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2020年6月

2020年6月30日 (火)

6月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町)

27日と28日の土日に農園に行く。どうにか天気が持ち、近くの麦畑は刈り取りが終わっていた。稲田はどんどん伸び青さが増す。農作業の時間中耳に入ってくるのは、ウグイスがいつまでも谷渡り入りで鳴き、ホトトギスが時折なくが、キジの声は聞こえない。そしてヒヨドリ、ツバメが忙しく飛び交うのが目に入る。ブルーベリーの早生の実はまだ酸味が多くよほどの大きさでないと甘みのある実は摘み取れない。それでも安芸の郷に2回目のブルーベリーの納品が出来た。

農園と比べ安芸の郷のある安芸区矢野東の第2森の工房AMAの屋上の早生と中生のブルーベリーはもう完熟状態の種類もあり、利用者職員が雨の日を除いて毎日摘み取りに精を出している。Cafeさくらでのフレッシュブルーベリージュースや生食の100gパックも提供されお客さんに初夏のブルーベリーを味わって頂いている。毎週火曜日、金曜日には広島市中区紙屋町の地下街の障害者の皆さんの売店「ふれ愛プラザ」に夕方100gパックを搬入しているのでお近くの方は是非。

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6月27日(土)

①農園の庭のガクアジサイがいい頃合いに咲きだした。

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②里山の防鳥ネットを張っている早生のブルーベリーがぼつぼつ甘みを増した木が出てきたので4キロばかり収穫。安芸の郷に納品した。

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③小さいアマガエル。今年生まれだろう小指の先くらいの大きさ。摘み取る木のあちこちで出会う。

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④庭の池の周囲のナンテンの花(まだ蕾だが)と花ショウブ。

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⑤里山の晩生のブルーベリーの中に中生のブルーベリーの木が10本近くある。鹿にぼこぼこにされた晩生のブルーベリーの後に中生を植え替えたものが摘み取りできる大きさになったがこれまで時間もなくヒヨドリが食べられてばかりだったのだが今年はネットを1本1本にかけた。作業中にもヒヨドリのパタパタ飛ぶ音がしきり。ネットは防獣用のネットの予備があるのでこれを細かくカットして応用した。

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6月28日(日)雨と予報は出ていたが結局降らなかった。草刈りと野焼き、追い植えに作業分担する。

①庭の剪定で出た枝を野焼きする。外気温も30度くらいあるので暑い。火に近づくときはかぶった帽子を前に出して頭を下げて火を突っつきながら燃やす。

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②野焼きはいつも3時までにしている。その後ブルーベリーの追い植えを2か所行う。

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③里山の日陰でホタルブクロが開花。今年は咲く場所が違う。

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畑の法面のネムノキ。さきっちょのあたりにピンク色がのっている。

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細い花びらが樹冠の上にいっぱい咲いている。夕方の弱い陽を背に光る。

 2020年6月30日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年6月29日 (月)

原爆で廃校となった大手町国民学校

わが家の東隣に建つNTTドコモビル(広島市役所の真向かい)の敷地の南西角に黒い御影石で作られた石柱が建っています。表には、「大手町小学校 国民学校跡地記念碑」と刻まれ、裏側には「慰霊 原爆死没者教職員並びに同窓生」と記載されています。側面には「昭和六十年二月吉日建立 教職員・同窓生一同」と刻まれています。

これらからわかることは、この場所に「大手町国民学校があった」こと、そしてここで原爆による犠牲者が出ており、それを追悼するため、被爆40周年の昭和60年(1985年)に建立されたということです。

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 私がここの引っ越してきたのは、NTTドコモビルが建つ前でしたが、同じ場所でこの碑を見た記憶があります。その時は、「あーここに大手町国民学校というのがあったのだ」というぐらいで、それ以上のこと(被爆のことも含めて)を考えたことはありませんでした。

ところが最近、神崎小学校や千田小学校そして天満小学校を訪ね、それぞれの学校の被爆時のことを調べるうちに、「大手町国民学校跡地記念碑」という言葉が気になってきました。、「なぜ跡地なのだろうか」と。そこで少し調べてみました。

最初に調べたのは、いつものように「広島原爆戦災誌」です。それによると「最後の本校児童在籍者数は、男536人、女546人計1,082人である。」と書かれています。教職員は、39人だったようですが、「最後の」という言葉が気になります。次に出てくるのが「学童疎開実施状況」で、集団疎開が202人、縁故疎開が378人となっています。集団疎開先は、「山内川北村、高村」となっています。庄原市の友人に確認したところ、旧庄原市域内であることが分かりました。学校に残った児童のうち45人が、建物疎開作業に従事することになり、被爆時、学校では引率の先生1名と児童14,5人が校内で被爆しています。他の子どもたちや教職員は、ほとんど家庭内か登校途中で被爆したと思われます。児童の被災状況は、死亡35人、行方不明16人連絡不能165人という人数が、被爆時調査で上がっています。校舎の被害状況は、「全壊全焼」です。

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大手町国民学校の焼け跡。門柱には「大手町国民学校仮事務所」との看板

「広島原爆戦災誌」には、「被爆後の混乱」として次のようなことが書かれています。「大手町国民学校区域の惨害は、あまりにもひどかった。区域内は一軒の例外もなく建物はすべて焼きつくされた。それだけに、人的被害も徹底的なものであった。生き残った人ひとりとして、区域内にいるものはなく、みんな区域外に逃げていった。」さらに焼け跡に肉親や縁故を探す人があったが「そのような幾日かが過ぎても学校を訪ねる人が無かったことは、惨禍の甚大さを物語るもので、他地域にはない現象であった。」

長い引用になってしまいましたが、それには理由があります。

調べていて気付いたのですが、「広島原爆戦災誌」には、35の公立国民学校の被災状況が書かれていますが、その中で戦後廃校となったのは「大手町国民学校」ただ1校なのです。

大手町国民学校は、爆心地から1.1km距離に建っていました。爆心地からより近い学校は、本川(爆心地から0.35km)、袋町国民学校(0.6km)があります。1.1kmの距離には、袋町、中島、広瀬町国民学校があります。

なのに「なぜ大手町国民学校だけが廃校になったのだろう」と、その理由が知りたくなりました。手持ちの資料だけでなく、広島中央図書館にも行って調べてみたのですが、はっきりと「廃校の理由」が記載された資料は見つけることはできませんでした。ただ「広島公立学校沿革史」の「大手町国民学校」の項には「昭和20年9月 依然として区域内に帰住するものほとんどいない」と記載され、「昭和21年3月 学校閉鎖」と記述されています。この記述と先に「広島原爆戦災誌」から引用した被爆時の校区の被害状況と合わせて考えると、元の住民の帰還がほとんど望めなかったことが「廃校」となった主要な原因のように思われます。

不思議なことに、大手町国民学校より近距離で被爆した本川国民学校や袋町国民学校は、廃校になっていません。それは、当時市内の学校では珍しい鉄筋コンクリート校舎だったため、建物が残ったことが大きな要因となり存続できたと思われます。ところで、この袋町国民学校の沿革史には「昭和21年2月1日大手町国民学校の事務所を校内に設置」と記載されていますので、大手町国民学校は廃校のあと、袋町国民学校に引き継がれたようです。多くの国民学校が、その年の9月に入ると順次再開されていくなかで、大手町国民学校だけが、被爆後一度も再開されることなく廃校となってしまったのです。

公立の国民学校で廃校となったのは、大手町国民学校だけですが、戦前にあった民間の国民学校2校(済美国民学校、光道国民学校)は、いずれもその年に廃校となっています。この2校のことも改めて調べてみたいと思っています。

いのちとうとし

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2020年6月28日 (日)

原爆資料館の1枚の展示文に疑問を感じました

広島原爆資料館の常設展示が終わろうとする東館の2階に「ヒロシマの歩み」と題する展示コーナーがあるのをご存知でしょうか。このコーナーでは「1、戦時下の広島と戦争 2、広島の復興 さまざまな支援 3、平和な世界をつくる」をテーマに写真と解説パネルで構成されています。館内を見学し、ここまで歩みを進めると、かなりの時間が経っており、そして多くが文字解説のパネルとなっていますので、じっくりと見たり読んだりする人の姿はめっきり少なくなっている気がします。

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しかしよく読むと、パネルの記載が気になる1枚があります。その1枚は、このコーナーの真ん中ほどにある「広島の復興 様々な支援」の中の「海外で暮らす被爆者」を紹介したパネルです。その全文を紹介します。

「広島・長崎で被爆後、故郷に帰国した外国人被爆者やさまざまな事情で海外に渡った日本人被爆者には、長い間、被爆者援護制度が適用されませんでした。1967年(昭和42年)の韓国原爆被害者援護協会の発足をはじめ、在外被爆者への援護を求める運動が大きくなり、1980年(昭和55年)、海外で暮らす被爆者の渡日治療が始まりました。2001年(平成13年)から在外被爆者への援護制度が順次見直され、現在では被爆者が居住する国の日本領事館などで被爆者健康手帳や諸手当の申請ができるようになり、諸手当の海外送金も行われています。」

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私が気になるというのは、その文章の終わりの方にある「2001年(平成13年)から在外被爆者への援護制度が順次見直され」という「2001年」という記述です。その理由は、後で詳細に記載します。

実は、昨年2月に資料館を訪れた時に疑問を感じ資料館に訊ねました。しばらくするとメールで回答がありました。「この展示文は、広島市の「在外被爆者への支援」に記載されている文章を根拠にしたもので「2001年の判決を受けて『在外被爆者に関する検討会』が設立され、その報告を元に徐々に支援事業が実施された、との理解に基づいています。」という内容でした。

私は、この回答には納得がいかず再び原爆資料館を訪れ、もう一度質しました。その途中、たまたま通りかかった館長から「他にもパネルの文言の中で、修正が必要なものもある。ただ、今は4月の本館リニューアルで大変なので、少し時間をください」といわれ、今後の経緯を見守ることにしました。

ところが、コロナ禍後の再開初日(6月1日)、久しぶりに資料館を訪れた時に改めて確認したのですが、展示文は以前のままでした。

どうしても納得できなかったため、6月8日に今度は理由を明記し、文書で原爆資料館の見解を尋ねることにしました。私が修正を求める理由は次の通りです。


1、記載されている「2001年から在外被爆者への援護制度が順次見直され」のうち、2001年に見直されたものは、具体的に何を指しているのでしょうか。

2、「在外被爆者への援護制度が順次見直された」ことで、最も重要なことは、2002年郭貴勲裁判の大阪高裁判決で国が敗訴し、翌2003年3月1日に「402号通達」が廃止され、同年から海外在住のまま、被爆者援護法が適用され、手当が支給されることになったことです。

3、「402号通達」が在外被爆者への援護法適用を違法に阻害していたことは、「①上記援護法適用によって支給されることになった『健康管理手当』の出国によって停止されていた未払い分については、時効が適用されず全額支給となったこと。②2007年の韓国人元徴用工裁判において、『402号通達が違法」とされ、一人当たり120万円の賠償金支払いが命じられたこと。」で明らかです。

4、以上のことを考えると、在外被爆者への援護で重要なことは、国外に在住していても援護法が適用されるようになったことであり、したがってパネル記載文について「2003年から海外在住者に対し援護法の一部の適用が開始され、」とすべきだと考えます。それは、「在外被爆者を援護法適用から除外する」という誤った政策があったことを正しく伝える上からも必要なことだと考えます。


一週間ぐらい過ぎたころ、原爆資料館から電話がありました。「広島市の記載とも関係あり、資料館だけで判断することが来ません。市と協議することにしましたので、もう少し時間をください。」とのことでした。

今、資料館からの回答待ちの状態ですが、遅くとも、8・6までには返事が欲しいと思っています。どんな回答になるかわかりませんが、回答が出れば当然のことですが、必ずこのブログで紹介したいと思っています。

いのちとうとし

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2020年6月27日 (土)

原爆症裁判―広島高裁判決を考える

6月22日、国が原爆症認定申請を却下した処分の取り消しを求める訴訟の控訴審判決が広島高裁で言い渡されました。

コロナ対策で傍聴席数が減らされる一方、多くの傍聴希望がありましたが、私は他の支援者のご理解を得て、傍聴席でこの判決を聞くことができました。

判決の結果は、すでにマスコミで報道されているように、原告全員の訴えを認めないという1審の不当判決を見直し、11人中5人について却下の処分を取り消し、原爆症と認めました。残念ながら、他の6人については、1審判決を支持し、「原爆症」と認めませんでした。

認められた5人は、甲状腺機能低下症が4人、急性心筋梗塞が1人となっています。もちろん、全員の「却下取消」を求めていますので、判決は不当といわなければなりませんが、一部とはいえ厚生労働省が認めなかった「原爆症」を認定した事実は重く受け止められるべきです。

国はこの広島高裁判決を尊重するとともに、放射線の影響が否定できない限り認定するよう原爆症の認定要件を被爆者の立場に立った内容に見直すべきです。ましてはさらに被爆者に負担を強いるような最高裁への上告は絶対行うべきではありません。

今日は、この判決に対する私の感想を述べてみたいと思います。

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今回の裁判では、三木裁判長は、判決の主文とともに控訴人一人ひとりの「却下処分の取り消し」や「請求の却下」の理由について「判決要旨」を読み上げました。かなりの早口での読み上げでしたので、充分に聞き取ることはできませんでしたが、その中で印象に残ったのは「一定程度の低線量域を含めて」と「被爆時若年であり、放射線に対する感受性が高かったといえる」という言葉が何度も出てきたことです。

 後に入手した「判決要旨」では、「原爆症」と認定された一人の「原爆症認定要件該当性」に、次のように記載されています。少し長いですが引用します。

「控訴人○○は、健康に影響があり得る程度の線量の放射線に被曝したものと認められる。甲状腺機能低下症と放射線被曝との関連性については、一定程度の低線量域を含めて、一般に肯定することができるところ、控訴人○○が、被爆時2歳と極めて若年であり、放射線に対する感受性が高かったこと等も併せ考慮すれば、控訴人○○の甲状腺機能低下症発症時の年齢を鑑みても、放射線に被曝したことによって甲状腺機能低下症を発症したとみるのが合理的でるということができ、放射線起因性があると認められる。(以下略)」(太字は筆者)

私の考えはこうです。「①:『一定程度』と、その基準をはっきりさせていないが、低線量被曝であっても健康に影響することを認めた。②:若年であればあるほど、放射線被曝の影響を受ける。ことを認めたのは大きな意義がある」ということです。

