県立広島工業学校と被爆者原廣司さん
今日は、再び県工同窓会訪問記のつづきです。
県工同窓会を訪れた時、「広島県立工業学校原爆追悼集 ああ麗しき太田川」(以下「追悼集」という)を贈呈していただきました。その時は、何も考えることなく「ありがとうございます」と受け取ったのですが、帰宅してカバンから取り出してみると、裏表紙の森滝市郎先生の「人類は生きねばならぬ」という文字とともに描かれた原廣司さんの絵が目に入りました。本を開くと、見開きにも同じ絵が使われていました。
色紙に描かれたものをコピーしたものですが、「なんでこの色紙が?」と、一瞬頭をよぎりました。実は、この色紙は、原水禁が、結成○○周年(何周年だったかすぐに思い出せない)記念の事業の一つとして作成した物なのです。もともとは別々の原画だったものを組み合わせて作成しました。いただいた追悼集では、白黒印刷になっていますが、原水禁が作った色紙は、もちろんカラーです。書棚を探したのですが、すぐに見つかりませんでしたが、私も当時、この色紙の作成にかかわったことを思い出します。
こうした経過を知っているだけに、一目見た時「なんで?」という思いが最初に頭によぎったのです。自宅に帰って少したってから、気づいたことがあります。「まてよ、たしか原さんは、県工の卒業生だったはずだな」と。すぐネットで原さんのことを検索すると、昨年4月15日の訃報のニュースが見つかりました。やはり原さんは、被爆当時13歳、県立広島工業学校(後に県立広島工業高等学校)の1年生と書かれています。原さんとは、国鉄広島工場に働いておられるときからの長いお付き合いで、お世話になり続けていたのにもかかわらず、こんな大切なことをすぐ思い出せなかったなんてと、反省、反省です。これで、追悼集に原さんの絵が使われていた理由が分かりました。納得です。
県工正門のすぐ横に原爆犠牲者の慰霊碑と銘板があります。その日は、慰霊碑にこうべを垂れて、学校を後にしました。
改めて、追悼集を開き、原さんの被爆体験記はないかとページを繰りました。「卒業生聞き書き・手記」の章にありました。タイトルは「白い雲 そして真っ赤な空」です。岡本千恵子さんの聞き書きです。「建築家1年生、13歳の時です。(略)私たちの組は8月5日、疎開家屋の撤去作業に出ていましたので、6日、原爆が落とされて日は休みでした。私の家は、矢野でしたが、6日は休みとなっていたので、5日の夕方、リュックサックを背負って、尾賀さんのいる江田島に行きました。」から始まる体験記には、江田島から原爆の様子を眺めたこと、7日に学校へ行ってからのことなどが詳しく書かれています。原さんがいつも語っていた体験談です。広島県立工業学校の被爆の歴史も詳しく調べてみたいと思いますが、これで「なぜ原さんの絵が?」という疑問は完全に解けました。
原廣司さんが、被爆体験を語りながら、矢野から通い描き続けた原爆ドームの絵は、3000枚を超えたといわれます。
その原さんが亡くなってもうすぐ1年を迎えます。そんな時、原さんと一緒に訪朝したことのある李実根さんが亡くなりました。同じ入市被爆者として頑張り続けた二人でした。
いのちとうとし
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