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2019年12月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その7)

前回と前々回、ベトナムのフランスからの独立戦争に加わり戦死した福山市出身の石井卓雄陸軍少佐について触れました。在ホーチミン総領事館の河上総領事(福山市出身)から、「陸上自衛隊第14旅団(善通寺市)の資料館に石井少佐の石碑が展示してある」とお聞きし、先日、行ってきました。

午前7時、西条を出発し本四連絡橋を渡り善通寺へ。9時半、冬時雨の駐屯地正門に到着。

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真っ直ぐに伸びたたカイズカイブキ並木の奥に、目指す1898年に建てられたという古びた建物、資料館があります。2階の奥まった一室の隅に石井卓雄陸軍少佐の遺影とサイゴン(現ホーチミン)から移されたという「石碑」が展示してありました。

「石井卓雄氏の履歴」には、明治8年(1919年)12月3日、福山市北吉津町で出生とありました。幾つかの軍歴の後、「昭和20年(1945年)、第55師団参謀部付きとして終戦処理に当たり、9月越南独立軍に身を投じてベトナム独立に挺身し、昭和25年5月20日戦死」と記されていました。※内の西暦は筆者が付しました。

「ベトナム民主共和国」建国当初から抗仏戦争に加わった石井卓雄少佐

終戦時25歳の「当時、最年少の佐官であった」石井少佐が、なぜ、越南独立軍に参加したのかは「説明文」には書かれていません。朝日新聞社初代ハノイ支局長を務めた井川一久さんは『ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のあり方に関する研究』(2005年10月、東京財団研究報告書)に、「いささか乱暴に分類すれば、ベトミンに参加した日本人は、ほぼ次のような類型に分けられよう」として、「成り行き・義理人情型」、「状況追随・諦念型」、「過程的理念構築型」、「自覚的参加型」をあげ、「日本敗戦直後(しばしばしそれ以前からも)からベトナム独立に奉仕したいとの意志ないし情熱を持ち、自発的にベトミンに加わった人々。・・・・井川・石井少佐はその典型である。」と書かれています。

Photo_20191204104601

石井少佐の真意は知る由もありませんが、ホーチミンが主導したベトナム民主共和国建国当初から越南独立軍(ベトミン)に加わり、南部メコンデルタ地域でベトミンの訓練や戦術指導の後、中部クアンガイ省に設立されたクアンガイ軍政学校の教官を務め、南部メンコデルタでフランス軍と交戦中に戦死したと伝えられています。

私が専務理事を務める一般社団法人広島ベトナム平和友好協会が10年余り交流を続けているベトナム中部のまち、クアンチ省もクアンガイ省から近く、転戦する石井少佐の足跡があるとの情報もあり、引き続き調べてみたいと思います。

「石碑」に込められた感恩(カムオン)の心

石井少佐の戦死は、 ベトナム独立同盟軍(ベトミン)がフランス軍を破り、フランスによるインドシナの植民地支配を終わらせるきっかけとなった1954年5月のディエンビエンフーの戦いから遡ること4年のことですが、この戦いの勝利への道を含め石井卓雄少佐たちが残した功績がいかに大きかったか「石碑」から窺えます。

「石井卓雄先生之霊魂稚鋻」碑の由来の説明には、「この碑は、大東亜戦争の終戦前後を通し、故石井卓雄氏の指導を受けた、グエン・バン・タン氏他有志が故石井卓雄氏の遺徳を偲び、その偉業を顕彰されんと作成持参されたものである。なお碑文は安岡正篤先生の原文を翻訳したものである。」と記されていました。

Photo_20191204104701

 説明文を紹介します。


「石井卓雄先生の霊魂を稚鋻(ご高覧の意)意味とする。

「死は富士山よりも重く有り」の言あり。

この言、実に石井卓雄先生往生(死して世を去るの意)の意味とする。

先生は扶桑(日本の意)民族の戦闘精神を有するとともに、英雄烈士の熱血を有す。

故に、太平洋戦後において、先生は、なお、ベトナムに駐留するを堅く決し、ベトナム志士と肩を並べ、

ベトナムの独立を勝ち取ることに努力する。

この種み重なる犠牲の精神といささかも自利の心なきことは、これ、先生の人類、同胞に対する仁の心に基づくものにして、ベトナム人民の外来の侵略を抗拒(こばむ意)するを幇す。

数載(数年の意)の奮闘を経て、ついに瘁つきて死す。

先生は己の世を離れ甚だ久しいといえども留めのこされた豊功偉業は、多数のベトナム同志をして、永く去思(徳望を忍ぶ意)を懐かしむ。

先生は、世を逝りて19年なり。その形は滅したと、いえども、(「深刻」は前後の意味から訳さぬ方が良いと思いますので、省略しました。)

その季節は、なお磅礴(満み広がるの意)として、ベトナム人士の潜んだ意識の内に留在し、先生に対する感謝の情と崇高な尊敬を永く懐く。

ベトナム首都1969年5月20日

ベトナム諸同士が特に碑を立て、敬を示すとともに仰敬の文字を刻み、碑をかりて先生の崇高な功徳を記念す。

阮文靑 莊文一及び同人(同志の意)尊立


 石井少佐の人柄を偲ばせる逸話が井川一久氏のまとめた「研究報告書」に納められています。「彼(石井少佐)らは、ベトナム潜入直後、メコンデルタで離隊した召集兵を帰隊させるための説得活動も行ったという。敗戦後に他国の独立戦争に加わるのは死を覚悟した職業軍人の任務であって、家族に責任を負う一般召集兵は早々に帰国すべきであるとの、いかにも陸士出身者らしい確信が窺える」と。その後、石井少佐はクアンガイ省に向かい軍政学校の教官に就いたのです。

父とヒロシマとの意外な関わり

 資料館を訪れ、「石碑」の由来と石井少佐に寄せられたベトナム人民の思慕を知ることができました。しかし、サイゴン(現ホーチミン)のどこに立てられていたのか。終戦時に所属していた第55師団の基幹部隊である第11師団が編成された善通寺の14旅団の資料館に「石碑」が移されたのは頷けるにしても、何時、どのような経緯で善通寺に移されたのかなど、説明に当たってくれた旅団の三等陸曹の女性広報官に尋ねましたが「分からない」とのことでした。それらの疑問点については調べて貰い、後日の連絡を約し善通寺を後にしました。

帰路は、父が16歳で入った予科練・松山海軍航空隊のあった松山経由「しまなみ海道」を選びました。現在、91歳の父は岡山の施設で過ごしています。父の戦争体験(予科練)とその後の人生、そして意外にもヒロシマとの関わりについて、次回書いてみたいと思います。

(21019年12月4日 あかたつ)

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