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2019年12月28日 (土)

中沢啓治さんの被爆場所 旧神崎小学校(神崎国民学校)の場所は?

11月24日に開催された「漫画家中沢啓治さんの足跡を訪ねる」フィールドワーク(その様子はこのブログで紹介しましたが)に参加した時から、ずっと気になっていたことがあります。

それは、旧神崎小学校(神崎国民学校)があった場所です。フィールドワークの時には、国道二号線と江波線電車通り交差点の南東角にある広島銀行支店が建っている位置ではないかと思われると説明を受けました。フィールドワーク終了後も、あの場所で間違いないだろうかと気になっていましたので、手元にある古い地図の復刻版などを取り出して、調べてきましたが、なかなか特定できませんでした。

一昨日、何か資料はないかと広島原爆資料館東館の地下1階にある情報資料室を訪ねました。そこで、縮尺もはっきりした被爆前、被爆後の舟入地区の地図の情報を得ることができました。下の地図がそれです。上段が戦前、下段が戦後の地図です。

Img008_20191227174601 Img012_20191227174601

拡大(図をクリックすると拡大する)して見ないとわかりにくいと思いますが、この地図で旧神崎小学校(神崎国民学校)が現在のどの位置にあったのかを確認することができます。ものさしで距離を測りながら、調べてみました。結論は、国道2号線にはかかっておらず、フィールドワークで説明を受けたように国道2号線の北端から北(広銀支店方向)方向に、立っていたと確認できます。

現在の街の様子から特定するのが、なかなか難しいのは、上の地図を見ていただければわかりますが、広島市は戦後の街づくりの過程で、大幅な道路などの区画整理が行われ、戦前とは大きく異なってしまっているということです。

ところで旧神崎小学校の位置を調べているうちに、旧神崎小学校の校舎配置図も見つけることができました。下の図面です。

Img007_20191227174601

この図面、下側が北方向ですので、中沢啓治さんが登校時に利用していた裏門(上記図では右側)が、西側電車通りに面していたことが分かります。

中沢さんが、神崎国民学校の裏門で被爆した時の様子が、中沢さん自身の文章で次のように書かれています。

「人間の生き死にの運はまったく紙一重の差で決まるものだ。私はこの日、いつものように校門を潜っていたら、この世から消えていただろう。この日私は、校門を潜る寸前に同級生の生徒の母親に呼びとめられ『さっき空襲警報があったから、今日の授業は本校でするの、それともお寺でするの』と聞かれた。当時低学年は、爆弾攻撃を受け避難できなくなったら危険なので、本校と寺を交互に使って勉強をしていた。私は、校門の厚さ30センチ位のコンクリートの塀に寄りそい、『先生に聞いてみんと判らん』とその母親に答え、フッと空を見上げた。(略)私の1メートル前に立って、私と同じようにB29を見上げていた同級生の母親は、全身真黒に焦げ・・・」(中沢啓治著「『ヒロシマ』の空白 中沢家始末記より」1987年刊)

気になっていたことが、年末になってようやく一つ解決できました。

いのちとうとし

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