中国から贈られた被爆者支援カンパ その4ー寄託された支援金の一部は返金されていた
「中国から贈られた被爆者支援カンパ」は、昨日までの3回で終了する予定でスタートしました。しかし、調べているうちに意外な事実(私にとって)を知ることになりました。それが今日のテーマです。
広島市原爆障害対策協議会(以下「原対協」という)が、1991年3月に発行した「30年のあゆみ 被爆者、市民とともに」も調べたのですが、特別に目に付く記載はありません。
次は、調べたのは「広島原爆医療史」です。自宅のどこかにあるはずですが、探すのが面倒ですので、隣の広島公文書館に行って調べることにしました。
この本は、原対協が1961年(昭和31年)8月6日に発行しています。中国代表団の支援カンパが寄託されてから6年目に発行されていますので、何らかの記載があるだろうと期待して、本を開きました。目次で「治療資金の確保」という項目を見つけましたので、まずそのページを開きました。しかし、そこには「発足当時、ハワイ同朋よりの市への寄付金の一部20万円」や、昨日も紹介した1953年にNHKなどが取り組んだ「被爆者救援募金運動」については書かれていますが、「中国代表団の被爆者支援カンパ」、「原水爆広島協議会からの寄託」のいずれでも記載がありません。
1959年4月に完成した初代の「広島平和会館」 写真は中国新聞社提供
それでもと思い探し596ページに次の記載を見つけました。
「12月1日、原水爆禁止広島協議会は、中共総工会よりの救援金のうち金2,000,000円を原爆障害者の治療費として、原対協に寄託した。(注)寄託金2,000,000円は次のとおり検査費ならびに治療費にあて、残金788,027円は、昭和34年12月4日、原水爆禁止広島協議会へ反戻した。」(原文のまま)。次の行には使われた金額の内訳が記載されています。「検査費 自昭和30年12月至昭和32年7月 257人 114,896円 治療費 自昭和30年12月至昭和32年7月 238人 1,097,077円」と。正確には「総工会」(労働組合団体)だけではなく6団体からの救援金です。
私が昨日「意外なその後の事実」と書いたのは、全額使われずに残金があり、後に返金されていたということです。このことは、「平和会館ものがたり」には記載されていません。
そこで「なぜ全額使われなかったのだろうか」という疑問が湧きます。さらに、使われた期間が、昭和32年7月までなのに、返金されたのが2年半も後の昭和34年12月ということです。使われなくなってから返金までずいぶん時間がかかっています。またなぜその間は治療費などに使われなかったのかということも疑問です。
残念ながらその詳細は「広島原爆医療史」には記載されていませんので、今となって解明はするのは難しくなっていますが、出来れば事由を知りたい気がします。
私には、別の疑問もあります。原水爆禁止広島協議会は、なぜ「寄付」ではなく「寄託」したのかということです。広辞苑には、「寄付」とは「公共事業または社寺などに金銭物品を贈ること」、「寄託」は「あずけたのむこと」と書かれています。「寄付」と「寄託」の間には、違いがあるようです。
こんな私の疑問に少しばかり答える文章を見つけました。広島市の刊行物として最後に選んだ「広島新史」です。1981年から86年にかけて資料編を除いて8分冊発行されています。その一編「歴史編」の「原爆被害者救援委員会」(p.132から135)の項で「中国代表団の救援金」が紹介されているのを見つけました。「最終的に200万円を原対協に3条件を付して寄託」したことが記載され、3条件(1、昭和30年12月以降の治療に充当すること。2、治療枠を広げること。3、広島県以外の他府県の患者にも適用すること。)も付記されています。
この3条件があったために「寄付」ではなく「寄託」となったようです。しかし、この3条件は、使い方に制約を加えるというより積極的な意味での条件ですので、なぜ全額使われずに返金されたのか、やはり疑問は消えません。しかし、こうした事実を知ることができたのは幸いでした。
「原爆医療史」「広島新史」では記載されていた「中国代表団の被爆者支援カンパ」が、その後発行された広島市の出版物から消えていることを残念に思います。最も直近に発行(2018年7月)された「広島市被爆70年史 あの日まで そしてあの日から 1945年8月6日」にも、本文はもちろん年表にも記述がありませんでした。
中華人民共和国が建国したのは、1949年です。1955年は、まだまだ建設途上の中国。財政が厳しい時期の被爆者救済のために、その国中国から贈られた中国人民の貴重のカンパは、広島市の被爆行政史の中では、きちんと紹介されるべき出来事だと私は思います。
いのちとうとし
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コメント
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趣旨から考えても、「返金」するのは失礼千万以外の何物でもありません。しかも、1955年の平和宣言には次の一節があるのです。
「6千人の原爆障害者は、今なお、必要な医療も満足に受けることができず、生活苦と戦いつづけており、更に、9万8千人にのぼる被爆生存者は、絶えず原爆障害発病の不安にさらされている。」
保守系の市長として、中国そのものに対する姿勢がこのような行為になったのかもしれません。
投稿: イライザ | 2020年7月18日 (土) 22時08分
イライザさん
コメントありがとうございました。
私も調べていてびっくりしました。なぜ?です。
本当に医療費に苦労していた時期だったはずですから。だから森滝先生や藤居平一さんたちが、いのちが大切と寄託されたのですからね。
指摘されているとおり、中国だからとしか思えません。
最後も出調べてみてよかったと思っています。
投稿: いのちとうとし | 2020年7月22日 (水) 06時32分