報告集会で、発言を求められましたので私は、こうした考えを述べた上で「福島原発事故で受けた被曝問題を考えるとき、生かしていくことのできる判決ではないか」と述べました。

しかし、報告会終了後、弁護士に訊ねると「これまでの判決でも若年の被曝影響はいっているので、特別のものではない。裁判所のいう若年とは35歳以下ですから」「全員を認めたのならわかるが」とこの点は対して評価できないとの返事が返ってきました。

私にとっては意外な答えでした。本当にそれだけ考えておけばよいのだろうかということです。「すべての原爆被爆者がきちんと救済されなければならない」というのは、当然のことです。しかし、同時に世界で様々な核被害を受け、また身近には福島原発事故を体験した放射線被害によって苦しんでいる人たちがいることも同時に考えなければならないのではないかということです。小さなことのようにも見えますが、「低線量域の被曝による健康被害」が認められ、「若年(この判決では、わざわざ『被爆時年齢2歳』ということを明確にして)での放射線被曝の影響が大きい」ことを認めたこの判決を広島・長崎以外のヒバクシャに生かすことは、私たちが絶対にやらなければならないことだと思います。

広島での「原爆症裁判」は、現在係争中のものはありませんので、これが最後となるようです。

だからこそ、私は判決言い渡しを聞きながら、二つの言葉に感受性豊かに反応したのだと思います。

いのちとうとし

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2020年6月26日 (金)

様変わりした中国電力の株主総会

昨日午前10時から、中電本社ビルで「中国電力株主総会」が開催されました。このブログで毎月10日と25日に原発問題を様々な角度から問題提起している木原さんが、今年も株主とし総会に出席すると聞いていましたので、激励の思いを込めて中電前に行ってきました。私が中電前に到着した時には、雨が降り続けていましたが、株主や支援者のみなさんが横断幕やプラカードを掲げて通行人にアピールしている前で、木原さんが今年の株主総会に提案する内容を紹介していました。

木原さんから聞いた株主総会の様子の一部を紹介します。

「コロナ禍の関係で、3分以内2問までと言われ、用意した6問のうち次の3問を質問しました。

①関西電力の幹部による贈収賄事件は、刑事告発、損害賠償請求が起き、中電にも経済産業大臣から『役職員による金品受領の有無及び不適切な工事発注・契約の有無について』の報告が求められたと思うが、公正で正しい調査ができたのか。

②島根原発におけるサイトバンカ建物巡視業務の未実施に関する保安規定違反がまた起り、これまでにも同様の事件が起きており、中電は『直ちに治せない体質』としかいいようがない。どうやってこれを治そうとするのか?また今回は処分というのが無い?

③新型コロナウイルス感染対策として当社最上階にある給電指令業務の、災害を対応のために分散しておくことを検討してはどうか。」(いのちとうとしが要約しました)

中国電力の回答は、①コンプライアンス担当の執行役員が行ったので公正に行われた。②この事案がまとめられたら、厳正な対応(処分)をする。③参考にして検討していく。だった」

原発問題については、木原さんが毎月10日と25日に原稿を送ってくれていますので、もう一度振り返ってお読みいただければと思います。

ところで、今日のタイトルに「様変わり」としましたが、もちろん中国電力の原発政策が変わったわけではありません。「新型コロナウイルス」の影響で、中電ビル玄関前の風景が「様変わりした」ということです。

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その一つが、毎年、株主総会の日には遠く祝島から駆けつけてこられる島民の人たちの姿が今年はなかったことです。今年は、派遣が中止されたそうです。

その二は、これもまた毎年参加している島根の仲間の姿が見えません。木原さんに訊ねると「島根の人たちも、『県境を越えない』ということで、今年は全員参加しないことになりました」とのことでした。

その三は、例年は、定刻前になると列をなすといっても過言でないほど次々と中電ビルの玄関を入っていく一般株主の姿がほとんどというか全くといってよいほど見かけなかったことです。その理由は、今年の中国電力からの「株主総会招集ご通知」の1ページ目に「新型コロナ感染症の拡大防止のためのお願い 新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、当日のご来場は極力お控えいただき、同封の議決行使書またはインターネット等により事前に議決権を行使していただきますようお願い申し上げます。」と記載されているので、出席を控えたということでしょうか。

「脱原発へ!中電株主の行動の会」でも、参加の可否を巡っては論議されたようですが、最終的には「人数を絞って参加」し、直接意見を述べ、質問をすることになったようです。

そのためだと思われますが、上の写真でよくわかるように例年玄関前に壁を作るように並んでいた中電職員の数も大幅に縮小されていました。

結局、株主総会参加者は、取締役などを含めて116人で取締役らを除くと101人、全体で1時間48分と短時間で終了したようです。

ところで、株主総会が開催された昨日の中国新聞の27面には、九州4県に避難した18世帯53人が、東電と国に損害賠償を求めた訴訟で、福岡地裁が「福島県内からの避難者7世帯24人に対し計490万円を東電に命じた。国への請求を棄却した。」とのニュースが小さく掲載されていました。不当な判決と言わざるを得ませんが、しかし一部とはいえ電力会社側の責任が認められています。

ひとたび原発事故が起これば、決して責任を負いきれないほどの被害が広がること、そして何よりも東京電力福島原発事故によって今もなお避難生活を余儀なくされている住民がいることを中電もきちんと認識し、原発事業の見直しを進めるべきです。

いのちとうとし

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2020年6月25日 (木)

新型コロナウイルスと原発避難計画

5年前の2015年、島根原発が事故を起こした時に避難者を受け入れることになっている広島・岡山の両県の避難先になっている市町村に、「原子力災害時における広域避難に関する協定」についてのアンケートを行いました。

アンケートは、主に避難先の状況など19項目を訊ねました。その中で避難所の一人当たりのスペースを問いました。回答は大半が2平方メートル、広いところでも3平方メートルという回答になっています。当然ですが2平方メートルとは1メートル×2メートルという数字です。

僕が眠る布団は横1メートル、縦1.9メートルですから、だいたいその広さだと思います。一人当たりの広さですから、家族が4人だとしたら8平方メートルとなるのでしょうか。プライバシー保護の対策については、ほとんどが無回答でしたが、ほんの少しですが段ボールで仕切るというのがありました。まあーそんな内容です。

新型コロナウイルス感染症の発生で、人と人との間隔を2メートル以上保つという「ソーシャル・ディスタンス(社会的な距離)」が言われています。人間自身の縦横幅は考えないにしても、一人あたり左右前後を考えれば4×4で16平方メートルが必要ということになるのではと思うのですが。

島根県では福島原発事故の発生によって、これまでの地域防災計画を修正し、広域避難計画を策定しました。その実効性を向上させるために、避難先である広島や岡山県との間で防災協定(正式には「原子力災害時等における広域避難に関する協定」)を締結しました。また、避難車両を確保するため中国5県のバス協会やタクシー協会とも協定を結んでいます。

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ちなみに広島県では、橋でつながっていない大崎上島町を除く22の市町に約17万1千人の避難者を受け入れることになっています。避難される人は、島根原発から30㌔圏内に住んでいる松江・出雲・雲南の人たちです。とりあえず、この人たちが何処に集合し、どこで放射能を測定し、どうやって避難するかということは決められています。しかし避難所の運営マニュアルが出来ているのは広島県では6市町という状況です。

たぶん島根県民から出されたと思われる新型コロナウイルスに関連した質問に対し、5月18日付けで島根県が次のように回答しています。

原子力災害が発生しているときに、新型コロナウイルスや同様の感染症がまん延した場合は、

1、避難の際に避難者の健康状態の確認を行うことの徹底

2、避難者が十分なスペースを取れるよう間仕切り(段ボール製品)の確保

3、ホテル、旅館等の民間施設の活用

など、感染症対策に万全を期す必要があります。

また回答の後半部には「あらかじめ定めた避難先以外の地域への広域避難を含め、可能な限り多くの避難所を確保することも検討していく必要があると考えています。」としているのです。

こういう島根県の見解を広島県の担当者は「知らない」と答えました。知らないことを怒ろうとは思いませんが、この防災協定の見直しは当然なされる必要があると思っています。そして基本は、原発を止めることです。

木原省治

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2020年6月24日 (水)

みてきました! 教科書展示会

毎月19の日行動を実施している府中の仲間から、行動の報告(6月は3カ所で実施)とともに次のような文章が送られてきました。教科書展示会については、このブログでも17日に「教科書展示会に行こう!市民の意見を届けよう!」(https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/06/post-379e48.html)で紹介していますが、実際に展示会に行った仲間からの報告です。

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土砂降りの雨が降る 18 日(木)昼から図書館に行って、教科書を閲覧し、アンケートに記入してきました。ただし記入は面倒なので、あらかじめ書いたものをアンケートの裏に貼りつけました。それが次です。

一.なんで教科書によってこんなに違うのでしょう か!

例えば、戦争の大義名分と被害の様子についてです。「育鵬社」という教科書は、「長く東南アジアを植民地として支配していた欧米諸国の軍隊は、開戦から半年で、ほとんどが日本軍によって破られました。これによって、東南アジアやインドの人々は独立への希望を強く抱きました。(略)日本政府は1943(昭和18)年11月、アジア各地域の代表を東京に集めて大東亜会議を開きました。日本の南方進出は石油資源の獲得を主な目的としましたが、この会議以降、アジアの国々を欧米による植民地から解放し、大東亜共栄圏を建設することが、戦争の目的として、より明確にかかげられるようになりました。」

一方、「学び舎」という教科書は、「日本は、この戦争の目的を、東南アジアの国々を欧米の植民地から解放して『大東 亜共栄圏』をつくるため と宣言していました。長い間、植民地支配に苦しんでいた人びとのなかには、独立への期待も生まれました。しかし、日本軍は、日本語学習やおじぎなどの生活習慣を強制しました。シンガポールやマラヤ(マレーシア) では、中国系住民を『日本の敵対者』とみなして、多くの人びとを虐殺しました。また、占領地で、食料を取り立て、石油や鉄鉱石などの資源を奪い、現地の人びとを労務者として重労働にかりたてました。このようななかで、人びとは抗日運動や独立運動を起こしていきました。」

二.「育鵬社」と「学び舎」でまったく内容が違います!

 歴史は立場によってさまざまな見方があるでしょうが、史実にもとづいた内容にするべきです。

 2015年に閣議決定された「戦後70年談話」に助言した有識者懇談会の報告書では、「植民地解放」のために戦ったとはいえない。1941年12月の対英米開戦以降の戦争は、「進出」ではなく「侵略」だったとしています。教科書の内容が180 度も違ったら教科書の候補にすべきではないと思います。

 三.史実に基づかない「育 鵬社」の教科書を採用しないことを求めます。

内容はお配りしました資料『教科書展示会へ行こう!市民の意見を届けよう!』と同じですが、府中市の教科書候補に「学び舎」がないことこそ一番の問題です。


広島市内の一部や東広島市のようにすでに終了したところや明日(25日)までとか今週中という自治体も多いようですが、17日のブログを見ていただければわかるように7月に入っても開催集中という所もありますので、ぜひ一人でも多く、行って意見を出してください。

いのちとうとし

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2020年6月23日 (火)

6月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

今年の夏至は6月21日。日没は19時30分頃になる。いつものように安芸区の自宅から週末の2日間は東広島市豊栄町にあるブルーベリー農園で手入れの作業を行う。5時には作業をやめて後片付けをして帰るがまだ太陽が出ていて農作業は十分にできるが仕方なし。農園の近所の親戚の男性に時間のある時に農園の草刈りをお願いしているが、21日は私たちが帰るころにやってきて草刈り機のエンジン音を響かせる。きっと作業しやすいだろうなと思ってしまう。そう、まだ空には青空と夏の雲が広がっている。

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6月20日(土)。

①庭の池の花ショウブが開花。

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②里山のブルーベリー園には膝ほどに雑草が伸びアザミのあちこちに咲いているが、

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③草刈り機で除草。

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④もう一方で農業用ため池のタケノコの除去にいくが入り口の里山の溝が枯れ枝と泥がたまり数か所せき止められて、前日、前々日と降った雨水が山道に流れだしている。見たときに手入れをする精神で約100mにわたってこれらを取り除き、ついでに大小の石を石で溝から出して流れをよくした。作業しながらよく見ると山道側の溝は石でしっかり組まれていてびくともしていない。大したもんだと感心する。

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⑤畑の富有柿。親指の先ほどの青い実がついている。

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6月21日(日)

①一番上の畑は2区画になっていて、親戚から譲り受けた畑に早生と中生のブルーベリーを植えている。今年木が少し大きくなり実もそこそこなっているので防鳥ネットを張ることにした。

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②里山にある早生のブルーベリー園にも防鳥ネットを張っている。そろそろ色づいてきて先週も摘み取ったが甘みがなくすっぱくて初物としての季節感を楽しんだだけ。21日現在まだ甘みが乗っていないので来入半ばまでつみとりはお預け。

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③防鳥ネットを張った後に施肥の作業。一番上の畑に鶏糞を1本の木に3つかみほど撒いて回った。

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④夕方5時過ぎ私たちが帰るころ親戚の男性の援農で草刈りが始まる。日没までまだ2時間もある。暑くもなく寒くもなく作業しやすい時間帯。

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⑤農園から歩いて数分のところのため池に毎年コウホネの黄色い花が咲くので見に行く。

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6月22日(月)朝。自宅のベランダの庭に咲くネジバナ。すこしずつ増えているのがうれしい。

 2020年6月23日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年6月22日 (月)

「安野中国人受難之碑」の草刈り

6月初旬の日曜日,山県郡安芸太田町にある「安野中国人受難之碑」周辺の草刈り作業を行いました。「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」の事務局と地元の元自治労の方,広教組の組合員総勢12人が集まりました。草刈り機や熊手を手に約1時間の作業で,腰まで伸びた草はすっかりきれいになりました。

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この地では,戦時中の労働力不足を補うために360人の中国人が強制連行され,安野発電所の建設に携わりました。終戦までの間,苛酷な労働により,被爆死を含めて29人の方が亡くなられました。1998年,中国人被害者とその遺族が,当時,水力発電所建設を請負っていた西松建設に謝罪と歴史事実の継承と補償を求め提訴しました。2004年広島高裁は原告勝訴の判断を示しましたが,2007年最高裁は1972年の「日中共同声明」により請求権は失われたとして高裁判決を破棄したため敗訴が確定しました。しかし,判決の付言として西松建設と国に対して「被害者救済のための努力」を求めました。その後,支援者らの粘り強い和解交渉により,2009年10月23日,西松建設と中国人当事者と間で和解が成立しました。そして2010年10月23日,この「安野中国人受難之碑」は建立されました。

