「広島ブログ」

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2019年12月

2019年12月31日 (火)

12月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

12月の半ばを過ぎてから雨が多い。でも雪は降らない。暖冬の予感。

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12月22日(日)。ブルーベリー畑の紅葉もそろそろ終わり葉がどんどん落ちる時期。写真の小屋の向こうの杉と桧の森の中に灌漑用の池がある。

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その池の堰堤の草刈りが終了。真竹は根元から切り枝を払って一か所にまとめた。あとは朽ちるに任せる。12月28日(土)。

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枯れ野のススキや

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セイタカアワダチソウ。(12月22日(日))

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12月28日(土)。

①里山の早生のブルーベリーから剪定を始める。

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② 同じ場所で施肥。油粕を手づかみで株の周囲にまく。1月上旬までには終わらせたい。Photo_20191228224001 ③その作業中にヤブランの実に出会う。残りの実もいずれは小鳥のお腹に入るのだろう。

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④枝先の花芽も冬至を過ぎて目立つようになった。(早生の北部ハイブッシュ系ジャージー)

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⑤隣の農家から白菜を頂く。大きい。

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⑥農園の庭の池の周囲の紅白のナンテンの実。

2019年12月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2019年12月30日 (月)

良い出会いがありました。

このブログの私が担当する日は、今日が最後です。

ブログのおかげで、いろいろな体験をすることができました。ブログのネタにとの思いもあり、いろいろなフィールドワークに何回も参加しましたが、その都度新しい出会いや、発見がありました。もちろん私自身のフィールドワークを含めてですが。

森滝市郎先生が右目を失明される原因となった被爆時、お父さんがその同じ場所で先生の前に立っていたが、ちょうどかがんだために顔にガラスを受けることから免れたが、その後ろにいた森滝先生(その時は森滝先生の名前は知らなかった)が顔面に受けることになったという被爆二世の松尾さんに出会ったのは、一番の驚きでした。

白島の被爆樹木を訪ねた時、途中、原民喜のお墓参りに行ったその墓前で、甥の原文生さんにお会いしたのは、あまりにも偶然過ぎて、最初はことばも出ませんでした。

基町の広島市青少年センター前にある護国神社の被爆鳥居の脚部を訪ねてから、たどりたどり巡った結果、RCC前の被爆鳥居に行きつき、その脚部に刻まれた「献納 多山恒次郎」の文字を見つけた後の展開も、不思議な発見の連続でした。広電の被爆時のことまでたどり着いたのですから。ところで、ブログには書くことができなかったのですが、RCC前に立つ護国神社の被爆鳥居に架かっている大きな額、移転当初は被爆時のものが架けられていたそうですが、現在は新しいものに架け替えられています。

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私が9月に訪ねた時には、修理中ということで額ははずされていたのですが、10月の中旬に弁護士会館からの帰り道、よく見ると修理を終えて額が架かっていました。

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しかし、どうも「新しすぎる」と思ったので、社務所まで行って尋ねると「被爆時の額は、部品が落下するなど危険な状態になりましたので、新しいものに架け替えたのです」との返答。「被爆した時の額は、どこにあるのですか」と問いかけました。「えー、あのー、ちょっとすぐにはわかりません」「調べておきます」との答えでした。その後護国神社に問い合わせていませんので、結果はまだ聞いていませんが、ひょっとすると今でも、今架けられている額が、被爆時のものと思っている人が多いのではないかと思います。

そういえば、こんなこともありました。4月NTTデータ同友会の比治山探訪でのことです。案内人から「この木が最後に被爆樹木リストの登録された木です。」と説明を受け、確認のため広島市役所に電話で問い合わせると「最も新しい登録は、二又土手のヤナギです。」との答えです。これも意外なことでした。

当たり前と思っていたことでも、調べてみると、変化があり、思いがけない事実を知ることになります。

それもこれも、繰り返すようですが、すべてこのブログのおかげです。ずいぶんと新しいことを知ることができました。来年へと引き継がなければと思っています。

今年3月中旬に新しくスタートを切って、ようやく9ヶ月余りが過ぎましたが、多くの皆さんの協力で、何とか途切れることなく年を越えようとしています。まだ明日今年最後の遊川さんからの「ブルベリー農園だより」がありますが、今日は感想文のようなことを書いて私の今年最後のブログを終わりにします。

いのちとうとし

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2019年12月29日 (日)

