「広島ブログ」

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2020年7月

2020年7月31日 (金)

7月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町)

23日から4連休。雨続きで30日の夕方になって梅雨明けが発表された。雨をベースに時おりのぞく晴れ間というモザイク模様の7月後半の天気。農作業も摘み取りをベースにしてモザイク模様となった。幸いブルーベリーの実のなり具合は不作だった昨年よりはよさそうだ。

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723日(木)。

4連休が始まった。雨交じりの中2組の友人7人が摘みとりにお見えになった。晩生のブルーベリーが甘くなってきたのでたくさんとれ、安芸の郷に納品した。つづく724日は雨で農作業は休みにし、安芸区の自宅でじっとしていた。

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725日(土)も雨が降るが、時折やむのでその合間をぬってブルーベリーの摘みとりを行う。里山のブルーベリー園ではカメと出会う。

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人が動くとカメは首をそっとひっこめたり、きょろきょろ首を動かしたりしている。

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726日(日)。4連休最終日は一日中雨。一人農園にいき雑用に励む。摘み取ったブルーベリーを小屋の畳2枚ほどの小部屋にエアコンをつけて冷やしているが、ドアが隙間だらけなので町内にあるホームセンターでプラベニヤを買いドアの中側に打ち付けて冷気が出ないように補修するなどした。長雨で農道もブルーベリー畑も足元はぬちゃぬちゃだ

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728日(火)。雨の中農園全体のブルーベリーの中で ホームベルという品種だけCDテープでぐるりとまく作業を行う。ホームベルだけ摘み取りするためでこの品種は安芸の郷でブルーベリーソースに加工する時の原料にしている。

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4連休は風も強かった。花壇に咲くオニユリは根元で折れて倒れていたが長く続く雨で枯れずに花はしっかり開いている。丈夫。

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729日(水)。森の工房みみずく・就労継続支援B型から農園にきてカッパを着て、背伸びしてブルーベリーを摘み取る利用者。

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摘み取ったブルーベリーを計量して車に積み込み安芸の郷に持って帰る。帰ると生食、ジャム用に選別される。その後で販売に供される。

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730日(木)。オオシオカラトンボ。こちらはオス。農園の家にある池で

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午後農園の空には大きな入道雲が現れる。梅雨明けの予感。

長雨のせいでまだ草刈りが全部終わっていない。暑い中での作業となりそうだ。

2020年7月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年7月30日 (木)

めげそうで めげてない日々

めげそうで めげてない日々

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「女性リーダーの国だからコロナ対策に成功したのか」という記事読みました。確かに北欧の女性首相たちの国はコロナを抑えていましたが、男性首相の国は爆発的に増えていました。しかし記事は、「性別・年齢・特権ではなく、才能ある人をリーダーとして受け入れる国民性と社会の柔軟性・成熟性が成功を生み出した鍵だろう」と結ばれていました。

 

「いい記事じゃ」と思って他の話題と一緒に友人にラインでシェアをしてみました

…が見事にスル―…

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 政治批判ばかりでは相手に響かないという記事を読んだので、別な角度からアプローチを模索中です…

いつか政治の話も、お茶をするように気軽♪にと希望を抱きつつ…

 Ju

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2020年7月29日 (水)

広島県に「原子力災害時などにおける広域避難」受け入れ計画の再検討を要請

昨日広島県原水禁は、原発はごめんだ市民の会などと共に、コロナウイルス感染対策が大きな課題となっていることを受け、広島県知事に対し「『原子力災害時などにおける広域避難』に関する質問及び要請書」を提出しました。

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その要請、次のとおりです。要請書を筆者が編集しました。


 【質問事項】

1.避難者受け入れ態勢について

①これまで通りの規模で避難者を受け入れには、約5倍の面積が必要となるといった見解もあることから、受入れの施設やスペースの確保についてどのように考えているのか。

②また、避難所数を増やした場合に避難所運営に必要な職員の数も増大するが、その確保をどのように考えているのか。

2.感染症対策について

①感染リスクを下げるため、感染症対策をした避難所を確保することができているのか。

②新型コロナウイルス感染症対策をふまえた「原子力災害時における広域避難に係る避難経由所・避難所運営マニュアル」を作成しているのか。また見直し及び検討をしているのか。

【要請事項】

1.島根原発事故が起こった場合、広島県約17万人の避難者を受け入れる計画になっています。

新型コロナウイルス感染症対策を含めた避難所の確保および運営体制が確立できなければ、現在島根県との間で締結している「原子力災害等における広域避難に関する協定(以下・協定)」の要となっている「避難受け入れの了解」としている前提が崩れることになります。

①原発事故避難者を受け入れる自治体に対して、「新型コロナウイルス対策」を加味した避難者受け入れマニュアルの策定を要請・指示すること。

②受け入れ全自治体の新マニュアルが策定されるまで、現協定を白紙撤回し、策定後改めて協定を締結すること。

③上記、①・②がなされるまで、島根原発2号機の「再稼働」、同3号機の運転開始は認められない旨を、中国電力および関係行政機関に要請すること。


 大雨警報対応などで多忙な中でしたが、広島県からは、危機管理監危機管理課の松崎博之参事他2名が出席し、「質問及び要請書」を受け取りました。

松崎参事からは、冒頭に「事前にいただいた文章には、8月7日に回答するように記載されていましたので、ここでお答えするとしたら、一般論としてしかお答えできません」と発言があり、その上での意見のやり取りとなりました。

松崎参事は「この避難計画は、島根県や関係自治体が計画したもの。現在、コロナウイルスを含め感染症対策を作業部会で検討されていると聞いている。主体的には、それぞれの市町が考えること。この計画が明らかにならない段階で、広島県が検討することは考えていない」と現状について説明。

この発言を巡り出席者からは、「現実問題として、コロナ対策が絶対に必要になっているのだから、受け入れ側として、どう対応できるのか、すべきかを検討することが必要ではないか」「政府もその必要性を認めている」「一人当たりの面積一つとっても、相当確保する必要がある」などの意見が出ましたが、県の答えは、最初の発言の域を超えるものではありませんでした。

率直に言って、かみ合った論議となったとは言えません。ただ、「現実の問題としてコロナ対策(面積だけでなく、体温計さや間仕切りなど)はどうしても検討し実施しなければならない課題」の明確です。

最後に私たちから「例えば島根県と協議する場合でも、広島県としての考え方を持つことは絶対に必要なこと。今日の私たちの意見を含めて十分に検討し、8月7日に文章で回答してほしい。その上でさらに議論深めたい」と要望し、1時間余りの話し合いを終えました。

8月7日の回答を受けて、具体的な検討課題を明らかにしたいと思います。

いのちとうとし

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2020年7月28日 (火)

第39回反核平和の火リレーがスタート

例年より一月あまり遅くなりましたが、昨日、広島県青年女性平和友好祭実行委員会が主催する「反核平和の火リレー」が、今年も午前8時15分、雨の中平和公園原爆犠牲者慰霊碑前を出発しました。1982年に始まったこのリレーも今年で39回を数えます。

「反核平和の火リレー出発式」は、午前7時50分から同実行委員会清水幸展事務局長の司会でスタートしました。献花のあと慰霊碑に向かって全員で黙とう。続いて「平和の灯」から採火された「リレーの火」が、「平和の火よ走れ」の歌声が流れる中、慰霊碑前の到着。リレーのテーマソング「平和の火よ走れ」は、例年広島県音楽サークル協議かのみなさんが演奏しますが、今年は雨が降りしきり、CDで録音された歌声が流れました。

慰霊碑前では、採火した小澤佳弘自治労広島県本部青年部長から第1走者の新田康博実行委員長が持つ、第1走者のトーチに点火されました。

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次に広島県平和運動センター佐古正明議長、広島県原水禁金子哲夫代表委員が、激励のあいさつ。「被爆75周年の節目の年ですが、様々な行事が中止・変更を余儀なくされていくなかで、このリレーの実施が決断されました。例年より短くなった平和の火リレーですが、被爆者の願いを引き継ぎ、核廃絶に向けた声を県内に届けてください」。社民党、新社会党の代表の紹介のあと、松井一実広島市長と広島県原爆被害者団体協議会前田耕一郎事務局長からのメッセージが紹介されました。

「平和の火リレー」のスタートを前に第1走者を代表して新田康博実行委員長の誓いの言葉。「コロナの感染拡大で、今年のリレーの実施をいろいろと検討してきましたが、被爆75周年の大事な年、例年よりも規模を小さくしても実行することを決めました。被爆者の平均年齢は83才超えました。私たち青年女性が、しっかりと被爆体験を継承し、ヒロシマの心を広げるために、今年も平和の火と県内に引き継ぎます。そして一人でも多くの人に8月6日を記憶してほしい」と表明。

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「第39回反核平和の火リレー」は、原爆投下と同時刻の午前8時15分、第1走者の新田実行委員長、小澤佳弘自治労県本部青年部長、一般公募の前田哲さん、青野啓之さん、大嵜華奈さん、佐々木英樹さん、新谷龍一さんの7人が、原爆ドーム前をめざしてスタートしました。

今年の「反核平和の火リレー」は、7月27日から31日までの5日間、50区間53.5kmをランナー100人(目標数)で、県内23全市町をまわります。そして31日の午後5時45分に平和公園慰霊碑前に帰ってくることになっています。

ここ数年、リレーの途中で豪雨に見舞われ、当初予定していた区間を短縮することも多くなっていましたが、コロナ過によって今年は最初から、大幅に縮小してスタートすることになりました。この「反核平和の火リレー」には、1982年のスタート時から、多くの被爆者のみなさんに期待され、激励され、「反核平和の夕べ」での証言活動で協力していただいてきました。しかし、38年経ち、その被爆者の多くが、姿を見ることができなくなっています。

そうした被爆者のみなさんの思いを引き継ぎ、伝える反核平和の火リレーであった欲しいと願わずにはいられません。

いのちとうとし

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2020年7月27日 (月)

持明院にある市女の慰霊碑―フィールドワーク余話

真言宗のお寺持明院は、太田川左岸川土手の道路を高陽方面に北上し、安芸大橋の手前を下ってすぐのところにあります。

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以前にも触れたことがありますが、今年の原水禁大会の企画の一つに、広島のフィールドワークがあります。その一カ所に、平和大橋西詰の平和大通りにある「広島市立高女原爆慰霊碑」を選びました。その事前学習のため、広島舟入・市女同窓会が2015年に発刊した「証 被爆70周年慰霊の記」(以下「証」と略)を読んでいると、広島市立高等女学校(以下「市女」と略)の慰霊碑がもう一つあることを知りました。気になっていましたので、訪ねることにしました。

「証」には、被爆から一周忌にあたる1946年8月6日に、旧中島地区の材木町にあった西福院に木碑の市女の「供養塔」が建立され、その「供養塔」前で学校主催の慰霊祭が行われたと書かれています。西福院は、「原爆当日、生徒たちが建物疎開で朝礼を行った」場所とされています。そして翌年から毎年8月6日には、慰霊祭が行われます。1950年には、西福院が都市計画で百メートル道路の一部となったため、すぐ近くの木挽町にあった持明院に移され、学校主催の追悼会が行われました。その年、「市女遺族会」が結成され、次年までに「供養塔」の建設と7回忌を盛大に行うことが決まります。

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旧中島地区の地図(「証 被爆70周年慰霊の記」より)

一方で1948年には、学校内に「慰霊碑」(最初は「平和塔」の名称)が建立され、それ以降、学校主催の「慰霊祭」は、この碑の前で行われることになったようです。この碑は、1957年に現在地の平和大橋西詰に移転され、毎年8月6日に「慰霊祭」が行われています。1981年からは、舟入市女同窓会主催の慰霊祭となりました。

一方で遺族会によって、1951年に持明院に移された木碑の「供養塔」に代わる石造りの「市女原爆追悼碑」が建立され、8月6日に遺族会主催による除幕敷地7回忌法要が行われました。私が先日訪れた碑は、この1951年に建立された追悼碑です。この碑には「市女原爆追悼碑」と刻まれています。「証」によれば、「学校内にある平和塔と同じものにした」とあります。確かに同じ形をしています。

ところが、1967年になるとこの持明院も「平和都市区画整理」により「境内の5割が減少する」ということで、移転を余儀なくされ、現在の東区戸坂千足に移されました。それに伴い境内にあった「市女原爆追悼碑」も一緒に移設されたのです。「証」に、この碑について記載されているのはここまでですが、50回忌までは、「市女遺族会」によって、ここでの追悼式も行われていました。

経過が長くなりましたが、これからが持明院訪問記です。

持明院にたどり着き、門を入るとすぐの左側に「市女原爆追悼碑」があります。

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まず黙とうです。この碑の右前に、1977年、33回忌に建立された「説明碑」があります。

「証」には、裏面に宮川造六学校長の歌が刻まれていると記されていますので、裏側を見ようと回り込みます。しかし「碑」と後ろの塀の間がわずかなためうらに、残念ながらきちんと見ることはできません。何とかスマホで映したのが下の写真です。

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「教え子を水槽に入れ自らは 覆いとなりて逝きし師あり

 萬歳の声をいまはに倒れゆきし 清き乙女の赤き血の色

ゆきゆきてかえらぬ人の面影を しのびて夜半の木枯らしを聞く」

この歌に詠まれた「教え子を水槽に入れ自らは覆いとなり」という情景は、他校の子どもをさがし来られた桑本トキコさんが、「市民が描いた原爆の絵」の一枚に描いておられます。

下図の上側です。「八月八日材木町・・・市女の生徒皆目玉が飛び出して頬骨の上にかかって居た。教え子を水槽に入れ其の上に覆となって死んで居られる。一女の女先生。思わず合掌。」

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宮川校長は、当日生徒たちを建物疎開現場に引率した後、生徒と判れ、尾長町の県学務課へ行くため、電車で広島駅まで行き、徒歩で移動中に被爆されましたが、原爆死を免れられました。それだけに余計に亡くなった生徒たちへの思いは強いものがあったことが想像できます。

平和大橋西詰に建っている「市女慰霊碑」の裏面には、同じ宮川校長の次の句が刻まれています。

「友垣にまもられながらやすらかに ねむれみたまよこのくさ山に」

 

一回で終わる予定でしたが、少し長くなりましたので、続きは29日以降に報告します。

いのちとうとし

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2020年7月26日 (日)