毎年10月第3日曜日,碑の前で「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」が開催されます。安野発電所は現在も稼働し,約7,500世帯分の電力を供給し続けています。しかし,いったい何人の人がこの安野の歴史を知っているでしょうか。強制連行により異国の地で最期を遂げられた29人の方,強制労働中の病気やけがで体調を崩し,帰国後の生活に苦労された方とご遺族,関係者の方々の無念を思うとき,この歴史を忘れることなく,後世に引き継いでいくことが私たちの責任であると思います。

ぜひ、「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」のホームページ(http://keishousurukai.s2.weblife.me/)を見てください。

Nanba

<追記>

毎年10月の「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」に参加していますが、6月のこの時期にも草刈り作業が行われていることを初めて知りました。みなさんの努力に感謝です。来年はぜひ、声をかけて誘ってください。私も参加したいと思います。

いのちとうとし

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2020年6月21日 (日)

「無責任」の論理構造 (3) ――「憲法マジック」と「一億総白痴化」――

「無責任」の論理構造 (3)

――「憲法マジック」と「一億総白痴化」――

 

「憲法マジック」とは、憲法中には「○○は××である」と書いてあるのに、実際には「○○は××ではない」という解釈が採用されている、正に魔法の様な事例を指しています。そして「一億総白痴化」という言葉は、1957年に評論家の大宅壮一氏が、テレビの弊害に警鐘を鳴らすために作ったものです。今回は、我が国政治の「無責任」体質は、この二つの原因によって大きく歪められた結果生じていることを示したいと思います。

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前回までの結論をまとめておくと、まず、憲法に登場するプレーヤーが、「主権者」である我々国民、国民から仕事を与えられている「公務員」、そして「天皇」であることから始めました。「公務員」が憲法を守り、特に「全体の奉仕者」としてきちんとした仕事をしていれば問題はないのですが、そうでない場合には、その公務員は辞めさせて、別の公務員に仕事を全うさせるというのが、憲法の想定している責任の取り方です。

大事な点ですので、繰り返すと、総理大臣や国務大臣も含めて、「公務員」が、「主権者」の委託した仕事を全うしていない場合には、その職を辞めなくてはならないということになります。この因果関係を「責任を取る」という言葉で表現しているのです。

河井前法相夫妻が逮捕された後の安倍総理の言葉は、「かつて法相に任命した者としてその責任を痛感している。国民に深くおわび申し上げます。この機に国民の皆様の厳しいまなざしをしっかり受け止め、われわれ国会議員は改めてみずから襟をたださなければならないと考えております」です。

「主権者」である国民との関係は「国民の皆様の厳しいまなざし」に薄められ、「辞任して責任を取る」という関係にあることは忘れ去られています。憲法に描かれている、「主権者」と「公務員」の関係が全く頭に入っていないからです。

その理由は、「憲法マジック」にあります。憲法に何が書かれていようと、それは全て無視をして、自分に都合の良いシナリオをでっち上げ、それに従って演技をすれば全て世は事もなしと信じているかのような言動ですが、それを可能にしているのが「憲法マジック」だからです。

具体的には、総理大臣も含めて、「公務員」は憲法を守らなくてはなりません。それは、99条に明白に規定されているからです。

99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

にもかかわらず、この条文の解釈では正反対のことが述べられているのです。1977年2月17日に水戸地方裁判所が百里基地訴訟の第一審で下した判決では、99条について「国政運用の衝にある公務員に対し、憲法遵守・擁護義務を明示しているが、これは、道義的な要請であり」と法的義務ではないことを明確に示しています。また、1981年7月7日には東京高等裁判所が控訴審の判決で「憲法を尊重し擁護すべき旨を宣明したにすぎない」と同趣旨の判断を述べています。

こうはっきりと、憲法遵守義務を否定されてしまっては、そもそも憲法など邪魔だと思っている権力者たちが、勝手気ままなことをする習慣を身に付けてしまっても、当然の成り行きにしか見えないのですが、如何でしょうか。

まだまだ書かなくてはならないことは多いのですが、スペースが限られています。詳細は秋葉忠利著、『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』(法政大学出版局)の第6章と付論2をお読み下さい。

残念ながら、今回もついつい長くなってしまいました。もう一つの理由について、つまり「一億総白痴化」については次回をお楽しみに。

 [2020/6/21 イライザ]

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コメント

いやすでに「化」は要りますまい。
橋本治「バカになったか日本人」2014の「か」も。

白痴にルビをふるなら「どんかん」。
(↑変換不可!→ まさかのPC?!)
前々からまったくもう!と思っていたアベシンの鈍感ぶり。
専用機に乗り込む時→必ず妻より先に機内に入ってしまう。
何年か前→山口県から飛び去るsingleのプーチン氏でさえ、
ドア口で待機していたCAもどき嬢の肩を引き寄せ、
先に入れ、自分は最後だった。
もどき嬢も「もう、カメラが回っているとこうなんだから」の表情でもなかった。
スタッフor外務省→「せめてカメラがある時は欧米のマナーで」
と耳打ちする人はいないのか。
「そのうち恥かけばよい」と思っているなら別だけど。

「硬い心」様

コメント有り難う御座いました。確かに、今の状態では「一億総白痴化」ではなく、「一億総白痴」で十分かもしれません。

敢えて理屈を付けると、「化」という一字で、元は普通の状態だったのに、それが変化していることを示したいのです。となると、逆方向へ戻すことも可能になりますし。

もう一つは、「化」を動詞的に捉えて、因果関係を強調したいからです。マスコミとか政治家が大きな原因で、それに対抗できない私たちの多くも共犯になって「白痴化」が進んでいるという姿です。それを知ることで、もっとましな状態に戻すための対策を考えることが可能になるからです。

もっとも理屈抜きで、言いたいことを言うのも大切だとは思います。

2020年6月20日 (土)

朝鮮学校への無償化適用を求める6月の19日街宣行動

2017年7月19日の広島地裁での不当判決を受けて始まった「朝鮮学校への無償化適用を求める19日街宣行動」は、4月と5月の2回にわたって新型コロナウイルスの影響で中止となっていました。3か月ぶりとなった今月の行動は、参加者を縮小し昨日午後5時から1時間県庁前で、朝鮮高校の生徒代表や保護者、支援団体の代表者など約45人が参加し実施されました。

「朝鮮学園高校無償化裁判」は、13日のブログ(https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/06/post-dcb210.html)で報告しましたが、広島高裁での控訴審の審理は結審し、10月16日の判決を待つことになっていますが、一人での募多くの市民・県民の皆さんに理解していただこうと今月も実施することになりました。

昨日の行動は、従来実施してきたビラ配布は行わず、「無償化適用」と訴える横断幕やプラカードを掲示しながらマイクなどは使わずスタンディングのみのアピールを行いました。

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県庁の退庁時には、初めての試みですが、県庁に向かってアピールしました。

Dsc_6372

この19日行動を今後も毎月19日に継続して取り組むことを決めていますが、広島無償化裁判弁護団と広島無償化裁判を支援する会は、緊急行動として、控訴審で勝利判決が得られるように、広島高等裁判所に対し、公正な判決を求めるハガキ行動を提起し、協力を呼び掛けています。

Img016

ハガキには次のように書かれています。

朝鮮学校無償化不指定処分取り消し控訴事件について公正な裁判を求めます。『高校無償化法』は、朝鮮学校の生徒たちも対象とすることを前提として、『教育の機会均等を実現する』ために作られた法律です。しかし、国は、教育とは全く関係のない政治的な理由で、朝鮮学校の生徒たちだけを排除しました。このような過ちをただすために、控訴人たちの声に耳を傾けて、公正な判断をしてください。」

その後の余白に、はがきを送る賛同者一人ひとりが、それぞれの思いを書くことができるように空欄が設けられています。

このハガキ行動は、3人の裁判官が判決を書くための合議が開始されると思われる時期までに届ける必要があり、6月30日までに広島高等裁判所に届くよう各人が投函することをお願いをしています。あて先は、「〒 730-0012 広島市中区上八丁堀2-43 広島高等裁判所第2部 裁判長三木昌之様」です。

日朝友好広島県民の会も各組織に協力要請を行っています。厳しい日程ですが、一人でも多くの人たちに協力していただきたいと強く願っています。裁判はすでに結審していますので、法廷で争うことなどできず、やれることは限られていますが、知恵を出し合って最後まで、出来ることは何でもやり続けることが大切だと思います。

最後に、朝鮮学校への無償化適用を求める行動では必ず歌われる「声よ集まれ、歌となれ」の1番を紹介します。

どれだけ叫べばいいのだろう/奪われ続けた声がある/聞こえるかい? 聞いているかい?/怒りが今また声となる/소리여 모여라 노래여 오너라(ソリヨ モヨラ ノレヨ オノラ)/声よ集まれ 歌となれ/동무여 모여라 노래 부르자(トンムヨ モヨラ ノレ オジョラ)/声を合わせよう ともに歌おう

子どもたちの思いの詰まったこの歌を、私も最近になったようやく何とか歌えるようになりました。昨日はサイレント行動でしたが、この歌だけは行動の最後だけでなく途中でも何度か声を合わせ歌いました。

いのととうとし

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2020年6月19日 (金)

切明千枝子さんの被爆体験を聞きました

昨日のブログで紹介したように今年の75周年原水禁世界大会はオンライン中心の大会となりますが、その他にも「被爆体験から学ぼう」ということでの企画があります。その一つは、原水禁国民会議が毎月発行する「News Paper」やYouTubeによって被爆体験を紹介することです。一昨日の被爆75周年原水禁世界大会実行委員会結成総会に来広した原水禁国民会議北村事務局長、橋本さんは、昨日被爆者の切明千枝子さんからの、被爆体験の聞き取りを行いました。広島県原水禁からも渡辺事務局長など3名が同行しました。

切明さんの聞き取りは、昨日の午前中原爆資料館会議室で実施しました。少人数で、しかも間近で聞くお話には、切明さんの思いがひしひしと感じられ、貴重な時間となりました。

切明さんについては、今年2月16日のブログ「切明千枝子『ヒロシマを生き抜いて』」(https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/02/post-55db9c.html)で一度紹介しています。そしてこれまでにも何度か聞く機会がありましたが、じっくりと時間をとっての聞き取りは初めてでしたので、学ぶことの多いお話でした。切明さんのお話は、前半は、いつものように軍国少女だった戦中の体験です。そして8月6日の自らの被爆体験、第2県女の学生たちの被爆の実相、1時間の時間を短く感じる被爆体験です。10分間の休憩の後は、いくつかの質問に答えていただきました。

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切明さんの被爆体験は、様々なところで紹介されていますので、このブログでは体験談以外で私の印象に残ったお話を紹介します。

「自らが被爆体験を語ろうと思われたのは?」の問いに、切明さんの答えは「一つは、無くなっていった同級生や下級生の無念の思いを伝えたいと思ったことです。もう一つは、子どもや孫の可愛い顔を見ていると、この子たちに、同じ体験をさせてはならないと強く思ったからです。」それにつづけて切明さんは「被爆者だった私たち夫婦は子どもを産まない約束をして結婚しました。しかし、ある時、私たちがいつもかかっているお医者さんから(この方も被爆者ですが)『あなたたちは、子どもを産まないのですか、産めないのですか、どちらです?』と問われ自分たちの考えを伝えた時『あんたら何を言っとるんだ。障害を持っている人に対する差別意識があるからそんなことを言うんだ。障害があろうがあるまいが同じ気持ちで接するのが人間じゃろうが』と厳しくしかられました。その時、命をつなぐことの大切さを学びました」と自分の苦い経験も教えてくださったことです。

「子どもたちへのメッセージは?」との問いには「子どもの時に受けた印象は、生涯強く残ります。今私の体験を聞いてくれる多くは県外の子どもです。本当に熱心ですが、市内の学校の平和教育が弱くなっているように思います。体験をきちんと聞かせなければいけないのではないでしょうか。聞いてくれた子どもたちの反応は、手紙や文集などによって返ってきますが、素晴らしいものがありますよ」と広島の現状を憂う答えが返ってきました。

もう一つは、切明さんと旧陸軍被服支廠とのかかわりです。自宅が近所だったこと、お母さんが働いておられたので何度も訪れたことなどなど聞いたことがありますが、原爆投下後一番に被災者として避難した人が切明さんのおばあさんだったことを初めて知りました。もう少し詳しく聞けばもっと新しい話が聞けそうです。何時か機会があればと思います。前日ちょっと悪かった体調をおした長時間お話を聞かせて下さった切明千枝子さん、ありがとうございました。きっと全国の仲間の心を動かす力になると思います。

206192

昼食を終えた頃から激しい雨が降り始めましたが、残された時間でフィールドワークの下調べを行いました。広島城の被爆樹木や師団司令部後、大本営跡を巡り、袋町小学校被爆資料館の見学、旧陸軍被服支廠、宇品線跡などを駆け足で巡り、二人は予定通り午後3時前の新幹線で帰途につきました。今回の下調べを活かし、被爆の実相と加害の歴史を学ぶフィールドワークの収録を進める予定です。

いのちとうとし

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2020年6月18日 (木)

被爆75周年原水禁世界大会広島県実行委員会の結成総会を開催

被爆75周年原水爆禁止世界大会を成功させるための広島県実行委員会の結成総会が、昨日午後6時から自治労会館で開催されました。

今年の結成総会は、新型コロナウイルス対策ということもあり参加者を制限したため、県原水禁常任理事や平和運動センター加盟労組代表など、約50名の参加となりました。

総会は、県原水禁代表委員の開会あいさつでスタートしました。金子代表委員は、「今年の原水禁大会は、新型コロナウイルス対策を考慮せざるを得ず、従来のように全国から広島に結集するというと大会とはならず、オンライン集会という新しい形での開催となります。しかし被爆75周年という節目の年ですので、これまでの経験を活かしながら、広島として何ができるのか、何をしなければならないのか率直な声を出していただき、実りある大会が開催できるようご協力をいただきたいと思います」と参加者の協力を呼びかけました。

続いて、結成総会のために駆け付けていただいた中央実行員会の北村智之事務局長から、「被爆75周年原水禁世界大会の構想」について、提起が行われました。北村事務局長(今年の4月に行われた⦅文書での⦆原水禁国民会議全国総会で事務局次長からに事務局長の任に就いた)とっては、事務局長に就任して初めての原水禁世界大会ということになります。従来と全く違うスタイルでの原水禁大会の開催ということになりましたので、従来以上の苦労をしながらの準備となると思います。

