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2020年1月 3日 (金)

「ヒロシマ 空白の被爆75年」

元日に届いた中国新聞の1面トップ記事は、「ヒロシマ空白の被爆75年 消された命の証あった」でした。現在の平和公園に住んでいた住民3世帯計6人の消息が報道されています。さらに3面のトップで、その詳細が記載されています。紙面を追うと、18,19面の見開きには被爆前の本通りの町並みが、被爆前の写真を編集して再現されています。

中国新聞のこの企画「ヒロシマ 空白の被爆75年」は、昨秋から始まりましたが、少しずつ「ヒロシマの空白」が埋められています。数人の記者によって取材されていると聞いていますが、血道な努力に頭が下がります。今年も続くようですので、新たな取材に期待したいと思います。

Img018

このブログにも書いたことですが、私自身、「1945年末までの原爆で死亡した人は、14万人±1万人」という数字にずっと疑問を持っていました。少し古い話ですが、私が国会議員になって初めて発言したのが、この死亡した人数の問題でした。衆議院の憲法調査会での5分間の発言です。1997年ころから中国新聞は、「遺影は語る」という企画記事で旧中島地区の住人、建物疎開に動員されるなどして、この地区で命を奪われた人たちの遺影と爆死状況などを調べ、詳しく報道していました。私は、憲法調査会での発言中、この中国新聞の紙面をかざして、「一地方の新聞社が、しかも数人の記者の努力によって、こんな風に亡くなった人たちを明らかにしています。もし、国が本気になって調査を行えば、±1万人などといういい加減な数字は、出てこないはずです。再び戦争をしないというのであれば、あの戦争での犠牲を国の責任で明らかにしなければならないのです。」と発言したことを今もはっきりと覚えています。

Img017

あの時から、すでに20年近くが経とうとしていますが、やる気さえあれば今でも空白を埋めることは可能だということを中国新聞の紙面は教えてくれています。

私には、中国新聞ほど情報収集能力はありませんが、私なりの「ヒロシマ空白の被爆75年」を埋める努力を、この一年の課題として取り組んでいきたいと思っています。

原爆で亡くなった人数をはっきりできないのは、朝鮮半島出身者の情報や軍人の情報がないからだとよく聞きますが、私の空白を埋める作業は、まさにこの二つの課題を柱にすることにしています。

私がこだわりたいことは、人数の問題だけではありません。朝鮮半島出身者の犠牲が、正しく伝えられているのかという問題をどうしても調査しなければならないと思っています。その内容は追ってこのブログで紹介します。

軍人についての調査は、最近小学校の被爆問題を調べていて気になったことがあったからです。昨日国立追悼祈念館の「時を超えた兄弟の対話」に関わって、新潟の被爆者の体験記のことに触れました。その体験記の冒頭に「私たち特別警備隊約300名は、爆心地より1.1キロの幟町国民学校に駐屯していて被爆した。死者は、276名、不明分を入れると、生存者はわずか数名と思われる。学校関係者の生死については、その実数は不明である。」と書かれているのを見つけました。神崎小学校も千田小学校の被災状況報告の中にも「当時学校に軍隊が駐屯していた」ことが記載されています。「なぜ、小学校が軍隊の駐屯場所に?」「その実態は?」と、疑問が湧いてきました。

これらのことを、私の「ヒロシマの空白」を埋める作業としてトライしてみたいと思います。年の初めに考えたことです。

いのちとうとし

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