広島電鉄火力発電所と平野橋

 「まぼろしの運河平田屋川」のフィールドワークのことを今月2度にわたって、このブログで紹介しましたが、ここでも気になっていたことがあります。

一つは、広島電鉄の火力発電所のことです。当時の景色を知りたくて写真を探しました。広島市が被爆50周年に発刊した「未来への記録 ヒロシマの被爆建造物は語る」で、「広島電鉄千田町変電所」として紹介された中に、当時の写真が掲載されています。下の写真です。

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写真の手前に、燃料の石炭を船で搬入するために利用された竹屋川もがはっきりと映っています。1912年(大正元年)に開業したようです。大きな煙突が目を引きます。しかし老朽化し、1934年(昭和9年)に廃止となり、千田町変電所となりました。

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ですから被爆直後の写真には、当然のことですが、煙突は見当たりません。竹屋川も埋められたのか、すでに道路となっているようです。

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原爆の被害を乗り越え、現在も建築当時と同じレンガ造りの姿を見せています。ただ変わったのは、右側の建物が白くなっていることだけです。

もう一つは、千田小学校にあった「平野橋」が写った写真です。この写真は、1990年(平成2年)に発刊された「広島市立学校沿革史」の中で見つけることができました。

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「1924年(大正13年)創立当時」の文字が書かれています。現在の千田小学校は、西側が正門ですが、当時は竹屋川に面した東側が正門だったようです。橋の親柱(写真では一番手前)は、形も文字(見にくいが)も現在、千田小学校に保存されているもの(12月20日のブログに載せた写真)とは違っています。その後何度か架け替えがあったのでしょうか。

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しかし、こうして調べることでフィールドワークの中身を少し深めることができました。

ところで、この写真を探すためにいろいろな出版物を見たのですが、「千田小学校50年史」という本に貴重な情報がありました。1974年(昭和49年)7月現在の千田小学校にある「被爆した樹木、石、その他で本校に残存するもの」の一覧表が載せられているのです。先のブログにも書きましたように、ここに被爆樹木があること(広島市の被爆樹木リストでは4本)は知っていましたが、こんなにたくさん(一覧表には30個が掲示)の被爆物があるとは思いませんでした。一覧表の中には、他の場所から移されたものが多くありますので、こうしたものが貴重なものだと関心を持つ人がおられたのだと想像できます。

フィールドワークは、「まぼろしの運河平田屋川」を訪ねるものでしたので、当然のことですがこの時には、原爆被害の問題に触れることはありませんでした。しかし、今回の調査で千田小学校には被爆樹木以外にも被爆に関するものがあることが分かりましたので、この一覧表をもとに、どれだけ現存しているか調べてみたいと思います。

その結果は、またこのブログで報告します。

いのちとうとし

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2019年12月28日 (土)

中沢啓治さんの被爆場所 旧神崎小学校(神崎国民学校)の場所は?

11月24日に開催された「漫画家中沢啓治さんの足跡を訪ねる」フィールドワーク(その様子はこのブログで紹介しましたが)に参加した時から、ずっと気になっていたことがあります。

それは、旧神崎小学校(神崎国民学校)があった場所です。フィールドワークの時には、国道二号線と江波線電車通り交差点の南東角にある広島銀行支店が建っている位置ではないかと思われると説明を受けました。フィールドワーク終了後も、あの場所で間違いないだろうかと気になっていましたので、手元にある古い地図の復刻版などを取り出して、調べてきましたが、なかなか特定できませんでした。

一昨日、何か資料はないかと広島原爆資料館東館の地下1階にある情報資料室を訪ねました。そこで、縮尺もはっきりした被爆前、被爆後の舟入地区の地図の情報を得ることができました。下の地図がそれです。上段が戦前、下段が戦後の地図です。

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拡大(図をクリックすると拡大する)して見ないとわかりにくいと思いますが、この地図で旧神崎小学校(神崎国民学校)が現在のどの位置にあったのかを確認することができます。ものさしで距離を測りながら、調べてみました。結論は、国道2号線にはかかっておらず、フィールドワークで説明を受けたように国道2号線の北端から北(広銀支店方向)方向に、立っていたと確認できます。

現在の街の様子から特定するのが、なかなか難しいのは、上の地図を見ていただければわかりますが、広島市は戦後の街づくりの過程で、大幅な道路などの区画整理が行われ、戦前とは大きく異なってしまっているということです。

ところで旧神崎小学校の位置を調べているうちに、旧神崎小学校の校舎配置図も見つけることができました。下の図面です。

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この図面、下側が北方向ですので、中沢啓治さんが登校時に利用していた裏門(上記図では右側)が、西側電車通りに面していたことが分かります。

