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2020年6月11日 (木)

「無責任」の論理構造 (2) ――総理大臣も、主権者たる私たちの「使用人」――

「無責任」の論理構造 (2)

――総理大臣も、主権者たる私たちの「使用人」――

会社法では「使用人」を、会社の実務を実行する人という定義と、「平社員」という意味と両方の意味で使っているようですが、本稿では前者、つまり会社の仕事をする人は役員であれ平社員であれ、全て「使用人」と考えることにします。つまり、「使う人」と「使われる人」、「雇い主」と「雇われている人」等の二項対立で、誰かの命に従って仕事をする立場の人を指すことにします。

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それを憲法の中に現れる人たちに当てはめて考えたいのですが、まず、憲法の中の登場人物から整理しておきましょう。これは簡単なのですが、普通このような形での整理はしないようですので奇異に感じられるかもしれません。でも憲法の本質を理解する上では役に立ちます。

登場人物は、三つのグループに分けられます。第一が「主権者」です。これは分って頂けると思います。次に「公務員」です。選挙で選ばれる国会議員も公務員ですし、裁判所の裁判官も公務員です。そして、通常の意味の公務員も「公務員」です。そして、三つ目のグループは、天皇1人から成る「天皇」グループです。

「グループ」と言うと、普通は複数のメンバーがいないといけない、と思われがちですが、数学的に整理する場合、メンバーが1人の場合も「グループ」の特別の場合として、「グループ」と呼びます。

もう一つ注意しておきたいのは、天皇も「公務員」の一人だと考えることも可能なのですが、天皇には特別の役割がありますので、三番のグループと考える方が論理的です。

この三つのグループの内、「使う人」は当然、主権者です。そして、「公務員」と「天皇」は主権者の「使用人」、つまり主権者のために仕事をするという立場です。同時に、これらの三つのグループに分けるという行為そのものは、日本国という存在をスムーズにかつ人類史や日本の歴史も踏まえ、そこに住むすべての人の幸福のために機能する状態を作るために行っています。その他の属性、例えば偉いとか偉くないとかといったものに従ってのグループ分けではない点を肝に銘じておいて下さい。また、それとはまったく別の次元で、ここに列記して登場人物は、これらの三つのグループのどれに属していても皆、日本国民という点では同じ立場ですので、これらの「使用人」が行うサービスを享受する権利があります。

本稿で取り上げたいのは、総理大臣の「無責任」が中心ですので、「使用人」の中でも「公務員」に焦点を合せましょう。「公務員」の仕事、特に総理大臣の仕事の内容は、憲法が大枠を規定しています。まず、前文では「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と述べています。

より具体的な職務内容は、複数の条文に示されている通りですが、例えば68条では、総理大臣に与えられている仕事として、国務大臣を任命することができ、かつ罷免することもできると明示されています。73条では、内閣の職務権限という形で、7項にわたって、一般行政事務以外の事柄を列挙しています。

こうした仕事をする上で、最低限守らなくてはならないルールも憲法の中には明示されています。一つは、15条の二項です。「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」。もう一つは、99条です。「国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」ですが、憲法の中には、国民の権利が規定されていますので、それらの規定も守らなくてはならない義務を負っているのです。

実は、「使用者」としての「天皇」も、「公務員」と同型のルールを守らなくてはならないことになっています。「全体の奉仕者」は、「公務員」が守らなくてはならない条件ですが、「天皇」の場合は、1条で、「国民の総意」によって、「日本国の象徴」として「国民統合の象徴」であることが規定されていますが、これは「全体の奉仕者」であることをその中に含んでいると考えられるからです。そして、99条の憲法遵守義務には、「天皇」に対する唯一の明示的義務として「憲法遵守義務」が課されています。念のため、条文を掲げます。

99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

「使う側」の主権者と「使用人」の公務員との関係を、もう少し整理しておくと、主権者は「公務員」に対して、一定の仕事を委託するのが憲法の枠組みです。前文では「信託」という言葉を使っていますが、それは信頼した上で委託しているという意味ですし、その信頼に応えて、「全体の奉仕者」として、しかも憲法に則って仕事をするのが「公務員」の義務です。この点を具体的に、主権者の側からの権力の行使として明示しているのが15条です。「公務員」を選定することと罷免すること、両方の力のあることを述べているからです。

それを視野に入れて、仮にある公務員が、自分の仕事、つまり主権者によって委託された仕事を全うしていないとき、全うさせるためにはどのような手段があるのか考えてみましょう。憲法内には「懲戒処分」という言葉が使われていますので、それも可能なはずです。しかし、基本的な形は委託先を変えることだと考えられます。選挙とはまさにそれを可能にするシステムですし、それは、前文に掲げられている権力の移譲の仕方が基本的な形を示していると考えられますし、15条の一項に掲げられている一対の権力行使の仕方に裏付けられています。つまり、これが政治的責任の取り方の基本形だと理解して良いのではないでしょうか。

もし、人を換えなくても、それまではできていなかった、「委託された仕事を全うする」ことができるようになる対応があるのなら、それは、認められるかもしれませんが、そのことを証明する責任は、「公務員」側にあります。主権者側は、委任先を変える、つまり、その「公務員」を罷免して別の人に委託し直すという選択肢があるからです。

これを簡単にまとめると、総理大臣や国務大臣も含めて、「公務員」が、主権者の委託した仕事を全うしていない場合には、その職を辞めなくてはならないということになります。この因果関係を「責任を取る」という言葉で表現しているのです。

このことは、第(1)部で指摘した論理性を憲法が認めていることを示しています。それは責任についての因果関係を元にしています。憲法の根底にもこのような形で論理性が生きていることは力強い限りです。

しかし、安倍総理が連発して来た「責任は自分にある」、しかしその責任は取らない、つまり辞任しない、という「無責任」さは、そもそもなぜ可能なのでしょうか。そしてなぜこれほど長期にわたって続いているのでしょうか。あるいは主権者である我々が続けさせているのでしょうか。

次回、21日には、その説明をする積りですが、一つは憲法についての根本的な問題です。そしてもう一つは、日本社会がこんなに簡単に洗脳されてしまって良いのか、という嘆きから始めたいと思います。

 [2020/6/11 イライザ]

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