千田小学校の被爆樹木などを訪ねて―その3
1月27日のブログのつづきです。これまで2回は、千田小学校の被爆樹木を紹介しましたが、今回は、その他の被爆物についてです。
最大の被爆遺構は、旧講堂の焼け残った鉄骨の骨組みです。
現在でも鉄骨が、大飼育館として活用されています。説明版にはこう書かれています。「この場所にあった講堂は、昭和20年8月6日に被爆し、焼け落ちましたが、その行動の鉄骨を利用して昭和32年5月6日に大飼育館として開館しました。」戦後、この学校の校庭を整備する際の写真にもこの鉄骨の骨組みが写っています。
被爆後12年経って、活用されたことが分かります。東側の道路からもよく見ることができます。千田小学校では、最も大きな被爆遺構です。
次に、校庭南側にある「国旗掲揚台」です。
写真をよく見ると、前面に装飾が施されているのが分かります。被爆時は、東門のすぐそばにあったようですが、戦後の学校整備によって現在地に移されたようです。「掲揚台」の裏に、そんな経緯を期した銅板がはめ込まれています。「昭和15年10月1日宮本數男氏からご寄贈いただき、東門前に設置されていたものを、給食調理室改築にともなって、ここに拡張移転したものである 昭和59年3月1日 広島市立千田小学校」
ここには、被爆物であることは記載されていませんが、最初の設置月日が記載されていますので、被爆物であることが分かります。案内していただいた組谷さんの話では、ポールは、東京オリンピックの際に新調されたとのことです。
移転前この掲揚台があった東門は、現在は裏門になっていますが、そのまま残されています。この東門を入ってすぐのところに、以前紹介したことのある「平野橋欄干」や「車回し土台石」などがありますが、欄干は東門のすぐ東隣、土台石は、広島工業専門学校(のちの広島大学工学部)にあったものが、移築されたようです。
千田小学校50年史には、この他にも多くの被爆石などがリストアップされています。例えば、南門門柱です。現場に行ってみると南側には、現在2つの門があり、どちらの門か判然としませんが、予測では東側と思われます。50年史によれば、「元電鉄分工場門柱」とありますから、学校の南隣にある広島電鉄にあったものと思われますが、「分工場」という表現が、何を指すのか不明です。この南門に関しては、「南門門柱の付属壁」も、リストで「学区焼き残り石」と記載されていますが、どの石がそうなのか確認はできませんでした。
その他にも「南側土手長石」、旧場所「電鉄付近電車通りの側溝石」、「大飼育館前土手長石」、旧場所「県立工業学校築石」など、興味深いものがありますが、被爆樹木と違って説明する表示板が付けられていませんので、特定するのが難しい状況になっています。
組谷さんの説明によれば「被爆樹木以外の被爆物については、現在それを証明するような資料が学校に保管されていない」とのことでした。
戦後、何度か学校内で拡張や移転などが行われたようですので、特定することがより困難になっているように思われます。ただ、先人たちの深い思いで、こうした被爆物が学校外からも集められたことを考えると、被爆75周年を機に再調査されることが望まれます。
ところで、校庭内を調べている時思いがけない「碑」に出会うことになりました。明日報告します。
いのちとうとし
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