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提起された広島大会は、次のような内容です。

①広島大会の開会総会は、8月6日13時からオンライン集会で実施します。その内容は、例年4日に実施していた「開会総会」のものを基本的には踏襲します。集会のエンディングでは、広島の様々な人たちの協力で収録した「原爆を許すまじ」のリレー合唱を流すことにしました。45分間くらいになります。

②分科会もオンラインを使用しますが、広島に協力をお願いするテーマは、秋葉忠利代表委員の「平和市長会議と非核の未来」(仮称)と金子哲夫代表委員の「平和公園碑めぐりフィールドワーク」です。

③長崎大会は8月9日、福島大会は8月12日にいずれも13時からオンライン集会を開催します。

④国際シンポジウムは、「核兵器廃絶と日本のプルトニウム」をテーマとし、事前に収録したものを編集し、8月6日14時からYouTubeにアップします。

⑤今年は、残念ながら、平和行進は、中止にします。

続いて、広島県実行委員会渡辺事務局長が、現地としての取り組みについて、次のような提案しました。

「広島県実行委員会としての具体的な取り組みは、第一にオンライン集会の充実、第二に、8月6日の『原爆ドームを囲むアピール行動』を、各組織の最大限の協力を得て成功させていきます。そして、これらの取組みを通じて、原水禁運動への新規参加者を得ることで、運動の広がりと継承に繋げていきます。」

そして8月6日午前9時30分から開始する広島実行委員会の独自行動となる「原爆ドームを囲むアピール行動」は、核兵器廃絶・脱原発・平和に関するアピールの横断幕を持ち寄り、原爆ドームを参加者で囲み無言でアピールする行動内容が提起されました。

質疑では、「オンライン集会を周知するためにもポスターは例年通り配布してほしい。」「8月6日の新聞意見広告を成功させよう」「原爆ドームの行動では、『市民の平和宣言』を出そう」など、例年以上に積極的な意見が出されました。今後、出された意見を大切にして、より充実した大会とするため、出された意見を内容に反映させることを確認しました。

最後に秋葉忠利代表委員による「先が見えない手探りの状況ですが、合理的な発言が出されました。一番印象に残ることは、今日の参加者が当事者意識を持っていただいていること、成功させるためにどうするかを考えていただいていることがよくわかったことです。大会を逝来させることが、日本の新しい方向を示すことになります。」という閉会あいさつがあり、結成総会は終了しました。

今年の原水禁大会は、新たなスタイルでの開催となりますので、参加者のみなさんにも戸惑いはありましたが、被爆75周年という大切な節目の年ですので、大会を成功させるため全員が力を合わせることを誓い合いました。

いのちとうとし

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2020年6月17日 (水)

教科書展示会へ行こう!市民の意見を届けよう!

現在、県内各地で、2021年度から中学校で使用する教科書の展示会が行われています。

主権者を育む教材です。平和・人権・環境・共生等の視点でどれがふさわしく、どれがふさわしくないか、ぜひ、展示会に足を運び、実際に比較して見てみてください。

そして、意見箱・電話・FAX等で意見を届けましょう。

 【県内の教科書展示会一覧】

状況によっては、会場が変更になる場合も考えられます。場所・時間等は、再度会場にご確認ください。

会場 (6月3日現在)

開催日

開催時間

休館日

意見箱

大竹市総合市民会館1階ロビー

6/12~6/25

9:00~21:00

なし

廿日市市役所1階市民ロビー

6/12~6/25

9:00~17:00

土日

広島市教育センター

6/12~7/1

8:30~17:00

土日

広島市〔学校回覧〕※下に別記

 

 

 

 

北広島町図書館(大朝)

6/12~6/27

10:00~18:30

×

安芸太田町立図書館

(川・森・文化交流センター)

6/12~6/27

10:00~18:00

土日9:00~17:00

×

安芸高田市中央図書館

(クリスタルアージョ1階)

6/12~6/28

10:00~19:00

土日9:00~18:00

×

海田町役場 別館加藤会館

6/12~7/1

9:30~17:15

土日

坂町役場 3F

6/12~7/1

9:00~17:00

土日

熊野町役場 1階エントランスホール

6/12~7/1

8:30~17:00

土日

安芸府中生涯学習センター 1階

6/12~7/1

9:00~20:00

土日

江田島市能美市民センター

6/12~6/25

8:30~22:00

なし

呉市生涯学習センター 601集会室

6/12~6/26

9:30~19:00

土日9:30~17:00

×

広島県立教育センター(東広島市八本松)

6/12~7/1

9:00~17:00

土日

東広島市高屋東地域センター

5/29~6/5

 

 

東広島市志和生涯学習センター1階ロビー

5/29~6/5

8:30~22:00

なし

東広島市福富図書館

5/29~6/5

10:00~18:00

東広島市立中央図書館 展示コーナー

6/12~6/19

9:00~18:00

土日10:00~18:00

なし

東広島市河内子ども図書館

6/12~6/19

10:00~18:00

東広島市黒瀬図書館

6/12~6/19

8:30~19:00

土日10:00~18:00

東広島市安芸津図書館

6/12~6/19

10:00~18:00

大崎上島町教育委員会

6/12~7/1

9:00~17:00

土日9:00~12:00

土日は要予約

竹原市民館 

6/12~7/1

9:00~18:00

土日

世羅町世羅図書館

6/12~6/25

10:00~18:00

×

三原市サン・シープラザ市民ギャラリー

6/12~6/25

9:00~17:00

なし

尾道市立みつぎ子ども図書館「すくすく」

6/26~7/9

9:00~19:00

(最終日は16時)

尾道市立因島図書館

6/12~6/25

10:00~18:00

(最終日は16時)

尾道市立瀬戸田図書館

6/26~7/9

10:00~18:00

(最終日は16時)

尾道市立中央図書館

6/12~6/25

10:00~21:00

(最終日は16時)

福山市立中央図書館

6/12~6/25

10:00~19:00

なし

福山市立松永図書館

6/12~6/25

10:00~19:00

土日は18:00

16(火)

福山市立北部図書館

6/12~6/25

10:00~19:00

土日は18:00

16(火)

福山市教育相談センター(北吉津町)

6/12~6/25

9:30~16:00

土日

神石高原町シルトピアカレッジ図書館

6/12~6/27

10:00~18:00

府中市立図書館

6/12~6/26

9:30~18:00

府中市立図書館 上下分館

6/12~6/26

9:30~18:00

三次市立図書館

6/12~6/27

10:00~20:00

庄原田園文化センター

6/12~6/27

10:00~19:00

庄原市役所4階 庄原市教育委員会

6/12~6/27

8:30~17:15

土日

  

※【広島市立学校における展示会】

9:00~16:30 土日祝日は除く。

 

Aコース


Bコース


Cコース


Dコース


Eコース


Fコース


Gコース


Hコース

6/15~6/17

幟町中

吉島中

国泰寺中

江波中

温品中

戸坂中

牛田中

二葉中

6/19~6/23

福木中

早稲田中

瀬野川中

阿戸小中

船越中

矢野中

瀬野川東中

大州中

6/25~6/29

段原中

翠町中

仁保中

楠那中

宇品中

似島小中

似島学園中

広島特別支援

7/1~7/3

中広中

観音中

己斐中

庚午中

井口中

古田中

己斐上中

井口台中

7/7~7/9

城南中

安佐中

安西中

祇園中

祇園東中

戸山小中

伴中

安佐南中

7/13~7/15

長束中

高取北中

城山北中

東原中

大塚中

白木中

高陽中

落合中

7/17~7/21

可部中

亀山中

清和中

日浦中

亀崎中

三入中

広島中等教育

口田中

7/27~7/29

三和中

五日市観音中

五月が丘中

美鈴が丘中

五日市中

五日市南中

城山中

湯来中

7/31~8/4

砂谷中

 

教科書採択のしくみについてはこちらをご覧ください。

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/gaiyou/04060901/1235091.htm

1_20200615165901  

 また、教科書を比較するときのポイントとして、「教科書を考える会」作成リーフレットを紹介します。「戦争の大義名分と被害の様子」「日本国憲法」「国際比較どちらが史実?」「沖縄の基地問題」「領土問題」「部落問題」「労働問題」「女性差別や性の多様性」「持続可能な社会とエネルギー問題」のポイントから比較検討を行っています。

https://onl.tw/b92thBY

2_20200615165901

 (HTU)

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2020年6月16日 (火)

わが家にもようやく、ようやくアベノマスクが届きました

昨日午前10時過ぎ、買い物に出かけようとマンションの1階ロビーまで降りると、同じマンションに住む高等学校の先輩から「おい、ようやくアベノマスクが配達されとるぞ」といわれ、わが家の郵便受けを開けました。「アベノマスク」が届いていました。

先週金曜日(12日)の記者会見で、菅官房長官が、世帯向け布マスクの配布について「『12日までに96%、約1億2000万枚を配布し、15日までにおおむね配布完了となる見込みだ。最後まで着実に進めていきたい』と述べた。」ことが報道されていましたので、「果たしてわが家には?」と半信半疑でいたところですが、まさにぎりぎりの15日に、ようやくようやく届きました。

ところが、15日中に届かないところが、市内にはまだまだあるようです。少なくとも中区大手町では。というのも、昨日たまたま出会った知り合いの郵便配達員に「ようやくわが家にもアベノマスクが届いたよ」といったところ「お宅の住んでいる大手町4丁目は、世帯数が少ないので今日の配達になったんですよ。他の大手町町内は、明日以降になります。今週いっぱいの余裕をもらったようですよ」と、地域事情を聞いたからです。菅官房長官の話とは、ちょっと違うようです。それにしても、配布まで時間がかかり過ぎると改めて強く思いました。

買い物を終え、郵便受けからアベノマスクを取り出して、7階の自宅へ帰りました。封を開く前に届いた状態で、写真を撮りました。

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2枚重ねの状態で封がされていますが、どうも下になっている1枚が、黄身がかっているように見えます。わが家もすでにマスクは、準備をしていますので、この小さなマスクは使うつもりがありませんでしたので、封を開けず記念にとっておこうと思ったのですが、気になるので、取り出してみました。

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写真ではわかりにくいのですが、左側の1枚は、黄ばんだ生地で作られています。ネットでは、届いたマスクに「黄ばみがあった」とか「不純物が混ざっていた」という情報があげられていましたが、まさかわが家に届く物は、そんなことはないだろうと思っていましたので、ちょっとびっくりでした。使われた予算は、当初より大幅に減額になったといわれていますが、調達に184億円、配送などに76億円と多額の税金が使われています。
にもかかわらず、配布は大幅に遅れ、使いたいと思えないような小さなサイズ、しかも不良品までもが配布されることになったのか、きちんとした検証が必要です。やはり国会を延長し、アベノマスクだけでなく、様々な給付金の遅れなど、きちんとした検証を進め、次に備えた対策を論議すべきです。

「アベノマスク」の問題点については、イライザさんが5月1日から(https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/05/index.html)
このブログで、何回も指摘されていますので、ぜひもう一度読みなおして欲しいと思います。

ところで、全員に10万円が支給される「特別定額給付金」についても一言。今月の2日に申請書類が届きました(これも遅いと思ったのですが)ので、すぐに必要事項を記入し、その日のうちに投函(中央郵便局には専用のポストがあった)しました。ところが2週間たった昨日の午後2時記帳に行ったのですが、まで振り込まれていませんでした。これも遅いですよね。

いのちとうとし

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2020年6月15日 (月)

6月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

6月10日頃が梅雨入りとなった。そのため13日14日の土日が雨らしいので10日(水)は休暇を取って農園のまだ草が茂っている一番上のブルーベリー畑の草刈りを行った。13日の土曜日は終日の雨で作業は無しで、久しぶりの昼寝を楽しむ。14日も雨だったが防鳥ネットの穴の補修や見回りを行ったあとは雨と風の中のブルーベリーや遠くの杉や桧の様子を縁側から眺め、早目に帰途に就いた。

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6月10日(水)

虫にすっかり食べられてなお咲くバラ。

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一度敷いた防草シートを左右の端をめくってチップソーが絡まないように下準備のあとブルーベリー畑の草刈り。場所は一番上の畑。

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刈った後で防草シートのめくっていた端を元に戻しておく。

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庭の花壇の中に花菖蒲が開花。

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帰り道にある稲田。5月初めに植えられた稲が青く伸びる。

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6月14日(日)。昼前に農園に着いたが雨。

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一番下のブルーベリー畑の水路沿いにネムノキが自然に生え、切らずにそのままにしておいた。成長が早いので大きくなった。花が咲くのはまだ早い。

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早生のブルーベリー。カッパをきて200gほど摘み取った。晩御飯のデザートにして食べたがまだ甘味が少ない。

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晩生のブルーベリー。(ラビットアイ系)実のついたブルーベリーの先に若い枝がしっかり伸びている。

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庭の花壇のヤマアジサイの花。

梅雨の雨と周辺の景色に付き合った一日だった。

 2020年6月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年6月14日 (日)

原爆の絵第10号碑は、共立病院にあります

広陵高校に設置された原爆の絵第2号碑を訪ねた後、再びアストラムラインに乗り「古市駅」で下車。ここから西方向に歩いて10分ほどのところに広島医療生協協立病院があります。ここに、原爆の絵碑としては、最後に建立された10号碑が設置されています。

1階の受付前には、テントが張られて、訪れる人の体温チェックが行われていました。すぐに絵碑を見つけることができませんでしたので、このテントで検温中の看護師さんに絵碑の場所を尋ねました。

「原爆の絵第10号碑」は、病院の敷地の北東角に設置されています。この絵碑は、2枚の陶板で構成されています。

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左側の陶板が、市民の描いた原爆の絵です。ただこの絵は、他の9つの絵碑とは違い、3人(森正喜美子、新澤慶子、佐々木春子)によって描かれた8枚の絵が、西岡真奈美さんの構成で1枚にまとめられています。

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真ん中に安佐郡から眺めた原子雲が描かれています。それを囲むように、旧安佐郡(現在の安佐南区と安佐北区)内各地での被爆後の様子が描かれています。市内中心部から避難してきた被爆者の悲惨な状態や看護の様子を描いたものが5枚です。沼田地区に降った黒い雨の様子も描かれています。他の一枚には、可部・亀山の福王寺付近に落ちた落下傘が描かれています。