中沢さんが、神崎国民学校の裏門で被爆した時の様子が、中沢さん自身の文章で次のように書かれています。

「人間の生き死にの運はまったく紙一重の差で決まるものだ。私はこの日、いつものように校門を潜っていたら、この世から消えていただろう。この日私は、校門を潜る寸前に同級生の生徒の母親に呼びとめられ『さっき空襲警報があったから、今日の授業は本校でするの、それともお寺でするの』と聞かれた。当時低学年は、爆弾攻撃を受け避難できなくなったら危険なので、本校と寺を交互に使って勉強をしていた。私は、校門の厚さ30センチ位のコンクリートの塀に寄りそい、『先生に聞いてみんと判らん』とその母親に答え、フッと空を見上げた。(略)私の1メートル前に立って、私と同じようにB29を見上げていた同級生の母親は、全身真黒に焦げ・・・」(中沢啓治著「『ヒロシマ』の空白 中沢家始末記より」1987年刊)

気になっていたことが、年末になってようやく一つ解決できました。

いのちとうとし

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2019年12月27日 (金)

高校生が描いたヒロシマ「原爆絵画展」

広島国際会議場で8月7日から21日の会期で開催された「高校生が描いたヒロシマ『原爆絵画展』」が、同じ会場で12月21日から始まっています。

このブログでも8月の展覧会の模様を紹介しましたが、印象が強く残っていますので、改めて会場を訪れました。国際会議場の1階入り口には大きな看板が掲げられています。

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会場は8月と同じ地下2階の小会議室ランが使われていますが、スペースは2倍に広がり、ゆったりと鑑賞できる環境になっています。

基町高校美術部で「原爆の絵」の製作が始まったのは、平成19年(2007年)からですが、これまでに137枚の絵が描かれたそうです。今回の「絵画展」には、そのうちの41枚が展示されています。8月の時には、37枚の展示でしたので、4枚増えています。その中、今年制作された作品は、11枚です。

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ここに展示されていない他の作品も、会場真ん中に据えられたテレビで映像として流されています。ただ全部見ようとすれば、ちょっと時間が必要です。

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会場に掲示された説明文によれば「完成した『原爆の絵』は平和記念資料館に寄贈され、証言者が修学旅行生などに被爆体験を話すときに、当時の状況を理解してもらうために使用」されています。

高校生が描くための被爆体験を語る証言者の名前を見ると、私も知っている何人かの被爆者の名前がありますので、より関心が強くなります。8月20日のブログでかなり詳しく「原爆絵画展」の様子を記述していますので、今回は触れません。

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ただ、今度訪れてうれしかったことは、8月のブログでは「制作中」と紹介した小倉圭子さん作の「原爆の絵本・紙芝居」が、約1年かけて完成したと掲示されていたことです。

完成した絵本・紙芝居は3作品あるようですが、そのうちの紙芝居「ケイコの8月6日」が、今月11日に修学旅行で来広した東京の中学生に初めて披露されたそうです。

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この絵画展は、1月12日まで広島国際会議場で開催されます。「原爆被害の実相を後世に伝える」高校生の取り組みとして、今年多くのマスコミでも取り上げられた基町高校美術部の「原爆絵画」を直接目にすることで、一人でも多くの人に高校生たちの思いを共有してほしいと思います。同じ原爆の惨禍を描いた絵の「市民が描いた原爆の絵」とはまた違う感想が得られるはずです。

いのちとうとし

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2019年12月26日 (木)

2019年企画展「流燈」(広島市女原爆追悼記)―国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(以下「国立追悼祈念館」という)の2020年の企画展の試写会に行ったことを先日のブログに書きましたが、今年度の企画展「流燈」をもう一度きちんと見ておこうと思い立ち再び国立追悼祈念館に足を運びました。

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今年の企画展は、広島に投下された原爆で最も多くの犠牲を出した広島市立第一高等女学校(「広島市女」)の原爆追悼記「流燈」をもとに構成されています。「流燈」は、1957年に初版が刊行され、続編や復刻版が刊行されています。

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試写会で使われた情報展示コーナーの「3面シアター」に向かいました。映像が流れています。広島市女原爆追悼記「流燈」に書かれた4人のお母さんの手記をもとに構成されています。

「城子(むらこ)は川の石に腰かけていた。朝からこの時刻までどんな気持ちでわれわれが来るのを待っていたのか、・・・・・」坂本潔・文子さんの「城子の最後」より。築山城子さん2年生。