「広島陸軍被服支廠」保存のための二つのイベント

24日、25日の二日続きで、「広島陸軍被服支廠」の保存をめざす二つの団体のイベントが開催されました。「保存運動」への関心の高さを感じます。

24日は、旧被服支廠の保全を願う懇談会が主催する「講演会」が、午後1時半から広島原爆資料館地下メモリアルホールで開催されました。

講演会のメインは、戦争遺跡保存全国ネットワーク共同代表で、高知県文化財団埋蔵文化財センターに勤めておられた出原恵三さんによる「広島被服支廠倉庫を世界遺産に―戦争遺跡の保存と活用」と題した講演でした。

出原さんは、最初に「戦争の記憶は、『ひと』から『もの』へと移っている」と、「戦争の記憶」は、体験者が高齢化する中で、人が伝えることがどんどん難しくなってきているので、「残された構造物・遺構・跡地」が果たす役割が非常に大きくなっていること、そのためにも保存が急務だということが強調されました。以下は、出原さんの話と私の感想を織り交ぜた報告です。

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戦争遺跡は、全国で約5万件あるといわれていますが、2019年8月現在、史跡など文化財に指定されているのは、296件。実は、戦争遺跡が文化財に指定されるようになったのは、原爆ドームが世界遺産登録されたからです。原爆ドームの世界遺産登録で一番の障害となったのは、当時の文化財指定基準でした。それまでの文化財指定基準は、「建物などの場合100年ぐらい経過していること」となっていたため、被爆後50年しかたっていない原爆ドームは、対象外とされていました。世界遺産に登録するためには、国内法で保護されていることが絶対の条件でしたから、この壁を超えることが必須の要件だったのです。この文化財指定基準を変えさせる大きな力となったのが、165万名の署名だったことを、思い起こしました。新しい指定基準には「戦跡その他政治に関する遺跡」が追加されたことによって、世界遺産登録への道を切り開いたのです。

この原爆ドーム世界遺産登録を契機に戦争遺跡保存の運動が、飛躍的に発展することになったのです。

出原さんはその例として、「沖縄戦をどのように伝えるか」から始まった沖縄の「戦争保存運動の歴史」を紹介し、さらに自らがかかわった高知県の戦争遺跡の保存と活用の運動が紹介されました。高知県では、戦争遺跡の調査を県や自治体が積極に行っているそうです。

出原さんは、戦争遺跡を残す意義を「本物を通して事実を明らかにする」ことができ、「歴史と空間をつないで追体験できること」とし、さらに「残っていれば、当時の状況を身近に考えることができる」と強調されました。そして残された遺跡を通して「75年前にここで何が起こっていたのか。私たちは、遺跡の前に立ち、歴史と空間を共有しながら戦争の悲惨さや愚かさを学び、語り継いでいかなければなりません。」と訴えられました。

そして最後に「戦争遺跡保存の立場からすれば、広島陸軍被服支廠4棟全てを国史跡に指定し、原爆ドームについで世界遺産に追加指定すべき性格のものだということです。これは広島県にしかできない平和事業です。遺跡が保存・整備されれば第二の生命が宿ります。」と保存運動が果たすべき役割を強調し、講演は終わりました。

この講演を受け中西巌代表から「戦争遺跡の大事さを改めて認識しました。少しずつ前進はしているが、つまるところ財源の問題、4棟保存、厳しいけれどこれからが正念場。みなさんの協力を得て、まずは文化財、その先には世界遺産への道をめざして取り組みを進めたい」と決意のこもった閉会のあいさつがあり、講演会は終了しました。

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講演会が終わり資料館の1階に上がると、入り口には入館の順番を待つ長い列が続いていました。現在入館者は、事前に整理券を受け取り、30分ごとに150人に制限されていますので、旅行者が増えると、こうした風景が日常の姿になるかもしれません。

翌25日は、アーキウォーク広島が主催する「旧陸軍被服支廠の見学会」が、午前9時から午後1時まで開催されていましたので、内側に入れるということで、昼過ぎに行ってきました。この日の見学者は、100人ほどだったようです。幸い雨も降らず、見学者は、おもいおもいにカメラを構え、ゆっくりと見学することができました。

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左側が国所有に4号棟、右奥が県所有の3号棟

 アーキウォーク広島が主催する見学会は、8月は8日と22日(いずれも土曜日)の午前9時から12時まで開催されます。参加費無料の自由参加です。現地に足を運ぶことで、そのスケールの大きさを実感することができますので、参加をお勧めします。

いのちとうとし

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2020年7月25日 (土)

原発「賛成・反対」と避難計画

これから書く話し、もう何十年も前から原発反対運動の中で議論が続けられている問題です。

政府は自治体に対して、原発が事故を起こした時のために「避難計画の策定」を求めています。原発事故によって避難を行う事態になった時、避難計画の策定も実行も、事故発生の責任者である電力会社ではなく、自治体が行うことになっています。避難計画の承認が得られないと「再稼働」も出来ないのです。

さて本題に入りますが、避難計画をきちんと策定するようにという内容の、広島県知事への要望書(案)を作成し、他の団体の方に賛同をして頂き、一緒に参加してもらいたいお願いをしていました。

そこで議論になったのが、「避難計画が策定されれば原発を認めるのか。再稼働を了解するのか。私は避難計画の有無に関わらず原発に反対だ。だからこの要望書には賛同できない」という意見が寄せられました。このロジック(論理・論法)は当然ですし、僕も避難計画が策定されれば、原発を認めるという考えではありません。

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島根原発が事故を起こし、住民が避難をするという事態になったとき、広島県には約17万1千の人たちが、避難してくることになっているのです。昨年実施された防災訓練では、バス2台に乗った「被災者」約90人が、スムーズに通行できる高速道路を通り、広島市内にやって来ました。

実際に避難を必要とするような場合、病気の人、高齢者、障がい者、外国人、刑務所などに収容されている人など、様ざまな人が避難する必要があります。手配する車、放射線量の測定、道路の状況などなど、解決不可能な課題がたくさんあり、「実効性の無い避難計画」とも言いますが、その通りです。

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特にこの度の新型コロナ感染防止という問題が付きつけられた中、コロナと放射能災害という「複合災害」を想定した時、このままの避難計画で良いのだろうかと疑問を持っていました。

だから現在広島県が島根県との間で締結している「防災協定」を白紙に戻して見直しを行い、それに基づく「防災協定」「避難マニュアル」が策定されるまでは、島根原発の再稼働や運転開始をしないように関係行政機関(この場合は島根県・国)や中国電力に求めること、という要望書を作ったのです。

これに対して、「避難計画が策定されれば、原発を認めるのか」という意見が投げかけられたのです。当然の意見ともいえます。

その意見を知った上で言わせてもらいますと、広島県の中で原発に反対する行動をしている者としては、唯一とは言いませんが原発問題で、行政機関と「取っ掛かり」を持てることは、この避難に関わることだと考えるのです。

これまでの広島県とのやり取りの中でつくづく感じるのは、県の姿勢に「他人事」というのを嫌になるほど思うからです。それは避難者を直接受け入れる各市町にもあります。私は各市町に「避難所運営マニュアル」を策定するように求めてきましたが、やっとという感じで6市町において策定されました。

久しぶりにこういう「避難と原発」の議論が出来たことの意味は、とても有意義なことでした。「原発の無い社会を作ること」、意見や考え、行動のやり方はお互いに認め合い、様ざまなことが重なり合いながら行われることで、課題が実現するのではないでしょうか。ぜひ、皆さんの意見もお聞きしたいものです。

木原省治

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2020年7月24日 (金)

「中国からの被爆者支援カンパ」余話

先日、中国平和軍縮協会の友人に、長江の洪水被害のお見舞いのメールに、このブログに連載した「中国からの被爆者支援カンパ」の原稿を添付して送ったところ、お見舞い対するお礼と共に次のようなメールが返ってきました。

「『中国から贈られた被爆者支援カンパ』と毎日新聞の記事を全部拝読させていただきました。

第一回原水禁世界大会に参加した中国代表団の劉寧一団長がその後中共中央対外連絡部の副部長も勤められ、中国人民保衛世界平和委員会は中国人民平和軍縮協会の前身とも言われる存在なので、先生が文書で披露された内容は私達にも貴重なものです。1955年中国代表団が原水禁世界大会に参加したことを原水禁との交流の記録で知っておりますが、恥ずかしながら、5万元(722万円)を寄付したことを知りませんでした。

先生の文章の最後に書いてあったように、1955年の中国は建国して六年目に入り、抗米援朝戦争が終わって間もない時機で、極めて困難な時です。5万元というのは相当な大金です。それは日本の被爆者に対する中国人民の心込めた寄付だと65年後のいまの私がそれを読んで胸が熱くなりました。中日友好の仕事をライフワークにしてきた人間として、本当に誇りに思います。」(私の名前だけ削除し、他は原文のまま)

文中にある「毎日新聞」は、1985年7月25日の新聞記事です。この新聞記事を添付したのは、1985年に原水禁が初めて派遣した被爆者訪中団に同行したフリーライターの竹内真理子さんが、「中国からの被爆者支援カンパその2」に書いた「中国の援助は、被爆者に対する日本政府の関心を呼び起こし、『原爆医療法(昭和32年4月施行)への大きな力となったはずだ』」ということを団長の森滝先生が、中国で話されたことを詳しく紹介されていたからです。この1985年の訪中団について、竹内さんが雑誌「世界」の1985年9月号に「中国を訪れた被爆者たち」と題して、もっと詳しく書かれていますので、いつかこの被爆者訪中団についても報告したいと思います。

ところで中国の友人からは、第2信がきました。「中国では『初心を忘れず氏名を胸に刻み込む』という言葉がありますが、これを中日関係にも適応ではないかと思いますね。65年前の出来事は戦後両国関係の初心を示す原点でもあると言えるでしょうね。

先生の文章を中国語に訳して協会の皆に読んでもらい、資料として残したいと思います。」(原文のまま)

このメールを読みながら、「原点に返ることの大切さ」を教えられるとともに、イライザさんから頂いたコメントを思い出しました。友人が指摘しているように、中国にとっても当時は「相当な困難な時、5万元も相当な大金」だったのです。しかも、中国からの支援は、その後も続いたのです。イライザさんのコメントにお返ししたコメントをここで改めて紹介します。

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私が確認できたのは、1961年に原水爆禁止日本協議会専門委員会が発刊した「原水爆被害白書 かくされた真実」の「あとがき」の最後の部分「最後に、中国人民保衛世界平和委員会など中華人民共和国7団体による被爆者救援の国際的なあたたかい援助が、この事業を成功させるために、大きな力添えになったことを報告し、中国人民の厚い友情に改めて謝意を表します。」を読んだからです。

被爆者運動の歴史に詳しい人数人に、「中国からの支援はいつごろまで続いたのですか?」「この白書の他に、第2回大会以降の中国からの支援金について書かれた文書をご存知ないですか」と訊ねたのですが、今のところ、残念ですが、いずれも明快な答えを得ることはできていません。

付記すれば、この白書は、1958年の第4回原水禁世界大会の決議を受けて調査団が結成され、第7回原水禁世界大会を目前にした時期に発表されたものです。調査団長は、石井金一郎日本原水協専門委員ですが、調査委員長は森瀧市郎日本原水協代表委員となっています。

イライザさんからは、さらに「その4」に、「趣旨から考えても『返金』するのは失礼千万以外の何物でもない」ことを指摘し、「1955年の平和宣言」の一節を紹介しながら「保守系の市長として、中国そのものに対する姿勢がこのような行為になったのかもしれません。」とコメントをいただきました。私も、その通りだと思います。

「その4」を読み直してみると、奇妙な事実に気づきました。「寄託金が使われたのが、昭和30年12月から昭和32年7月まで」であるのに、なぜか返金されたのは、それから2年以上たった昭和34年12月4日だったことです。「広島原爆医療史」には、なぜ遅くなったかの理由は書かれていません。2年以上も返金が遅れた事実が、イライザさんの指摘を証明しているように私には思えます。

いのちとうとし

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2020年7月23日 (木)

7月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

7月下旬にさしかかった農園はとにかく緑が一面に広がる。陽がさす時も日陰の時も近くでも遠くでも濃淡いろいろ、緑を青と呼ぶ日本の言葉通り感じる色合いは盛夏の青、青、青。この時点で梅雨はまだ上がっていない。安芸の郷の利用者、職員による農園でのブルーベリー摘み取りの研修も21日から始まったが、天気を気にしながらそうはいっても広い農園の空間で作業を兼ねた研修なので事業所とは違った体験をしてくれている。肝心のブルーベリーの味はやはり日照不足で甘みがすこし足りない。

7月中旬の長雨で農園の3つある畑では畔の高さまで雨水が来たようで法面の弱いところから水があふれて小さな決壊があったがブルーベリーのダメージはなかったのでよしよし。あとはそろそろやってくるかもしれない鹿の動向が課題。

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18日(土)。

①ブルーベリーの畑(もとは水田)のブルーベリーは人が立っていても少ししか見えないくらい枝がよく伸びている。

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②友人2人が摘み取りの援農で来園。おもに早生のブルーベリーの摘み取りをして頂いた。

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③ブルーベリー畑の電気柵に巣を作っているコガネグモ。

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④小さな野菜畑の法面の富有柿の枝に小鳥がきた。ヤマガラのよう。他にメジロも来たし、隠れた場所でウグイスが絶え間なく鳴いている。

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19日(日)は21日から安芸の郷のブルーベリー摘み取り研修が始まるので受け入れの準備に追われた。新しく一回り大きくしたタープテントを2張り設置し、組み立て式のテーブルも置いた。縁側にはコンテナを置き板を椅子代わりに敷き、離れの部屋の掃除を行ういブルーベリーを入れるコンテナも蔵から出して縁側に置くなどした。

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帰る前の30分ほど早生のブルーベリーを摘み取り安芸の郷に納品した。ダローという品種で平べったい粒で酸味が強いが大きい粒になると優に10円玉大になる。安芸の郷でつくるブルーベリーのスイーツ向き。

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21日。

①安芸の郷のブルーベリー摘み取りの研修初日は3名が来園。農園からも同行していろいろな説明をし早生のブルーベリーから摘み取りを実施。2時半頃終了したがその頃から夕立まがいの雨がしばらく降った。

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②研修の摘み取りは安芸の郷のみなさんが行う傍らで、ブルーベリー畑の一番下から木と木の間の草刈り。

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③農園の庭のヤブランの花

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④バラの花の中でジィーッとしている虫(名前知らず)。キリギリスももう鳴いているのでこの虫も鳴くのかもしれない。安芸の郷の周辺では3日前からクマゼミがシャンシャンと朝から騒がしく鳴く季節。

