不易の道のりは 我々家族の宝として、永遠に輝き続けるであろう。 2020年6月 長男英一」

お墓をよく見ると、正面には「延安李家之墓」と刻まれています。「延安」初めて聞く地名です。朝鮮半島に移住したのが何代前の先祖かは、わからないそうですが、李実根さんの祖先は、中国・延安の出身だったそうです。同行した金鎮湖さんも「初めて聞く話だ」と言っておられました。

こうして念願だった李実根さんのお墓参りも無事に終えることができました。

いのちとうとし

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2020年8月 8日 (土)

8月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

81日(土)が安芸の郷のブルーベリー摘みとり体験会が開催された。地域のみなさんに事前に予約受付をして森の工房AMAの建物の屋上で4回に分けて1回あたり15名にして摘みとり体験をして頂いた。このほか農園のブルーベリーを選別して販売も行われ、cafeさくらでもフレッシュなブルーベリージュースが好評だった。新型コロナウイルスの影響を受けて大規模なブルーベリーまつりを中止して代替企画として行われ、約300名を2つの建物に分散して夏のブルーベリーにまつわる楽しみを無事行うことができた。農園のブルーベリーも役立った。

そして安芸の郷ではブルーベリー生食の予約注文がたくさん来ているので、農園のブルーベリーは早生から晩生に変わりの摘みとりも梅雨明けを待って1キロでも多く収穫しないといけないモードに入った。農園の友人、知人、安芸の郷の事業所からの摘みとり研修の人たちが広い農園のあちこちに分散しての作業が続く。でも暑い。

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83日(月)は早生のブルーベリー畑の防鳥ネット取り外した。下には刈れなかった草がびっしり。

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85日(水)。梅雨が明けた農園の植物にも夏まっさかりの姿が見れる。

①右はカクトラノオ、左はオニユリ。

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②白い花をたくさん咲かせたエゴノキはもう丸くぶら下がった実があらわれた。

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③ブルーベリーの実は青色と緑色、ピンク色が混在してきだした。

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④一輪木陰に咲くナデシコは真夏なのに秋を思わせる。

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86日(木)は安芸の郷の研修に加えて4つのグループの友人知人が援農。中には摘みとりが初めての方もいる。

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暑さ対策。背中に保冷剤を背負って少しでも涼しくなるように工夫。

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安芸の郷の皆さんの摘みとり。今日は4名で参加。

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一人黙々と炎天下摘みとる。「今年は粒が大きいよ」とのこと。終わって摘みとりをして頂いた方々にブルーベリーのなり具合を聞いてみる「あっちもこっちもたくさんあるし、毎日色づくからどこの畑大丈夫」と3連休の摘みとりにつなげる声を頂けた。

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86日早朝平和祈念式典に参加した。

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被爆席に静かに座る。席から平和の灯の大きな炎がめらめらと燃える。式典の最中それ以外ほとんど動きは感じられなかった。どうしてもいまだ行方不明の亡くなった姉のことが脳裏をよぎる。

 2020年8月8日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年8月 7日 (金)

被爆75周年の8月6日

今年も猛暑の8月6日になりました。かつてこの時期にはよく核実験が実施され、熱くなった慰霊碑前の石畳で抗議の座込みをしましたが、その時、ある先輩から「原爆投下後の、この場所の熱さは、今とは比較できないほどの熱さだったことを想像しながら座込んでほしい」と言われてことを思い出します。

朝起きるとすぐ、新聞受けから中国新聞を取り出し、原水禁の意見広告を確認。13面はスポーツ面の隣ですから、目に付きます。一人でも多くの人に思いを共有していただければと思います。これも今年初めての試みです。

テレビに映る平和公園の平和記念式典の様子を見ながら、8時15分に黙とうをささげました。ご近所のお寺の鐘の音が聞こえます。あいさつの中では、湯崎県知事の「抑止力論の誤り」を強い指摘が印象に残りました。

9時前に自宅を出、原爆ドーム前に着いたのが、9時10分頃。すでに「原爆ドームを囲む集い」に参加する人たちが集まっています。

自分たちで作成した横断幕を手にしながら、それぞれが持ち場に移動。9時30分に一周約300メートルの原爆ドームを囲み、両手を広げてのアピール行動です。

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横断幕には、原水禁大会のスローガンやれぞれの思いが書かれています。オンライ中継をするということで、数回アピール行動を繰り返します。初めての取り組みでしたが、見事にアピールできました。

