少し理解が深まった「原爆でなくなった大手町国民学校」の理由
6月29日のブログで紹介した「原爆でなくなった大手町国民学校」の真の原因を知りたいと、その後も調べていたのですが、関係する資料を見つけることができませんでした。ところが、たまたまといってよいでしょう、「閉校となった理由」の一つが想像できる出会いがありました。
既にこのブログでも紹介しましたが、「被爆75周年原水禁大会」は、オンライン企画で実施することになっています。その企画の一つとして広島の実相に学ぶ「フィールドワーク」をYouTubeで流すことになり、その撮影が5日、6日に行われました。8月5日から流れることになっていますのでぜひ見てほしいと思いますが、その一つに「袋町小学校平和資料館」があります。
「出会いがあった」のは、事前に撮影許可を申請するため袋町小学校を訪れた時のことです。
校長室で申請書を書きながら、対応していただいた福田忠且校長先生に「被爆前にあった大手町国民学校は戦後再開されることなく閉校となり、袋町小学校に併合されたようですが、何かそのことに関する資料がこの学校にありませんか?」と尋ねたところ、「袋町尋常小学校から大手町尋常小学校が分かれたことが書かれた資料はあるのですが、被爆後の大手町国民学校に関する資料は残っていなのです。ただ、当時の袋町小学校のことを書いた冊子がありますので、読まれるようでしたらお貸ししますよ」と書棚から「袋町地区社会福祉協議会」が昭和57(1982)年7月1日に発刊した「ふくろまち」を取り出し、手渡していただきました。会話の中で、校長先生からその中味の一部を紹介されていましたので、帰宅し早速開いてみました。「袋町小学校のうつりかわり」の中に、次のように書かれています。原文のまま紹介します。
「原爆が落とされて、人気のない学区内で、学校再開の努力はすぐに始められました。奇跡的に助かった先生たちは、数日後傷ついた身体にむちうって、児童をさがし歩き、学校再開に努力しましたが、ふたたび病気になりました。秋から二十一年春にかけて、疎開から帰った先生たちが、『学校がはじまります』というはり紙をして歩いたり、町内のたてなおしに努力する人たちが、明治橋から基町あたりまで子どもをさがして歩きましたが、なかなか集まらず、たいへん苦労しました。十五名の児童がそろわなければ、学校が始められなかったのです。
昭和二十一年五月一日、ようやく西校舎の三階で授業が再開されることになりました(これ以前は、電話局で袋町十名、幟町二十名あまりで授業が始められている。)。焼け残りの板に墨を塗った黒板、鉄骨でがたがたの床、石炭箱という教室に、三十七名の児童で始められました。もちろん学用品はほとんどありません。
こうして昭和二十二年四月、校名は『広島市立袋町小学校』となり、現在につながる新しい教育が始まりました。」
この文章には、大手町国民学校のことは出てきませんが、当時の学校再開(特に爆心地に近いほど)が、どんなに困難だったかを知ることができます。袋町小学校は、爆心地から460mの距離ですから、校区内もコンクリート造りの建物を除けばほとんど全滅といってよいほどの被害が出ています。学校再開のために、「はり紙」をだしたり、明治橋から基町とい広い範囲で子どもをさがして歩いたことが、記載されています。明治橋は、大手町国民学校の校区内の南のはずれです。校区外でも探など子どもを集めることに苦労された様子がわかります。それでも袋町国民学校は、地域や教職員のみなさんの努力があったことはもちろんですが、1棟ですが、コンクリート造りの西校舎が残っており、使える校舎があったことが、学校が再開できた大きな力となったように思います。
当時「十五名の児童が揃わなければ、学校が再開できなかった」ことや袋町国民学校が三十七名での再開されたことも初めて知りました。
こうしたこと積み重ねると「大手町国民学校が再開できなかった」理由が、少しですが理解できたような気がします。
ところで「ふくろまち」には引用した文章につづいてこんな記述がありました。
「しかし、物不足、食料不足は続き、人の骨がでてくるといわれ校庭に、さつまいもやかぼちゃを植えて、食料にしていました。」
太字にしたのは私ですが、改めて原爆の実相を知ることになりました。
いのちとうとし
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