ヒロシマとベトナム(その8-1)
「志願」した特攻兵
前回、約束した「父の戦争体験(予科練)とその後の人生、そして意外にもヒロシマとの関わり」について書きます。
父は1928年(昭和3年)3月24日、岡山県上房郡川面村高尾田(現高梁市川面町)に平亀の次男として生まれました。軍国教育一色のもとで中学を卒業した父は、小型特攻ボート「震洋」や人間魚雷「回天」など水上・水中特攻の研究とロケット推進特攻兵器「桜花」など航空特攻の研究が相次ぎ始まった翌年、1944年、16歳で予科練甲飛第14期生として松山海軍航空隊に入隊。
当時のことを聞いた折りに「川面駅での壮行式で爺さん(平亀)が『万歳』、『万歳』しよった」という父の語り草に、決して「自ら進んで予科練に行ったのではない」という思いが込められていたように思ったものです。どのような経過で予科練を志願し、どんな思いで故郷を後にしたのか尋ねていませんが、それが可能な時間は多くはありません。
「視力が良くモールスの上手な(賢い)者は偵察員、自分は操縦員」に振り分けられ、練習機まで特攻機に出す(注1)状況で、飛行訓練もないにもかかわらず操縦員になった父は、「誰もがそうすることになっていた」ように、「『特攻に志願する者、一歩前へ』の号令で特攻兵になった。」そうです。おそらくこの時も、「(100%生還できない特攻を)自ら志願したのではない」という気持ちだったのかと思います。
(注1)終戦時の日本軍が保有していた特攻機5,350機のうち4,450機が練習機を改造した特攻機。(1996年、米戦略爆撃調査団の調査)
その後、一段と戦局の逼迫が進み「水島航空隊(現在の倉敷市にあった倉敷海軍航空隊)に移り」、終戦時には「鳥取県の山中(注2)で松根油(しょうこんゆ)を採っていた」そうです。
(注2)鳥取県八頭郡若桜町も訪ねなければならないと思っています
これは当時の写真ですが、裏に右の書き込みがありました。「若桜町派遣隊 戦友 前列 向井、山岡、後列左 岸、平(父)、白井 各、上等飛行兵 当時」に続き、「昭和貳拾年八月六日」と撮影年月日が記されています。
広島に原爆が投下された日です。
飛行機も燃料もない敗戦間際、鳥取県の山中に派遣され、松根油採取の合間に戦友と撮ったものと思われます。おそらく、この時、広島に原爆が投下されたことは知る由もなかったと思います。
「父のヒロシマとの関わり」とは、ただこれだけですが、私の幼い頃の体験と電電公社に入社し広島転勤に伴うヒロシマとの出逢いを重ね、「父のヒロシマとの関わり」でもあると思っています。
(2020年1月4日、あかたつ)
【注】明日につづきます。
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