アピール行動狩猟後には、密を避けながら原水禁世界大会藤本泰成副実行委員長のねぎらいの言葉。参加者は、200名でした。

終了後、代表者は「原爆の子の像」へ移動します。今年の大会には、全国から「核兵器廃絶」への願いを込めた折鶴が送られてきました。その一部をこの「原爆の子の像」に献納しました。全国のみなさん、ありごとうございました。「きょうしとこどものひ」などへ、すべての折鶴を献納しました。

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今年は、全国から届く折鶴が少ないということで、地元の企業が折鶴を折り、献納するというニュースが先日報道されていましたが、確かに例年よりだいぶん少なかったように感じました。

折鶴の献納を終えた後、午後1時から始まったオンラインの開会総会を見るため、広島県原水禁事務局がある自治労会館へ移動しました。

自治労会館3階の会議室には、プロジェクターとスクリーンが準備されています。中央実行委員会の役員、広島県原水禁のメンバーで、午後1時ちょうどにスタートしたオンライ開会総会を見ました。「開会総会」のビデオは、これからしばらくの間、視聴可能ですので、ぜひ見てください。

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以下に、開会総会の「広島・アピール」の一部を紹介します。


被爆75周年原水爆禁止世界大会・広島大会「ヒロシマ・アピール」

 1945年8月6日午前8時15分、広島に投下された原子爆弾は、強烈な「熱線」、「爆風」、「放射線」のもと、その年の内に14万人もの生命を奪い去りました。あの日から75年の節目の年を迎え、私たちはあらためて核兵器廃絶への歩みを確実なものにしていかなくてはなりません。今から3年前、2017年7月7日、国連において「核兵器禁止条約」が、122ヵ国・地域の賛成多数により採択され、2020年7月27日現在、批准した国は40ヵ国、署名81ヵ国となり、発効に必要な50カ国に達するまであと一歩となっています。発効を促すためには、とりわけ唯一の戦争被爆国である日本政府が、これまでの態度をあらため批准・署名しなくてはなりません。核兵器廃絶を主張する日本政府は、そのことで世界をリードすべきです。

(中略)

福島原発事故から10年を迎えようとしています。私たちは、原発事故により、放射能汚染を強いられた人々の健康不安、特に子どもの健康にしっかり向き合い、「被爆者援護法」に準じた法整備を国に求めるとともに、原発再稼働や新・増設を許さず、全ての原発の廃炉、再生可能エネルギーへの転換を求めます。

被爆から75年がたちました。被爆者は高齢化し残された時間はわずかです。今なお被爆者が被爆者として認められず、裁判に訴えることが続いています。これは国による不作為としか言いようのない実態を表しています。援護対策の充実と国家の責任を求めることを、私たちの責任として急がなくてはなりません。さらに、親世代の原爆被爆による放射線の遺伝的影響を否定できない、被爆二世・三世の援護を求める運動も重大な課題となっています。

原水禁運動の原点は被爆の実相です。被爆地ヒロシマを体験した私たちは、憲法9条を守り、一切の戦争を否定し、二度と悲劇が繰り返されないよう訴え、行動していきましょう。

「全世界から核兵器をなくす」「二度と核戦争を起こさせない」。私たちは、被爆75周年のいま、改めて、被爆者の訴えであるこの言葉を胸に刻まなくてはなりません。暴走し続ける安倍政権の戦争への道、核兵器依存の防衛政策、そして原発推進政策に抗して、新しい時代を作りあげることを決意します。未来ある子どもたちに「核も戦争もない平和な社会」を届ける取り組みを全力で進めましょう。

ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア フクシマ、ノーモア ヒバクシャ

2020年8月6日  被爆75周年原水爆禁止世界大会・広島大会


エンディングで流れた「原爆を許すまじ」の歌声、広島からたくさんの人たちの協力で録画したビデオを送りましたが、よく編集されていて、聞きごたえ、見ごたえがありました。歌声を届けていただいた皆さん、ありがとうございました。

ちょうど1時間のオンライ集会の中継が終わり、場所を原水禁事務局に移動し、75周年記念事業として企画したビデオづくりの打合せです。来年の春に向けて、最近の動きを加味した「君たちはゲンバクを見たか」のリニューアル版を作ることになりました。

異例ずくめの今年の原水禁大会でしたが、広島大会も何とか無事に終了しました。

いのちとうとし

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2020年8月 6日 (木)

被爆75周年の8月5日

被爆75周年の原水禁世界大会は、例年と大きく様変わりして形で迎えています。

8月5日は、例年ですと「原水禁世界大会」の二日目、朝から市内各会場で分科会が開催され、私もどこかの分科会に参加し、年によっては講師などを務めていました。そして午後は国際会議、連合の平和集会への参加などなど日程がびっしりと詰まっていました。