その内の避難者の列を描いた一枚には「川内村にやっとたどり着いて被災者たち。身体中やけどで手は皮が垂れさがり、赤身が出ているので、痛くて手を下げることもできない。」と説明書きがされています。川内村は、もう一枚の陶板「もう一つの原爆絵図」では、次のように紹介されています。「旧佐東町川内地区では200人近い男性が爆心地の中島町の建物解体作業に出かけたまま還らぬ犠牲者となり、『原爆未亡人村』の悲劇として現在まで語り継がれている」と。この文を読むと、平和公園本川沿いに建つ「義勇隊の碑」を思い出します。

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広島市のホームページでは、この碑の説明と共に川内村の犠牲者について「川内村の義勇隊250人は全員が亡くなりました。そのうち温井地区はひとつの地域としては特に多い180人の犠牲者を出しました。」と記されています。また広島原爆戦災誌には、「当日川内村からの義勇隊は約500人。うち先発隊約250人は、現場に到着し、作業に着手中に被爆、全滅の惨劇。これは一挙に未亡人世帯の発生となり、多数の過程を破壊した。後続の250人は、行く途中で被爆し、約200人が負傷、残り50人は無傷で帰ってきた」と記述されています。全滅の犠牲となった先発部隊の多くが、温井地区の人だったことになります。

右側にある「もう一つの原爆絵図」とタイトルの付いた陶板についても簡単に紹介します。

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この陶板は、第10号碑が共立病院の創立40周年の記念事業として建立されたことと、先に紹介した「川内村」など、安佐郡内の被爆当時の様子が記載されています。中国新聞の記事によれば、除幕式は、2006年10月14日に行われたようです。さらにこの絵碑には、広電の電車軌道敷石と旧国鉄宇品線宇品駅プラットホームの石の被爆石が使われていることも記されています。

この陶板には、可部線を走るSLの写真が使われています。写真の説明には書かれていませんが、広島原爆戦災誌には、被爆直後広島市内の救援活動に向かった安佐郡の人たちは、可部線三滝駅(横川駅のすぐ北隣の駅で、ここから北は運行していた:当時の可部線は横川駅からほぼ真北に延びていた)までは可部線を利用したと記載されています。そのことを表そうとこの写真が使われたと思われます。

共立病院の一角に立ち、今までに何人かの入院患者のお見舞いで訪れ、その一人が原爆詩人の栗原貞子さんだったことを思い出しました。また、共立病院は、在外被爆者の渡日治療や健康管理手当用の診断書発行などに積極的に取り組んでこられました。青木克明前院長によれば「1990年以降8カ国、563人の在外被爆者が来院された」とのことです。

原爆の絵碑の建立は、この10号で終わりになっています。10か所を訪ね歩きながら、新しく知ることも多く、沢山のことを学ぶことができました。感謝しながら、これで「原爆の絵碑」の紹介は一応の終わりにします。

いのちとうとし

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2020年6月13日 (土)

朝鮮学園高校無償化裁判控訴審が結審―広島高裁

昨日午後2時から広島高裁302号法廷で、朝鮮学園高校無償化裁判控訴審第9回口頭弁論が行われました。

新型コロナウイルス対策のため、全てといってよいほどの裁判が延期となっていましたので、私は1月24日の上関原発関係の裁判以来、初めての裁判傍聴となりました。

302号法廷は、傍聴席が60ありますが、昨日の公判では、コロナ対策ということで一般の傍聴者用に17席、マスコミ用に7席のみが使用可能となっていました。少ない傍聴席数でしたが、私も応援者の一人として、傍聴させていただきました。

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裁判官の入廷後、最初に報道関係者によるテレビ撮影が2分間あり、いよいよ開廷です。三木昌之裁判長に指揮で公判が開始されました。今回の公判で「結審」(裁判が終結する)することが予定されていましたので、原告側による最終弁論と意見陳述が行われました。

一番目は、足立弁護団長の意見陳述です。その要旨は、「不指定処分によって侵害された権利とその真の目的は何なのか」です。「朝鮮学校を無償化の対象とするために設けられた事項を破棄して、どんなに問題がなくなっても、永遠に無償化の対象から除外すること」「規定で無償化適用ができる学校が現れても、その学校の生徒の受給権を侵してまでも、朝鮮学校を絶対に無償化適用させないという、極めて違法性の高い処分、決定」であることが強く主張しました。

次に立った平田かおり弁護士は、法的根拠をるる指摘しました。そして私の印象に強く残った主張は、毎回の裁判報告集会で生徒たちによって披露される「どれだけ叫べばいいのだろう 奪われ続けた声がある聞こえるかい 聞いているかい 怒りが今また声となる」を紹介し、約7年間何度もこの歌を聞いてきたことを話し、「毎回胸がつぶれる思いです。学びに専念したい高校生に、大人たちが、日本政府が、こんな理不尽なことをしてよいのでしょうか。」「裁判所が救済しなければ、誰が救済するのですか」と自らがこの裁判を通して学んだことを紹介しながら、裁判所への強い思いを訴えたことです。

続いて控訴人二人の意見陳述です。最初は、広島朝鮮学園理事長の金英雄前校長。「生徒が、保護者が、民族のアイデンティティを求めて民族学校に通うのが間違っているのでしょうか」「我々在日朝鮮人は学校選択に対して祖国解放後75年経った今でも差別を受け、植民地時代と同じように日本政府の機嫌を伺わなくてはいけないのでしょうか。」「子どもたちから民族教育の場を奪わないでください。子どもたちに日本社会への偏見を持たせないでください。」教育者としての訴えが胸に響きました。

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最後は、朝鮮高校の卒業生で現在朝鮮学校の教師を務める控訴人の訴えです。まず現在自分が教えている子どもたちの様子を紹介しながら、民族教育の大切さを「朝鮮人である自分自身を知り、愛するようになる過程は、民族教育無しでは説明できません」と訴えるとともに、朝鮮人への差別が続いてきたことへの強い思いを語りながら、朝鮮学園が無償化適用除外となったニュースを聞いた時の気持ちを次のように述べました。「あまりにも淡々とニュースが読み上げる声に、開いた口がふさがりませんでした。『ああ、私が生まれて育ったこの国は、私に朝鮮人として生きる権利などないと、そういっているのか』あの瞬間の、憤り、悲しみ、驚き、・・・いろんな感情がごちゃまぜになって、こみ上げた瞬間を、今でも鮮明に覚えています。決して忘れることなどできません」そして「朝鮮人として生きるのは贅沢でしょうか?朝鮮人だから、自分らしく生きることを、否定されてもしようがないのでしょうか」この訴えに裁判長の顔が上がった姿が印象的でした。

この制度が始まって以来10年間に無償化の支援を受けることなく236名が卒業しています。広島地裁で不当判決(2017年7月19日)が出されて以降、毎月19日に街頭に出て市民に訴え続けた子どもたちの姿も忘れることはできません。もうこんな差別は、これで終わりにしなければなりません。

この心からの訴えに、裁判所はどう応えるのでしょうか。そして私たち日本人がどう応えようとしているのでしょうか。そのことも厳しく問いかけられた今日の公判でした。

裁判長が「判決は、10月16日午後3時から言い渡します」と述べて、今日の38分間の公判が終わりました。地裁ではすべて却下された本人尋問、証人尋問が、全国で初めてこの控訴審では実施されました。良い判決が出ることを期待せずにはいられません。

午後7時から朝鮮学園で、生徒、保護者、在日朝鮮人のみなさん、そして日本側の支援者  約60名余りが集まり、コロナ対策ということでいつもより短時間となりましたが、判決に向けての決意を固めあう報告集会が開催されました。

いのちとうとし

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2020年6月12日 (金)

広陵高校に設置された原爆の絵第2号碑

6月初めの暑い日、安佐南区に設置された二つの原爆の絵碑を巡りました。今日は、広陵高校の正門横に設置された原爆の絵第2号碑の紹介です。

アストラムラインの伴駅(広陵学園前)で下車し、北側丘陵地にある広陵高校をめざし坂道を登り始めました。3安佐南区スポーツセンターと広陵高校の間の道をさらに進み、さらに右折して正門をめざしました。チラシには300mと書かれていたのですが、800mほどありました。マスクをつけて上り道を歩くのはかなり大変でした。

学校に到着するとすぐに事務所を訪ね、「原爆の絵碑を見させていただきたいのですが」とお願いします。事務長と思われる方が、案内してくださいました。「原爆の絵第2号碑」は、正門横(入口から見ると右側)に、広陵高校の慰霊碑に並んで2003年6月27日に設置されています。台座には旧国鉄宇品駅プラットホームの被爆石が使われています。

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2枚の絵が設置されていますが、2枚とも16歳の時、爆心地から約2キロの広島市千田町(現中区)にあった広島工業専門学校(現広島大工学部)の教室で被爆された松島圭次郎さんの絵です。右側の絵には、「建物疎開作業中に被爆した子どもたち」の様子が描かれ、「若いいのち」という詩が添えられています。

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「あの日の朝/建物疎開に出ていた 子たち/焼かれて ただれて 帰って来た/暁部隊のトラックに/乗せてもらった子らもいた/あの後すぐに 多くの子らが/死んでいっただろうな/楽しい夢も 明るい未来も/あっていたはずの/若いいのちだったのに/君らの叫びと祈りは世界に伝える/安らかに眠ってほしい」

左側の絵は、御幸橋の様子が描かれ、「廣島が死による」という詩が添えられています。

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「廣島に原爆が落ちて/本当にひどい有様になった/何百人も火傷を負った人たちの/行列を目にした 御幸橋/一列に並んで倒れていた 欄干石/南側のそれらは川底に落ちていた/橋の中ほどで 思わず立ち止まって/僕は眺めた 野火のように燃える/川上の西岸/激しく燃えていた 家々/天まで上っていた 黒い煙/深くは考えない 愚かな若者だった僕/それでも 生まれて育った/廣島の町/「廣島が死による」/僕は悲しかった」

作者の松島さんは、「ひろしまを語り継ぐ教師の会」会長として国内外で英語での被爆証言に力を尽くしてこられましたが、2014年11月85歳で、その生涯を終えられました。

原爆の絵碑を案内していただいた事務長が、「学校では、毎年1学期末の終業式のあと、全校生徒によって『原爆犠牲者慰霊式』を行っています」と教えていただきました。広陵高校の毎年の慰霊式の様子をアーカイブで見ることができますので、これを引用させていただき、昨年(7月20日に挙行)の様子を紹介したいと思います。

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終業式が終わった後、「原爆犠牲者慰霊式」が始まります。最初に國貞和彦校長のあいさつです。「今から74年前、昭和20年8月6日、朝8時15分、世界で初めて広島市に原子爆弾が投下されました。十数万人の人々が亡くなり、広陵高校も先輩38名、教職員2名が犠牲となりました。(以下中略)改めて核兵器の非人道性、恐ろしさを認識し、どのような理由であれ核兵器の使用は許されないこと、廃絶されなければならないこと、そして『平和である今』に感謝をし、核兵器や紛争やテロのない『平和な未来』を実現するために、声を上げていきましょう」。次に放送部のナレーションでスライドの映写。ここで、原爆の絵の紹介もされています。演壇上に映された「慰霊碑」の前に、生徒会役員によって折り鶴と花束が献納されます。折り鶴は、全校生徒一人ひとりが折ったものを生徒会がつなげたものです。

屋内での慰霊式が終了した後、慰霊前で、生徒会の役員と教職員の代表によって慰霊式が行われます。例年は、この慰霊式で折り鶴は献納されるようですが、昨年は雨だったため、屋内での献納になったようです。

広陵高校は、爆心地から南南東約3キロの宇品御幸で被爆しています。御幸橋の様子を描いた絵が使われているのは、そうした縁だと思います。1965年(昭和40年)に建立された慰霊碑も、1973年(昭和48年)の学校の移転とともに、現在地に移されています。

いのちとうとし

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2020年6月11日 (木)

「無責任」の論理構造 (2) ――総理大臣も、主権者たる私たちの「使用人」――

「無責任」の論理構造 (2)

――総理大臣も、主権者たる私たちの「使用人」――

会社法では「使用人」を、会社の実務を実行する人という定義と、「平社員」という意味と両方の意味で使っているようですが、本稿では前者、つまり会社の仕事をする人は役員であれ平社員であれ、全て「使用人」と考えることにします。つまり、「使う人」と「使われる人」、「雇い主」と「雇われている人」等の二項対立で、誰かの命に従って仕事をする立場の人を指すことにします。

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それを憲法の中に現れる人たちに当てはめて考えたいのですが、まず、憲法の中の登場人物から整理しておきましょう。これは簡単なのですが、普通このような形での整理はしないようですので奇異に感じられるかもしれません。でも憲法の本質を理解する上では役に立ちます。

登場人物は、三つのグループに分けられます。第一が「主権者」です。これは分って頂けると思います。次に「公務員」です。選挙で選ばれる国会議員も公務員ですし、裁判所の裁判官も公務員です。そして、通常の意味の公務員も「公務員」です。そして、三つ目のグループは、天皇1人から成る「天皇」グループです。

「グループ」と言うと、普通は複数のメンバーがいないといけない、と思われがちですが、数学的に整理する場合、メンバーが1人の場合も「グループ」の特別の場合として、「グループ」と呼びます。

もう一つ注意しておきたいのは、天皇も「公務員」の一人だと考えることも可能なのですが、天皇には特別の役割がありますので、三番のグループと考える方が論理的です。

この三つのグループの内、「使う人」は当然、主権者です。そして、「公務員」と「天皇」は主権者の「使用人」、つまり主権者のために仕事をするという立場です。同時に、これらの三つのグループに分けるという行為そのものは、日本国という存在をスムーズにかつ人類史や日本の歴史も踏まえ、そこに住むすべての人の幸福のために機能する状態を作るために行っています。その他の属性、例えば偉いとか偉くないとかといったものに従ってのグループ分けではない点を肝に銘じておいて下さい。また、それとはまったく別の次元で、ここに列記して登場人物は、これらの三つのグループのどれに属していても皆、日本国民という点では同じ立場ですので、これらの「使用人」が行うサービスを享受する権利があります。

本稿で取り上げたいのは、総理大臣の「無責任」が中心ですので、「使用人」の中でも「公務員」に焦点を合せましょう。「公務員」の仕事、特に総理大臣の仕事の内容は、憲法が大枠を規定しています。まず、前文では「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と述べています。

