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2020年3月 7日 (土)

「原爆ドームと楮山ヒロ子」の発刊

先日中国新聞で、表題の本の出版を知り、連絡先となっていた寺田正弘さんに、メールで購入方法を問い合わせました。「数日後に市内に出ますので、その時直接お渡ししますよ」と返事があり、約束に日時に市役所の市民ロビーで待ち合わせをしました。

購入したいと強く思ったのは、二つの理由からです。一つは、原爆ドーム保存運動のきっかけともいえる役割を果たした楮山ヒロ子さんのことをもっとよく知りたかったからです。もう一つの理由は、「折鶴の会」を世話人として支えてこられた河本一郎さんのことが紹介されていると記載されていたからです。

約束の時間に広島市役所の市民ロビーでお会いした寺田さん。私は当初、本を受け取るだけと思っていましたが、いろいろな話を伺うことができました。開口一番「私は、楮山さんの中学校時代の同級生なんです。当時の安芸郡府中中学校時代同級生三人が協力して、この本を出版したんですよ」

続けて「この本を出そうと思った目的は、『原爆の子の像』のモデルとなった佐々木禎子さんに比べて楮山ヒロ子は知名度も低いし彼女に関する資料が皆無に等しいことが分かりました。今や原爆ドームは世界遺産に登録されており各国から多数の観光客並びに世界の惨禍を学ぼうとする人たちが訪れてみていくピースメモリアムになっています。その原爆ドーム保存運動に大きな役割を果たした楮山ヒロ子の資料を残したかったのです」。本の「あとがき」にも記載されていることです。

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「あの痛ましい産業奨励館だけが、恐るべき原爆を後世に訴えてくれるだろう」と8月6日の日記に書き、原爆ドーム保存募金の呼びかけに大きな役割を果たした楮山ヒロ子さん。

目次を読んでいくと同級生だった楮山ヒロ子さんへの三人の思いが直接伝わる項目があります。「なぜ佐々木禎子のように名が広がらなかったのか」です。その原因として、当時の広島市以外の地域(隣町の府中町ですら)での被爆問題への関心の低さがあったことなど佐々木禎子さんのおかれていた環境との大きな違いがあったことが、同級生だからこそ書ける文章で紹介されています。

もう一つ、この本を手にして改めて知らされたことがあります。佐々木禎子さんは爆心地より1.6kmで被爆、楮山ヒロ子さんは1.25knの地点で被爆。二人とも、外傷もなく身体の異常も見られませんでした。しかし、佐々木さんは、小学校6年生のとき「骨髄性白血病」を発症し、入院。8か月後に命を失っていますが、楮山さんは、白血病が悪化して緊急入院してわずか6日後には死去。享年16歳6カ月。(本文より)楮山さんが、発症後本当に短い時間で命を失ったことが分かりました。

もう一つの関心であった河本一郎さんについては、かつての「折鶴の会」のメンバーと河本一郎さんを支えてこられた黒瀬真一郎さん(現広島YMCA理事長、当時は広島女学院理事長)へのインタビュー記事によって、エピソードを含めてその人となりが紹介されています。初めて知ることも多く、河本さんと一緒の活動した人たちの話には、興味が深まります。

最後に、寺田さんが、「一人でも多くの人に楮山ヒロ子を知ってほしいと思ってこの本を発刊しました」と繰り返し話されていたことを、特に強調しおきたいと思います。

ぜひご一読ください。

いのちとうとし

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