このブログにも何度か書きましたが、今年はオンライン集会が中心で、5日も当然のことですが、屋内での集会は一切企画されませんでした。この日の午後1時から分科会などが、YouTubeでオンエアーされました。http://gensuikin.peace-forum.com/2020/08/03/online-link-catalogue/から検索することができます。

そんなこともあり、今年は、例年は参加できなかった行事に久しぶりに参加することができました。

最初は、午前10時から始まった「韓国人原爆犠牲者慰霊祭」への参加です。2014年に広島県原水禁の代表委員になって以来、原水禁大会の行事と重なるため、出席できなくなっていましたので、7年ぶりの参加となりました。

会場は、平和公園内の「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」前です。

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式の最初は、「国民儀礼」でしたが、韓国国歌は録音されたものが流され、参加者の斉唱はありません。例年式の冒頭で行われる韓国民族舞踊による追悼の舞も今年は実行されませんでした。コロナ対策と思われます。続いて今年新たに13名が追加され、総数2,773名となったが死没者名簿が、13人の故人のお名前が読み上げられる中、代表の手によって奉納されました。続いて3人の方からの追悼の辞。そして、参列者全員が慰霊碑への献花です。用意された菊の花を手に、私も献花し、深い哀悼の意を表しました。今年の式典には、国連事務局次長で軍縮担当上級代表の中満泉さんも参列されました。

 いったん自宅に帰り、午後1時からは広島県原爆被害者団体協議会(坪井直理事長)の「被爆75年原爆死没者追悼慰霊式」に参加させていただきました。県被団協の追悼式は例年8月6日の午前中にメルパルクで開催されていましたが、今年初めて、日にちが変わり、場所も平和会館での挙行となりました。ごく身内だけでの開催ということを聞いていましたが、近所に住んでいるということで勝手に参列させていただきました。

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黙とうの後、箕牧智之理事長代行の開会あいさつ、続いて坪井直理事長の「追悼のことば」を植田雅軌(まさのり)副理事長が代読。「人類を滅亡させる原爆の悲劇で亡くなった方々の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げます。世界の状況は一喜一憂の断末魔と言えます。コロナ問題、人種問題と言った人類の将来は平面的生き方では成立しません。立体的な情けが最優先です。ともかくいずれの世にもネバーギブアップ」。坪井さんらしい「追悼のことば」でした。植田副理事長は、「追悼のことば」を代読する前に「昨日坪井理事長と電話で話しました。元気のお声で、安心しました」と坪井さんの現状を紹介されました。その後、各界からの追悼メッセージが紹介され、続いて参加者全員が献花をし、「追悼慰霊式」が終わりました。

 午後2時過ぎに、平和公園で共同通信の兼次亜衣子記者の取材(原水禁大会のフィールドワークについて)を受けた後、少し時間がありましたので、原爆資料館1階で開催されている「礎を築く―初代館長長岡省吾」の企画展を参観。狭いスペースですが、充実した内容です。来年の2月23日まで開催されていますので、みなさんにもぜひ見てほしい企画展です。午後3時半に6日の記念式典のリハーサルが行われている慰霊碑前で、原水禁本部の藤本泰成副議長と合流し、慰霊碑への献花。

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広島県原水禁からは、佐古正明代表委員、渡辺宏事務局長そして私が参加しました。例年は海外代表が広島到着時に行っていましたが、今年は海外代表もネットでの参加となり、日本側だけの献花となりました。

夕方6時半から連合広島が行う原爆ドーム前の集いにも参加する予定でしたが、急きょ連合だけでの集会開催に変更となったため、8月5日の行事はこれで終了しました。

今日(6日)は、これから原爆ドーム前に行き、原水禁が主催する「原爆ドームを囲むアピール」行動に参加します。その様子は、明日報告します。

いのちとうとし

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2020年8月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その15) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅱ〕

猛毒ダイオキシンを含んだ枯葉剤を製造したモンサント社

前号(7月5日)で約束した「枯葉剤の毒性と人体や自然環境への影響」について考えてみたいと思います。

枯葉剤は有機塩素系除草剤2..-Tと2.-Dの混合液ですが、2..-Tの製造過程に高濃度のダイオキシン(2.378-TCDD)が不純物として混入します。その枯葉剤を第2次世界大戦末期、対日戦で原爆とともに使用する計画があったことは前号で紹介しました。

化学兵器として軍事利用された枯葉剤の生産を一手に担っていたのが、世界の農薬市場の約50%を占め、遺伝子組換え種子や除草剤ランドアップなどで日本でも知られているモンサント社(注1)です。明治学院大学国際平和研究所訪問研究員のミー・ドアン・タカサキさんは、『ベトナムの枯葉剤/ダイオキシン問題-解決の日はいつ』の中で、「工場での生産を急ぎ、また利潤を増やすために短時間で製造する工程がとられた。低温で13時間以上かけて製造すればダイオキシンは発生しないにもかかわらず、工場は温度を上げ短時間で反応させたものと推定される」と、述べています。