より具体的な職務内容は、複数の条文に示されている通りですが、例えば68条では、総理大臣に与えられている仕事として、国務大臣を任命することができ、かつ罷免することもできると明示されています。73条では、内閣の職務権限という形で、7項にわたって、一般行政事務以外の事柄を列挙しています。

こうした仕事をする上で、最低限守らなくてはならないルールも憲法の中には明示されています。一つは、15条の二項です。「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」。もう一つは、99条です。「国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」ですが、憲法の中には、国民の権利が規定されていますので、それらの規定も守らなくてはならない義務を負っているのです。

実は、「使用者」としての「天皇」も、「公務員」と同型のルールを守らなくてはならないことになっています。「全体の奉仕者」は、「公務員」が守らなくてはならない条件ですが、「天皇」の場合は、1条で、「国民の総意」によって、「日本国の象徴」として「国民統合の象徴」であることが規定されていますが、これは「全体の奉仕者」であることをその中に含んでいると考えられるからです。そして、99条の憲法遵守義務には、「天皇」に対する唯一の明示的義務として「憲法遵守義務」が課されています。念のため、条文を掲げます。

99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

「使う側」の主権者と「使用人」の公務員との関係を、もう少し整理しておくと、主権者は「公務員」に対して、一定の仕事を委託するのが憲法の枠組みです。前文では「信託」という言葉を使っていますが、それは信頼した上で委託しているという意味ですし、その信頼に応えて、「全体の奉仕者」として、しかも憲法に則って仕事をするのが「公務員」の義務です。この点を具体的に、主権者の側からの権力の行使として明示しているのが15条です。「公務員」を選定することと罷免すること、両方の力のあることを述べているからです。

それを視野に入れて、仮にある公務員が、自分の仕事、つまり主権者によって委託された仕事を全うしていないとき、全うさせるためにはどのような手段があるのか考えてみましょう。憲法内には「懲戒処分」という言葉が使われていますので、それも可能なはずです。しかし、基本的な形は委託先を変えることだと考えられます。選挙とはまさにそれを可能にするシステムですし、それは、前文に掲げられている権力の移譲の仕方が基本的な形を示していると考えられますし、15条の一項に掲げられている一対の権力行使の仕方に裏付けられています。つまり、これが政治的責任の取り方の基本形だと理解して良いのではないでしょうか。

もし、人を換えなくても、それまではできていなかった、「委託された仕事を全うする」ことができるようになる対応があるのなら、それは、認められるかもしれませんが、そのことを証明する責任は、「公務員」側にあります。主権者側は、委任先を変える、つまり、その「公務員」を罷免して別の人に委託し直すという選択肢があるからです。

これを簡単にまとめると、総理大臣や国務大臣も含めて、「公務員」が、主権者の委託した仕事を全うしていない場合には、その職を辞めなくてはならないということになります。この因果関係を「責任を取る」という言葉で表現しているのです。

このことは、第(1)部で指摘した論理性を憲法が認めていることを示しています。それは責任についての因果関係を元にしています。憲法の根底にもこのような形で論理性が生きていることは力強い限りです。

しかし、安倍総理が連発して来た「責任は自分にある」、しかしその責任は取らない、つまり辞任しない、という「無責任」さは、そもそもなぜ可能なのでしょうか。そしてなぜこれほど長期にわたって続いているのでしょうか。あるいは主権者である我々が続けさせているのでしょうか。

次回、21日には、その説明をする積りですが、一つは憲法についての根本的な問題です。そしてもう一つは、日本社会がこんなに簡単に洗脳されてしまって良いのか、という嘆きから始めたいと思います。

 [2020/6/11 イライザ]

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2020年6月10日 (水)

柴原洋一さんの「原発の断りかた」の書評を書いた

 三重県伊勢市に住む長年の同志である柴原洋一さんから、今年2月22日に発刊された「原発の断りかた ぼくの芦浜闘争記」が送られてきました。

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 2月22日は今から20年前のこの日、37年間続いた中部電力の芦浜原発建設計画が実質的に撤回された日です。この日を記念して出版されたのです。

 その著書の書評を書きました。


改めて運動の原点を感じさせてくれた

昨年の10月頃だったと記憶しているが、柴原さんから「上関原発の反対運動は37年だよね。芦浜は計画から37年で止めることができたが、上関は来年になったら38年、全国で一番長い反対運動になるね」という電話をもらった。

この時、僕は柴原さんの言葉に『上関の人たちはどんな状況?頑張ってください。応援していますよ』という激励の意味とともに、芦浜が「(上関より)勝った」という自慢心を聞かされたような少々のヤキモチ心を思った。

だいたいに本を読むペースの遅い僕だけど、本書はまさにイッキという感じで読み終えた。文中にある人たちが、私たちの大きな活動の課題となっている、山口県の上関原発を止めるために闘っている(いた)、あの人この人というように重なってきた。

37年間というのは、本当に長い年月である。芦浜計画が起こらねば、豊かな海と恵まれた自然、緩やかな人間関係の中で、こんな経験をすることなく生きてこられたと思われるが、それを一変させたのが原発だ。推進派の人が亡くなればこちらが一つ増えたと感じ、子どもが転んでケガをしても推進か反対かで対応が変わってくる。小さな子ども仲間でも、相手側の人に「バカ」といい「死ね」といったという。こんな現実が原発現地にあるということを、リアルな感覚で想像できるだろうか。それも37年間もの間続いたということを。

芦浜と同様のことが上関の中でも起こっている。一般的に私たちは人を見ると男性だとか女性だとか、若いとかお年寄りというように見るものだが、上関では「推進」「反対」という判断が最初の区別だ。それは親子、兄弟という身近な人間関係の中でも起こる。規模の小さい地域社会の中では、これはまさに「残酷」という言葉以外にない。

芦浜原発は2000年2月22日に、当時の知事が三重県議会の場で「(計画は)白紙に戻すべきであります」という表明で、実質的な撤回となった。

反対運動の37年間、撤回からの20年間、合わせれば今年は57年間という年月である。しかし地元の人たちの間には、今でも、推進・反対の立場の人たちのわだかまりは解消されていないという。

計画の白紙撤回を求める発言の中で北川正恭知事は、「長年にわたって苦しみ、日常生活にも大きな影響を…」の部分で一瞬、声を詰まらせたという。そして撤回が決まった翌日に、地元で歯科医院をしながら反対運動を取組んでいた人の元に、警察の機動隊の人から電話があった。その機動隊員は「今から私は機動隊の〇〇ではありません。尾鷲(おわせ)の一漁師の息子として、ひとこと言わせていただきます。ありがとうございました」と。この2か所の部分では私も涙ぐんだ。

芦浜原発反対闘争は大きく1963年から4年間の第一回戦と、1984年からの第二回戦に分けられが、第一回戦に闘いの先頭にいた漁業者の「25人衆」といわれた方は全員鬼籍に入られたという。37年の歴史は長い、しかし人の生命に限界があるのは当然だ。上関でも「ふる里を原発の、放射能の町といわれたくない。孫子の世代に原発を残したくない」というある意味、とても単純で明確な思いで、一生を終えた方は数多い

柴原さんが『ぼく』という視点で書かれているのが、現地にピッタリの感覚を持ちながらも、自分は地元の人間ではないという立ち位置で、自らの役割りをしっかりと担っているという感覚は素晴らしいと思う。そう意味からも本物の闘争記録となっているのだろう。

この『ぼく』という言葉、本人に伝えれば怒られるかも知れないが、柴原さんの天性の楽観的な性格と、周りの人たちが信頼と尊敬の思いで何でも話せる(話す)人間性が現れているように感じとるのである。

中部電力も中国電力も省略すれば「中電」である。文中で多く使われている中電という言葉と、柴原さんの『ぼく』とが、私・木原省治の『僕』と重なり僕も頑張らねばというパワーを与えて貰った。

何年か前、柴原さんの案内で芦浜現地を訪ねたことがある。一つの山を上がり、少し下ったところで再び山道になり、そして芦浜の海岸に降りた。限りない広大な太平洋がそこにあった。

島が点在している瀬戸内の海では見られない姿に、感動したものだ。もう一度、芦浜の海を訪ねてみたい。本書を読みながら、そういう思いが強くなった。


 この本の出版社は月兎舎(げっとしゃ) 定価は1500円+税で

連絡先は516-0002 三重県伊勢市馬瀬町638-3

電話:0596-35-0556 FAX:0596-35-0566    です。

木原省治

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2020年6月 9日 (火)

原爆の絵第9号碑『動員学徒の碑』と広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク

原爆の絵第9号碑は、中区千田町にある「広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク」の一角に設置されています。

「広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク」については、このブログの前身「ヒロシマの心を世界に」の2016年4月14日の「散歩の道すがら」(https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-ddf0.html)で、一度とりあげていますので、そちらを読んでください。

「原爆の絵碑」について「散歩の道すがら」では、「今回、初めて気が付いたのが「ガラスの刺さった痕が残る壁」のモニュメントの横にあった「原爆の絵『動員学徒の碑』」である。以前に訪れたことがあると言っても十数年前だから、私が知らなかったのも当然かもしれない。後でわかったことだが、この碑は2005年8月6日に建立されたとのこと。碑の説明文には、「この絵は、原爆が投下された翌日広島赤十字病院玄関前(当時)の円形の花壇に並べられた中学生(絵の中に書かれた文章では、広島二中の一・二年生)の遺体が、円形に並べられていた様子を描いたものだ」と書かれている。さらに「動員学徒として約6000人の中学生の命が奪われた」ことも記載されている。ひまわりの花弁のように並べられた子どもたちの姿。何とも言いようがない。」と紹介し、被爆後治療のためこの広島赤十字に来られた森滝市郎先生のことも紹介しています。

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当時は「原爆の絵碑」ということに関心が薄かったのでしょう、この絵碑が市民の手によって設置されたことや9番目の碑だということなどは、全く触れていません。

4年振りに「原爆の絵碑」を見ようと改めて現地を訪ねました。メモリアルパークの景色は今回も同じように見ることができましが、「原爆の絵碑は」と思って訪ねましたので、前回とは少し違う感じで見つめることになりました。4年前のブログでは「ガラスの突き刺さって痕が残る壁のモニュメントの横」と書いていますが、実は、その位置はメモリアルパークの一番奥だからです。

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小さすぎて分かりにくいのですが、「爆風でゆがんだ鉄製の窓枠」のモニュメントの右奥、街灯の下に原爆の絵碑があります。

 原爆の絵第9号碑は、2005年8月6日には病院の敷地内に設置されましたが、メモリアルパークが完成した2014年7月2日に、現在の場所に移設されています。2006年に映された写真を見ると、広島赤十字・原爆病院の前庭に、広島赤十字病院の慰霊碑の右横に並ぶ形で設置されているのが分かります。設置場所は、この絵に書かれている「日赤病院玄関前の花壇」とほぼ同じ場所だったことが想像できます。その写真、著作権の問題があり、残念ですがここには掲載できません。ネットで検索すれば、見ることが可能です。

この「原爆の絵『動員学徒の碑』」の作者は、河野きよみさんです。この絵は、原爆資料館に所蔵されており、良く取り上げられています。平和データベースには、作者による説明が次のように書かれています。

「『日赤の花壇の上の遺体』 姉を探して、矢賀駅から瓦礫の上を歩いて漸く辿りついた。広島の赤十字病院の玄関前の花壇の上に、私と同年齢の広島県立第二中学の二年生の生徒たちが、まるで材木のように重ねられていました。彼等は、建物疎開のために屋外で作業するため、放射能を浴びて亡くなられたのでしょう。火傷はなく全く無傷のままに息絶えていました。同学年の私は強いショックを受けました。現在の建物が出来るまで、花壇は残っていて蘇鉄が緑に茂っていました。日赤に行った時には、いつもその花壇に手を合わせていましたが、十年前に立派な病院に建て替わり花壇はなくなりました。あの死体の山の中に未だ息のある人があったのではなかろうか。何人の人の遺骨が、お母さんの胸に抱かれたであろうか?と今も思うことがあります。 合掌 『名札みな広島二中と書きてありいくばくの骨母に抱かれしか』 きよみ」。 河野きみよさんは、当時14歳。

第9号絵碑にも、被爆石が使われているようですが、その説明はどこにも書かれていませんでした。使われている絵が1枚だけなのは、この碑だけです。

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いま、広島赤十字・原爆病院の敷地に残っている被爆モニュメントは、電車通りに面して建つ病院の門柱だけです。

これで中区、西区に設置された原爆の絵碑8つの紹介が終わりました。安佐南区にある二つの絵碑も最近ようやく訪ねることができましたので、改めて紹介します。

いのちとうとし

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2020年6月 8日 (月)

6月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

農園の周辺の緑ももう若草色は消えて青々した濃い緑に色を移る。気温も28度くらいまで上がる日がつづく。雑草が伸びる、草を刈る、を繰り返しながら6月半ばからは早生の収穫に取りかかり、合間にまた草を刈りメインの晩生の夏のブルーベリーの収穫期を待つ。

安芸区矢野東にある安芸の郷の建物の屋上の早生のブルーベリーは収穫が始まりCafeさくらではフレッシュなブルーベリージュースがお客さんに楽しまれ始めた。

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6月6日(土)

庭の花壇のジャーマンアイリスが終わると同じ場所からフランネル草が咲き始めた。

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午後からブルーベリー園の草刈りをしている間にご近所から収穫された一輪車にいっぱいのタマネギが届く。

早速竿に吊り下げる。今年は大きいそうだ。

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6月7日(日)

1週間もたつとまた竹の子が生える。農園の管理するため池の法面にも生えるので今週も草刈り機で刈る。

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池辺にはもうトンボがでている。

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ブルーベリー農園の近くの麦畑の様子。もうすっかり麦穂が膨らみ茶色になっている。あとは刈り取りを待つだけのよう。

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道路沿いの小さな祠の周囲に雑草のブタナの黄色い花が一面に咲いている。

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グイビの実が赤くなった。どの実も虫が突っついたあとがある。口に入れると甘味の少し後に渋みが出てくるが、どこか懐かしい味。

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蔵の横に植えてあるタイザンボクの花。あまりたくさん咲かない。

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早生のブルーベリーが色づく。20粒位取れたので晩飯の時に家族で初物を味わった。ちょっと酸っぱい。

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ブルーベリー畑の草刈りをして防草シートを敷きなおして足元がすっきりした。

 

2020年6月8日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年6月 7日 (日)