2020年7月23日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年7月22日 (水)

「参院選1年ヒロシマ・アピール行動『さよなら安倍政権』」

「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」は、7月の「3の日行動」が、当日の大雨で急きょ中止となったため、来月「8月の3の日行動」を兼ねて、昨日「参院選1年ヒロシマ・アピール行動『さよなら安倍政権』」のタイトルで、広島市民へのアピール街宣行動を実施しました。

ちょうど1年前の7月21日は、安倍首相の1億5千万円という異常な資金提供によって行われた河井被告夫妻による大掛かりな買収選挙が行われ、その結果河井安理被告が当選した参議院選挙の投票日でした。しかし、安倍首相も「責任を痛感する」とは言いながら、「説明責任」を全く果たさず、被告である河井夫妻も、何の説明もしないまま、ただ「選挙違反はしていない」と繰り返すだけです。そして、多くの国民、とりわけ広島県民の「議員辞職」を求める声に背を向け、居座り続けています。

通常国会が閉会されたからすでに1カ月以上が経ちますが、一部の委員会で「閉会中審査」が実施されているとはいえ、安倍首相が、その場に姿を現し、答弁に立ったことは一度もありません。そればかりか、深刻な豪雨災害、再びコロナウイルスの感染拡大が危惧されているのもかかわらず、記者会見すら開かず、ここでも「説明責任」を全く放棄しています。

こうした「安倍政権」の政治姿勢は、絶対に許されるものではありません。参議院選挙から1年、改めて市民のみなさんに問いかける街頭宣伝活動を行うことになりました。

午後5時半からいつものように本通電停前で始まった街頭行動には、55名が参加し、「#さよなら安倍政治」や「安倍はやめろ」「もらった議員は辞職せよ」と書かれた横断幕を掲げて、帰宅途中の通行人にアピールしました。

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マイクでのアピールは、まず川后和幸共同代表が、今日の行動の意義を訴え、次は、河井夫妻被告の地元安佐南区で「河井疑惑を質し、議員辞職を求める」行動を展開している山本紀子さんの「このニュースを聞くたびに腹が立ちます」という怒りの声からアピールは始まりました。今回の買収事件では、すでに首長3人、自治体議員5名(9月の辞職を表明を含む)が辞職し、その責任をとっています。にもかかわらず「説明責任も果たさず議員職に居座り続ける」河井被告夫妻に、厳しい声が飛ぶのは当然のことです。同じようにお金を受け取っていながら、説明もしない自治体議員の責任も厳しく追及されて当然です。

2番目は、「戦争法の違憲訴訟」を中心的に担っている松岡幸輝弁護士のアピール。「違憲の安保法制、5年経って忘れる人もいるかもしれませんが、決して忘れてはいけない法律。あきらめてはいけません。言い続けることが大事です。」と訴えました。次に生活者支援を続ける寺西環江弁護士が、自らが受けているコロナ禍で苦しくなっている暮らしの相談実態、特に母子家庭で起きていること(働く場所が見つからない)を紹介しながら、政府による早急な施策の実施を訴えました。次にピースリンク広島・呉・岩国の新田さんが「イージスアショア問題」を訴えました。さらにこの会の共同代表の一人である山田延廣弁護士が、「民主主義の原則は、『市民の、市民のための政治を進めること』。しかし安倍首相は、自分のお友達のための政治を進めている。民主主義の基本を否定する安倍政治を終わらせましょう」と厳しく指摘しました。

最後は私の一言。しかし3分しか時間がありません。「九州をはじめとした豪雨災害、2年前の広島を思い起こします。コロナの感染が再び拡大しています。この大切な時期に、国会を閉会したままでは、国民の不安にこたえる政治とはとても言えません。今国民が求めていることは、第1次のコロナ感染対策で不足していた、いのちの問題にきちんと対処した医療体制を早急に確立し、国民の安心を作ること。国会閉会させたままで、この緊急課題への政策も示さず、国民の声に答えない安倍政権に政治を担う資格はありません。だからこそ『さようなら安倍政権』です。市民のみなさんが声を上げることで、安倍政治を終わらせましょう」と呼びかけて、アピール行動を終えました。

いのちとうとし

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2020年7月21日 (火)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (1) ――小選挙区制度と政治家の供給源――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (1)

――小選挙区制度と政治家の供給源――

 

「百害あって一利なし」状態の安倍政権ですが、それでもまだ権力の座にしがみ付いている姿は、醜いだけでなく哀れです。とは言え、出来るだけ早く引導を渡さなくてはなりません。そのためには何ができるかを考え実行することも大切なのですが、今回は、より大局的な見地から、これほど長く政治の劣化が続いてきてしまっているのは何故なのかを考えたいと思います。

本シリーズでは、二つの「震源地」に的を絞ります。小選挙区制度と、政治家がどのような集団から供給されているのか、つまり、政治家の供給源の二つです。両方とも深刻な問題ですし、その解決のためにはかなりの時間が掛りそうです。たとえば、小選挙区制実現のために、自民党はほぼ半世紀を掛けて努力を重ねたのですから、それを元に戻すのにも同じくらいの時間が掛ってもおかしくはないからです。

人材の供給システムも、それ以上の歴史を持っているのですから一筋縄では解決できません。でもまずは、目標に向けて「出発」しなければ何も起こらないのですから、その準備として現状の把握をしたいと思います。

今回は、人材の「供給源」という震源地を取り上げます。それは、政治家として活躍している人たちの前歴が何だったのか、そもそもの出自はどこなのかを問うことです。大きな供給源としてすぐ頭に浮ぶのは三つのグループです。

一つは、二世・三世も含めた世襲議員・政治家です。もう一つは、官僚出身の政治家です。そしてもう一つは、松下政経塾の出身者です。時代遅れの大買収事件を起した河井克之元法相も松下政経塾出身です。

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三世議員の岸田文雄氏

いっぺんに全ての事実を並べてもインパクトが薄いと思いますので、まずはあまり注目されない上に、問題視もされてはいない、しかしながら、やはり放っては置けないデータから始めましょう。それは、全国47都道府県の知事はどのような経歴の持ち主なのかということです。大変分り易いサイトがありますので、それを御紹介します。nippon.comのjapan dataです。ここには実名入りで、全知事の6割が元高級官僚であったことが表として掲げられています。官僚の天下り先として、地方自治体の首長という、目立たないけれども政治的社会的には大きな影響力を持つ受け皿があったということなのです。

  もう一つ、広島県民にとっては身近な「常識」なのですが、衆議院の広島1区から7区まで、そして、広島選挙区から選ばれている4人の参議院議員について、どのような経歴または出自で議員になっているのかを見てみましょう。

    


選挙区


議員氏名


所属政党


世襲議員?


官僚出身?


松下政経塾出身?


その他


1区


岸田文雄


自民


三世


 


 


 


2区


平口洋


自民


 


国交省


 


 


3区


河井克之


自民


 


 



 


4区


新谷正義


自民


 


 


 


医師


5区


寺田稔


自民


池田勇人の次女の
婿養子

財務省


 


 


6区


佐藤公治


希望


佐藤守良の次男


 


 


 


7区


小林史明


自民


 


 


 


NTTドコモ


参院広島


宮澤洋一


自民


宮澤喜一の甥


財務省


 


 



柳田稔


国民民主


 


 


 


神戸製鋼



森本真治


国民民主


 


 



 



河井案里


自民


河井克之の妻


 


 


 

 

  比例代表は省きますが、選挙区選出の11人中、8人は、政治家の三大供給源出身者です。広島県は非常に保守的な地域ですので、これほど極端な傾向が全国の縮図だとは言えませんが、それでも、圧倒的多数の議員が世襲か、元官僚か、松下政経塾出身者であるという事実は、政治の質と大きい関係があると考えてもおかしくはないはずです。それ以前に、民主主義そのもの、特に選挙によって、それも小選挙区という制度の下に行われる選挙によって選ばれるという現実を踏まえると、このまま看過してしまって良いことではありません。

次回はこの続きです。

 [2020/7/21 イライザ]

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2020年7月20日 (月)

「被服支廠を未来に活かす会 KICKOFF EVENT」に参加しました

昨日午後1時半からRCC文化センターで、広島陸軍被服支廠の保存をめざす新しい組織「被服支廠を未来に活かす会」(以下、「未来に活かす会」と略)のキックオフエベントが開催されました。「どんな活動をするだろう」と少し関心がありましたので、参加することにしました。

この会は、広島県の「被服支廠1棟保存、3棟解体」の方針が示されたことを受け、「県の方針を撤回させ遺構を存続させるために、内外に訴え発信し、保存と共に有効活用を願う」有志が集まって発足した組織です。

中国新聞の予告記事によれば、コロナウイルス禍の開催なので、先着50名限りとなっていましたので、少し早めに会場に行きました。参加者は50名を超え、廊下を開放しての集いとなりました。

最初に「保存のための募金」が呼びかけられました。「カープのたる募金に倣って、倉庫募金箱を用意しました。共に生きるワンコインです」募金箱は、広島工業大学杉田宗准教授のゼミ生が、200分の一の縮尺で作ったものです。それが、会場を回ります。

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広島陸軍被服支廠の保存運動を早くから取り組んできた「旧被服支廠の保全を願う懇談会」の代表中西巌さんから「我々の同士が増えたと喜んでいる。どんなことがあっても残さなければならない。これは私の意見ではなく、亡くなった人たちの声なき声、血のにじむ声です。県は、考えを変えていない。これを変えさせるため一緒に声を届けてください。」と連帯のあいさつ。

続いて、「ひろしま音読の会」の3人による「原爆詩人峠三吉『倉庫の記録』」の朗読。

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ひろしま音読の会は、元アナウンサーたちによって2000年に結成。日本語の美しい響きを再発見するとともにヒロシマを語り継ぎ、被爆体験を継承することを活動の柱にしているとのことです。

次は、被爆者切明千枝子さんの証言。今回は会の趣旨に合わせ、自らのからの子ども時代の被服支廠での体験が中心でしたが、後半はやはり被爆体験の話です。一月ほど前に切明さんの話は聞いたばかりですが、やはり何度聞いても胸を打たれる被爆体験談です。

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そして最後の「平和は座っていれば来るものではない。必死に守っていかなければ守れるものではない。最近の空気は、戦前の雰囲気に似てきているように感ずる。今の平和があるのは、憲法9条のおかげです。それを変えようとする政治家がおり、ゾクゾクと感じるこの頃です。」の訴えは、90歳の年を感じさせない力強いものでした。

プログラムの4番目は、RCCが被爆40周年に作成した特別番組「瓦礫の中からー広島経済復興史―」のビデオ上映。「未来に活かす会」の代表三宅恭治さんが、ディレクターとして作成した作品でしたが、被爆後の復興に関わった経済人へのインタビューで構成されていました。これまで見てきた「被爆関連番組」とは違う角度から取り上げられた作品で、復興期の歴史を知ることができました。

閉会のあいさつは、会のメンバーの一人久永洪さん。久永さんはかつて被服支廠に製品の包み紙を納入していた株式会社歴清社の相談役。「広島平和都市建設法の第1条には、『この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする。』と書かれています。今の広島は、その理念が本当に生かされているでしょうか。被服支廠は、絶対に保存し、世界に平和を訴える象徴の施設として活用されるべきです」とあいさつされました。

「広島市平和都市建設法」がビデオと合わせ2度も登場する集会となりました。「陸軍被服支廠の保存」をめざす集会で、「広島市平和都市建設法」が登場したのは初めてのような気がします。

この集会に参加し、改めて「広島陸軍被服支廠の保存」を求める声の広がりと関心の高さを実感することができました。

今月24日(金)午後1時30分から「旧被服支廠の保全を願う懇談会」主催の講演会が、広島原爆資料館地下メモリアルホールで開催されますので、一人でも多く参加してほしいと思います。

それぞれの組織が、自分たちの得意の分野を生かしながらも連携した動きを作ることによって「広島陸軍被服支廠の全棟保存」を実現させなければなりません。原水禁もその一翼を担いたいと思います。

いのちとうとし

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2020年7月19日 (日)

高齢者の運転免許証更新

今月は、私の誕生月です。先月「運転免許更新連絡書」が届き、誕生日前の14日に県運転免許センターで運転免許証更新手続きを終えました。

運転免許センターに着き、更新手続きを始めてから約20分足らずで、新しい免許証を受け取ることができました。これまでにも何度か更新手続きをしましたが、無事故無違反での免許証更新でも、1時間近くかかっていたような気がしますので、ちょっとびっくりでした。

「人が少ない時間に」と平日の午後2時過ぎに行ったということもあり、1番窓口に並んでいる人もほんの数人です。更新申請書の作成、手数料2500円の支払い、更新申請書への必要事項の記入、更新受付、視力検査、そして写真撮影。と行くと思っていたのですが、この撮影前に、今回初めて経験するもう一つ作業がありました。それは古い免許証にパンチングの機械で穴をあける作業です。パンチングの機械の奥まで免許証を押し込むと、ガシャという音がし、免許証に穴が開きます。4つの穴が開いた古い免許証が、手元に残ります。

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そして、いよいよ写真撮影。

とここまでは、全員同じです。高齢者以外の人は、それぞれの講習会場へ移動します。私も以前の経験したことです。しかし高齢者講習受講済みだった私は、写真撮影の部屋を出たところの交付窓口附近に設けられたイスに腰かけ、交付を待ちました。私の他に3人いました。時間を測っていると約5分余りで私の名前というより受付で付された番号が呼ばれます。先ほどパンチングで穴の開いた古い免許証の裏に赤字で書かれている数字が私の番号です。番号を呼ばれた私は、それを示して新しい免許証を受け取り、運転免許書更新手続きの全てが終了しました。4つの穴の開いた古い免許証も持ち帰ることになります。

受け取った運転免許証の有効期限欄には、「2023年(令和5年)08月18日まで有効」と書かれています。ゴールド免許ですので、普通なら有効期限は5年間のはずですが、私は、75才までの3年間です。ここで、自分が高齢者運転免許証の所持者だということを思い知らされます。

ところで、帰宅して改めて運転免許証を見て気づいたことがあります。有効期限欄の年号の記載が変わっています。私の古い免許証では上にある写真で分かるように「平成32年」と、和暦だけで有効年が書かれていますが、新しい免許証には、下の写真のように「2023年(令和5年)」と西暦で書かれています。

