ヒロシマとベトナム(その8-2)
父を「恨んだ」おさない日々
敗戦とともに故郷に帰り、中国大陸からシベリアに抑留された兄(私の叔父)の帰郷までの4年余り農業に従事し、その後、赤木家に養子に入り姉(幼くして死亡)、私、妹をもうけました。その父が27歳(私が3歳)のとき「精神病」を患い7年間入院しました。3歳の記憶がどれほどのものか分かりませんが、畳をひっくり返し庭に投げ出している姿と、戸板(担架?)に乗せられ家を出てゆく姿をボンヤリと憶えています。
父が帰ってくるまでの7年間、母は女手一つで父の治療費を払いながら私と妹を育ててくれました。本当に苦しかったと思います。夕暮れ時、幼い私たち2人の手を引き出ようとする母の様子に、子どもながらも何とも言えない恐ろしい予感のようなものを感じながらも母に連れられ、どこをどう歩いたか覚えていませんが、いつの間にか家にたどり着いていたことが幾度かあったように記憶しています。
何事もなかったことが、今の私と妹の存在につながっています。その母は12年前に79歳で亡くなりましたが、私は今でも「母から二度、命をもらったと」思っています。
幼い頃の私は、「こんな苦労をするのは父のせいだ」と思っていました。退院後の父は7年間を取り戻すかのように、農業の傍ら農閑期には岡山市内や神戸などへの出稼ぎを重ね必死に働いていました。それでも私は家出を繰り返すなど、父には馴染めないまま18歳まで過ごしました。
その私が少し変わり始めたのが1978年に津山電報電話局から己斐の茶臼山山頂にあった広島統制無線中継所に転勤し、全電通の運動を通して反戦平和、原水禁運動に関わりはじめてからです。戦争の要因や背景、人々の心を支配した軍国教育、軍都廣島の戦前戦中、阿鼻叫喚の被爆体験とその後の人生・・・など、被爆者の方々の話しを聞き、被爆の実相に触れる中で、父の病気を戦争や社会の問題として捉えるようになりました。
「戦後75周年」、あかたつの抱負
母から聞かされていた「(父が)夜中にうなされ、起き出して“トンツー”を打っていた」という話も、当時は気にもとめていませんでした。500キロ爆弾を抱えた足の鈍い特攻機には当初、直掩機が付き、護衛と戦果確認の役割を果たしていましたが、敗色が濃くなるにつて直掩機も付かず、多くの若者の命が無為に失われました。
そうした頃のトンツーの役割は「我レ、突入セリ」に続き、電鍵を押さえたまま敵艦に突入。「ツー」の音が消えた時が「突入」とされ、「大本営発表」の戦果が報じられていたと父から聞いたことがあります。しかし、その多くが撃墜され、また海中に墜落し途絶えた「ツー音」だったことは、いまでは誰もが知ることです。
100%生還できない特攻を「志願」させられ、奪われる自らの生命の存在を唯一伝えるトンツー。父は、トンツーが苦手だったのかもしれません。肉体も精神も厳しく過酷だった日々の記憶が父を蝕み、夜中にトンツーをうち、そして発症したのだとすると、父も戦争犠牲者です。
その父はこの春、3月24日、故郷(岡山)の吉備高原にある施設で満92歳を迎えます。
大本営は「9機に1機の命中率」と冷徹に試算し、「大型艦に対しては致命的打撃威力を発揮できない」と特攻の戦果を査定していながら、なぜ、生還を許さない航空特攻で4,000人もの若い命を奪ったのか。なぜ人々は、これほど理不尽なことを許してしまったのか。
今年、ヒロシマは「被爆75周年」を迎えます。ベトナムは「南部解放45周年」を迎えます。あらためて、考え行動する年にしたいと思います。
(2020年1月4日、あかたつ)
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