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2019年12月21日 (土)

『数学書として憲法を読む』が好評です

《好評です》

今年の7月に法政大学出版局から上梓して頂いた『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』 (以下、『数学書』と略します) ですが、大変嬉しいことに、新聞や雑誌での書評や紹介記事で好意的に取り上げて下さっています。アマゾンのコメント欄にも『数学書』の内容の的確な要約が載っています。取り上げて頂くだけでも有り難いのですが、毎日、朝日、中国、沖縄タイムス等の書評に連動して、アマゾンが公表している「売れ筋ランキング」の順位が上がることに気付いて、取り上げて下さった方々への感謝の気持ちが倍増しています。まずは、アマゾンのレビューの中で、『数学書』の内容が簡単に分るものをお読み下さい。

Utah画像をクリックしていただくと大きくして読むことができます。

そんな中、特に驚いたのは、『東京新聞』が11月4日の朝刊の一面で取り上げて下さったことです。それも、[「問」憲法から「定理」を導け]、という導入から入って、[「解」9条は改正不可]、という事実を[「数学者」が「証明」]という、リズム感のある同時に意想外の見出しによって、しかも『数学書』のポイントをカラーでまとめるという離れ業まで使って、「数学書として憲法を読む」という意味を、分かり易い見事な記事に仕立て上げてくれていました。そのおかげで、11月4日中に、アマゾンの「売れ筋ランキング」では、憲法のジャンルで一位になっていました。論より証拠といいますから、この記事のコピーを御覧下さい。

Photo_20191220171201

小著を読んで下さった方々から好意的な感想が寄せられているのは、「数学書として憲法を読む」ことが、特別に法律の勉強をした人や法律に深い関心のある人ではない、素人といっても良い人たちが憲法を読む際の読み方に近いからなのではないかと思います。同時に、このような読み方をしても、自動的に、憲法をあたかも「数学書として読む」ことになる訳でもありません。

 《憲法は死刑を禁止している》

例えば、憲法13条の最初の文章「すべて国民は、個人として尊重される」の中で、「個人」とは生きている人なのか、亡くなった人、つまり故人も含めるのかといった点にこだわる人はそれほど多くないのではないでしょうか。「普通に」、「そうか個人として尊重されるんだな」と受け止めて、それ以上の詮索はせずに次に進むことの方が多いのではないかと思います。

しかし、「数学書として読む」ことに慣れている人の場合には、しばしば、「個人」とはどのような人を指すのかを考え、そう考える一環として、「個人」とは生きている人なのかどうかを問う、といったことをする傾向があります。

そして一度この問を発してしまえば、結論は言うまでもありません。「個人」とは生きている人です。その人を尊重するのであれば、「死刑」という形でその人の生命を奪うのは、「尊重」の対極にある行為であることは、強調するまでもなく当然なのです。つまり、「生きている人なのか」という疑問を呈することが、当り前の結論を導き出すきっかけになっているのです。

そして、恐らく「反論」として出てくるであろう、13条の第二文中の「公共の福祉に反しない限り」という限定は、最初の文「すべて国民は、個人として尊重される」には掛からないことを確認すれは、憲法は死刑を禁止しているという結論しかあり得ないことになるではありませんか。

対して、「定説」あるいは「通説」では死刑は合憲だということになっています。その根拠は昭和23年の最高裁判所の判決です。『数学書』では、この判決に問題のあること、特に「数学書として憲法を読む」立場からは、この判決には合理性のないことを説明しました。

法律の世界では、このように条文の解釈について意見の分れることが多々あります。話し合いで解決できる場合もあるでしょうが、多くの場合、第三者、しかも司法権を持つ裁判所が判断をし、異なった主張をしている当事者たちはそれを受け入れる、という手続きが取られます。それに不満がある場合は、控訴という手続きも定められています。最終的には最高裁判所の決定によって一連の手続きは終る、というのが日本の司法の姿です。

となると、死刑が合憲か違憲かという判断も、最高裁がどこかの段階で決定的なことを言えば、それが最終判断になり、それに対しての異論を唱えても全く取り上げて貰えないということになるというのが通常の理解だと思います。でも、それで良いのでしょうか。憲法はそれを許しているのでしょうか。許しているとすると、憲法は、最高裁判所の判断には一切の間違いがないという前提を採用しているのでしょうか。以下、何回かに分けて、この点を考えてみましょう。

実は、この点を詰めて行くと、司法制度についての基本的な矛盾に行き着くことになります。そして、その矛盾を解消するために何ができるのかを考えて行くと、日本の社会や歴史についての多くの謎に直面しますし、その謎の解明のためには、必ずしも嬉しくはない大きな「仮説」を前提にする可能性さえ浮び上ってきます。

[2019/12/21 イライザ]

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