「澄子ちゃん、はじめてのお手紙ありがとう。・・・澄子ちゃんも先生・寮母さんの言いつけを守ってよい子に一日も早くなってください。ではお元気で」入田正子さんが学童疎開中の妹に宛てた手紙より。入田正子さん1年生12歳。

「九日似島にいることが分かりました。以下は幸恵のことばです。一時間作業し、八時休憩になり、誓願寺の大手の側で腰を掛け、友達三人と休んでいると、ああ落下傘が三つ、綺麗綺麗と皆騒がれるので・・・・・・。一女の生徒さんが六百人も犠牲になられた中で一番最後迄生きておりました。」森本トキ子さんの「追憶記」より。森本幸恵さん1年生13歳。

もう一人は、野口芳子さんの母、野口時子さんの「師の愛を思う」も紹介されています。野口芳子さん1年生12歳。

市民が描いた原爆の絵も使いながら、「流燈」が読み継がれる映像構成でした。

私は、ビデオ上映(繰り返し上映されている)の途中からの鑑賞になりましたが、椅子に7~8人の外国人が座っておられました。最後までだれ一人席を立つことなく、熱心に見ておられたのが強く印象に残りました。もちろん音声は日本語ですが、画面にはきちんと英語の字幕が表示されていました。私は、再度最初から見直しました。

文字で読むことも大切ですが、映像の力も大きいものがあるなと実感しました。次回企画展の木内みどりさんの声も、きっと心に響くものになると思います。

ビデオを鑑賞した後展示コーナーを一覧し会場を後にし、平和大通り南側土屋病院の裏にある天満神社を訪れました。ビデオで、坂本文子さんが奉納された石碑が紹介されていたからです。天満神社には何度か訪れていましたが、この石碑には気が付きませんでした。Dsc_4844

神社のすぐ横に小さな石碑がありました。目を凝らしても読みにくかったのですが「平和のことよろしく」と刻まれています。なぜここにあるのかは記されていませんが、広島市女の生徒たちは、建物疎開作業に動員されていて作業をしていた材木町(現在の広島平和記念資料館本館付近)で被爆していますので、当時はその近くにあったといわれる天満神社の境内に建てられたのではないかと思われます。

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その後、平和大橋西詰南にある広島市女原爆慰霊碑にお参りして帰宅の途に就きました。

改めて「行ってよかった」と思います。この企画展は、29日まで開催されています。残り期間はあと4日とわずかですが、ぜひ時間を作って、行ってみてほしいと思います。

いのちとうとし

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2019年12月25日 (水)

中国電力、上関原発ボーリング調査の中断を発表

中国電力は12月16日、上関原発の海底ボーリング調査の一時中断を発表しました。まずは、準備工事を始めようとした11月8日から1か月以上、心休まることなくボーリング調査は認めていないという意思を示し、現地で監視行動を続けてきた皆さんに、「本当にご苦労さんでした」という言葉を送ります。皆さんの粘り強い行動の成果だと敬意を表します。

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私たちも広島市内の本通り入口や中電本店前で、毎週ボーリング調査を行う必要のないことの街宣宣伝を続けていました。ボーリング調査は1月30日まで行うことになっていたので、先週18日と今週は28日に予定していました。そして新年に入っても予定を入れておりましたが、嬉しい気持ちで計画変更をすることになりました。

12月3日には、国会内で集会も持たれ全国的にも大きく関心が広がり、ラムサール・ネットワーク日本からも抗議が行われ、どこかの英字新聞にもこの問題のニュースがあったのを見かけました。

全国の皆さんからも様ざまな形で、ボーリング調査をしないことの声を中電本店に寄せられ、心から感謝しています。

中断を発表した12月16日の中電のホームページをご覧いただければ、言い訳がましく「一時中断」と言い、上関原発の必要性を語っていますが、このままの状態で再開予定を発表することは不可能だと思っています。

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まさに地元の人たちの、上関原発に反対するパワーを見せつけたと思っています。

祝島では来年の夏は4年に一度の神舞が行われますし、予想では来年の夏以降に「エネルギー基本計画」の見直し議論が開始されるでしょうし、中電もそれ以降まで「知らんぷり」をし、「責任転嫁」をする状態を続けるでしょうね。

しかし、これは大犯罪だと思います。国が「どうだとか、こうだとか」と言いわけをするでしょうが、事業者としての中電が「自分で決めない、決めようとしない」姿勢は許されないと思います。そして上関につぎ込んだ莫大なお金、これに対する責任も重大です。

