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2020年3月19日 (木)

原爆犠牲者 追憶之碑 廣島第一縣女

広島市議会予算特別委員会傍聴記-その2に掲載した「原爆犠牲者 追憶之碑 廣島第一縣女」がなぜここに建っているのかを調べてみました。

碑の前にある「説明板」を紹介します。

Dsc_5700


原爆犠牲者 追憶之碑 廣島第一縣女

 広島県立高等女学校は1901(明治34)年に設立を許可され、1902(明治35)年旧下中町のこの地に開校されました。1941(昭和16)年広島県立第一高等女学校(略称広島第一県女)と改称されました。現在は広島県立皆実高等高校です。

1945(昭和20)年8月6日の[米軍による]原爆投下によって爆心地から600mにあった校舎は倒壊焼失し301名(教職員20名、学徒動員で建物疎開作業に従事していた1年生223名を含む生徒281名)の尊い命が犠牲となりました。

被爆10年の1955(昭和30)年に御霊を慰めるため「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」が当時の職員・遺族・同窓生によって建立されました。この碑には県女の校章と哀悼歌の一節が刻まれています。石柱は被爆した門柱の内の一本です。ハート型の千羽鶴掛けは県女の校章をもとにしています。

御霊に哀悼を捧げ、悠久の平和を祈ります。

被爆70年にあたり改修再整備 2015(平成27)年8月 

広島県立皆実高等学校、同窓会南有朋会


 私の頭の中には、広島第一県女の生徒が学徒動員による建物疎開で犠牲になった土橋付近がという地名があったものですから、「なぜこの地に?」という疑問があったのですが、この説明版をきちんと読めばすぐにわかることでした。この場所に、学校があったのです。同窓会が作成したアーカイブス(同会のホームページから見ることができます)には、「県女跡地」が、上空から移した現地の写真に枠囲いで示されています。残念ながら許可を得ていませんので、それを使用することはできません。現在の中町で、南北は平和大通りの車道の中心からクリスタルビルの裏通りまで、東西はクリスタルビルの西端から三井ガーデンホテルの西側までです。広い範囲です。

当時の学校の配置図によれば、正門は東側にあります。少し位置は違うかもしれませんが、正門跡付近に「追憶之碑」が建てられたようです。当時の門柱もモニュメントとして残されています。門柱の前の石には「この位置は、旧廣島第一縣女の正門付近に当りこの石柱は原爆当時の門柱4本の中の一である」と説明文が刻まれています。

Dsc_5709

これを読めば「原爆犠牲者 追憶之碑 廣島第一懸女」にとって、ここがいかに大切な場所であり、ここでなければならなかった意味が理解できます。

同窓会事務局に問い合わせの電話をかけた時、「平和大通りのにぎわいづくり」について少し話したのですが、「えっ」と少しびっくりされたような反応でした。

その他にも、説明板によって、いくつかのことを知ることができました。

その一つが、犠牲者数です。碑の後ろ側には、犠牲者の名前が刻み込まれた銘板があります。「追悼之碑」の左側には「昭和20年8月6日遭難 職員校長共20名 生徒277名及同窓生」と、犠牲者が297名だったことが刻まれています。ところが、2015年の改修再整備時に設置された説明版には、「301名(教職員20名、生徒281名)」と記されています。どういう経過で、4名(いずれも生徒)の新しい名前が明らかになったのか、その事情が知りたくなります。いつか同窓会事務所を訪ねて調べてみたいと思います。

二つ目は「哀悼歌」です。「一節が刻まれています」とあり、「追憶之碑」の裏側に刻まれています。

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この「哀悼歌」は、一周忌に向けて「原爆犠牲者への哀惜と鎮魂の祈り」をこめて作ることになり、全校生徒から募集し、3年生の岸谷敞子(44期)の詩が選ばれ、岡本真 一郎教諭が作曲され「一周忌にあたる1946(昭和21)年8月6日、一周忌の法会で霊前に捧げた。」そうです。この碑に刻まれているのは歌詞の3番です。

三つめは、門柱です。説明版には、当時の正門前の写真が付けてあります。

Photo_20200318165101

現在モニュメントとして建っている門柱前の石に刻まれている説明どおり、4本の門柱が建っています。手前の門柱には「広島女子専門学校」と書かれています。同校は、1928(昭和3)年に設立されてから1935(昭和10)年に宇品に移転するまで、広島第一県女の校内にあったようです。当然のことですがモニュメントは、後ろ側の門柱が使われています。

そして「説明版」では触れられていませんが、広島第一県女の再建です。当初は、分散して授業が行われていたようですが、本格的な学校再開時(1946年1月)の授業場として陸軍被服支廠のレンガ倉庫が使われています。その後広島市の都市復興計画によって、校地の大部分が平和大通りになることになったため旧校地への復帰ができなくなり、旧陸軍被服支廠跡での学校再建となったようです。そして、友邦高等学校を経て、1949(昭和24)年、現在の県立広島皆実高等学校へと引き継がれました。陸軍被服支廠との深いつながりを感じました。

いのちとうとし

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