Photo_20200717175802  

「西暦の年号表示」、当たり前と言えば当たり前のことですが、何時からそうなったか調べてみました。道路交通法の改正によって昨年5月1日(実際には4日)から実施されたようです。昨年5月1日は、和暦が「平成」から「令和」に変わった時です。警察は、「外国の人が運転免許証を保有する機会も多くなっており、さらにこれからも増えていくことを見越した施策」と言っているようですが、和暦では年数を数えたりするのが、難しくなったからと考えるのが普通だと思います。

このブログの初めのところで、「約20分足らずで免許証更新が終わった」と書きましたが、私が今回の更新に「高齢者講習修了証明書」を持参していたからです。実は、半年ほど前に「70歳以上の人の免許証更新には、『更新手続き前に高齢者講習の受講が必要』」というお知らせが届きました。自動車学校の高齢者講習は混んでいると聞いていましたので、すぐに申し込みの電話を入れ、何とか3か月先の5月11日の予約を取ることができました。これで安心と思っていたのですが、実は大変なことが起こりました。コロナ感染の拡大です。自粛要請の中で、自動車学校も休校となったのです。「えーっどうしよう。また予約のとりなおしか」と気をもんでいましたが、幸いなことにちょうど私が予約していた5月11日から自動車学校が再開されたのです。おかげで何とか無事に「高齢者受講修了証明書」を手にすることができました。しかし、この高齢者講習、何と2時間もかかりました。ですからとても「約20分で更新手続き終了」などとは本当は言えません。その上、大した内容でもないのに受講料は5,100円と高額でした。

とは言いつつ、何とか75歳の誕生日までの免許証更新手続きが終わり、あと3年間は車の運転ができることになりました。

いのちとうとし

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2020年7月18日 (土)

COVID-19と制服

2月の最後の土曜日、わが子の小学校生活最後の参観が中止になり、そのまま学校は休業になりました。小学校最後の年だったのに、一度も参観へ行けなかったことを私は後悔しました。

開催が心配された卒業式も入学式も短時間で行われ、制服がかわりました。

そして1週間登校したでしょうか?再び休業となりました。

休業の間、校区内の見回り、子どもの様子を確認するための電話や家庭訪問、予習プリントの各家庭配布など、これまでにない状況の中で、できることを先生方はしてくださいました。子どもたちも外出を控え、友達にも会えずストレスを抱えていたことと思います。

外出を極力控えての巣ごもり生活。食事や毎日の準備など大変なことも多かったですが、ずっと放置していた家のまわりの片付けができました。

びっしりと根を張った草を抜き、人が立ち入れないところは土を削り、防草シートと砂利を敷きました。レンガを置いて花壇らしきものを作り、窮屈なプランターに植えたままの花を移植しました。放置しすぎて枯れているかもしれない睡蓮の根にも水を張り、伸び放題の木の枝も切りました。

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移植した花はきれいに咲き、睡蓮は葉を水面に浮かべ花を咲かせました。

家の花がきれいに咲いているところをゆっくりと見たのは久しぶりでした。

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そして6月、学校が再開。制服は夏服になっていました。

育ち盛りのわが子は休業前からグンと背が伸び、今にも追い越されそうです。

冬服はあまり着る機会の無いまま、秋には袖や裾を伸ばさないといけないかもしれません。

時が経ち、残念ながら家の周りの草も伸びて、がんばって敷いた砂利の隙間からも顔をのぞかせています。思うようにはならないものです。

 

私が小さなころ、きれいだなぁと思って見ていた服があります。朝鮮学園の生徒さんの制服、チマチョゴリです。まだ海田町に学園があったころの話です。登下校の際、家の前で良く見かけていました。今はその制服を街中で見かけることは、ほとんどありません。

制服は機能性やデザイン性等を考慮して変わっていくものですが、変えざるをえなかった理由があることにも目を向けるべきです。

小さなころから、そう遠くない場所に朝鮮学園があったため、朝鮮学園という学校があるのは私にとって普通のことでした。

だから同じ地域で暮らし、ともに育っているのに、どうして高校授業料無償化や、幼児教育・保育の無償化から除外されてしまうのか?どうしても理解できないのです。

すべての子どもに平等に学ぶ権利はあります。

わが子や親類、友人の子どもの成長に気付くように、近所の子どもたちの成長に目をむけていきたいです。

(はたや)

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2020年7月17日 (金)

中国から贈られた被爆者支援カンパ その4ー寄託された支援金の一部は返金されていた

「中国から贈られた被爆者支援カンパ」は、昨日までの3回で終了する予定でスタートしました。しかし、調べているうちに意外な事実(私にとって)を知ることになりました。それが今日のテーマです。

広島市原爆障害対策協議会(以下「原対協」という)が、1991年3月に発行した「30年のあゆみ 被爆者、市民とともに」も調べたのですが、特別に目に付く記載はありません。

次は、調べたのは「広島原爆医療史」です。自宅のどこかにあるはずですが、探すのが面倒ですので、隣の広島公文書館に行って調べることにしました。

この本は、原対協が1961年(昭和31年)8月6日に発行しています。中国代表団の支援カンパが寄託されてから6年目に発行されていますので、何らかの記載があるだろうと期待して、本を開きました。目次で「治療資金の確保」という項目を見つけましたので、まずそのページを開きました。しかし、そこには「発足当時、ハワイ同朋よりの市への寄付金の一部20万円」や、昨日も紹介した1953年にNHKなどが取り組んだ「被爆者救援募金運動」については書かれていますが、「中国代表団の被爆者支援カンパ」、「原水爆広島協議会からの寄託」のいずれでも記載がありません。

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1959年4月に完成した初代の「広島平和会館」 写真は中国新聞社提供

それでもと思い探し596ページに次の記載を見つけました。

「12月1日、原水爆禁止広島協議会は、中共総工会よりの救援金のうち金2,000,000円を原爆障害者の治療費として、原対協に寄託した。(注)寄託金2,000,000円は次のとおり検査費ならびに治療費にあて、残金788,027円は、昭和34年12月4日、原水爆禁止広島協議会へ反戻した。」(原文のまま)。次の行には使われた金額の内訳が記載されています。「検査費 自昭和30年12月至昭和32年7月 257人 114,896円 治療費 自昭和30年12月至昭和32年7月 238人 1,097,077円」と。正確には「総工会」(労働組合団体)だけではなく6団体からの救援金です。

私が昨日「意外なその後の事実」と書いたのは、全額使われずに残金があり、後に返金されていたということです。このことは、「平和会館ものがたり」には記載されていません。

そこで「なぜ全額使われなかったのだろうか」という疑問が湧きます。さらに、使われた期間が、昭和32年7月までなのに、返金されたのが2年半も後の昭和34年12月ということです。使われなくなってから返金までずいぶん時間がかかっています。またなぜその間は治療費などに使われなかったのかということも疑問です。

残念ながらその詳細は「広島原爆医療史」には記載されていませんので、今となって解明はするのは難しくなっていますが、出来れば事由を知りたい気がします。

私には、別の疑問もあります。原水爆禁止広島協議会は、なぜ「寄付」ではなく「寄託」したのかということです。広辞苑には、「寄付」とは「公共事業または社寺などに金銭物品を贈ること」、「寄託」は「あずけたのむこと」と書かれています。「寄付」と「寄託」の間には、違いがあるようです。

こんな私の疑問に少しばかり答える文章を見つけました。広島市の刊行物として最後に選んだ「広島新史」です。1981年から86年にかけて資料編を除いて8分冊発行されています。その一編「歴史編」の「原爆被害者救援委員会」(p.132から135)の項で「中国代表団の救援金」が紹介されているのを見つけました。「最終的に200万円を原対協に3条件を付して寄託」したことが記載され、3条件(1、昭和30年12月以降の治療に充当すること。2、治療枠を広げること。3、広島県以外の他府県の患者にも適用すること。)も付記されています。

この3条件があったために「寄付」ではなく「寄託」となったようです。しかし、この3条件は、使い方に制約を加えるというより積極的な意味での条件ですので、なぜ全額使われずに返金されたのか、やはり疑問は消えません。しかし、こうした事実を知ることができたのは幸いでした。

「原爆医療史」「広島新史」では記載されていた「中国代表団の被爆者支援カンパ」が、その後発行された広島市の出版物から消えていることを残念に思います。最も直近に発行(2018年7月)された「広島市被爆70年史 あの日まで そしてあの日から 1945年8月6日」にも、本文はもちろん年表にも記述がありませんでした。

中華人民共和国が建国したのは、1949年です。1955年は、まだまだ建設途上の中国。財政が厳しい時期の被爆者救済のために、その国中国から贈られた中国人民の貴重のカンパは、広島市の被爆行政史の中では、きちんと紹介されるべき出来事だと私は思います。

いのちとうとし

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2020年7月16日 (木)

中国から贈られた被爆者支援カンパ その3ー広島市はどう記録されているか

一昨日、第1回原水禁世界大会に参加した中国代表団から寄付された5万元(722万円)のうち、広島に290万円が分配され、そのうちの200万円が、被爆者の治療費調達に苦慮する広島市に寄託されたことを紹介しました。

今日は、寄託を受けた広島市で「どう記録されているか」の報告です。一応何冊か手にできる本を中心に調べてみました。すべての広島市の公文書に当たったわけではありませんので、当然見逃しがあるということは、十分承知しています。

私が、最初に調べたのは、1996年3月31日に発刊された「広島市原爆被爆者援護行政史」(以下「援護行政史」という)です。

この本の巻頭にある平岡市長にあいさつの最後の部分を引用します。「原爆が投下され50周年という節目を迎えるに当り、こうした被爆者に対する援護行政のあゆみを集大成した『広島市原爆被爆者援護行政史』を刊行することになりました。本書は、広島市の立場から主として被爆者援護の制度の歴史をまとめたものであり、・・・」と書かれています。ここに書かれているように「援護行政史」は、広島市の援護行政が集大成されていますから、まずこの本から調べるのは当然のことです。

「援護行政史」では「第2章 初期の被爆者援護」、「5 原爆障害者治療対策と原対協」の2番目の項目として「治療活動の開始」について書かれていますので、最初にその項を調べました。「原対協の治療活動」の次に「治療費の確保」という項目があります。読み進むと「ハワイ在住同朋からの寄付」や「中央共同募金会とNHKなどが中心となって取り組まれた被爆者救援募金運動」で約364万円の寄付が寄せられたことはかなり詳しく書かれていますが、中国代表団からの支援金についてはまったく記載がありません。ただよく見ると、この項には、下に示した「原対協の活動資金受け入れ状況」の一覧表が付けられています。

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この表の昭和30年度寄付金欄の金額「418,804」という数字の前に、ちょっと小さくて読みにくいのです(2)の注が付けられ、下の欄外には、()として、次のように書かれています。「昭和30年12月原水爆禁止広島協議会から治療費として寄託された200万円は、含まれていません。(「広島原爆医療史」』)」。ここには「原水爆禁止広島協議会から」と書かれているだけですので、これでは、このお金が、中国代表団の寄付金だということは、私には理解できても、多くの人には何を言っているのかわかりません。なぜ「含まれていない」のかの説明もありませ。「広島原爆医療史」からのそのままの引用だからだとは理解できますが、「広島原爆医療史」を手にできない人には完全に意味不明です。

と言いながらも、他の項目で記載されているのではと探してみました。二つほど出てきました。

一つは、同じ「第2章 初期の被爆者援護」の「国内外からの援助」の項に「中国等からの資金カンパもあり、大手町の『原爆被害者福祉センター広島平和会館』の建設などに当てられた。」と書かれているのを見つけました。確かに「平和会館」の建設に中国代表団からの支援金の一部が使われてはいますが、それよりも金額的に考えても広島市にとっても重要なことは「広島市への寄託金」のはずです。平和会館建設に触れながら、「市への寄託金」が記載されなかったのでしょうか。二つ目は、巻末に付けられた年表の「昭和30年(1955年)11月29日 日本原水協、中国からの救援金のうち200万円を原爆障害者の治療費として原対協に寄託(原対協『30年の歩み』)」です。でもこの年表だけを丹念に見る人は、そんなに多くないはずです。この二つから、「援護行政史」編集委員会のメンバーが、中国代表団からの支援金のことを知らなかったわけではないはずです。

先に触れた「被爆者救援募金運動」や「国内外からの援助」での「海外移民からの援助」やアメリカのフロイド・シュモ―博士のことなどは、かなり詳しく記載されていますので、中国代表団の支援金についても「援護行政史」にきちんと記載されてもよかったはずです。なぜ「広島市への支援金」について記載されなかったのか、どうしても理解できません。

「なぜ」という思いはぬぐいきれませんが、この「援護行政史」以前に刊行されたものには、どのように記載されているかも調べる必要があると思い、「広島原爆医療史」や「原対協30年の歩み」、「広島新史」を調べてみました。そこで、「広島市に寄託された200万円」の意外なその後の事実を知ることになりました。その結果は、明日紹介することにします。

いのちとうとし

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2020年7月15日 (水)

7月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

7月に入って梅雨の合間をぬっての農園の早生のブルーベリーの摘み取り作業が欠かせない。これから中旬、下旬にかけてブルーベリーの実が熟して来るが雨も降る。雨に合うと実の傷口から水が入り割れたりする。そこからアリコや蜂が甘さに誘われてやってくる。だから人の多さからくる蜜と無縁の農園での作業は天気とにらめっこの行動パターンになる。9日の木曜日は朝早くから一人で農園に出かけて摘み取り。そして11日、12日も雨が降らないので作業は摘み取りをして安芸の郷に納品した。

農園の景色は目に見えてブルーベリーの枝が伸びているさまは、梅雨空に手間暇入れた結果を見せてくれている。昨年の梅雨は長かったが今年は21~22日頃らしいがどうなるか。

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7月9日(木)。

この日は雨が降らないので早生のブルーベリーの摘み取りをするため朝早くに安芸区の自宅を出発。農園に着いたときはまだ雲が低く垂れこめていた。

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ヤブカンゾウの花は7時前だがもう光を感じて開きかけていた。

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7月12日(日)。

農園の家の前のアジサイは満開。手前の晩生のブルーベリー畑のブルーベリーの木は枝がしっかり繁ってきた。

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梅雨の時期はブルーベリーの木が伸びるときでもある。春にそれぞれの枝から芽が出て7月まで伸び続ける。1mを超える枝もある。

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一方足元のブルーベリーの木の周囲はあちこちに赤っぽい色をしたブルーベリーのヒコバエが雑草の中に生えているのが見える。

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そして、ネジバナが一本開花。農園では過去出会うことのない花で、今年デビューらしい。毎年少しづつでいいので増えてほしい花。