(注1)モンサント社は2018年6月、化学工業製品や薬品製造を手掛ける多国籍企業のバイエルに買収され社名は無くなっています。世界各国で遺伝子組み換えやゲノム操作作物・食品をなくす運動が展開されていますが、日本でも「反モンサント・バイエル世界同時アクション」が取り組まれるなど問題の多い会社です。

製造、使用が禁止された「2.4.5-T」

..-Tは一般名、「2.45-トリクロロフェノキシ酢酸」と呼ばれる広葉用除草剤で、アメリカの植物学者、アーサー・ガルストンが発明しました。ガルストンは大豆の開花を早めるホルモンの合成に着手し、トリヨード安息香酸(TIBA)を発明します。そのTIBAは濃度を高めると落葉を促す性質を持っていました。ガルストンの発明に軍の細菌兵器研究部門が目をつけ、枯葉剤(オレンジ剤)という化学兵器を作り出したのです。

..-Tは日本では1964年に農薬登録されましたが、生物への催奇性作用(注2)を持つことなどから1975年に農薬失効とされました。「毒劇物取締法」で劇物と指定され、製造も使用も禁止されています。

(注2)ある物質が生物の発生段階において奇形を生じさせる性質や作用。(「ウィキペディアフリー百科事典」より)

アメリカは当初から人体への影響を知っており、ガルストンもオレンジ剤の使用に反対していました。人体や環境への影響については次号で報告しますが、その枯葉剤が1961年8月から1971年1月までの10年間、南ベトナムに撒かれ続けました。

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枯葉剤散布(ランチハンド作戦)に出撃する米軍機。10年間に2万回出撃し、243万ヘクタール、南ベトナム全土の20%に散布された。

最後の散布から50年近く経た今日なお、枯葉剤に含まれたダイオキシン(2.3.7.8-TCDD)が、深刻な被害をもたらし続けているのです。環境省のパンフレットによれば、「一般に、ポリ塩化ジベンゾ-パラ-ジオキシン(PCDD)とポリ塩化ジベンゾフラン(PCDF)をまとめてダイオキシン類と呼び、コプラナーポリ塩化ビフェニルのような同様の毒性を示す物質をダイオキシン類似化合物」と呼んでいるとのことです。ダイオキシン類は210種類、ダイオキシン類似化合物が数十種類あり、「毒性があるものが29種類、2,3,7,8-TCDDはダイオキシン類の仲間の中で最も毒性が強いことが知られています。」とあります。

青酸カリの1000倍以上の毒性

「青酸カリの1000倍以上と毒性が強く、人工物質としては最も強い毒性を持つ物質である」と言われ、「ダイオキシン類対策特別措置法」に規定する耐容一日摂取量は〔4pgTEQ/kgbw/日〕とされています。体重1kg当たり、一日に4ピコグラム以下です。1pg=10-12gですので、1兆分の4グラムというとてつもなく小さな値ですが、分光分析技術によって検出できます。ちなみに体重60kgの人の場合、24-10g=24g/1000万です。

1兆分の1gのイメージについて先の環境省のパンフレットには、「東京ドームに相当する体積の入れ物を水でいっぱいにした場合の重さが約1012gです。このため、東京ドームに相当する入れ物に水を満たして角砂糖1個(1g)を溶かした場合を想定すると、その水1ccに含まれている砂糖が1pg(ピコグラム)になります。」と書かれています。私たちには想像もできないほど小さな値ですが、それほどに毒性が強いということです。

世代を超えて幾十年も続く被害

ダイオキシンは水に溶けにくく油脂に溶けやすい性質です。ですから人や動物の乳汁や血液、身体でも特に脂肪組織に蓄積されます。一度体内に摂取されたら、その半分が体外に排出されるまでの半減期は10年~17年と言われています。つまり、一度枯葉剤に汚染されたら20年近く経ってもまだ半分の量のダイオキシンが体内に残留し、40年後にも4分の1のダイオキシンが、60年経っても8分の1のダイオキシンが残っていることになります。

青酸カリの1000倍という毒性を持つ1兆分の1オーダーのダイオキシンが長期にわたり身体を蝕み、細胞を破壊し、様々な病気や障害をもたらし続けるのです。

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「作戦で枯れたマングローブ林とフン少年」(中村梧郎『戦場の枯葉剤』より

