「まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて」―その2
「まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて」のフィールドワークのつづきです。
下図を見てください。
広島城の外堀に接続した中の棚橋から平田屋川は、南に下っていますが、平田屋橋(現在の本通り)までは、川幅が少し狭くなっています。幅は約6mだったと説明されました。はっきりとした理由はよくわかりませんが、この付近は町屋の中心部として町づくりが進められていたからのようです。当時川があった部分は、完全に埋め立てられ商店が軒を連ねていますので、その面影を全く想像することはできません。
平田屋橋の南側からは、川幅が14間=27.58mに広がり、南に延びていきます。この川幅は、現在の街では、東岸は、並木通りの歩道の東端、西岸は、袋町公演の東端です。
フィールドワークは、その川幅を確認するため、袋町公園に移動しました。公園の東端は、少し高くなっています。ここが、「西側の川土手の痕跡」ではないかとの解説です。ただ、図面ではそこまで広がっていないようにも見えますが。
上の写真ではちょっと見にくいのですが、公園の東端と隣接する建物の敷地との間に段差があるのが確認できます。河土手の痕跡らしいものが確認できるのは、ここだけのようです。さらに南に平和通りまで移動しました。平和通りの南端辺りに中橋が、架かっていたそうです。中橋は、平田屋橋と鷹野橋(後で訪れる)の間にあったことからその名がつけられています。
この橋の東詰めの辻には、地蔵がまつられていましたが、その地蔵は平和大通りの緑地帯に移され、今も鎮座しています。この地蔵が、「じぞう通り」の名前のルーツになっています。
フィールドワークでは、このあたりで「東寺町」や「雑魚場町」の由来などの説明がありました。東寺町には、幕末に11の寺がありましたが、現在でも金龍禅寺など6つの寺が残っています。この付近では、現在の禅林寺の敷地の東端が、おおよそ平田屋川の西岸と推定されるようです。雑魚場町は、被爆体験記にもよく出てくる地名ですが、「平田屋川」はちょっと意外ですが、「市民の描いた原爆の図」で検索しても出てこない名称です。広島市民の記憶からも忘れられた川のように思えます。
この付近まで来たときに疑問がわいたのは、開削当時(毛利の時代)の平田屋川の南端はどこだったのだろうかということです。残念ながら、フィールドワークの時、この大事なことを聞きそびれてしまいました。当たり前のことですが、古地図はかなりアバウトですので町の中心部分は確定できても、このあたりを確定するのは難しいと思われます。
さらに南に下ります。次は、駅前通りと地蔵通りが交差する地点での解説です。この付近に「鷹野橋」が架かっていました。「鷹野橋」といえば、現在では大手町5丁目にある「タカノ橋商店街」が思い起こされるので、ちょっと不思議な気がします。しかし、説明を聞いて納得です。「西堂川(現在の電車通り)にも『鷹野橋』が掛けられていましたので、商店街の名称は、そちらに由来します。」さらに「広島はデルタ地帯ですので、南の方に土地が広がり、現在の国泰寺町一帯に藩主の鷹狩場があったことから、両方の橋に「タカノ橋」と付けられてようです。」
広島城下は三角州ですので、その後も南側に土地が広がっていきますので、「平田屋川」もさらに延長されます。その後の様子は、次回に報告します。
いのちとうとし
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