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ブルーベリーの列と列の間にはたくさんの雲が飛び交い糸を張っている。電気柵の電線と電線の間には完成形の蜘蛛の巣がありまだ小さいがじぃーっととまっている。

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晩生のブルーベリーの実はまだ薄い緑色のままだが先っちょにぽつんと青くなっている実が見える。まだすっぱい。20日過ぎないと収穫は無理。

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2か所ある里山のブルーベリー園のうち一部だけ中生のブルーベリーがあり、一本一本にネットを張っている。狭いが中に入って実ったブルーベリーを摘み取る。

メインの摘み取りは防鳥ネットを全面に張った早生ブルーベリーで土日の2日間で約50キロを収穫し安芸の郷に納品した。作業中ずーっと近くでウグイスが鳴いている。

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春から背丈が2m近く伸びて花を咲かす宿根草のこの黄色い花はいまだ名前が分からない。

13日からまた雨が続くので天気を見ながらの収穫作業が梅雨明けまでつづく。

2020年7月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年7月14日 (火)

中国から贈られた被爆者支援カンパ その2ー広島市に寄託されたカンパ

今日は、第1回原水禁世界大会に参加した中国代表団から寄付された5万元(722万円)が、どのように使われたのかを紹介します。これからの報告は、広島県原水禁の事務局長や代表委員を長く務めた宮崎安男さんが、この大切な記録を残そうと2000年に発刊した「広島平和会館ものがたり」を参考にしています。宮崎さんは、被爆者ではありませんが、当時平和会館の常務理事を務めていました。宮崎さんはこの本のあとがきで「会館は被爆者の家・平和交流のひろばとして、多くの人に愛され活用されてきましたが、会館の維持運営にご努力された方の多くも故人になられ、会館がつくられた経緯や初期の活動のありさまを記録するものがなくなっています」と、この本の出版に至った経緯を説明しています。

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中国代表団からの寄付については「ヒロシマ四十年 森滝日記の証言」にも少し触れられていましたので知ってはいましたが、寄付金の配分などについて詳しく知ることになったのはこの本を通じてです。「平和会館ものがたり」も現在では入手も困難になっていますので、一人でも多くの人にこのことを知らせるのも私の任務と思っています。

前置きが長くなりました。中国代表団から寄付を受けた原水禁世界大会日本準備会は、9月19日の会議で次のように配分することを決めます。詳細は省略しますが、722万円のうち、広島には「治療費:250万円、福祉施設基金として40万円の計290万円」を分配することになります。ちなみに長崎には計180万円、焼津には23万の見舞金が分配されています。残りの金額は、その他の地域の治療費や救援運動基金に当てられています。

これを受けて広島では、救援委員会が結成されます。当時広島には、中国からだけでなくその他の救援金や救援物資も届いていたようで、その分配の仕事をするために救援委員会がつくられたのです。

広島にわたされた救援金の配分について、「森滝さんは『治療の促進と命の問題だ』といっていました。『“命の問題・生活の問題・施設の問題”だ』という線がズバリと出されたんです。まったくこれは森滝さんの英断です。そうした森滝提案があり、原対協(財団法人広島原爆障害治療対策協議会:いのちとうとし注)への200万円寄託というのは私が決めたのです」(藤居平一「まどうてくれ」より)。広島での使途は、「いのち、生活、施設」の順で考えるべきだとなり、カンパ290万円のうち200万円を当時被爆者の治療費調達に苦慮していた広島市に寄贈することになったのです。そして、その年の12月14日に寄付しています。その時森滝先生が書かれた「寄託書」の(控)が、「平和会館ものがたり」に収録されています。下の写真です。

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字が小さくて読みにくいかもしれませんが、最初に金額につづいて「原爆障害者治療治療資金」として寄付することが明記されています。さらに「付記」として、寄託されたお金が「中国代表団を通じて中国六団体(中国人民保衛世界平和委員会、中国紅十字総会、中華全国総工会、中華全国民主婦女連合会、中華全国民主青年連合会)から日本の原爆被害者救援資金として伝達された」ものであることもきちんと書かれています。

この中国に援助について、「ヒロシマ四十年」で次のように書かれています。当時の担当記者の聞き取りだと思われますが「中国の援助は、被爆者に対する日本政府の関心を呼び起こし、『原爆医療法(昭和32年4月施行)への大きな力となったはずだ』と森滝さんは強調する」と書かれていることが強く印象に残ります。

当時の200万円が、現在の価値でいくらぐらいになるかはっきりとはわかりません。広島市が1995年に発刊した「被爆50周年広島市原爆被爆者援護行政史」によれば、「原対協の活動資金として昭和30年度(1955年度)に広島市から委託された金額が100万円」ですので、大きな金額だったことが分かります。そして森滝先生の「中国の援助は、日本政府の関心を呼び起こし」の言葉を証明するように、同書によれば「原対協の活動資金への国の補助:昭和30年度830万円」であったものが「昭和31年度1675万円」と倍額に増額されています。

中国からの支援金のうちの残った90万円の一部や国内外からの募金を基金とし、その後カンパを積み立てて1959年4月16日に被爆者の憩いの館「広島平和会館」が、大手町8丁目(現在の大手町4丁目のバイパス沿い)に建設されます。「広島平和会館」の歴史については、別の機会にまとめたいと思います。

実は、今回改めて「中国代表団からの被爆者支援カンパ」のこと調べようと思ったのは、この支援金の寄贈を受けた広島市では、このことがどのように記録に残されているだろうかと気になったからです。

その結果は、次回(明後日)報告します。

いのちとうとし

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2020年7月13日 (月)

中国から贈られた被爆者支援カンパ その1ー原水禁世界大会への中国代表団の参加

1955年に開かれた第1回原水禁世界大会に参加した中国代表団が、被爆者を支援するため5万元(722万円)を寄付しましたが、今やそのことを知っている人は本当に少なくなっています。

今日から数回にわたって、その経緯をまとめてみたいと思います。

第1回目の今日は、中国代表団が第1回原水禁世界大会に参加した経緯などです。簡単に「第1回原水禁世界大会」と書きましたが、1955年当時にはもちろん「第1回」というタイトルはどこにもありません。その後、毎年原水禁世界大会が開催されることとなったため、後に1955年に開催された大会に冠として「第1回」とつくようになったのです。

さて、これから記載することの多くは、中国新聞に被爆40周年の1985年に連載され、後に本として出版された「ヒロシマ四十年 森滝日記の証言」を参考にしています。

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当初、この原水禁世界大会には、7月現在で米・英・仏・インドなど共産圏を含めて計35カ国、約40人の海外代表が参加する予定でした。ところが、7月29日の中国新聞に「次官会議で8・6世界大会に来日する海外代表のうち、共産圏諸国の代表に対しては『原則的に入国不許可』と決定」という報道がされます。政府方針は「イデオロギーを超えた国際会議」という大会構想を危うくするものだと、直ちに広島から森滝先生をはじめ代表が上京し、「入国許可」を求めて政府への陳情を開始します。8月1日は、園田事務次官などへの陳情活動を行い、夕方には重光葵外務大臣、鳩山首相との面談が実現しますが、なおギリギリまで政治行動を続けるとして、翌日まで東京にとどまります。中国の代表団の一名が、特に問題になったようです。こうした活動が実り、やっと大会初日の8月6日(「広島新史:市民生活編」では8月8日となっている)になり、鳩山首相の政治決断により、共産圏から日韓関係を考慮した北朝鮮代表3名を除き、ソ連6人、中国8人、ポーランド2人、ルーマニア2人、東独1人の計19人の入国が許可されました(国名は、「ヒロシマ四十年」のまま)。二つの資料では許可された日付が違いますが、いずれにしても共産圏からの代表団は、広島での大会には参加できなかったようです。広島大会に参加した海外代表は、結局11カ国50余名(「広島新史:市民生活編」:ただし「年表ヒロシマ 核時代50年の記録」では35人)とされています。このように、原水禁大会初期の頃の記録は、資料によって違いがありますので、さらに調べてみる必要がりますが、とりあえず知り得た情報を出来るだけ併記することにします。

ここからは、中国代表団の動きを紹介します。ようやく入国が許可された中国代表団(団長:劉寧一)7人は、広島での大会が終了した翌日の8月9日に羽田に到着します。その後、大阪、東京での会議に出席し、8月19日にようやく広島入りをします。その様子は、「ヒロシマ四十年」には登場しませんので、中国新聞が1995年に発刊した「年表ヒロシマ 核時代50年の記録」や同じ年に発刊した「被爆50周年写真集 広島の記録」を参照しながらまとめます。

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中国新聞社刊「「被爆50周年写真集 広島の記録」」より 右側が劉寧一団長

 8月19日に広島入りした中国代表団は、市民の歓迎集会に参加し、翌日4班に分かれて市内の被爆者家庭や施設を訪問します。舟入川口町のある被爆者宅を訪れた劉団長が「私たち中国代表団は、あなた方を慰問するために参っています。どうぞ安心して話を聞かせてください」と語ったと「被爆50周年写真集」には、写真と共に紹介されています。

そして広島を訪れる前の8月15日に開催された「原水禁世界大会東京大会」において、中国代表団から世界大会日本準備会に対して、被爆者支援のため5万元(722万円)が寄付されます。

明日は、この中国からの寄付がどのように配分され、広島でどう使われたのかを紹介します。

いのちとうとし

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2020年7月12日 (日)

少し理解が深まった「原爆でなくなった大手町国民学校」の理由

6月29日のブログで紹介した「原爆でなくなった大手町国民学校」の真の原因を知りたいと、その後も調べていたのですが、関係する資料を見つけることができませんでした。ところが、たまたまといってよいでしょう、「閉校となった理由」の一つが想像できる出会いがありました。

既にこのブログでも紹介しましたが、「被爆75周年原水禁大会」は、オンライン企画で実施することになっています。その企画の一つとして広島の実相に学ぶ「フィールドワーク」をYouTubeで流すことになり、その撮影が5日、6日に行われました。8月5日から流れることになっていますのでぜひ見てほしいと思いますが、その一つに「袋町小学校平和資料館」があります。

「出会いがあった」のは、事前に撮影許可を申請するため袋町小学校を訪れた時のことです。

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校長室で申請書を書きながら、対応していただいた福田忠且校長先生に「被爆前にあった大手町国民学校は戦後再開されることなく閉校となり、袋町小学校に併合されたようですが、何かそのことに関する資料がこの学校にありませんか?」と尋ねたところ、「袋町尋常小学校から大手町尋常小学校が分かれたことが書かれた資料はあるのですが、被爆後の大手町国民学校に関する資料は残っていなのです。ただ、当時の袋町小学校のことを書いた冊子がありますので、読まれるようでしたらお貸ししますよ」と書棚から「袋町地区社会福祉協議会」が昭和57(1982)年7月1日に発刊した「ふくろまち」を取り出し、手渡していただきました。会話の中で、校長先生からその中味の一部を紹介されていましたので、帰宅し早速開いてみました。「袋町小学校のうつりかわり」の中に、次のように書かれています。原文のまま紹介します。

「原爆が落とされて、人気のない学区内で、学校再開の努力はすぐに始められました。奇跡的に助かった先生たちは、数日後傷ついた身体にむちうって、児童をさがし歩き、学校再開に努力しましたが、ふたたび病気になりました。秋から二十一年春にかけて、疎開から帰った先生たちが、『学校がはじまります』というはり紙をして歩いたり、町内のたてなおしに努力する人たちが、明治橋から基町あたりまで子どもをさがして歩きましたが、なかなか集まらず、たいへん苦労しました。十五名の児童がそろわなければ、学校が始められなかったのです。

昭和二十一年五月一日、ようやく西校舎の三階で授業が再開されることになりました(これ以前は、電話局で袋町十名、幟町二十名あまりで授業が始められている。)。焼け残りの板に墨を塗った黒板、鉄骨でがたがたの床、石炭箱という教室に、三十七名の児童で始められました。もちろん学用品はほとんどありません。

こうして昭和二十二年四月、校名は『広島市立袋町小学校』となり、現在につながる新しい教育が始まりました。」

この文章には、大手町国民学校のことは出てきませんが、当時の学校再開(特に爆心地に近いほど)が、どんなに困難だったかを知ることができます。袋町小学校は、爆心地から460mの距離ですから、校区内もコンクリート造りの建物を除けばほとんど全滅といってよいほどの被害が出ています。学校再開のために、「はり紙」をだしたり、明治橋から基町とい広い範囲で子どもをさがして歩いたことが、記載されています。明治橋は、大手町国民学校の校区内の南のはずれです。校区外でも探など子どもを集めることに苦労された様子がわかります。それでも袋町国民学校は、地域や教職員のみなさんの努力があったことはもちろんですが、1棟ですが、コンクリート造りの西校舎が残っており、使える校舎があったことが、学校が再開できた大きな力となったように思います。

当時「十五名の児童が揃わなければ、学校が再開できなかった」ことや袋町国民学校が三十七名での再開されたことも初めて知りました。

こうしたこと積み重ねると「大手町国民学校が再開できなかった」理由が、少しですが理解できたような気がします。

ところで「ふくろまち」には引用した文章につづいてこんな記述がありました。

「しかし、物不足、食料不足は続き、人の骨がでてくるといわれ校庭に、さつまいもやかぼちゃを植えて、食料にしていました。」

太字にしたのは私ですが、改めて原爆の実相を知ることになりました。

いのちとうとし

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2020年7月11日 (土)

「無責任」の論理構造 (5) ――「説明責任」が「責任」の意味を変えてしまった――

「無責任」の論理構造 (5)

――「説明責任」が「責任」の意味を変えてしまった――

 

「説明責任」という言葉は、英語の「accountability」の訳語ですし、「倫理的な非難」を受けたり「法的責任」を取ったりという結果になることを想定している点が重要です。

にもかかわらず、マスコミも含めて、官僚や政治家たちがあたかも「説明責任」と「責任」が同じ意味を持つ、あるいはそれより酷くて「責任」はどうでも良くて「説明責任」さえ果せば良いのだ、というような感じでこの単語が重用されています。

企業内の関係が一番分り易いような気がしますので、その関係を元に説明すると、何かを任された「部下」に問題があった時、その部下を降格させたり、辞めさせたりといった措置を取る前に、上司が部下に説明を求める、というのが典型的な「説明責任」です。たとえば、「天気予報が外れて、電車が遅れて、その結果遅刻した」というような説明があって、「それなら無理はない。責任は問えないな」と上司が納得すれば一件落着です。しかし、前の晩に飲み過ぎて寝坊をしてしまったのに、嘘の言い訳をして、一緒に呑んでいた同僚の証言でその嘘がばれれば、この部下は当然、責任を取らされます。