 大地に降り注がれた枯葉剤は動植物を汚染し、食物連鎖によって人体に摂取されます。枯葉剤自体は分解しても、水に溶けにくいダイオキシンは湖沼や河川、土壌に潜み、人々の健康と生命を脅かし続けています。

 人体と自然環境への影響、枯葉剤被害の実態に触れられませんでした。次号(9月5日)で報告します。

(2020年8月5日、あかたつ)

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2020年8月 4日 (火)

「市女の慰霊碑」余話の余話

持明院を訪れた後、「証 被爆70周年慰霊の記」が入手したいと思い、広島舟入・市女同窓会事務局(舟入高校内)を訪ねました。事前に電話を入れた時、「学校内には、被爆時のものは何か残っていませんか」と訊ねていましたので、帰る時に次期事務局長(今年度総会で就任予定)の住田恒三さんに案内していただきました。舟入高校もすべてが新しくなっていますので、「原爆遺構」としては、校門を入ってすぐ右に、当時の門柱と壁が保存されているだけでした。

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門柱や壁と一緒に、「市女慰霊碑銘板」があります。2007年に交換されるまで平和大橋西詰の「市女慰霊碑」に設置されていた最初の「銘板」です。住田さんから「銘板に刻まれた名前のうち、何名かが新しく張り替えられていますよ」と教えていただきましたので、その部分を写真に写して帰宅しました。帰宅し写真を拡大して調べると6名の名前が修正されています。設置当時はどんな名前で刻まれていたのだろうかと「広島市女原爆追悼記『流燈』」に掲載された「原爆犠牲者芳名録」で調べてみました。例えば、「須郷光枝」の下に刻まれていた名前が「須郷ミツヱ」だったことが分かります。6名全員について、修正前の名前を確認することができました。

「この岩田明子さんの名前が一番新しく修正されたものですよ」と住田さんから教えていただいていましたので、いつごろ修正されたのか気になり、平和大橋西詰の「市女慰霊碑銘板」を再び訪れ、銘板を確認しました。

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この新しい銘板で修正されている名前は、1名だけでした。「岩田明子」さんです。下に刻まれていた名前は「岩田昭子」さんです。この銘板では1名しか修正されていませんので、他の5名は2007年以前に修正されたことが分かります。住田さんに後日電話でお聞きしたところ、「名前の修正は、ご遺族などからの指摘があったからです。一番最近に修正された岩田明子さんの名前は、2017年にご遺族の方からの指摘を受けて修正しました。」とのことでした。岩田明子さんは、被爆死から72年後にようやく本名を取り戻したことになります。この事実からも、原爆被害の実相を明らかにすることの難しさを改めて知ることになりました。

実は、同窓会事務所を訪れた時、無理にお願いして「広島市女原爆追悼記『流燈』」を2冊お譲りいただきました。今回知ったのですが、「広島市女原爆追悼記『流燈』」は、同じ表紙のデザインで、実は第3編まで発刊されています。「流燈」の初編は、昭和32年(1957年)に200予部が製作されていますが、ご遺族の一部の人のみに配布されたということで、増刷の要望があり、平成6年(1994年)に再刊されました。私の手元にある2冊は、この再刊本と昭和62年(1987年)に発行された第3編です。先の銘板の名前を調べたのは、この再刊本によってです。初編にあたる再刊本の巻末には「原爆犠牲者芳名録」が掲載されていますが、その最後に「(註)この名簿は原爆当時作成した『原爆犠牲者名簿』と『生徒調査票』によったもの。なお原簿自体の正誤は、確認することが不可能だったので、もし誤りがあるときは御許しの程を。」と、その後の修正を予感させるような注意書きが記されています。

もう一つ紹介したかったことは、持明院に関わることです。手元にない「流燈 第二編(本では「続編」となっている)を、県立図書館から借りだし、ページを繰っていきました。34ページに持明院18世光森公宣ご住職が書かれた「慰霊碑追憶と本尊縁起」と題する一文が掲載されています。

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「広島市女原爆追憶の記 流燈」より

この文章を読んでいて、びっくりしました。西福院から持明院に「慰霊木碑」が移動した経緯が記されていますので、そこの個所だけ引用します。

「想えば、昭和24年秋頃、今の原爆資料館真向いの、百米道路南側緑地帯に位置する処にありました慰霊木碑を、当時の国の指示とかとの事で、むやみに取り除かれるところに出くわしたのです。余りの無謀に憤慨し、きつく中止を迫り、早速先生並に遺族の方を尋ね廻り、やっと連絡がつき斜向かいであった、当寺内之移転されることとなったのです。(原文のまま)」その後に、本尊のことや、戸坂に移転することになった時のことなどが書かれています。

