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2020年2月18日 (火)

千田小学校の被爆樹木などを訪ねて―その4

昨日のつづきです。

校庭東側に広がるグリーン地帯を探し回っている時です。一つだけ少し新しい「碑」が目に入りました。碑の表面には「記念植樹 若潮千通会」と刻まれています。植樹を記念して建てられたものですが、「若潮千通会」とは?

Dsc_5130

裏側に回るとその意味がよく分かります。「若潮千通会」とは「元船舶通信隊特別幹部候補生隊」のOB会組織のようです。建立は、「昭和46年8月6日」です。

Dsc_5124

すぐにピンときました。原爆投下時、千田国民学校の駐屯していた部隊に違いないと。帰宅して、広島市発行の「広島原爆戦災誌第4巻」の「千田国民学校」の被爆状況を記載したページを開きました。「やはり」です。「校舎の使用状況」には、「当時、校舎の一部は軍隊に貸与されており、その状況については次の通りである。部隊名 暁部隊(本体は比治山電信隊)、人員 約350名で、その他に教官・世話兵約50人、構成 中等学校3年生の卒業生を特別幹部候補生として養成、用務 戦艦(大和)の要員として待機させていた。」とあります。

「特別幹部候補生」ですから、「碑」の裏面に記載された部隊名に間違いありません。「広島原爆戦災誌」に記載されている事項に興味が湧きます。一つは「比治山電信隊」の文字です。この部隊は、本来比治山の南側に兵営を持つ部隊です。そうです、このブログでも紹介したことがありますが、現在NTT比治山データビルが建っている場所です。

もう一つの驚きは「用務」に記載されている「大和の要員として」の文字です。戦艦大和は、1945年4月5日に出撃命令が下り翌4月6日の15時20分に出撃し、沖縄に行く途中で4月7日の14時23分に米軍の攻撃を受け沈没しています。この事実は伏せられていたのでしょう、沈没した後も「大和の要員として待機」させられていたのですから。「戦災誌」によれば、当時駐屯していた兵隊は、8月6日の朝朝礼のため運動場に出ていたため、直接被爆して全身やけどを負ったものが多くいたそうです。

一方、千田国民学校の生徒は、雑魚場町の疎開地後片付けに出動中で、高等科50人全員が被爆し、ほとんどのものが死亡したようです。「戦災誌」では、即死者40人、行方不明者10人となっています。

注目してほしいことは、被爆の被害ではありません。幟町国民学校のところでも紹介したのですが、市内の多くの国民学校が当たり前のように「軍隊によって使用」されていたことです。「平和」であるべき子どもたちの学び舎が、軍事施設になってしまった戦争。中学1,2年生が建物疎開などの動員で大きな犠牲となったことは、多く語られてきました。しかし学校に軍隊が駐屯していた事実は、どれだけ知られているのでしょうか。忘れてはいけない事実のように思います。

いのちとうとし

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