時代劇の観過ぎかもしれませんが、この関係をもう少しドラマチックに表現することで、私の言わんとしていることが、正確に伝わるような気がします。

封建的な時代の政治や司法制度を比喩に使うのには、躊躇しますが、「背説明責任」とは、感覚的には「お白洲で申し開きをしてみよ」くらいの意味だと考えると、フロイドさんについての「He should be held accountable」に込められた思いが鮮明になるような気がします。

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「申し開きをしてみよ」という言葉の背後にある前提としては次のようなものが考えられます。

 

  • 明白に疑われるような行為がある。
  • それについて、もし言い訳があるのなら公的な場で申し開きをしなさい。
  • しかも、もし申し開きが不十分であるのなら、その責任を取るという前提での申し開きである。

 

ここで、「お白洲」を持ち出して来て説明しようとしている登場人物の関係を説明しておきましょう。まず、大岡越前の守の代りに「主権者」である国民が座っています。その前に「引き出されている」のが、内閣総理大臣です。脇で、お白洲を取り仕切っているのが国会議員というような図を描いて下さい。

抽象的なレベルでの、内閣と主権者である国民との間の関係がこのようなものであることは憲法15条が保障しています。

 

15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

 

つまり、主権者が公務員に権力を与え、国民のための仕事をするように「委託」するという関係です。その仕事が十分に行われない場合には、公務員は「説明」する機会を与えられるのですが、それが不十分であれば「罷免」されることになるというシナリオがここに描かれているのです。

そもそも「説明責任」が問われる場合には、公務員が満足できるような仕事をしていない「ように見える」という前提があるのです。満足できる仕事をしている場合には、それを続けて貰えば良いだけなのですから、例えばサラリーマン映画なら、例えば小林桂樹が演ずる上司が肩を「ポン」と叩いて「この調子で頑張れよ」で事足りるのです。

満足な仕事をしていないように見える場合に、政治家はその状態について「説明」をする機会を与えられるのです。「答えなさい」と国民に問われた場合には、「答弁する」義務があるのです。そして、その「説明」によって、元々の疑惑が晴れるのであれば、政治家や公務員は仕事を続けられる、というシナリオです。

現実の世界でこれを具体化した場合には、法律があり選挙があるという制度になり、それに従っての行動になりますが、リコール制度は、それを15条のシナリオに近付けています。

つまり、一旦疑いが生じた場合、その疑いを晴らすことができなければ選挙に落ちたり、リコールが成立したりするのですから、「疑いを晴らすのは政治家の責任だ」と言っても、民主主義の精神に反していることにはならないのではないでしょうか。

実は、政治家の方でもこの点はそれなりに理解しているのです。不祥事があると、重大な局面で政治家は「離党します」という表明をするのですが、これは、政党に対しての責任を取っているのです。つまり、自分の行動については誰かに責任を取らなくてはならないという、政治家としての立場は理解しているということなのです。

しかし、憲法の規定による選挙の結果選ばれているという事実――その方が党に属しているということよりは重いはずなのですが――の重要性が蔑ろにされているのは、前回指摘した、99条の憲法遵守義務が「道徳的要請」としてしか機能していない状況の反映かもしれません。

自分は国民からの負託によって権力を行使する立場にいる。それは憲法15条に従って、「全体の奉仕者」としての仕事である。もしその仕事が、国民の満足行くレベルで行われていないと国民が判断するのであれば、自分はその職を辞して、その任に相応しい他の人に変って貰うのが当然である、という心積もりをすることが政治家の責任の取り方だと思うのですが、どうでしょうか。

「無責任」体質の背景にある「憲法マジック」と「説明責任」の存在が分ったとして、ではどうすれば良いのでしょうか。皆さんのお知恵も拝借しながら、一歩ずつ一緒に考えられればと思っています。

 [2020/7/11 イライザ]

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2020年7月10日 (金)

世の流れ、相談役・顧問の廃止

相談役・顧問という役職、多くの会社ではこうした役職の見直し(廃止)が進んでいます。沖縄を含めて大手電力会社は10社ありますが、そのすべてにこういう役職の人間を置いています。

中国電力にも相談役1名・顧問1名の2名がいます。非常勤ですから、毎日出勤しているのではありませんが、報酬は受け取っています。

今年の株主総会では、株主提案として「本会社および本会社の子会社は相談役・顧問を置かない」議案を提出しました。議案は総会招集通知に載るとともに、総会の場で議案の補足説明を行うことができます。ただ今年は、新型コロナウイルスの関係で読み上げる物を、総会に出席した株主に配布されました。その全文を掲載します。


当社は山下 隆(やました たかし)前会長を報酬有りの相談役に、古林行雄(ふるばやし ゆきお)前常務取締役を、これまた報酬有りの顧問に就任させています。両名とも非常勤であります。この2名の者には報酬が支払われていながらも、その内容は開示されていません。

相談役・顧問を置くということは、当社定款にも定めがなく、さらに会社法にも規定がなく、株主総会の決議を経ずして選任できるため、存在意義を見出せないだけでなく、まさに「闇の中」と言わざるを得ません。

両名とも、相談役・顧問に就任するまでは、当社の最高責任者やそれに準ずる役割を担っていたもので、現時点においても当社に大きな影響力を持っていることは、明らかだと考えざるを得ません。当社の経営に対して、「院政」を続ける温床になっているのではないかとの、疑念を持たれることも想像されます。

その役割について、私どもの株主提案議案に対する取締役会の意見の中で、「社会貢献活動などの一環として、地域社会等との関わりにおいて、社外団体または他企業からの役員就任要請に応じるといった役割」と示されていますが、この説明はとても曖昧であります。

昨年明らかになった、関西電力株式会社の役員らが、高浜原子力発電所の在る高浜町の元助役から、多額の金品を受け取っていたとされる事件では、世論からの強い非難を受け、刑事事件として関西電力役員への告発がされています。

電力会社、とりわけ原子力発電所を所有している会社への国民の不信感は、原子力発電所が嫌われ物だということが前提にあり、お金をばらまくことで強権的に抑え込むことでしか進められないということにあり、金がらみの不祥事が起こり得ることは間違いないものと思われます。

こうした中、日本世論調査会の最新の世論調査をみても、電力会社の原子力事業が「信頼できない」人は75%に達しており、国民の原子力政策に対する不信感の根深さを示していると言えます。

本議案への取締役会意見で、「社外団体または他企業からの役員就任要請に応じる」というのは、考えようによっては強い危険性を感じざるを得ません。

当社の会長は、中国地方の経済団体の連合体である「中国経済連合会」の会長を担っています。また、その事務局も当社本堤内に置かれています。

関西電力による取締役の金品受領事件により、本年4月、経済産業大臣から当社においても調査が行われましたが、公平・公正な調査であったかという点について疑念を持ちます。

 電力システム改革も、本年4月からの送配電分離により、新会社が設立されました。目まぐるしく環境が変化している中、当社は他社に率先して相談役・顧問の役職を廃止して、事業の透明性を図ることが重要であると考えます。

 以上で、本議案の補足説明を終わります。株主の皆さんのご賛同ご支持をいただきますようお願いします。


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後日、この提案に対して株数として63,453,600株が賛成してくれたことが分かりました。割合としては23.64%です。大株主のほとんどが、私たちの株主提案議案には賛成しないのですから、この数字は多い結果だと言えます。

木原省治

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2020年7月 9日 (木)

来年度の中学校教科書採択に向け要望書提出―府中市

府中市の小川敏男さんから、6月24日の「みてきました! 教科書展示会」につづいて、こんな便りをいただきましたので、紹介します。

 

7月8日(水)9時より府中市教育委員会にて府中地区生活を守る市民会議(議長森藤理至)と九条の会・府中(世話人代表石岡真由海)が共同で、荻野雅弘教育部長に以下の要望書を提出し、石岡真由海さんより趣旨を説明してもらいました。


2021年度使用の中学校・義務教育学校後期課程教科書採択に係る要望書

 今般の新型コロナウィルス(covid-19)感染対策で、より多くの配慮を持って子どもたちの教育環境の整備等に連日奮闘されていることに敬意を表します。

 私たち「府中地区生活を守る市民会議」と「九条の会・府中」は、戦争は最大の人権侵害であるとの基本的認識を持ち、戦争を起こさない国づくりや内心の自由の確保、暴力との決別のために、それぞれ地域の課題に取り組む活動を続けている市民団体です。教育において過去の軍国主義教育が二度と行われないよう、教科書選定には大変注目しています。

 そこで私たちは、憲法12条の「国民の自由と権利を守り、その乱用を防ぎ、公共の福祉に使用するという、不断の努力と義務」を負う市民として、今年度の中学校と義務教育学校後期課程の歴史・公民・道徳教科書採択について以下のとおり要望します。

1 基本的人権・平和・民主主義・多文化共生など、日本国憲法の精神に則った観点で調査研究と採択を行ってください

2 採択に関わる全ての議論を明確にするために、調査研究の結果に長所・短所を明記し、この要望書を議論の材料として全採択関係者へ開示してください

3 「考え、議論する道徳」の観点を尊重するため、それに逸脱した数値評価や、一つの考え方への誘導がされやすい仕組みの教科書の採択をしないでください。

4 各教科書の平均ページ数の総量は前回から7.6%、1万1280ページ増加しています。現在の多忙な教員からすれば授業が形式的になると心配します。すべての子どもたちが理解できる授業のために、府中市としてできる限り教員を増やすことなどに努力してください

府中市は「生涯にわたって自ら学び、地域社会の振興に主体的に参加する人づくり」のために「教育の日」を定めています。この意義深い目的を達成するために、事実に基づいた基本的知識と歴史認識を子どもたちと教科書で共有することが不可欠と考えます。また、未だ障害と呼ばれる個人の特性、ジェンダー、環境、平和構築、多文化共生など、当市においても現在進行形で深化する課題を解決していく仲間として、子どもたちがものごとを冷静かつおだやかに認識できる教科書を提供し、義務教育の目的を果たしたいものです。

 しかし、今回の採択候補教科書の中に、この要望から大きく外れる歴史・公民・道徳教科書があります。育鵬社の歴史教科書と公民教科書、自由社の公民教科書、廣済堂あかつき、日本教科書、教育出版の各道徳教科書です。これらの教科書には、日本国憲法の三大原則(基本的人権の尊重・国民主権・平和主義)の誤った解釈や、世界からの検証に耐えない歴史修正主義、社会情勢の事実誤認等が見られます。

 具体的な指摘を以下に付記しますので、採択の参考にしてください。(*多くの問題箇所より抜粋し資料とします。)子どもたちは、平和と民主主義を育てる私たちの大切な仲間です。府中市の教育に、これらの教科書が採択されないことを強く望みます。

資料(省略)


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他の参加者から意見と府中市の回答です。

①6月12日から26日まで図書館で教科書の閲覧があったけど、アンケートの提出件数はどのぐらいだったのか。「直接の担当は学校教育課なのでわからない」。

②今回の改定で各教科書の平均ページ数は前回から7.6%、1万1280ページ増えています。現在の多忙な先生からすれば授業が形式的になると心配します。夜遅くまで働かれているようだし、市教委は直接先生の増員は出来ないけど県教委へ増員を働きかけていただきたい。「無回答」。

③自分たちが100%正しいとも思っていないし世間にはいろいろな考え方があることについては認めるけれど、国の教科書だというなら歴史は史実に基づくものであることと、正しいことを教えるべきです。育鵬社の公民教科書には「立憲主義とは憲法にのっとって国を運営していくこと」となっているけど「憲法によって国家権力を制限するのが立憲主義」です。間違ったことは教えてはいけない。そんな教科書は採択してはいけない。「無回答」。

真正面からの答えはありませんでした。

しかも「この要望書は採択委員へは渡さない」という回答だったため「そりゃなかろう、せっかく作ってきたのに委員さんへ渡してくれ」と言いました。しかし府中市は「静謐な中で採択することになっているので、要望があったことだけ伝える」という回答でした。

要望書の中身が大事なのに、委員へ伝わらないことは問題です。しかも、担当の学校教育課はいつも出てこず、総務課が対応。採択委員には要望書のコピーを渡さない。「静謐な環境の中で採択することになっている」と、これじゃアンケートも見せんのではないかと心配します。

その他、通学路や横断歩道の白線が消えかけているので塗って欲しいと要望しました。

 

府中のみなさんの努力と、府中市の傲慢な態度がよくわかります。小川さんありがとうございます。

いのちとうとし

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2020年7月 8日 (水)

7月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

農園の周囲は稲田の青は広がり、ブルーベリーの青が広がり、どちらも背丈が伸びていく。アジサイがところどころで色合いを変えながら咲いていてヒヨドリが次第に数を増してブルーベリーを狙って飛び回る以外動きの少ない夏の半ば。

週末の農作業では特に梅雨時が天気とにらめっこの作業となる。4日の土曜日は雨なので一日休み。5日は晴れ間が見えるので農園に行きブルーベリーの摘み取りを行った。6日からはほぼ1週間雨マークなので収穫できるだけ収穫して安芸の郷に納品しないと実がはじけたりしてもったいない。結果安芸の郷には約24キロのブルーベリーを納品することができた。広島市の安芸区の家に帰る時間もいつもより遅くなった。以下は7月5日(日)の一日だけの農園の様子。

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里山の早生のブルーベリーがそろそろおいしくなってきた。酸味に加え甘さが乗ってきている。房の中で粒が一回り大きくなっていること、赤紫色になっていないことを見て摘み取る。写真はスパルタンという品種。

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摘みとりの最中に実の重さで枝が傾いているところはひもで他の幹とともにくくって支える。

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小さい実を一つ一つ摘み取る。

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畑の一部の早生のブルーベリーがある場所にも今年は防鳥ネットを張ったので摘み取りも開始。

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全体に木はまだ小さいが冬の剪定で花芽を残した木には実がしっかりついている。10円玉位の大きさのこの実が色づくのはまだ先。写真はダローという品種。

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里山のブルーベリー園の周囲のホタルブクロも一週間前よりも花の数が増え、しぼみかけている花も見える。ぶらりとした姿でただただひっそりと咲く。

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庭の花壇。

①ホオズキ。まだ緑緑している。

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②ヤマアジサイ。開花して時間がたつと花びらの部分が赤紫色に変わる。