光森公宣住職は、私がお会いした文昭住職のお父様だと思いますが、戦時中と変わらぬ「立ち退き強制」する国の姿勢に対し、強い憤りの姿があったことがよくわかります。「追悼碑」であるにもかかわらずです。こうした縁があったからこそ持明院が、臨終の地とは遠く離れた戸坂へ移転することとなった時に「慰霊碑」も一緒に移転し、この地で追悼の行事が営まれ続けたのです。光森公宣住職は、その縁を「これこそ亡き霊の引き合わせでなくてなんであり得ましょう」と書かれています。この思いがあったからこそ持明院と市女遺族会が強くつながり、「ご本尊の寄進」となったのだと思われます。

「市女慰霊碑」が戸坂まで移る経緯を詳しく知りましたので、もう一度持明院を訪れ、思いを新たにしたいと思っています。

いのちとうとし

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2020年8月 3日 (月)

持明院にある市女の慰霊碑―フィールドワーク余話その2

27日の予告からずいぶん時間が経ってしまいましたが、つづき「余話その2」です。

その後、他のお寺を訪れた時同じように境内にある墓地を回って見ました。このお寺の墓地は、2カ所に分かれています。「市女原爆追悼碑」の横と本堂の裏にあります。追悼碑の横は小さな墓地ですのでお墓の数は少ないのですが、ここでも、命日に「昭和20年8月6日」と刻まれたお墓がいくつも目に付きます。

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その後、本堂裏の墓地に廻りました。ここでもいくつも目に付きます。

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こちらには、墓石に割れ目のある古い墓もありますが、新しく作り替えられた墓が多く、市内中心部のお寺より少ないように思います。前回紹介したように、持明院は、1967年に旧中島地区木挽町から、現在地の東区戸坂に移動しています。この移転により現在地は爆心地から5kmの距離にありますが、被爆時は爆心地から500mぐらいしか離れていなかったのですから、「昭和20年8月6日」の命日が多いのも当然のことだと考えられます。

墓地を回っている時、たまたまご住職光森文昭さんにお会いし、いろいろとお話を伺うことができました。額に入れて大切にされている中国新聞社が作成した被爆前の中島地区の地図を手にしながらのお話です。

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真ん中最下段に水平に引かれた紫の線のすぐ上に持明院(赤い囲み)がある

最初は、市女の追悼碑のことです。「遺族が高齢化され、このお寺での市女の追悼式は、50回忌を最後に終えられることになりました。しかし縁がありますので、お寺としてその後も毎年8月6日にこの碑の前で供養をしています」

今度は、このお寺にまつわる被爆の話です。「私の前々住職、祖父も原爆で亡くなりました。あの日、お寺の大事なものを空鞘神社に預けに行く途中の本川土手で被爆したようです。どこかはわかっていませんので、もちろん遺骨も見つかっていません。平和公園の供養塔の中に入っているのでしょう」「実はね、その日、祖父は私の父、前住職を訪ねるため下関に行くことになっていたのです。ところが当日になって体調不良となり、行けなかったのですよ。父は、当時高野山大学の学生だったのですが、学徒動員で兵役に就き、下関から出兵する予定になっていたのです。祖父は、そこを訪ねようとしたのですね。もし下関に行っておれば・・・」。ここでも「もし」のお話を聞くことになりました。

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「お寺の中で、墓石の他に被爆したものはありませんか」と訊ねたところ、「そうですね、見ていただいたと思いますが、墓石にも古いものがありますので、特定したことはないのですが、被爆しているものがあると思います。お寺として保有しているものでは、本堂入り口の手水鉢だけです。江戸時代に作られたものですから、被爆したことは間違いありません。本堂の新築を機会に、みなさんの目にも触れるここに置くことにしました。」大きな手水鉢です。

その後、ご住職にお断りをし、本堂に上がり、本尊にお参りしました。

真ん中のご本尊は、「市女追悼碑」の前にある「説明碑」に「本会寄進のご本尊聖観音像の大非大慈のみ光により」と書かれているように、広島市女原爆遺族会が寄進されたものです。お寺で大切にされていました。

不思議な出会いを体験する持明院探訪となりました。

「市女の慰霊碑」については、新しい出会いがありましたので、明後日のブログで「余話の余話」を紹介します。

いのちとうとし

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2020年8月 2日 (日)

戦後75年 ノウモアウォー 三原地区の19日行動

三原の藤本講治さんから「戦争をさせない三原市民行動通信」が届きましたので、今日はそれを掲載します。

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今回の通信は、「2020年8月発行 第22号」となっていますので、毎月の行動報告や参加の呼びかけがていねいに行われていることが分かります。


