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2020年3月28日 (土)

プライドPRIDE共生への道~私とヒロシマ~

李実根さんのご遺体に高天原の火葬場まで同行し、最後のお別れをしました。今、帰宅しすぐに李実根さんが、自らの信念を貫いて生きてこられた人生を振り返った著書「プライドPRIDE共生への道~私とヒロシマ~」を開いているところです。

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この本を改めて手にしようと思ったのは、昨日の李さんの葬儀で「お勤め」を務めた吉川徹忍さんが、御文章「白骨の章」を拝読した後、葬儀では珍しいことですが、自分と李さんとのかかわりを話す中で、この本(PRIDE)の最初に載っている「プロローグ 三歳の日の銀杏の木」のエピソード(李さんが三歳だったころ、息子の自立を願ってお母さんが「暁雲寺」という浄土真宗のお寺に預けられたこと)を紹介したからです。

表紙をめくった見開きのページには「謝 2006年10月30日 李実根」のサインが入っています。奥付にある発行日は「初版 2006年7月28日初版第一冊」となっていますので、私の蔵書は、出版記念会で参加者全員に配布されたものだと思われます。

第一章は、「父と母」「日本の子どもとして生きる」「被爆」と生い立ちから被爆者となるまでが綴られています。その中には、軍国教育と差別の中で生きてきた少年時代の苦い思い出も書かれています。第二章、第三章では、戦後の混乱期の中で体験した刑務所生活など、波乱万丈の人生が綴られています。

そして第4章からは、私たちがよく知る李実根さんの後半生が登場します。1961年から始まった朝鮮総連役員としての組織づくりを中心とした活動。そうした活動をへながら、いよいよ本格的な被爆者の組織作りが始まり、1975年8月2日の「広島県朝鮮人被爆者協議会」の発足へと発展します。李さんは、結成の意味を「PRIDE」の中にこう書いています。「唯一の被爆国、唯一の被爆者論が展開された時期に、『唯一の被爆国』は正しくとも『唯一の被爆者論』は間違っているという認識から産声を上げた朝被協の結成は歴史的に大きな意義があった。日本人だけが唯一の被爆者ではない。罪もないのに被爆したたくさんの朝鮮人。その朝鮮人たちが立ち上がったことを世界に向けて宣言したのだ」と。そして大事なことは、「宣言した」だけでなく、77年にかけて在広朝鮮人被爆者の実態調査が実施されたことです。その実態調査には、李さんも書かれていますが、日本の青年や学生の協力がありました。この協力を得ることができたのも、李さんの人脈の広さがあったからです。

そうした活動が、次のステップ、朝鮮人の被爆体験集「白いチョゴリの被爆者」の発刊へとつながっていきます。「PRIDE」には、当時著名な作家だった松本清張さんへの「序文」の依頼の様子も詳しく書かれています。それも、これも李さんの行動力とそれを支えようとする多くの人たちが周りにいたからできたことが分かります。

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葬儀で上映されたDVDの最後の写真

その後の李さんの活躍ぶりは、多くのところで紹介されていますので、ここでは省略しますが、どうしても触れておきたいことがあります。それは、出版記念会で配布された本には、A4のコピー用紙6ページほどの資料が、半分に折って挟み込まれていたことです。資料のタイトルは「日本の戦争責任を問う」です。出版と同じ年の7月16日に開催された「原爆投下を裁く国民民衆法廷・広島」での李さんの「特別証言」が、全文掲載されています。

きっと、李さんが「PRIDE」の中で書ききれなかった過去の歴史と日本の戦争責任についての考え方を、この「特別証言」を通じて訴えたかったためだと想像できます。多くの人の目に触れた欲しい文章です。

最後の紹介ですが、「エピローグ」の中で李さんと原水禁とのかかわりについて書かれています。「当時は社会党系の原水禁や被団協からの支援が多く、中でも故森瀧市郎先生や宮崎安男さん、故近藤幸四郎さんといった人たちが、積極的に応援してくれた。特に70年代の終わりから80年代にかけては、常に原水禁運動の中で大小問わず、様々な会合や学習会、講演会などに参加させてもらった」と。

通夜、葬儀で上映されたDVDの締めくくりは、慰霊碑前で座り込みをする李さんの姿でした。私はそれを見ながら、原水禁との縁の深さを感じました。李さんと原水禁との歴史をもう一度思い起こし、李さんの運動の歴史から改めて私たちも学びなおしたいと思っています。

いのととうとし

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