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 里山に行く道沿いにあるヤブカンゾウの蕾がすこし口を開いている。

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Uの字のだんだん畑状に広がる棚田の稲ももう手のひじ辺りまで伸び青さを増している。この時期の米づくりは水の管理以外は見守るだけのようで農作業はもっぱら法面の草刈りが中心だ。

2020年7月8日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年7月 7日 (火)

E=MC2

「国民学校原爆犠牲教師と子どもの碑」慰霊祭(このブログで5月16日に紹介されています)。昨年の8月4日午前7時過ぎ、私は平和大通りで交通案内の看板を持って立っていました。

 

すぐそばに、広島市立第一高等女学校の慰霊碑があります(この碑のことも、このブログで1月26日に紹介されています)。

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―1945年8月6日、建物疎開中の1,2年生541人、教職員7人、他の動員先含めて676人が被爆死。真ん中のモンペ姿の少女が持っている箱には、1948年当時、GHQの検閲のため「原爆」の2文字が使用出来ず、やむなく原子力のエネルギー公式である、E=MCが刻まれています―

この慰霊碑から、手押し車の高齢の女性がこちらに近寄り話しかけてこらました。そして、「6日は人が多いから、毎年今日参らせてもらっとるんよ。昔はこの辺に、友だちや、いとこたちと一緒に買い物に来とったんよ。でもみんな原爆でなくなってしまった。私は軍国少女だったから、まさか日本が負けるとは全然思ってなかったんよ。本当に教育が大切よ!」と、教育の重要性を強調され、立ち去られました。

 

今、学校現場で「仕方ない」と言う声を聞きます。それは本当に「仕方ない」のでしょうか。誰かがたたかい続けなければ、子どもたちの大切な人や楽しい時間を奪い、悲劇は繰り返されるのではないでしょうか。

何十年も前の話ですが、中学時代の先生が、「私が正しいと言っても、100%信じてはだめ。本当に正しいかどうか、自分で判断できる人になってほしい」と言ってくれた、この言葉が今でもずっと心に残っています。    

F&M

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2020年7月 6日 (月)

ヒロシマとベトナム(その15) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅱ〕

「枯葉剤被害者の日」 8月10日

枯葉剤といえば、多くの人が“ベトちゃん・ドクちゃん”を思い起こすのではないでしょうか。残念ながら“ベトちゃん”は2007年10月、26歳の若さで亡くなりました。弟のグエン・ドクさん(39歳)は入退院を繰り返しながらも活発な活動を展開されています。私も1998年に初めて出逢い今日まで交流を続けています。これらについてはまたの機会に報告します。

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HVPFの招きで初めて広島を訪れたグエン・ドクさん。(2016年10月)

アメリカ軍がベトナムで最初の枯葉剤攻撃を行ったのは1961年8月10日、ベトナム共和国軍のマークをつけたアメリカ軍機がラオスとカンボジアの国境に接するベトナム中部高原のコントゥム省での実験散布でした。

この8月10日は「枯葉剤被害者の日」(祭日)として定められています。日本の「8月6日」と同趣旨です。

アメリカ軍が最初に枯葉剤を散布したコントゥム省こそ、“ベトちゃん・ドクちゃん”の生誕地なのです。(下地図の真ん中国境付近の緑色の丸印)農業を営んでいた二人の母親は直接枯葉剤を浴びたのではなく、戦争が終結する一年前に移住し、汚染された井戸水を飲んでいたということです。

以降、「ランチハンド作戦」と名付けられた軍事作戦が、1971年1月10日の最後の散布まで10年間にわたり繰り返されました。

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1961年~1971年におけるベトナム共和国への枯葉剤空中散布(赤色)。アメリカ合衆国陸軍省資料より。(「ウィキペデア」フリー百科事典より)

その間に散布された散布薬液総量は9万1,000㌧、散布面積は240万㌶を越します。結果、480万人以上もの人々が被曝し、100万人以上に何らかの障害・疾病をもたらしていると言われています。正確な人数は把握されていません。

南ベトナムの耕地全体の5%以上と森林の12%、海辺のマングローブ樹林の40%以上が枯死しました。中国地方全域にほぼ相当するほどの地表に、くまなく、そして繰り返し・繰り返し「毒薬」ダイオキシンを浴びせたのです。そのダイオキシンが今なお地中に潜み、食物連鎖を通して人々の健康と生命を脅かし、破壊し続けています

 日本にも枯葉剤作戦が準備されていた

もう一つ、枯葉剤に関し意外と知られていない事実を、2005年8月15日付けの新聞「農業」に掲載された中村梧郎さんの取材記事をもとに紹介します。中村梧郎さんは、ベトナムでの枯葉剤被害を記録し続ける報道写真家で『母は枯葉剤を浴びた』やグラフィックレポート『戦争の枯葉剤』などで著名な方です。

アメリカは第2次世界大戦末期、日本への枯葉剤作戦を準備していました。アメリカ軍のプロジェクトチームは当時、「原子爆弾」と「枯葉剤」の両方を開発していました。そして1945年に原爆、枯葉剤作戦とも準備を完了し、原爆を搭載したエノラゲイとボックスカーはテニアン島へ、B29を改造した「枯葉剤散布機」をグアムに集結させていました。

 戦争末期の日本は大変な食料危機に陥っており、大都市周辺の米や野菜の産地を全滅させれば、何10万何百万の餓死者が出るという作戦で、8月の原爆投下でも日本が降伏しなければ11月に枯葉剤作戦を決行することになっていました。8月15日、日本の無条件降伏で枯葉剤はそのままストックされ、ノウハウも含めてベトナムで使われたのです。

 

 今号から幾度かにわたり、「被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争-を考える」シリーズを書き進めたいと思っています。月一度のペースで、今回を含め12月までの6回程度と考えています。次号(8月5日)は、枯葉剤(ダイオキシン)の毒性と人体や自然環境への影響について考えてみたいと思います。

(あかたつ)

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2020年7月 5日 (日)

ヒロシマとベトナム(その14) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅰ〕

ベトナムは去る4月30日に「解放統一45周年」を迎え、ヒロシマはまもなく「被爆75周年」を迎えます。

1945年8月6日・8月9日とヒロシマ・ナガサキは究極の無差別大量殺戮兵器である核兵器の被害を受け、75年経た今日なお「殺戮」(遅れた被爆死)は続いています。1975年4月30日の「サイゴン解放」によって、ベトナムは長く続いた植民地支配を脱し、民族の解放と統一を遂げました。

そのベトナムは近年著しく発展を遂げ、「ASEAN諸国のリーダー」と呼ばれるようになりました。しかし、ベトナム戦争中にアメリカ軍が散布した史上最大の化学兵器、猛毒ダイオキシンを含む枯葉剤による深刻な被害をはじめ、ベトナム戦争の残した傷跡は大きく、今なお人々の健康と生命を脅かし国土を蝕み続けています。

ともに、「戦争の世紀」と言われる20世紀の象徴的かつ究極的な戦争被害です。

「被爆75周年」と「ベトナム解放統一45周年」を迎え、ベトナム戦争とその被害、とりわけ枯葉剤被害を通して、「ヒロシマとベトナム」について考えてみたいと思います。

 1975年4月30日 「サイゴン解放」(ベトナム戦争終結)

私たちの年代は、45年前の「サイゴン陥落」を伝えるニュース映像が鮮明に蘇りますが、若い人たちの中にはベトナム戦争がどのような戦争であったのか知らない人が多いと思います。

1975年4月30日について、ベトナムの中学3年生の教科書には次のように書かれています。「4月30日10時45分、わが戦車が独立会堂に直進しサイゴンの中央政府職員全員を捕らえた。ベトナム共和国大統領ズォン・ヴァン・ミンは無条件降伏を宣言しなければならなかった。同日11時30分、革命の旗が大統領府の上に翻り、歴史的なホーチミン作戦の全面勝利を知らせた。」と。

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写真:南ベトナム大統領府に最初に突入した2台の戦車のうち先頭の中国製T59式戦車(390号)。2台目はソ連製T54B式(843号)、2台とも国宝にっています。

ベトナム戦争について広辞苑には「1960年~1975年、北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線とアメリカ・南ベトナム政府との戦争」と書かれていますが、先ほどのベトナムの教科書には「抗米救国戦争の勝利は、21年にわたるアメリカに抵抗する戦争と1945年の「8月革命」から30年にわたる民族解放・祖国防衛戦争を終結させ、わが国における帝国主義の統治を終わらせた。これを基礎に人民民主主義民族革命を全国で完遂させ、国土を統一した。」と記述されています。

ベトナム戦争の性格と「サイゴン解放」の歴史的な意義が端的に表現されていると思います。

大国、列強の植民地支配に抗し続けたベトナムの歴史

その「サイゴン解放」、すなわち「民族解放・祖国防衛戦争の勝利」の深く重い歴史的な意義は、ベトナムの大国と列強支配に抗する長い闘いの歴史にあります。ベトナムは紀元前111年、前漢の武帝時代から938年の「白藤江の戦い」で勝利するまでの1000年にわたり中国に支配されていました。その後、中国の介入を受けながらも約1000年のあいだ独立王朝時代が続きました。

しかし、1858年のフランス軍の侵攻によりベトナム・カンボジア・ラオスを含むインドシナ半島が「仏領インドシナ」として植民地化されます。フランスはイギリスなど他の列強とともにインドやアジアの植民地化を狙い、ベトナムにも17世紀初頭から宣教師を送っていました。1763年にインドにおける権益をイギリスと争う「カーナティック戦争」で破れ、その後、ベトナムへの侵攻を本格的に企図します。1847年の「ダナン砲撃」などを経ながら1858年に本格的な侵攻を始め、1861年までにベトナム全土を植民地化しました。

その後、フランスの植民地支配は、ベトナムの人たちが「日本とフランスの二重の軛(くびき)」と呼ぶ1940年から1945年までの日本軍の仏印侵攻・統治期間も続きます。実効的な支配権は日本軍が持っていました。日本の敗戦間近の1945年3月9日、日本軍は「仏印武力処理(明号作戦)」と呼ばれる軍事作戦でフランス軍をベトナムから撃退しインドシナ半島の支配権を完全に掌握しました。

その後1945年8月15日の日本の無条件降伏に伴い、フランスが再び介入を始めます。一方、抗仏・抗日闘争を戦っていたホーチミンは日本軍を武装解除し、9月2日にハノイでベトナム民主共和国の「独立宣言を発します。そしてフランスとの「抗仏戦争(第1次シンドシナ戦争)」を展開し、1954年5月の「ディエンビエンフーの戦い」でフランス軍を撃破しました。

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1966年にピュリツァー賞を受賞した沢田恭一の「安全への逃避」。沢田恭一は1970年10月、カンボジアで取材中に襲撃され亡くなりました。

1954年のフランス軍敗退後、アメリカが軍事介入を始めます。南北の分断固定化を図り、南ベトナムにゴ・ジン・ジェム政権を傀儡擁立して軍事顧問団を送り込み、ピーク時54万3千人もの軍隊を送り、5万8千人の戦死者を出したベトナム戦争が1975年4月30日まで21年間続いたのです。

ベトナムの人々は1847年のフランスのダナン砲撃に始まった侵攻と植民地支配から1975年4月30日までの、実に130年にも及ぶ長く苦難の民族解放闘争の末に、ベトナム全土の解放統一という悲願を成就させたのです。

少し長くなりましたので、続きは明日報告します。

(あかたつ)

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2020年7月 4日 (土)

7月の「3の日行動」は、雨のため急きょ中止になりました

「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」が昨日予定していた7月の「3の日行動」は、雨のため急きょ中止となりました。

今日のブログは、「3の日行動」を紹介するため、中止の連絡が入る前に、あとは応援弁士の演説内容を書き込めば済むように、以下の予定原稿を準備していました。別のテーマで書き直そうかと迷ったのですが、「3の日行動」が中止となった記録にもなると思い、そのままアップすることにしました。こんなブログもたまには許されるかなと、勝手に思っています。


「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」が定例で行っている「3の日行動」は、昨日夕方5時30分から1時間、本通電停前でを雨が降る悪条件でしたが、○○名が参加して実施されました。

新型コロナウイルス対応など課題が山積するとして、野党から会期延長を求める強い要望があったにもかかわらず、安倍首相は会期末の6月17日、国会を閉会しました。

翌日には、河井夫妻が逮捕され、その巨額買収の実態が次々と明らかになり、広島県内では首長の辞職や議員辞職が相次いでいます。その原資が、自民党からの政党交付金を含んだ巨額交付金だったことは疑う余地もありません。安倍政権の説明責任が厳しく求められていますが、国会閉会中を理由にそれに応ずる姿勢を全く見せていません。国会閉会時に約束した各委員会の閉会中審査は、一応いくつかの委員会が開催されてはいませうが、肝心の「河井問題」を質す野党に質問に対しては、「当委員会の議題ではない」と回答を拒否する不誠実な態度をとり続けています。

また、いったん終息の方向に向かったと思えた新型コロナウイルス感染も東京を中心に再び、拡大し国民の間の不安が増大しています。

野党の「国会会期延長」要求が正しかったことが、このことひとつとっても明らかです。にもかかわらず、安倍首相は、こうした喫緊の課題に正面から向き合うことなく、国会閉会後には「憲法改正」を強調し、国会解散をちらつかせています。今やるべきことは、誰かの言葉ではありませんが「違うでしょ」といいたくなります。国民不在の安倍政治の象徴が、コロナ対策への姿勢にはっきりと表れています。「命より経済優先の姿勢」がより鮮明となっています。

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一昨日の西村経済再生担当大臣の上から目線の記者会見はそのことをよく表れています。「もう誰も緊急事態宣言をやりたくない」そうなってほしくないと誰もが思っています。しかし次に出てくるのは「皆が努力しないとこのウイルスには勝てない。症状がある方はぜひ外出を避けていただきたい」と国民への努力を求める発言です。私たちが一番聞きたい「政府は、この事態の中で、何をするのか」は全く出てきません。通常国会では「法律の改正だ」「補正予算の早期成立だ」と野党の協力を求めておきながら、今はその素振りすら見せていません。ぬるま湯的な今の安倍政権の姿勢を変えさせるためには、国会での審議が絶対に必要なことです。信頼のない政治が続く限り、私たちは「新型コロナウイルスの危険」への不安を抱えたままで生活を続けなければなりません。

午後5時半から始まった行動では、今回もビラ配布はありませんでしたが、大きく「さよなら安倍政権」と書かれた横断幕が○○枚用意され、帰宅を急ぐ市民に訴えました。

先に述べた情勢の中での今月の「3の日行動」ですので、当然のことですが、マイクを握る弁士の訴えの中心も「さようなら安倍政権」です。

昨晩の弁士は次の通りです。(略)


この後、各弁士の訴えを紹介し、このブログは終わる予定でした。

いのちとうとし

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2020年7月 3日 (金)

被爆建物ですか?