「いつか来た道」をたどらないように

被爆75年目の夏、広島・長崎への原爆投下。そして敗戦から75年を迎えました。先の大戦で日本国民310万人、アジア諸国民2000万人以上の尊い命を奪いました。

戦争による惨禍を二度と繰り返してはならないと誓ったのが「日本国憲法」です。この平和憲法があったから、戦後ずっと日本は「戦争しない国」を続けてきました。ところが安倍政権は、集団的自衛権行使を容認し、安全保障関連法(戦争法)を強行成立させ、日本を戦争する国に変えようとしています。

私たちは、平和憲法のもとで日本が戦争という「いつか来た道」をたどらないよう安倍改憲の動きを止めてきました。

みなさん、8月6日、9日、15日を迎える今、あらためて平和について考えていきましょう。広島出身の被爆者サーロー節子さん(カナダ在住)は、広島での講演で「読み、考え、語るだけではなく、行動して。それは誰でもできる」と呼びかけました。

8月の定例街頭行動は8月19日です。

8月19日(水)は、定例の街宣活動です。チラシ配布は行わず、スピーチとスタンディングで訴えていきます。みなさん、17時30分に三原駅前にお集まりください。

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7月の「7・19行動」は、梅雨の晴れ間の中、26人が参加してアピール活動を行いました。7人の弁士が憲法9条の改悪をはじめとする憲法の基本である民主主義・平和主義・基本的人権の尊重を破壊しようとする安倍政権、コロナ危機のもとで安心して暮らせる国の支援策の不十分さ、公職選挙法で逮捕された広島県選出の国会議員河井夫妻、自民党本部の振り込んだ不明瞭な1億5000万円の選挙資金の使途、自民党の金権・腐敗政治の暴挙などを取り上げ、「アベ政治を許さない」と訴えました。


広島市では、「3の日行動」に変更して毎月街宣行動を実施していますが、三原地区では「19日」を定例行動日として、毎月三原駅前で街頭行動が、粘り強くとりくまれています。

三原地区と同じように、府中市でも毎月19行動が続けられており、先月(7月)の様子が届いていますので、遅くなりましたが紹介します。


「今日も上下Aコープ前8人と府中天満屋前10人で30分間のリレートークとスタンディングを行いました。高齢の戦争体験者も一緒に立ってくださり、背筋が伸びる思いです。

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リレートークの内容は『・安保法制の違憲性・イージスアショア中止後の敵基地攻撃能力を持つことの違憲性と危険性・河井夫妻の選挙買収事件で地元県議会議員も大金をもらっていたこと・安倍政権に責任を取らせることは大人の責務であること・市民としてできることがある。投票行動につなげて・75回目の敗戦記念日を迎え、市民が貧困から戦争への道を歩まないよう、格差の解消を』などが語られました。多くの方が車窓から手を振って賛同の意を現してくれました。」


各地のがんばりが伝わってきます。

いのちとうとし

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2020年8月 1日 (土)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (2) ――憲法違反の小選挙区制度 (1) ――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (2)

――憲法違反の小選挙区制度 (1) ――

 

国会や地方議会、そして地方自治体そのものを官僚の天下り先として捉えることで、我が国の政治の劣化の本質をかなり理解できるのではないかと考えていることは前回お伝えした通りですし、それに世襲議員や首長たちが絡むことで、日本社会の非合理性にも納得が行くような気がします。それは、20年を超える長きにわたり、これらの人々とは全く違う環境から出発して、しかしながら例えば同僚としてあるいは同業者として至近距離で政治家の実体を見てきた経験からの結論です。その実態を同じような視点から見詰めて来たどなたかが、具体的なデータ、つまり客観的事実を元に、官僚出身の医事課や世襲政治家の実態と政治の劣化について分り易くまとめてくれないかと、ずっと思い続けているのですが、今のところ私の願いはまだ夢でしかありません。

もう一つの政治劣化の震源である、小選挙区制度については多くの分析があるのですが、ここでも責任を果すべき人たちが、残念ながら動いてくれていない現実に歯痒い思いをし続けています。とは言え、「定期的」に問題提起をし続けることで、より多くの人が問題の深刻さに目覚めてくれることを祈りたいと思います。「定期的」と書いたのは、以下のレポートが『数学教室』という月刊誌に、2015年の9月号から5回にわたって掲載して貰った内容からの抜粋だからです。折角の機会ですので紹介しておきますが、『数学教室』は、数学を楽しく学ぶことで理解を深め、生徒も保護者も先生も笑顔で数学を学ぶ環境を創ろうと、数学の先生方が自主的な研究や創意工夫を重ねた結果を報告する月刊誌です。