被服支廠に想いを寄せて

広島市南区出汐にある旧広島陸軍被服支廠は、昨年12月に解体案が出され、議論を呼んだ被爆建物です。安全対策などの問題もありますが、被爆の実相を伝える生証人として、一部保存と言わず、全棟保存するべきだと思います。

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思えばこの被爆建物との最初の出会いは、小学6年生の時、教室で担任の机の後ろに平和教育教材「ヒロシマ平和カレンダー」が何気に掛けられてあり、なんとなく勝手に触ってどんどんページをめくっていたら、突き当たりました。爆風でひん曲がった鉄製扉はインパクトが絶大で、しばらくカレンダーをつかんだまま眺めていました。ちなみに当時のクラスの担任は、特に平和教育をするというわけでなく、一人佇んで見入っている私を奇異な目で見ていたと思います。

その後、高校は広島皆実高校へ進学すると、学校のすぐ隣に建っているのを発見しました。まさかあの時のカレンダーで見たものが、高校の真横にあるとは・・・。最初は驚愕しましたが、毎日高校へ通っている内に、そこにあるのが当たり前になり、風景となっていきました。

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いつまでも当たり前に建っているのだと思い込み、高校を卒業しました。そのまま年月が流れ、ここに来て解体・一部保存と、このような大きな動きになるとは、当時思ってもみませんでした。何としても全棟保存に向けてほしいと思います。

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平和カレンダーは子ども向けの平和教育教材としてお勧め教材です。広島県教育用品(株)発行・販売で、現在私はこの会社の関連組織に勤務していますが、なぜか気になってカレンダーをずっと一人で見入っていたのも、何か幼き日の自分が将来を感じ取った運命的なものを感じます。

http://www.hipe.jp/calender/calenderindex.html

Mumei

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2020年6月 6日 (土)

ヒロシマとベトナム(その13-2)ー「コロナ禍」と技能実習制度

韓国の雇用許可制に学ぶ

韓国は日本の研修制度をモデルにした受け入れ制度でしたが、日本と同様に人権侵害の問題が起きたため、2000年に「雇用許可制度」に変え、労働「市場補完性」、「均等待遇」、「短期ローテーションの原則」、「受け入れプロセスの透明化」という4つの原則を打ち立てました。

詳細は省きますが、概略は次の内容です。まず、企業が労働市場テストを実施し、韓国人労働者だけでは事業を運営ができないと判断したときはじめて政府に「雇用許可申請」を行うことができます。

そして、外国人は韓国人と同様な待遇をうけるべきとして労働三権の適用、同額の最低賃金、国民年金や健康保険の適用などの「均等待遇」が義務づけられています。そして雇用期間は3年間(再雇用時は1年10か月延長)に限定し、単純労働者の定住化防止を図る「短期ローテーションの原則」です。

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さらに、何よりも「受入れのプロセスが透明性」がなければなりません。韓国でも民間団体が主体となった受入れをしていたときに、日本と同じような問題が発生していました。そこから、民間団体ではなく政府機関が相手国の政府機関と「二国間協定」を締結して実施することに転換したのです。

最近、日本の労働者の処遇の低さや不合理な技能実習制度、偏狭なナショナリズムに基づく移民政策などから、アジアの国々で「働くなら日本よりも韓国、台湾を」という声が高まっています。その背景には、こうした信頼性があるのです。

「コロナ禍」が問いかける地球社会の将来

「コロナ禍」は、経済成長とグローバル化に突き進んできた人間社会に鋭く警告を発しています。「新たな生活様式」とか「ウイズコロナ」とか言われていますが、それはそれで必要なことだと思います。しかし、これまでの延長線上(新自由主義)の下でのそれであるなら、またもや同じ轍を踏むと思えてなりません。

「コロナ禍」は、経済にではなく地球環境と人間の生命に重きをおき、競争と対立ではなく協調と連帯を基底にした国際社会のシステム構築を、私たちに求めていると思います。

2015年9月に開催された「持続可能な開発サミット」で、「我々は、地球を救う機会を持つ最後の世代になるかもしれない」との宣言とともに貧困や格差をなくし、持続可能な社会を実現するための17のゴールと169のターゲットから成る「持続可能な開発のための2030アジェンダ」(SDGs)が採択されました。「地球上の誰一人として取り残さない」とする2030年を目指した取り組みは、徐々に広がりを見せています。

この度の「コロナ禍」を通し、あらためてSDGsの意義が認識されています。

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17のゴールと169のターゲットは、地球の再生能力を超えた環境負荷の増大による生態系の破壊、頻発する異常気象による巨大災害、所得と資産の著しい格差による貧困の増大などなど、ますます深刻さを増しています。この負の連鎖を断ち切り、地球と人類の持続可能な世界を築くことは、私たち一人ひとりの課題だと思います。それが可能な「最後の世代」である私たちの責務でもあります。

昨年9月、ニューヨークで開催された国連の温暖化対策サミットで演説したスエーデンの高校生グレタ・トゥーンベリさんの「人々は苦しんでいます。人々は死んでいます。生態系は崩壊しつつあります。私たちは、大量絶滅の始まりにいるのです。なのに、あなた方が話すことは、お金のことや、永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり。よく、そんなことが言えますね」との訴えが重なります。

次号(7月5日)からは、「被爆75周年」を迎えたヒロシマ、「解放統一45周年」を迎えたベトナムと、ともに迎えた「節目の年」に当たり、枯葉剤爆弾(エージェント・オレンジ)とその被害について考えてみたいと思います。

(6月5日、あかたつ)

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2020年6月 5日 (金)

ヒロシマとベトナム(その13-1)―「コロナ禍」と技能実習制度

2月から5回、技能実習制度の問題点について書き進めてきました。前号(5月5日)号に、「技能実習の目的は労働ではなく、あくまでも技術移転による国際貢献とされていますが、最も大きな問題点は、この建前が大きく歪み、実態は安価な労働力確保になっていることです。」と書きましたが、このことに尽きると思います。

今日の「コロナ禍」がますますこの問題点を鮮明にするとともに、抜本的な見直しを求めています。

新型コロナウイルスの感染拡大は未だ収まらず、尊い生命を脅かし・奪い続け、社会・経済活動全般に深刻な影響をもたらしています。

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技能実習生らに送る米やインスタント麺などの食料を準備するベトナム人女性=29日午後、東京都港区の日新窟(共同通信、4月9日)

日本は新たな感染者数が減少してきたことから「緊急事態宣言」が解除され、徐々に社会・経済活動が再開され始めましたが、再燃・爆発の懸念とPCR検査や抗体検査態勢、医療や介護環境などの不安材料は残ったままです。

各地で技能実習生が解雇・休業

それらの問題はとりあえず置くとして、5月29日に総務省が発表した4月の労働力調査では、パートやアルバイトなど立場の弱い子育て世代の女性を中心に非正規労働者が雇い止め(解雇)で97万人減少し、営業自粛などによる休業者が597万人に達しています。実に、700万人に近い人が、解雇や休業により生活の糧を失っていることになります。

2019年末時点、41万972人の技能実習生が日本で「研修」(就労)していますが、「コロナ禍」で研修先の仕事を失った技能実習生の状況も深刻です。5月15日に放映された「NHKおはよう日本」の「行き場失う 外国人技能実習生」では、「これまでも雇用の調整弁として低賃金で働かせている実態が一部で明らかになるなど、多くの問題点が指摘されてきました。さらにいま、新型コロナウイルスによって状況はより深刻です」と報じられていました。「多額の借金と5歳の子どもを残して来日したばかり、コロナで会社は倒産し突然解雇された。」というダオ・ティ・フエンさん。フエンさんをサポートしている「NPO法人日越ともいき支援会」には1ヶ月で2,000件以上の相談が寄せられているとのことでした。

気がかりな東広島の状況

 実習期間の終了や突然の解雇などで帰国したくともできず、困難に陥っている技能実習生が多く存在することや、支援の輪が広がっていることが報道されています。

以前も報告しましたが、私の住んでいる東広島にも多くの技能実習生が働いています。昨年12月末時点、7,975人の外国籍市民のうち1,807人が技能実習生、そのうちの1,099人、61%がベトナム人です。幾つかの受入団体や受入事業所を訪ねてみましたが、「(実習)期限を迎えて帰国できない実習生は特例在留延長で働いている」とのことでした。

しかし、原材料の品切れや出荷見合わせ、感染拡大防止のための「コロナシフト(勤務)」による待機や休業はどうなっているのか、その間の処遇などの詳細については知ることができませんでした。

バイト先を失った留学生の相談も寄せられ、5kgの米袋を幾人かの留学生に届けましたが、留学生も大変です。いずれにしろ技能実習生や留学生は、何らかの問題や課題を抱えています。

大学や受入機関、事業所などが様々に支援していると思いますが、私たち(一般社団法人広島ベトナム平和友好協会)としても、実態をつかみ、支援や関係機関への働きかけをしなければと思っています。

多額の債権労働に縛られる技能実習生

さて、「コロナ禍」であらためて浮き彫りになった技能実習制度の問題です。最大の問題点は、「国際貢献」のため途上国の外国人を受け入れ「技術移転」をするという本来の目的は、もはや建前ですらなく、単なる「安価で使い勝手の良い労働力確保」に陥っていることは、繰り返し述べてきました。

技能実習制度はベトナム側では「送り出し機関」、日本側では「監理団体」が受け入れ企業と実習生(労働者)をつなぐ役目を担っています。実習生は「送り出し機関」に多額の手数料を支払い、受入事業所は「管理団体」に紹介料や毎月の管理費を支払います。

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ベトナムの場合送り出し機関の手数料の上限は、3年契約の場合、ベトナム政府が定めた3,600usドル(1usドル=107.70円≒38万5千円)以下、約520時間の事前教育費(日本語教育)が590万ドン(≒2万7千円)です。 

しかし、ベトナムの送り出し機関に勤める日本人のBlogによると、実際には求職者(技能実習希望者)は「募集担当者に紹介料500~1,500usドル」(5万3千円余~16万円余)、「送り出し機関に4,000~12,000usドル」(43万円~130万円)支払い、「法律で定められているが、実際には守られていない」とのことです。

先に紹介した「おはよう日本」で取り上げられたフエンさんの、「来日したばかりで、借金がたくさん残ってい

るのに、もう倒産してしまった。無一文で帰国して多額の借金を負う、不安でいっぱいです。働ける仕事が欲しいです。」という悲痛な訴えの背景がここにあるのです。

中間搾取も心配される受入れ機関

来日後は、管理団体が技能実習生の生活を支援します。全国で3,000余り、広島県には昨年末時点で146団体あります。直 接企業が受け入れる「企業単独型」は僅か3.6%で、それ以外は「団体管理型」と呼ばれる受入機関です。その団体型管理団体の運営費用は受け入れ企業からの委託料で運営されますが、委託料が高額であれば、技能実習生の賃金に転嫁されるため、実質的な中間搾取となり得ます。

送り出し機関にとって監理団体や受け入れ企業は大切な「顧客」であり、中には管理団体や受け入れ企業が本来負担すべき渡航費や宿泊費、飲食費、遊興費の負担や、キックバックを提供する送り出し機関もあると言われています。

進行する「コロナ禍」のもとで、多額の債務労働の下に縛り付けられ、加えて「転職の自由」を奪われている技能実習生が発する叫びに呼応・支援する動きが各地で起こっています。それを、技能実習制度の抜本的な見直しにつながなければならないと思います。

(6月5日、あかたつ)

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2020年6月 4日 (木)

「さようなら安倍政権」-2か月ぶりの3の日行動

「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」が主催する「3の日行動」の街宣活動が、昨日午後5時半から1時間、本通電停前で2か月ぶりに開催されました。

今回は、新型コロナウイルスの影響もあり、リレースピーチとスタンデングによるアピール行動です。

準備された横断幕は、初めて登場する「#さようなら安倍政権」と書かれた2枚を含め9枚。4月の「3の日行動」以降次々と明らかになった安倍政権のずさんな政権運営に対する国民の思いが伝わる「さようなら」の言葉です。

川后和幸共同代表の「コロナが浮き彫りにした医療・福祉の貧しさ」を内容とした訴えで始まったリレースピーチ。新型コロナ対策の中で明らかになった様々な矛盾が、次々と訴えられました。

「コロナと原発事故…恐怖の日本列島」。そして「医療崩壊の危機は続く」と題したスピーチは、市民病院の看護師さんの訴え。「いつ自分が感染するかもわからない」という不安を抱えながら懸命な努力を続ける医師、看護師の実態。さらに「新型コロナ患者を受け入れた病院は、一般患者の受け入れが大幅に減少し、財政面からも大変な状況です」「生命と健康を守るというなら国谷氏はきちんとした財政支援を」医療現場の深刻な訴えは耳に響きます。次は、中小商工業者の切実な現状が報告されました。「複雑な申請。なかなかでない支援金。問題は山積。そしてオンライン申請では、手続きすらできない事業者がいる」と。

当然のことですが、今回も「河井疑惑問題」も取り上げられます。河井夫妻はもちろん、河井案里候補に異常な肩入れをしてきた安倍首相、菅官房長官の責任も厳しく問われなければなりません。予定していたスピーカーが急に欠席となったため、急きょ私もマイクを握ることになりました。私は、「専門家会議の議事録」問題をとりあげましたが、その内容は街宣行動の様子を報告した後に書いておきます。

リレースピーチの最後は、ヒロシマ総がかり行動実行委員会事務局長の石口俊一弁護士が「黒川問題は、ここが問題」を短い時間でわかり易く訴えて今日の行動を終了しました。

ビラ配布のない「3の日行動」でしたが、久しぶりの行動でもあったからでしょうか60名の参加がありました。

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私のスピーチは、少し演説内容に付け加えていますが。次のような主張です。

驚きの連続の安倍政権ですが、「本当に異常だ」と思うことの一つが、新型コロナ対策の専門家会議の議事録が作られていなかった問題です。「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」が、毎年5月3日に開催する「憲法記念日集会」を中止する代わりに実施した「ユーチューブトーク」で訴えた私の最後の部分はこうです。「その過程を検証するためにも、すべての情報をきちんと管理し残すことが絶対に必要です。情報の改ざんや隠ぺいは決してあってはなりません。正しい情報に基づく検証なくして、憲法を語ることはできないのです。」

