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2020年7月11日 (土)

「無責任」の論理構造 (5) ――「説明責任」が「責任」の意味を変えてしまった――

「無責任」の論理構造 (5)

――「説明責任」が「責任」の意味を変えてしまった――

 

「説明責任」という言葉は、英語の「accountability」の訳語ですし、「倫理的な非難」を受けたり「法的責任」を取ったりという結果になることを想定している点が重要です。

にもかかわらず、マスコミも含めて、官僚や政治家たちがあたかも「説明責任」と「責任」が同じ意味を持つ、あるいはそれより酷くて「責任」はどうでも良くて「説明責任」さえ果せば良いのだ、というような感じでこの単語が重用されています。

企業内の関係が一番分り易いような気がしますので、その関係を元に説明すると、何かを任された「部下」に問題があった時、その部下を降格させたり、辞めさせたりといった措置を取る前に、上司が部下に説明を求める、というのが典型的な「説明責任」です。たとえば、「天気予報が外れて、電車が遅れて、その結果遅刻した」というような説明があって、「それなら無理はない。責任は問えないな」と上司が納得すれば一件落着です。しかし、前の晩に飲み過ぎて寝坊をしてしまったのに、嘘の言い訳をして、一緒に呑んでいた同僚の証言でその嘘がばれれば、この部下は当然、責任を取らされます。

時代劇の観過ぎかもしれませんが、この関係をもう少しドラマチックに表現することで、私の言わんとしていることが、正確に伝わるような気がします。

封建的な時代の政治や司法制度を比喩に使うのには、躊躇しますが、「背説明責任」とは、感覚的には「お白洲で申し開きをしてみよ」くらいの意味だと考えると、フロイドさんについての「He should be held accountable」に込められた思いが鮮明になるような気がします。

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「申し開きをしてみよ」という言葉の背後にある前提としては次のようなものが考えられます。

 

  • 明白に疑われるような行為がある。
  • それについて、もし言い訳があるのなら公的な場で申し開きをしなさい。
  • しかも、もし申し開きが不十分であるのなら、その責任を取るという前提での申し開きである。

 

ここで、「お白洲」を持ち出して来て説明しようとしている登場人物の関係を説明しておきましょう。まず、大岡越前の守の代りに「主権者」である国民が座っています。その前に「引き出されている」のが、内閣総理大臣です。脇で、お白洲を取り仕切っているのが国会議員というような図を描いて下さい。

抽象的なレベルでの、内閣と主権者である国民との間の関係がこのようなものであることは憲法15条が保障しています。

 

15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

 

つまり、主権者が公務員に権力を与え、国民のための仕事をするように「委託」するという関係です。その仕事が十分に行われない場合には、公務員は「説明」する機会を与えられるのですが、それが不十分であれば「罷免」されることになるというシナリオがここに描かれているのです。

そもそも「説明責任」が問われる場合には、公務員が満足できるような仕事をしていない「ように見える」という前提があるのです。満足できる仕事をしている場合には、それを続けて貰えば良いだけなのですから、例えばサラリーマン映画なら、例えば小林桂樹が演ずる上司が肩を「ポン」と叩いて「この調子で頑張れよ」で事足りるのです。

満足な仕事をしていないように見える場合に、政治家はその状態について「説明」をする機会を与えられるのです。「答えなさい」と国民に問われた場合には、「答弁する」義務があるのです。そして、その「説明」によって、元々の疑惑が晴れるのであれば、政治家や公務員は仕事を続けられる、というシナリオです。

現実の世界でこれを具体化した場合には、法律があり選挙があるという制度になり、それに従っての行動になりますが、リコール制度は、それを15条のシナリオに近付けています。

つまり、一旦疑いが生じた場合、その疑いを晴らすことができなければ選挙に落ちたり、リコールが成立したりするのですから、「疑いを晴らすのは政治家の責任だ」と言っても、民主主義の精神に反していることにはならないのではないでしょうか。

実は、政治家の方でもこの点はそれなりに理解しているのです。不祥事があると、重大な局面で政治家は「離党します」という表明をするのですが、これは、政党に対しての責任を取っているのです。つまり、自分の行動については誰かに責任を取らなくてはならないという、政治家としての立場は理解しているということなのです。

しかし、憲法の規定による選挙の結果選ばれているという事実――その方が党に属しているということよりは重いはずなのですが――の重要性が蔑ろにされているのは、前回指摘した、99条の憲法遵守義務が「道徳的要請」としてしか機能していない状況の反映かもしれません。

自分は国民からの負託によって権力を行使する立場にいる。それは憲法15条に従って、「全体の奉仕者」としての仕事である。もしその仕事が、国民の満足行くレベルで行われていないと国民が判断するのであれば、自分はその職を辞して、その任に相応しい他の人に変って貰うのが当然である、という心積もりをすることが政治家の責任の取り方だと思うのですが、どうでしょうか。

「無責任」体質の背景にある「憲法マジック」と「説明責任」の存在が分ったとして、ではどうすれば良いのでしょうか。皆さんのお知恵も拝借しながら、一歩ずつ一緒に考えられればと思っています。

 [2020/7/11 イライザ]

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コメント

説明責任と責任が同一単語であるかのごとく《重用》されている... 。
まさしくまさしく、このご指摘に尽きると思います。
お白洲通り越してYの世界なら→指詰めですわな、辞めたくないのなら。

シニア夏休みの宿題
昨年→『数学書として憲法を読む』2019
今年→『沈黙のことば』1966
(先だっての右側のコメント欄開けて👀)
amazon経由→愛凛堂【全古書連加盟店】
〈見返しに書き込み。1966.11.25第1刷。経年なりに良いです〉
↑😲→「○○○○先生 恵存 國広正雄」と!

「硬い心」様

コメント有り難う御座いました。

『沈黙のことば』を楽しんで下さい。

差し上げた本を古本屋で見付けた経験は私にもあります。相手の名前もそのままでした。随分失礼な話ですが、それ以来付き合いはありません。

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