「原爆の絵8号」が設置されたフジグランは、山陽中学の跡地
新型コロナウイルスに関する記事を優先しましたので、少し間が空きましたが、今日は4月8日の「『原爆の絵8号碑』の除幕式」のつづきです。
除幕式の中で、学校法人山陽学園専務理事石丸仁土さんの「8号碑が移設されたこの場所は、1966年まで山陽学園山陽高校の校地であった。1945年の原爆投下で校舎は焼失した。教職員と生徒が505人死亡した」というあいさつがあったことを紹介しました。
少し気になりましたので、被爆時の山陽学園の様子を調べてみました。
最初に被爆前の学校の写真を探しましたが、残念ながら写真は見つけることができませんでした。いろいろと探しているうちに目に留まったのが、下の写真です。
この写真は、見にくいのですが、2008年に広島市南区南町にあるあき書房が復刻発行をした「昭和26年発行・日本商工業別明細図 廣島市」という古い地図の余白部分に、当時の建物を紹介するため他の私立学校と並んで掲載された「山陽高等学校」の写真です。少しは、雰囲気が感じられるかなと思い掲載しました。
さてここからは、いつものように広島市発行の「広島原爆戦災誌第4巻」に記載されたことを中心に、山陽中学のことを紹介したいと思います。
爆心地から南東1.2キロの距離にあった山陽中学は、被爆によって一瞬に倒壊し、約15分後に自然着火し、約1時間半で燃え尽きてしまいました。学校は、その年の10月ごろ廿日市にある山陽女学校の校舎の一部を借用し、さらに翌1946年4月には元宇品にあった旧高射砲隊跡を仮校舎として授業が再開されたようです。宝町の旧敷地に復帰できたのは、新校舎が完成した1948年3月です。上の写真は、新校舎の校門前だと思われます。
その後は山陽高校は、石丸さんのあいさつで紹介されたように1966年に観音に移転することになります。宝町の校舎は、その後十和が本社兼店舗として使用し、1982年10月にフジがオープンし、現在に至っています。
ところで、「広島原爆戦災誌」には、被爆当時の山陽中学の校舎配置図が記載されています。
この図を見ると、正門は、敷地の北西の角にあることが分かります。現在のフジグランの正面入り口と同じ場所です。ですので「原爆の絵8号碑」は、被爆した旧山陽中学の正門に設置されたということになります。ちょっと不思議に繋がりを感じます。
ところで、石丸さんは、「教職員と生徒505人が死亡」と話されていますが、その犠牲者のほとんどは、7月からの作業命令によって、雑魚場町や天神町方面の建物疎開作業に動員されていた1年生約410人です。2年生以上の約1200人余りは、爆心地から比較的遠距離にあった工場勤務であったため、重傷者や死亡者は極めて少数だったそうです。
今度もまた、子どもたちの犠牲の様子を知ることになりました。
原爆犠牲者を追悼する「山陽中学校職員生徒追悼碑」は、学園の創立50周年の 1957年8月6日に宝町の校地内に建立され、現在は観音新町にある山陽高校の中庭に設置されています。一度、訪ねてみたいと思います。
いのちとうとし
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