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2020年1月23日 (木)

幟町国民学校―もう一つの被爆体験

今日は、1月18日のブログ「幟町国民学校―二人の被爆体験記(その1)で触れた「中国32057部隊(以下『世羅部隊』)について、紹介します。

「世羅部隊」の動向や被爆体験は、1980年(昭和55年)に有志によって発刊された「世羅部隊誌」に、詳しく掲載されています。終戦もまじかになった1945年(昭和20年)4月、本土決戦に備えて、日本全土の市郡単位に防衛部隊が編成され、広島県内も40余りの防衛部隊が設置されたそうです。

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その一つとして、世羅郡で4月25日に部隊が編成されました。部隊の名称は、第21特設警備隊・中国32057部隊、本当の名は「世羅防衛部隊」であったと、部隊誌には書かれています。ここでは、「中部」ではなく「中国」となっていますが、その後分かったことですが、1945年には、軍全体の組織編成が変更されたため、「中国」「と「中部」が混同する原因となっているようです。

400名で構成された部隊は、3つの中隊に編成され、その一つ森岡中隊が広島に出動したのが、7月5日から7月15日までの10日間。兵舎は、幟町国民学校です。次に7月27日から8月6日正午までの任務を帯びて出動したのが、岡竹部隊110名です。兵舎は同じ幟町国民学校です。「世羅部隊誌」に掲載されていた幟町国民学校の写真です。

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この岡竹部隊110名が、まさに任務終了直前に原爆投下による犠牲となったのです。1978年9月から80年1月までの有志による調査によって明らかとなった、世羅部隊に所属した400名のうち315名の名前は、「世羅部隊誌」に掲載されています。その名簿によれば、直接被爆した岡竹部隊では95名の消息が判明していますが、8月6日に亡くなった犠牲者は、27名、その年の12月末までに亡くなった犠牲者は、29名となっています。約6割の死亡率です。生き残りの証人の一人は「広島市幟町国民学校を兵舎代わりに10日間の警備任務を終えたのが”あの日”だった。京橋付近で徹夜警備を終え、朝食後、兵舎で仮眠中、ピカドンにやられた。倒壊した建物の下敷きになって、やっとの思いではい出た時には、兵隊は一人もいなかった」と語っています。

原爆投下時、世羅に残っていた人たちも230名が二部隊に編成され、翌7日には急きょ広島に出動し8月13日まで、救援活動に従事することになります。部隊があった世羅町西太田から徒歩で、備後三川駅まで行軍し、福塩線と芸備線を乗り継ぎ、矢賀駅で下車し、西練兵場(現在の基町付近)へと移動したようです。もちろんのことですが、この救援部隊の全員が入市被爆しています。

と、部隊の人数を書いていますが、「世羅部隊誌」の中では、部隊数約350名などと、様々な数字が出ていますので、どれが正確に人数なのかが判然としない面があります。35年後の調査の難しさを知ることになりますが、一方で「そもそもそんなことを記録したものがなぜないのか」という疑問が、湧いてきます。「世羅部隊誌」にもこういう記載があります。「岡竹中隊の戦友名簿もなければ、誰が生き残ったのか、誰が被爆死したのか記録がない」

「世羅部隊誌」を読みながら、被爆35年の時点ですら全容が明らかにならなかったあの日の空白を埋めることは大変なことだと改めて感じます。でもやり続けなければなりません。

いのちとうとし

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