リニューアルされたレストハウスのことが、やはり気になります。本当に「被爆建物ですか?」

朝、リニューアルを担当した観光政策部へ電話を入れました。

「あの外壁は、被爆時と同じですか?」「1929年に建設されて以降、被爆時までに壁の塗り替えがあったのかどうか、資料が全く存在しないので、被爆時の壁が特定できないのです。」どうも、被爆時と同じではないようです。

次の質問は、「外観を建設当時の状況にしたということですが、正面入り口の左右の窓は、建物の外にある説明版に付けられた写真では、二本の柱はないですよね。どうして、この柱は取り除かなかったのですか?」「文化庁から、基本的には『被爆建物として改修するように』と言われていましたので、そこを大切にと思い、改修前にあった二本の柱は残すようにしたのです。」

だんだんと話が見えなくなってきます。文化庁からは、被爆建物としてきちんと残すようにと指示されたようですが、平和公園を訪れた人たちに一番目に付く、外観の色やつくりには、どうもその指示が反映されなかって様に思えます。

何とも納得のいかない説明でしたが、電話での話ですので、昨日のブログで指摘したいくつかの気づきを伝えて、とりあえず終わりにしました。

午後、ピースボランティアの皆さんと話す機会がありましたので、ちょっと尋ねてみました。「リニューアルされたレストハウス、外観を見ただけではとても被爆建物とは思えないのですが、どう説明されますか?」答えは様々です。「この建物の歴史、経過を話すしかないですよね」「まだ見ていないので、これから帰りにみようと思います。」「・・・・」無言。

あの建物を見て、自信を持って「被爆建物です」といえる人が、何人おられるでしょうか。

そんな中で、ある被爆者が「昨日の毎日新聞には厳しいことが書いていたよ」と教えてくれました。すぐ図書館に行き、7月1日付毎日新聞の記事を見つけました。「被爆『爪痕』まで改修」。これが見出しです。記事は前半でリニューアルされたレストハウスの様子を紹介し、後半で、関わりのある二人の意見が載っています。一人は、映画「この世界の片隅に」の片淵監督。その中には、「窓の柵の形が違っており、十分な学術調査がされていないのでは」と書かれています。私が感じたことと同じです。片淵監督は、その前に「映画では、すぐ身近にある被爆建物を訪れてもらう目的もあって大正呉服店を描いた。その目的が破壊されて残念でならない」と厳しく指摘されています。記事には、「原爆資料館の学芸員から『原爆の爪痕が消えてしまう』との声が上がり、設計変更したが、大部分は覆われた。」とも書かれています。

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帰宅して「広報ひろしま市民と市政 7月1日号」を読むと、なぜこんな問題が起きたのかがはっきりしてきました。「市民と市政」読んでおられると思いますが、見出しはこうです。「装いも新たに 憩いの場オープン」リードではさらにはっきりします。「被爆建物としての歴史を受け継ぎながらも、大正呉服店だった頃のようなモダンな外観となっています。」ゴシックの文字の「歴史を受け継ぎながらも」という言葉に象徴されていると思います。「被爆建物」が主語ではないのです。さらに言えば、被爆時は大正呉服店ではなく燃料会館でした。被爆50周年に発刊された「ヒロシマの被爆建物は語る」でも「燃料会館」として紹介されています。

どうしてこんなことが起こるのか、原因ははっきりしています。平和公園の中にある唯一の被爆建物の改修でありながら、担当する部署が「平和推進」ではなく「観光政策部おもてなし担当」になっているからです。

最近の広島市行政には、そういうことが多すぎます。私がかかわってきた「かき船問題」もそうです。世界遺産原爆ドームのバッファゾーン内の問題であるにもかかわらず、平和推進は置き去りのままでした。3月のこのブログに書いた「平和大通りのにぎわいづくり」も同様です。「平和大通り」の景観を変えるのであれば、当然に平和担当が1枚も2枚も深くかかわるのが当然だと思うのですが、これも観光政策部のみの担当です。縦割りではなく、横断的な組織が絶対に必要です。

毎日新聞の記事の最後には、「市おもてなし担当は『ただ、元のコンクリート面は保存しており、変更はできる。みなさんに意見を聴きながら、より良い保存・展示方法を考えていきたい』としていた」と書かれています。9億円余りもかけて行った改修工事、簡単にそんなことができるのですか?なぜ、平和公園内にある貴重な被爆建物を改修するのに、工事始まる前に皆さんの意見を聴かなかったのですか?と厳しく問いたいと思います。

いのちとうとし

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2020年7月 2日 (木)

ニューアルオープンしたレストハウスに行ってきました

マスコミ報道につられてということではありませんが、昨日リニューアルオープンした「レストハウス」に行ってきました。

第一印象は、「ずいぶんと綺麗になったな」「これが被爆建物?」です。車道を超えて、写真を一枚、正面入り口からの全景をとりました。

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建物のすぐ西に説明版があります。写真では、右側街灯の左横にクロっぽく映っています。そこに使われている写真は、被爆前の建物を映したものです。その写真と建物を見比べると、玄関入口両脇にあるアーチ型の窓に、被爆前にはなかった柱のようなものが2本見えます。その時には、「えー、耐震構造にするために変えたのかな」と思ったのですが、帰宅して中国新聞15面の「特集」を掲載された「改修前のレストハウス」の写真にも2本の柱が映っています。今回の改修で加えられてものでないことが分かりました。しかし、「外観は建設当時に近い姿に復元」といわれていましたので、地震対策で仕方のないことだったかも知れませんが、内側に工夫するとかして、外観は当時に近い姿にできなかったのかなと率直に感じました。

西側の壁面を写真に収めようと場所を移動し、壁に近づいてみました。スマホを構えながらよく見ると、西側壁面の真ん中あたりに白っぽく色が違う部分があります。

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よく見ると、積み上げられた石の中には、ひびが入っている石もあります。被爆前の外壁ではないか?

気になるものですから、レストハウス内の案内所に行き「被爆前の壁が使われている部分がありますか」と訊ねました。すぐには答えが返ってきませんでしたが、手元にある文書を開いて調べてくださいました。その文書の中の1枚にこう書かれています。

「建設当時の外壁 外壁の一部については、建設当時の外装材をそのまま使用しています。①建設時の人造石(外壁の西面の一部)②建設当時のスクラッチタイル(外面の北面・西面の一部)」

これで理解できました。私が、気になった外壁の部分には、建設当時の外装材が使われていたのです。残念ながら、スクラッチタイルの方は、沢山あり過ぎるのと遠目で、どのタイルかは確認できませんでした。建設当時の外装材が使われている部分は、誰でもすぐ見つけ易いような説明があった方が良いと思います。とここまで書いてちょっと疑問が出てきました。「大正屋呉服店」として建てられたこの建物、その後被爆までは外装は変更されなかったのだろうかということです。というのも私の関心事は、建設当時というよりも被爆時の壁だったかどうかですので。今のところ、それを知るすべはありません。

地下室に移動しました。

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地下室に入るのは、リニューアル前も含めて、今回が初めてです。入り口から、他の部分とは違う雰囲気を感じます。柱や壁面など被爆時に近い状態を生かして展示されているからでしょう。壁面の一部を利用して、爆心地から170メートルという近距離にありながら、この地下室にいてただ一人助かった野村英三さんの体験が、本人の日記や絵、戦後の写真などで紹介されています。

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この展示板の左隅に「竣工時の地下室の平面図」がありますが、残念なことにその方向が現在の間取りと右に90度ずれていますので、例えば部屋の真ん中にある柱が「平面図のどの柱か?」を見つけることが簡単にできません。平面図があるのですから、現在の展示室にある柱が、平面図のどの柱なのかをわかり易く表示すれば、見た印象が違うように感じました。しかし、ゆっくり見たい部屋です。

その後3階に移動し、旧中島地区に関する展示場を見て回りました。

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ジオラマなども設置され、見やすい展示になっています。新たに展示が予定(本年度完成予定が、コロナ禍で次年度になる)されている「平和公園に眠る中島地区の地下遺構」とこの展示が連動すれば、より効果的になるのではないかと思います。

階を移動する途中にも、被爆当時の階段や「天井裏の鉄筋コンクリートの梁」などもガラス越しに見えるように展示されています。せっかくに貴重な展示物ですが、ちょっと気を付けないと見逃がしてしまいそうです。

最後に2階の休憩・喫茶ホールを覗いてみました。一部屋は無料の休憩所になっていますし、喫茶ホールもかなりの席が用意されています。レストハウスが、まさにレストハウスとして機能できるスペースといえます。無料休憩所では、初日でしたが、何組か話を聞いている風景も見ることができました。

駆け足でしたが、レストハウスの見学を終えました。最後にふたたび案内所を訪れ「この施設のパンフレットはないですか」と訊ねたのですが、まだ作られていないようです。資料・展示室としての役割が大きくなった「レストハウス」ですから、パンフレットはどうしても必要だと思います。

いのちとうとし

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2020年7月 1日 (水)

「無責任」の論理構造 (4) ――「一億総白痴化」の具体例としての「説明責任」――

「無責任」の論理構造 (4)

――「一億総白痴化」の具体例としての「説明責任」――

 

前回述べたように、「一億総白痴化」という言葉は、1957年に評論家の大宅壮一氏が、テレビの弊害に警鐘を鳴らすために作ったものです。それから60年以上経った今、「一億総白痴化」はさらに進行しているはずです。今の政治状況をどんな言葉で表現すべきなのか皆さんのお知恵を拝借したいのですが、ここではその一面に焦点を合せています。

つまり、安倍政治の特徴とも言える「無責任」体質です。その「無責任」体質は、前回説明した「憲法マジック」と、今回取り上げる「説明責任」――それは「一億総白痴化」の現代的な象徴なのですが――によってその輪郭が決っているというのが本稿の主張です。

「一億総白痴化」をもう少し詳しく見ると、大宅壮一氏の指摘したテレビ番組の低俗さ、という誰にでも分る現象だけでなく、余りにも多くの人が何となく受け入れてしまっていて、その不自然さや歪みに気付かないような、つまり見落としてしまっても不思議ではない「微妙な」あるいは「微細な」現象に気付くはずです。今回はそのうちの一つを取り上げ、問題が如何に深刻なのかを確認したいと思っています。

それは「説明責任」という表現です。森友問題や加計スキャンダル、そして桜を見る会の醜聞について、安倍総理は「説明責任」を果していない、「説明責任」くらい果しなさいという声が大きかったことは記憶に新しいと思いますが、それは、国会や記者会見でそれぞれの事例について納得の行く説明をしなさい、という意味でした。それは当然です。

「納得が行く」という点では、私たち主権者の要求に応えてはいませんが、意味のない言葉をペラペラ並べることが「説明」だと強弁することも可能です。そんな御託を並べて、その場凌ぎの言い抜けを続ける「安倍の理屈」(アベノリクツ)では、「説明責任」を果したことになってしまいます。恐らくこんな解釈が罷り通っているから、何事にも「無責任」な結果が現れることになるのではないでしょうか。

しかし国会で、質問に対して答弁を拒否した回数が、2012年からつい最近まで、総理以下大臣や政務官等、答弁する義務を負っている人たちについては、6532件もあることが、フリージャーナリストの日下部智海さんの調査で分っています。

大臣たちは、国会で議員の質問に答えなくてはならないという義務を負っているというのが国会法の決まりであり、これまでの慣行だったのです。それが無視され続けている背景にも、「説明責任」という言葉で「責任」そのものの意味を薄めてしまったという事実があるのです。

もう一度、「説明責任」の意味から考えてみましょう。まずはウイキペディアを見てみましょう。

 

説明責任(せつめいせきにん、アカウンタビリティー英語: accountability)とは、政府企業団体政治家官僚などの、社会に影響力を及ぼす組織で権限を行使する者が、株主従業員従業者)、国民といった直接的関係をもつ者だけでなく、消費者取引業者、銀行、地域住民など、間接的関わりをもつすべての人・組織(利害関係者/ステークホルダー; 英: stakeholder)にその活動や権限行使の予定、内容、結果等の報告をする必要があるとする考えをいう。本来の英語のアカウンタビリティの意味としては統治倫理に関連し「説明をする責任と、倫理的な非難を受けうる、その内容に対する(法的な)責任、そして報告があることへの期待」を含む意味である。

 

ここで注目して欲しいのは、「説明責任」という言葉が、英語の「accountability」の訳語であること、そしてゴシックで強調されているように、「倫理的な非難」を受けたり「法的責任」を取ったりという結果になることを想定しているという点なのです。

「accountability」の形容詞形は「accountable」で、その受身形である「be held accountable」も良く使われます。最近のニュースでこの表現が何度も聞かれたのは、ミネアポリスで起きた警官による黒人男性、ジョージ・フロイドさん殺害事件についての市民の声としてでした。警官が、フロイドさんの頭を地面に頭を押さえ付け、フロイドさんの頸部を8分以上も膝で押し続けた結果、それも「息ができない、助けけてくれ」という懇願を無視しての8分なのですが、その結果、フロイドさんが死亡したという事件です。

Black-lives-matter

「Cops are accountable (警官は責任を取れ)」という言葉が書かれています

 

これに憤激した世界中の多くの人たちが抗議活動を始め、「Black Lives Matter」という標語とともに、黒人の生命を尊重すべきだという、当たり前すぎる主張が全米、そして世界を覆い、1968年の大抗議運動を彷彿とさせるレベルの大きな動きになっています。その出発点になったのは、警察官を非難する市民の声でした。その典型的なもののひとつが、「He should be held accountable」でした。そして「Cops are accountable」です。「cops」(複数)は、警官の俗称ですが、訳としては「警官は責任を取れ」くらいが良いのではないかと思います。

しかし、日本全国で「常識」として流布されている「accountability」 = 「説明責任」という固定概念を元に訳すと、その意味は、「警官に説明を求める」という意味になってしまいます。でも、フロイドさんの死についての言葉として、これがいかに現実離れしているものなのかは、皆さんもうお分りですね。

済みません。今回も長くなってしまいました。これで完結してはいませんので、残りは次回、7月11日にアップします。

[2020/7/1 イライザ]

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