柴原洋一さんの「原発の断りかた」の書評を書いた
三重県伊勢市に住む長年の同志である柴原洋一さんから、今年2月22日に発刊された「原発の断りかた ぼくの芦浜闘争記」が送られてきました。
2月22日は今から20年前のこの日、37年間続いた中部電力の芦浜原発建設計画が実質的に撤回された日です。この日を記念して出版されたのです。
その著書の書評を書きました。
改めて運動の原点を感じさせてくれた
昨年の10月頃だったと記憶しているが、柴原さんから「上関原発の反対運動は37年だよね。芦浜は計画から37年で止めることができたが、上関は来年になったら38年、全国で一番長い反対運動になるね」という電話をもらった。
この時、僕は柴原さんの言葉に『上関の人たちはどんな状況?頑張ってください。応援していますよ』という激励の意味とともに、芦浜が「(上関より)勝った」という自慢心を聞かされたような少々のヤキモチ心を思った。
だいたいに本を読むペースの遅い僕だけど、本書はまさにイッキという感じで読み終えた。文中にある人たちが、私たちの大きな活動の課題となっている、山口県の上関原発を止めるために闘っている(いた)、あの人この人というように重なってきた。
37年間というのは、本当に長い年月である。芦浜計画が起こらねば、豊かな海と恵まれた自然、緩やかな人間関係の中で、こんな経験をすることなく生きてこられたと思われるが、それを一変させたのが原発だ。推進派の人が亡くなればこちらが一つ増えたと感じ、子どもが転んでケガをしても推進か反対かで対応が変わってくる。小さな子ども仲間でも、相手側の人に「バカ」といい「死ね」といったという。こんな現実が原発現地にあるということを、リアルな感覚で想像できるだろうか。それも37年間もの間続いたということを。
芦浜と同様のことが上関の中でも起こっている。一般的に私たちは人を見ると男性だとか女性だとか、若いとかお年寄りというように見るものだが、上関では「推進」「反対」という判断が最初の区別だ。それは親子、兄弟という身近な人間関係の中でも起こる。規模の小さい地域社会の中では、これはまさに「残酷」という言葉以外にない。
芦浜原発は2000年2月22日に、当時の知事が三重県議会の場で「(計画は)白紙に戻すべきであります」という表明で、実質的な撤回となった。
反対運動の37年間、撤回からの20年間、合わせれば今年は57年間という年月である。しかし地元の人たちの間には、今でも、推進・反対の立場の人たちのわだかまりは解消されていないという。
計画の白紙撤回を求める発言の中で北川正恭知事は、「長年にわたって苦しみ、日常生活にも大きな影響を…」の部分で一瞬、声を詰まらせたという。そして撤回が決まった翌日に、地元で歯科医院をしながら反対運動を取組んでいた人の元に、警察の機動隊の人から電話があった。その機動隊員は「今から私は機動隊の〇〇ではありません。尾鷲(おわせ)の一漁師の息子として、ひとこと言わせていただきます。ありがとうございました」と。この2か所の部分では私も涙ぐんだ。
芦浜原発反対闘争は大きく1963年から4年間の第一回戦と、1984年からの第二回戦に分けられが、第一回戦に闘いの先頭にいた漁業者の「25人衆」といわれた方は全員鬼籍に入られたという。37年の歴史は長い、しかし人の生命に限界があるのは当然だ。上関でも「ふる里を原発の、放射能の町といわれたくない。孫子の世代に原発を残したくない」というある意味、とても単純で明確な思いで、一生を終えた方は数多い
柴原さんが『ぼく』という視点で書かれているのが、現地にピッタリの感覚を持ちながらも、自分は地元の人間ではないという立ち位置で、自らの役割りをしっかりと担っているという感覚は素晴らしいと思う。そう意味からも本物の闘争記録となっているのだろう。
この『ぼく』という言葉、本人に伝えれば怒られるかも知れないが、柴原さんの天性の楽観的な性格と、周りの人たちが信頼と尊敬の思いで何でも話せる(話す)人間性が現れているように感じとるのである。
中部電力も中国電力も省略すれば「中電」である。文中で多く使われている中電という言葉と、柴原さんの『ぼく』とが、私・木原省治の『僕』と重なり僕も頑張らねばというパワーを与えて貰った。
何年か前、柴原さんの案内で芦浜現地を訪ねたことがある。一つの山を上がり、少し下ったところで再び山道になり、そして芦浜の海岸に降りた。限りない広大な太平洋がそこにあった。
島が点在している瀬戸内の海では見られない姿に、感動したものだ。もう一度、芦浜の海を訪ねてみたい。本書を読みながら、そういう思いが強くなった。
この本の出版社は月兎舎(げっとしゃ) 定価は1500円+税で
連絡先は516-0002 三重県伊勢市馬瀬町638-3
電話:0596-35-0556 FAX:0596-35-0566 です。
木原省治
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