本題に入りましょう。小選挙区制導入に至る経緯については、多くの関係者が複数の視点から詳細に経緯を語っていますので、『数学教室』のシリーズで問題にしたのは、少し御桃向きを変えて、小選挙区制導入の経緯と憲法との関係でした。

それは、政界やマスコミがなぜ「政治改革」という名の下に理性を失ってしまったのかという問が出発点です。理性を失ったリーダーたちそしてその追随者たちが怒涛のような攻撃を仕掛けてくる中、私たちは「守旧派」と揶揄されながらも、真実を広めようと躍起になって、民主主義を守るために闘っていました。

そんな状況ではなかなか大局的な姿は見えにくいのですが、今にして思うと、政治家たち、そしてマスコミ人たちを冒していたのは、コロナウイルスにも類似点がある病です。それは憲法を無視し蔑ろにして憚らないどころか、憲法を破壊していることにさえ気付かない無知と鈍感さです。『数学教室』でのミニ・シリーズでは、小選挙区制を通して、特に国会のあり方について、憲法との関連を考えました。さらには、司法の責任についても言及したいと思います。

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《小選挙区制とは》

最初に確認しておきたいのは、小選挙区制度とはどのような制度なのかという点です。諸悪の根源である選挙制度は小選挙区制として知られていますが、正確には小選挙区比例代表並立制と言います。より詳しく説明すると「《相対多数当選式》小選挙区、《拘束名簿式》比例代表、《重複立候補》並立制」です。特に断らない限り「小選挙区制」と略記します。

このように、いくつもの修飾語が付けられているのは、それぞれの箇所で、複数の選択肢があるからです。現在の制度より優れた制度も多くあったことを示すために、まずは、その説明から始めましょう。

まず、《相対多数当選式》小選挙区制ですが、これは小選挙区の中で当選者を決めるに当って、得票数の過半数ではなく、相対的多数の候補者が当選することを意味します。かつての中選挙区の欠陥として、小選挙区論者が主張していた点の一つが、中選挙区制では複数の候補者が当選するので、有権者の一割とか二割くらいの支持しか得ていなくても議席を得られる、これはおかしいということだったのですが、その点は、小選挙区制度導入によって改善されたのではないのです。例えば、5人の立候補者がいて、ドングリの背比べの支持を得ていたとしましょう。一人だけ25パーセントの支持があり、その他の3人は20パーセント、一人が15パーセントの得票があったとすると、25パーセントの票で当選してしまうからです。

これに代る選挙制度としては、例えば、第一回目の投票で過半数を得た候補者がいない場合、一位と二位の候補者、あるいは、一位とそれ以下の候補者の中で調整をして統一候補を選び、二者で決選投票をするといった形があります。

次の《拘束名簿式》比例代表制ですが、比例代表ですから、有権者は政党に投票し、得票率に従って各政党に議席が配分されます。拘束名簿では各政党の決めた名簿に従って上位から議席が決まります。参議院のような非拘束名簿の場合は、候補者名を書いて投票し、その票は所属政党の票として数えられ、合計されたものが政党毎の得票数となります。政党に配分された議席は、個人票の上位の候補者から配分されますので、選挙が終わるまで誰が名簿で一位なのかが分らないため非拘束式と呼ばれます。

小選挙区をさらに複雑にしているのが重複立候補と惜敗率による名簿の順位決定です。一人の候補者が、小選挙区選挙と同時に比例代表式の選挙にも立候補できるのが重複立候補です。惜敗率による名簿の順位決定とは、比例選挙の際に提出する拘束名簿には、重複立候補者の名前を全て一位としてリストしておき、候補者が小選挙区で落選した場合、得票率の多い人を上位にすることで名簿の順位を最終決定し、配分された議席を分配する方式です。

小選挙区比例代表並立制と言っても、かなり複雑な選択肢の組み合わせであることはお分かり頂けたと思います。そこをお伝えしたかったのですが、他の組み合わせを行うことも可能でした。例えば、小選挙区比例代表併用制では、まず、議席の数は政党に投票する比例代表選挙で決まります。小選挙区での当選者は、政党に割り振られた議席に誰が座るのかの優先順位を決める際に使われるという制度です。各政党毎に割り振られた議席にはまず、小選挙区での当選者が優先的に与えられ、それでもまだ埋まらない議席がある場合、政党の準備した政党名簿の登載者に議席が割り振られます。この際、小選挙区での当選者数が比例代表での獲得議席より多いこともあります。その場合には、小選挙区の当選者全てを「当選」させることになっていますので、「超過議席」が生じます。

今回も長くなってしまいました。切りが良いので、ここで一旦お休みにして、次回、8月11日に続きをアップします。

 [2020/8/1 イライザ]

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