私のこの主張は、新型コロナウイルス発生とともに言われ始めた「憲法を『緊急事態』条項を入れよう」という主張を意識していたからです。もし本当に憲法論議をするのであれば、きちんとした論議経過が残されていることは絶対に必要です。それが無ければ、きちんとした検証はできず、論議のスタートにも付けないのです。公文書をいとも簡単に改ざんし、隠ぺいする安倍政権ですから、記録が残ることを良しとしないのでしょうが「歴史的緊急事態」に指定した安倍さん自身です。全ての経緯を文書に残すことは当然の責務です。ましてや「いのちに関わり、権利を規制する根拠となる」重要な専門家会議ですからなおさらです。この当たり前に事がきちんとやれずに、思い付きとしか思えない発言や政策が多すぎる安倍政権は、まさに「さようなら」してもらうほかありません。

いのちとうとし

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2020年6月 3日 (水)

西応寺は、被爆前も現在地にありました

5月24日のブログ「峠三吉の墓―西応寺」で、被爆前の西応寺がどこにあったか、?マークを付けながら、私なりの見解を紹介しました。

ところが、一昨日の広島原爆資料館見学で、この問題の解決を得ることができました。結論は、ほぼ今西応寺が建っている場所に、被爆時もあったということです。「ほぼ」というのは、戦後区画整理などによって新しい道路が作られたりしているからです。

思いがけないことからの確認でした。原爆資料館を見学されたことのある人には、理解できると思いますが、本館2階の展示室の見学を終えると北側の通路を通って、東館へ移動することになります。私もこの通路を東館向かって歩きながら真ん中まで来た時、平和公園を訪れている人は、何人ぐらいかなと思い慰霊碑の方向を眺め、写真を撮りました。午前9時半頃ですが、ほとんど人影が見当たりません。

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写真を撮り終え振り返った壁面に、平和公園となっている旧中島地区の被爆前の復元図2枚が目に入りました。左側の大きな地図は、1960年代の爆心地復元運動で作成されたものです。黒ずんでいて見にくくなっています。右側の1枚は、中国新聞が1997年から2000年にかけて特集連載した「ヒロシマの記録―遺影は語る」のまとめで制作されたものにさらに原爆資料館が広島大学原医研の協力を得て作成した復元図です。

この新しい復元図には、中国新聞平和メディアセンターの「平和公園(爆心地)町並み復元図」では、詳細が記入されていない「中島新町」の南側部分全体が、きちんと書き込まれています。

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「西応寺」の文字(逆向き)がはっきりと見えます。これで被爆前の西応寺のあった場所が確認できました。西応寺さんから電話で教えられてとおりです。ただ、「ほぼ」というのは、新しい道路のことだけではなく、よく見るとわかるのですが、現在は東向きに建っている西応寺が、地図では南向きだったことが分かるからです。

原爆資料館見学後、学芸課を訪ね、地図の所在を訊ねました。この地図だけが印刷されたものはないそうです。「2000年に、国立平和追悼祈念館をつくるための発掘作業の報告のための企画展『一瞬に消え去った爆心地の街』のパンフレットに入れるため、作成したものです。残念ですが、この地図だけが印刷されたものはないのです」との答えでしたが、最終的には、原本と思えるものから拡大コピーしたものをいただくことができました。何か引き寄せられるように感じで、短期間に宿題の一つが解決したような気分です。

 

今回の原爆資料館見学ではもう一つ、西応寺の原爆の絵第1号碑に関わる出会いがありました。それは、昨日もちょっと紹介をした地下の特別展示室で開催されている「新着資料展(2018年度)」に展示されている原爆の絵です。

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私が「出会い」といったのは、その中に第1号絵碑の作者である木村秀男さんの作品が5枚展示されていたからです。見たことのある絵ですが、びっくりしたのは絵の大きさです。全部1メートルを超えるような大きさです。絵は、コピーされたものが展示されていますが、原爆資料館に確認すると、全部原寸大ということです。一番の大きな絵は、写真の左側に映っている絵碑と同じ構図の「原爆投下直前」の絵です。この絵だけ左下隅に「H17.7」と制作年月が記入されています。原爆の絵碑第1号は、2000年8月3日に建立されていますので、木村さんは、その後もづっと描き続けておられたことが分かります。

木村秀男さんが亡くなられ息子さんが、19枚の絵を寄贈されたそうです。そのうちの5枚が今回の「新着資料展」で展示されています。以前に木村さん自身が寄贈されたものと合わせ、合計26枚の絵が原爆資料館に収蔵されることになりました。

もし、原爆の絵碑第1号を訪ねていなければ、こんなにきちんと見ることはなかったかもしれません。

原爆資料館には今でも資料の寄付があるようですが、2018年度は「70人から613点」の寄贈があったそうです。その中から132点が今回展示されています。

被爆前の広島の様子を写した写真が何枚もあります。原爆資料館に行ったら、地下の展示室まで足を運ばれるとよいと思います。

いのちとうとし

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2020年6月 2日 (火)

広島原爆資料館の再開と新型コロナウイルス感染予防対策

昨日は、学校再開などのニュースが相次ぎましたが、2月29日から臨時休館していた広島原爆資料館も、93日ぶりに再開されました。

私も、どんな様子になるのかと思い、開館時間の午前8時30分の少し前に原爆資料館に行ってみました。今日はその報告です。

南側の入り口の前に、沢山の人が集まっています。「えーやはり多いのかな」と思いながら近づくと、マスコミ関係者ばかりです。入館希望者は、ソーシャルデスタンスを確保するために建物に沿って貼られた緑のテープを目印に、順番待ちの列を作るようになっています。

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8時半になると受付が開始されました。まず東館南側入り口に設けられた受付で、希望する時間帯(30分刻み)を告げて、整理券を受け取ります。

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私が受け取った整理券の番号は、4番です。

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午前8時30分から30分間に入場した人は、8人だったようです。密集、密接を避けるため、30分あたりの上限は100人となっているようですので、整理券の発行段階で人数が制限されます。しかし、昨日は私が帰りがけにみた確認した午前11時30分までの区分で一番多かった時間帯は、午前10時からの30分で、23人でした。県外からの観光客がまだまだですから、入館者はまだ多くないようです。

整理券を受け取ると、東館西側入口に移動します。入ってすぐのところに備え付けられた消毒液で手を洗い、整理券を提示し、サーモグラフィーでの体温チェックを受け、ようやく資料館に入ることができました。まっすぐ入場券売り場に進み、運転免許書を提示し、65歳以上の高齢者入場料100円を支払いました。すぐ横のエレベーターを利用して、2階の展示場へと移動します。ここからは、従来の展示コースに沿いながら進んでいきます。

昨年4月にリニューアル以降、何度か原爆資料館を訪れています。いつもキャプションを読むのに苦労するほどの混雑ぶりですが、昨日は各展示コーナーに見学者が一人いるかいないかという状態ですので、ゆっくりと見て回ることができました。

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進んでいくうちに、先頭で受付を待っていた青年に話を聞くことができました。「どこから来られましたか?」「岩国からです。沢山の人が並ぶのではないかと思い、午前6時30分に家を出て、8時前にここにつきました」「学生さんですか?」「9月から大学に行くのです」、おやっと思いました。「9月入学はまだのはずが」。聞けば「9月からアメリカの大学に行くことにしています。この原爆資料館には、前に一度訪れたことがあるのですが、アメリカに行く前にもう一度きちんと見ておこうと思ったものですから」とのことでした。

こんな思いを持つ若い人に出会えると、何となくうれしい気持ちになります。アメリカに行って、この体験が役にたてばよいなと思います。

館内をどんどん進みます。新型コロナウイルスの感染対策をいたるところで目にします。

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館内にあるほとんどすべての椅子に、大きな×印を書いた紙が貼ってあります。「ちょっと一休み」というわけにはいかないようです。

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東館の展示は、多くがタッチできる展示物ですが、多くは「休止 触らないでください」と書かれた張り紙があります。

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数少ないタッチ出来るパネルの傍には、注意書きと消毒液が備え付けられています。

原爆資料館の本館、東館2階、1階の見学を終え、東館地下1階の展示室に移動しました。

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2018年度に寄贈された資料が展示された新着資料展示と同じフロアの廊下に展示されたアニメ映画「この世界に さらにいくつもの 片隅に」の複製原画や絵コンテなどを見て、原爆資料館見学全てが終了しました。

「この世界の片隅に」の表示パネルの横に「すずさんのスタンディングパネル」があります。よく見ると、すずさんも「昭和くらし博物館」から提供されたマスクをつけていました。

いのちとうとし

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2020年6月 1日 (月)

「無責任」の論理構造 (1) ――「令和の無責任男」を解剖する――

「無責任」の論理構造 (1)

――「令和の無責任男」を解剖する――

 

新型コロナウイルスの感染が抑えられ、自粛要請も解除になりつつありますが、それと軌を一にして、日本中で安倍内閣に愛想をつかしている人が爆発的に増えているようです。たとえば、「広島ブログ」中の人気ブログ「小さな松のカフェ」では、5月31日にライターのヤンシーさんが、令和の無責任男」と題する、風刺を載せてくれています。一読、身体がすっきりした気分になりました。

キーワードは「責任」です。たとえば、5月27日には、文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ!」で、大竹さんやタレントの壇蜜さんまで、このことを問題にしています。毎日新聞の報道では、昨年11月時点で、第二次安倍内閣になってから、首相が「任命責任は私にある」という趣旨の発言を公の場で49回行っていたにもかかわらず、最後は「批判は真摯(し)に受け止めたい」という発言しかしていない点を、取り上げていたそうです。

その前日、26日には、TBSの「news23」でキャスターの小川彩佳さんが、安倍総理の「責任」の使い方は、自分には「責任がある」とは言っても、その「責任を取る」とは言わない点を問題にし、コメンテーターの星浩さんは、「任命責任があるというのなら、その責任の取り方としては、例えば○○大臣を更迭する」のが常識だ、という指摘をしています。

さらに遡りますが、2019年の11月1日の『女性自身』電子版では、国会で安倍総理が「任命責任」という言葉を使った回数を、議事録から数えています。

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『女性自身』最新号

「第二次安倍内閣になってから首相による「任命責任」という文言は33の会議で記録されている。そのうち具体的な「責任の取り方」については24回記録されている」

 その責任をどう果たすのかを問われて、安倍総理の回答は大体次のようなものになっているとのことです。

2014年の衆議院本会議では、「経済の再生を初め、内外の課題が山積する中、行政に、政治に遅滞をもたらすことのないよう、今後さらに緊張感を持って政権運営に当たってまいります。二年前の総選挙で国民の皆様からいただいた負託にしっかりと応えるため、政治を力強く前に進め、国民への責任を果たしていく決意であります」

また2016年2月の衆議院予算委員会では、「閣僚の任命責任は私にあるわけであります。その責任は、究極的には、しっかりと政策を前に進めていくことによって果たされるべきものだと考えています」

『女性自身』の記述では「具体的」なという形容詞が付いている「責任の取り方」なのですが、とても「具体的」とは言えない代物です。それどころか、責任を回避するための下手な言い訳でしかありません。これをお読みの皆さんにとっても、フラストを感じ、憤怒の対象でしかないような言い訳でしょう。それを敢えて、冷静に分析するのが、今シリーズの目的です。

「責任」にとって、一番大切なのは「因果関係」です。何が原因で何が起ったのかから始めなくてはなりません。それも、縺れた糸のように、何本もの因果関係があり、それぞれの糸毎に付随している責任を確認しなくてはならないのです。

 

[因] 河井法務大臣夫妻がウグイス嬢に法定限度を超えた報酬を支払った。

[果] 公職選挙法違反である。

 

[因] 法務大臣が法律違反をした、あるいはその疑いが濃い。

[果] 法律についての全責任を負う立場である大臣は務められない。

 

[因] 自分が任命した法務大臣が、法を犯したあるいはその疑いが濃厚である。

[果①] 総理大臣はまず、法務大臣を更迭する。つまり、法務大臣が自ら辞職する道は塞ぐ。同時に、「任命」という仕事についての自分の能力の有無について、再検証する。

[果②] あまりにも多くの任命が、不適切であったことが分った。

[果③] 自分には人を見る目がないことを自覚する。

[果④] 総理大臣を辞任する。

 

常識的に考えると、すぐ上の[因]と、[果①]から[果④]までという因果関係、そしてシナリオなら多くの人が納得するでしょうし、若者たちも政治に対して少しは信頼する気も起きて来るかもれしません。でも現実に起きていることはこのような流れとは余りにも掛け離れています。事実、このシナリオの①から④まで、一つも現実になってはいないではありませんか。

それほど、非常識な政治が行われているのですから、私たち市民の側でも、手を束ねざるを得ません。どのような発信をすれば、それが時の政権や総理大臣、そして官僚のトップに伝わるのかについて、全く何の手掛かりも持っていないと感じ、無力感に捉われてしまっているのではないでしょうか。

唐突かもしれませんが、それに対するカギは憲法です。何しろ一国の政治の根幹を示している訳ですし、全ての法律の出発点でもあります。総理大臣の権利や義務についての規定もあります。憲法を再点検することで、安倍政治にお別れを告げるためのヒントが得られるかもしれません。

それでは次回をお楽しみに!

[2020/6/1 イライザ]

 

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コメント
汚れっちまった悲しみに→ ってか、のアホノマスク。

5/22午前だかに→届いっちまって。
(ブランド区・杉並より遅れること12日)
そこはすぐさま→用意しておいた〈不要〉のシールを貼りつけポストに投函。
厚労省は→返却マスクはすぐさま与党議員に配り率先着用を義務づけよ。
〒配達の方、仕事増やして<(_ _)>

ごっこ会見。ウンザリよりも、小っ恥ずかしくて見てられない。
この私にその面のスキルがあったなら、
1)prompterを本番で使えなくする
2)prompterにウソ発見器をセットするか、科学的データ満載の中身に差し替える
3)画面を二つに分け→片側に最初に”ブッシュの靴”シーン、メルケル氏やクオモ氏の
真剣発言、ホワイトハウスかなんかでわれ先に手をあげる記者たち、最後は
小川淳也衆院議員(立憲)5/22コロナ対策国会質疑で閉める

「硬い心」様

コメント有り難う御座いました。

私の住む田舎には、マスクも給付金もまだ届いていませんが、スーパーでも普通にマスクは手に入るようになりました。

そのマスクと記者会見についてのコメント、全面的に賛成です。プロンプターに細工ができるのなら、これまでの罪状を認め「辞職する」という言葉をどこかに埋め込みます。それも複数回。

未だに二桁の支持率があることさえ信じられませんが、「安倍下し」の旋風を作り上げるために、安倍政治の酷さを憲法に照らして告発することも効果的ではないかと思います。

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