僕の活動キッカケに影響した二人
中国新聞で「国の責任を問う ヒロシマの空白 被爆75年」という、連続ものの特集が行われています。「空白」ということですから、分かりやすくいえば援護の対象外になった原爆の被害者、戦争被害者ということです。
5月16日付中国新聞より
この特集の第1回に、久保陽子(くぼ ようこ)さんが登場されました。久保さんとは1978年春、ニューヨークの国連本部で開催された第1回国連軍縮特別総会を前に、大阪の市民グループの人たちが、米国の市民団体と交流するツアーを企画したときに、そのツアー団の一員に加わりました。約20日間の米国旅行は、そのほとんどがホームスティとか教会での宿泊というもので、とても忘れられないものでした。
久保さんは被爆者ではありません。戦争が厳しくなる中、2歳の弟と広島県の現在の廿日市市に疎開していたのです。そして原爆投下、両親と姉や弟らを失いました。いわゆる「原爆孤児」です。お父さんと上の姉の遺骨は今も見つかっていないのです。
現在、コロナ禍で平和公園を訪れる修学旅行生はゼロですが、平和公園内の碑めぐり案内をするとき、「原爆の子の像」の前では原爆孤児のことを話します。
原爆の子の像前、人影はほとんどありません(5月224日午後1時半頃:いのちとうとし撮影)
久保さんとは、広島市民劇場の会員として年に数回ほど会うことがありますが、今でも米国ツアーの時のことが話題になることがあります。でも今は同じくコロナ禍で例会も中止しています。
もう一人は、一昨日(23日)の同じくこの新聞の特集第4回で、空襲による被害者ことが取り扱われていました。この中に掲載されている写真、写真の説明には「1982年8月、広島市内で開かれた被爆者援護法の制定を目指す集会でマイクを握る杉山さん」という写真の中に、宮崎安男(みやざき やすお)さんの姿を見つけたのです。マイクを握る杉山さんというのは、名古屋空襲で負傷した方です。
宮崎さんは2007年2月に78歳で亡くなっておられますから、この写真の当時は53歳です。そもそも久保さんと参加した米国ツアーは、当時広島県原水禁の事務局長していた宮崎さんからの誘いでした。「ホームスティがほとんどのこのツアーは木原くんにピッタリだと思う」との言葉は今でも鮮明に覚えています。
原爆被爆者が求めていた国家補償に基づく援護法は、制定になりませんでした。これまでの原爆2法といわれる医療法と特別措置法が一本化されて、援護法となったのです。
その国家補償にならなかった最大の理由となったのは、1980年12月11日の原爆被爆者対策基本問題懇談会による「原爆被爆者対策の基本理念及び基本的在り方について」という報告にあると思います。
その中に次のような記述があります。「戦争によって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国をあげての戦争による『一般の犠牲』として、すべての国民がひとしく受忍しなければならない」という「受忍論」です。
戦争に直接参加した兵士や遺族には国家補償による援護法がありますが、空襲被害者、原爆被害者にはありません。じゃあ軍事訓練として竹やり訓練をした人、建物疎開ということで強制動員された人、動員学徒として動員された若者たち、改めて戦争被害について議論することが重要ではないでしょうか。今年はあの基本問題懇談会の報告から、40年という節目の年でもあります。
木原省治
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