広島電鉄火力発電所と平野橋
「まぼろしの運河平田屋川」のフィールドワークのことを今月2度にわたって、このブログで紹介しましたが、ここでも気になっていたことがあります。
一つは、広島電鉄の火力発電所のことです。当時の景色を知りたくて写真を探しました。広島市が被爆50周年に発刊した「未来への記録 ヒロシマの被爆建造物は語る」で、「広島電鉄千田町変電所」として紹介された中に、当時の写真が掲載されています。下の写真です。
写真の手前に、燃料の石炭を船で搬入するために利用された竹屋川もがはっきりと映っています。1912年(大正元年)に開業したようです。大きな煙突が目を引きます。しかし老朽化し、1934年(昭和9年)に廃止となり、千田町変電所となりました。
ですから被爆直後の写真には、当然のことですが、煙突は見当たりません。竹屋川も埋められたのか、すでに道路となっているようです。
原爆の被害を乗り越え、現在も建築当時と同じレンガ造りの姿を見せています。ただ変わったのは、右側の建物が白くなっていることだけです。
もう一つは、千田小学校にあった「平野橋」が写った写真です。この写真は、1990年(平成2年)に発刊された「広島市立学校沿革史」の中で見つけることができました。
「1924年(大正13年)創立当時」の文字が書かれています。現在の千田小学校は、西側が正門ですが、当時は竹屋川に面した東側が正門だったようです。橋の親柱(写真では一番手前)は、形も文字(見にくいが)も現在、千田小学校に保存されているもの(12月20日のブログに載せた写真)とは違っています。その後何度か架け替えがあったのでしょうか。
しかし、こうして調べることでフィールドワークの中身を少し深めることができました。
ところで、この写真を探すためにいろいろな出版物を見たのですが、「千田小学校50年史」という本に貴重な情報がありました。1974年(昭和49年)7月現在の千田小学校にある「被爆した樹木、石、その他で本校に残存するもの」の一覧表が載せられているのです。先のブログにも書きましたように、ここに被爆樹木があること(広島市の被爆樹木リストでは4本)は知っていましたが、こんなにたくさん(一覧表には30個が掲示)の被爆物があるとは思いませんでした。一覧表の中には、他の場所から移されたものが多くありますので、こうしたものが貴重なものだと関心を持つ人がおられたのだと想像できます。
フィールドワークは、「まぼろしの運河平田屋川」を訪ねるものでしたので、当然のことですがこの時には、原爆被害の問題に触れることはありませんでした。しかし、今回の調査で千田小学校には被爆樹木以外にも被爆に関するものがあることが分かりましたので、この一覧表をもとに、どれだけ現存しているか調べてみたいと思います。
その結果は、またこのブログで報告します。
いのちとうとし
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