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2020年7月13日 (月)

中国から贈られた被爆者支援カンパ その1ー原水禁世界大会への中国代表団の参加

1955年に開かれた第1回原水禁世界大会に参加した中国代表団が、被爆者を支援するため5万元(722万円)を寄付しましたが、今やそのことを知っている人は本当に少なくなっています。

今日から数回にわたって、その経緯をまとめてみたいと思います。

第1回目の今日は、中国代表団が第1回原水禁世界大会に参加した経緯などです。簡単に「第1回原水禁世界大会」と書きましたが、1955年当時にはもちろん「第1回」というタイトルはどこにもありません。その後、毎年原水禁世界大会が開催されることとなったため、後に1955年に開催された大会に冠として「第1回」とつくようになったのです。

さて、これから記載することの多くは、中国新聞に被爆40周年の1985年に連載され、後に本として出版された「ヒロシマ四十年 森滝日記の証言」を参考にしています。

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当初、この原水禁世界大会には、7月現在で米・英・仏・インドなど共産圏を含めて計35カ国、約40人の海外代表が参加する予定でした。ところが、7月29日の中国新聞に「次官会議で8・6世界大会に来日する海外代表のうち、共産圏諸国の代表に対しては『原則的に入国不許可』と決定」という報道がされます。政府方針は「イデオロギーを超えた国際会議」という大会構想を危うくするものだと、直ちに広島から森滝先生をはじめ代表が上京し、「入国許可」を求めて政府への陳情を開始します。8月1日は、園田事務次官などへの陳情活動を行い、夕方には重光葵外務大臣、鳩山首相との面談が実現しますが、なおギリギリまで政治行動を続けるとして、翌日まで東京にとどまります。中国の代表団の一名が、特に問題になったようです。こうした活動が実り、やっと大会初日の8月6日(「広島新史:市民生活編」では8月8日となっている)になり、鳩山首相の政治決断により、共産圏から日韓関係を考慮した北朝鮮代表3名を除き、ソ連6人、中国8人、ポーランド2人、ルーマニア2人、東独1人の計19人の入国が許可されました(国名は、「ヒロシマ四十年」のまま)。二つの資料では許可された日付が違いますが、いずれにしても共産圏からの代表団は、広島での大会には参加できなかったようです。広島大会に参加した海外代表は、結局11カ国50余名(「広島新史:市民生活編」:ただし「年表ヒロシマ 核時代50年の記録」では35人)とされています。このように、原水禁大会初期の頃の記録は、資料によって違いがありますので、さらに調べてみる必要がりますが、とりあえず知り得た情報を出来るだけ併記することにします。

ここからは、中国代表団の動きを紹介します。ようやく入国が許可された中国代表団(団長:劉寧一)7人は、広島での大会が終了した翌日の8月9日に羽田に到着します。その後、大阪、東京での会議に出席し、8月19日にようやく広島入りをします。その様子は、「ヒロシマ四十年」には登場しませんので、中国新聞が1995年に発刊した「年表ヒロシマ 核時代50年の記録」や同じ年に発刊した「被爆50周年写真集 広島の記録」を参照しながらまとめます。

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中国新聞社刊「「被爆50周年写真集 広島の記録」」より 右側が劉寧一団長

 8月19日に広島入りした中国代表団は、市民の歓迎集会に参加し、翌日4班に分かれて市内の被爆者家庭や施設を訪問します。舟入川口町のある被爆者宅を訪れた劉団長が「私たち中国代表団は、あなた方を慰問するために参っています。どうぞ安心して話を聞かせてください」と語ったと「被爆50周年写真集」には、写真と共に紹介されています。

そして広島を訪れる前の8月15日に開催された「原水禁世界大会東京大会」において、中国代表団から世界大会日本準備会に対して、被爆者支援のため5万元(722万円)が寄付されます。

明日は、この中国からの寄付がどのように配分され、広島でどう使われたのかを紹介します。

いのちとうとし

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コメント

中国からの寄付はその後も続きましたね--記憶違いではないことを祈っていますが。

「何故」という疑問にまでは至らなかったのですが、戦争の被害が大きかった中国から、加害者側の日本への寄付の意味が、当時は今一、分りませんでした。今回はその絵解きをして頂けるようなので、楽しみにしています。

イライザさん

コメントありがとうございます。
すですね、中国からのカンパはその後も続いています。
それをきちんと私が知ったのは、1961年に原水爆禁止日本協議会が発刊した「原水爆被害白書 かくされた真実」のあとがきの最後に書かれた「最後に、中国人民保衛世界平和委員会など中華人民共和国7団体による被爆者救援のあたたかい援助が、この事業を成功させるために、大きな力添えになったことを報告し、中国人民の厚い友情に改めて謝意を表します。」という一文です。ただ、いろいろ調べたのですが、続いていたことはわかったのですが、今のところ1955年のカンパ以外の詳細は、わかっていません。もしご存知でしたら教えてください。

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