千田小学校の被爆石の由来
22日のブログで紹介しました「橋本秀夫の仕事ぶり : 建築家橋本秀夫遺稿集」を入手できないかと探し回っている中で得た、新たな情報です。
入手できる方法を見つけようとネットで検索していたら、広島県立広島工業高等学校(以下「県工」という)同窓会の名前が出てきました。すぐに電話を掛けたのですが、今日の話はその顛末です。
電話口に出られた吉森先生(学校の講師を務めながら、同窓会事務局の仕事もされている)、「橋本秀夫さんは、元は県工の卒業生でもあり建築家の先生でした。私も机を並べて仕事をしていました」と教えていただいたのですが、肝心の本は、すでに品切れでここでは入手することはできませんでした。しかし、電話口の吉森さんから、陸軍被服支廠についての新しい情報を得ることができました。詳しく知りたかったので「午後に同窓会事務所を訪問する」ことを約束し電話を切りました。
午後2時過ぎに訪れた県工同窓会事務所は、陸軍被服支廠の北側の延長線上に建つ2階建ての建物です。2階にある事務所からは、被服支廠の全体が見渡せますので、早速、ベランダに出て写真を撮りました。しかし午後の日差しでせいで、日陰となりあまり映りはよくありません。気の毒に思われたのでしょうか、吉森さんが「この写真はどうですか」と県工同窓会が映した空中写真を提供して下しました。下の写真です。普通では撮れないアングルです。
その後、椅子に座込んでの話が弾みました。話の中で、私が「千田小学校に被爆石として県立工業学校(県工の前身)時代の『車回し入口土台石』があるのですが、ご存知ですか」と尋ねたところ、「えー、初めて聞く話です。本当ですか」との答え。私のスマホに、その被爆石の写真がありましたのでそれをお見せすると、「待ってくださいよ。ここには古い写真が何枚もあります。その中に映っているものがあるはずです」と書棚を探してくださいました。
ありました。一枚は、昭和初期の千田町の県立広島工業学校の玄関の写真です。車回し入口に二本の柱がきちんと映っています。
「この土台部分だと思います」吉森さんの話です。この写真では、見分けにくいのですが、柱は3本がL型になっています。千田小学校にある被爆石の一番上部の石も、3つの穴がL字型になっています。
次にもう一枚の写真出てきました。被爆後、昭和25年(1950年)に映された正門の写真です。バックに、車寄せ入り口の土台石だけ残ったままで映っています。一番下のレンガ部分を除いて千田小学校に移築されたと思われます。
千田小学校の被爆石「車回し入口の土台石」は、間違いなくかつての県立工業学校にあったものだと思います。千田小学校を訪れた時には、「どこでどんな風に使われていた」のか不明でしたが、うれしい解明です。ちなみに県立工業学校は、現在の県立図書館などが建っている場所にありました。正門は本川沿いの西側に面し、校内の北寄りにあったようですので、ちょうど県立図書館が建っている場所の西側道路沿いにあたります。「学校の古い歴史に関心を持つ友人がいますので、ぜひ一緒に千田小学校を訪ねたいです」との吉森さんの話でした。今回使用した写真は、いずれも使用許可をいただいています。
ところで「橋本秀夫の仕事ぶり : 建築家橋本秀夫遺稿集」ですが、いろいろ尋ねてついに入手することができました。その顛末と本の内容については、後日報告します。
いのちとうとし
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