そしていつの日か現・取締役らは退任の時期を迎え、これまた莫大な退職金を手にして、居酒屋かどこかで当時の同僚らと「ありゃあ最初から無理な計画だったよねー」と酒を酌み交わしている姿を想像すると、ますますムカツキます。

上関原発問題が公けになって来年で38年になりますが、22歳で大学を卒業して中電に入社したとしても、60歳定年退職の時期を向かえるのです。上関にずっと関わった仕事をしていたという人は少数だと思いますが、「私の人生は何だったのか」とも考えても欲しいですね。

木原省治

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2019年12月24日 (火)

「時を超えた兄弟の対話」展ビデオ試写会

昨晩午後6時から、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で来年1月1日から1年間開催される企画展「時を超えた兄弟の対話―ヒロシマを描き続けた四國五郎と死の床で直登の日記」の三面シアターで上映されるビデオ映像の試写会が行われました。

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このビデオは、「1945年8月6日、爆心地から約1キロの幟町小学校にあった臨時兵舎で被爆した四國五郎の弟直登が「被爆当日から亡くなるまで」病床で綴った日記に五郎の執筆文を重ね合わせ、あたかも二人が時空を超えて対話しているかのように紹介」したものです(当日配布の資料から)。ビデオの上映時間は、ちょうど30分です。私の能力でその内容を解説することはできませんが、原爆の非人道性を訴える力を強く感ずることができますので、来年1月1日から始まる「企画展」で、自分自身で見て、感じてください。

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私がこの試写会に誘われたのは、五郎、直登の声優を務めている木内みどりさんを少し知っていたからです。木内さんの急逝については、11月23日付のブログ「女優木内みどりさんの急逝と陶芸家梅田純一」で紹介していますので、今日は触れませんが、木内さんのとってこの作品は、まさに遺作となりました。ですので、誘いを受けると、一も二もなく出かけることにしました。

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上映終了後あいさつに立った四國五郎さんの長男光さんは、次のように語られました。

「見終えて、うれしかったことと悲しかったことが交錯しています。」「うれしかったことは、父は、『私の描く絵は、部屋の中に飾るものではなく、平和のために使ってもらう絵』といっていました。父の願いが生かされる形で使われた。父は天国で喜んでいます。」「悲しいことは、木内さんの急逝です。木内さんは、深い敬愛の念を持ってくれていました。おこりじぞうの語りを100回やるといっていました。残念ながら、12回が最後になりました。家族にとっては頭の下がる思いです。」

最後に「戦争を2度と繰り返すな。これが父の作品に込められている想いです。」と訴えられ、あいさつが終わりました。

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四國五郎を「死んだ人々に代わって絵を描こう。戦争反対・核兵器廃絶を、芸術になろうがなるまいが・・・」と決意させ、「これからの人生で方向を見失いかけた時は、これを読み返せ、五郎よ!直登の日記を読め!」と自身の戒めとした「時を超えた二人の対話」を一人でも多くの人に実感してほしいと思いました。

来年1月1日にスタートし、12月29日まで開催されるこの「企画展」にぜひ足を運んでみてください。

いのちとうとし

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2019年12月23日 (月)

「お餅つき」に行ってきました。

年末のこの時期、私の高校時代の同級生石田さんが東広島で運営している障害者の作業所「桑の木福祉園」で「餅つき」が行われます。今年も、22日に実施されましので、私も前日の夜から泊まり込んで参加しました。

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この作業所は、東広島市黒瀬と熊野に近い山間に夏には蛍を見ることのできる田園風景が広がる場所にあり、珍しく農業を中心とした作業所です。上の写真の真ん中に白っぽく映っているのが作業所です。

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餅つきの最初にすることは、もち米を蒸したり様々なことに使うことになる火起こしです。3つのかまどが据えられます。

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昨日から水に漬けたもち米が、準備されています。もちろん準備されたもち米は、この作業所で収穫されたものです。

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もち米も蒸しあがり、いよいよ餅つきの始まりです。最初は、こねてもち米を固めていきます。Dsc_4827

いよいよ餅つきの始まりです。私鉄芸陽バスからの応援団が、力からを発揮してくれました。

臼は二つあります。今年は雨の心配もあり、農機具が収めれている倉庫を使いました。Dsc_4814

つき上がったもちは、待ち受ける女性陣によって、小さく切り取り丸めていきます。最初の二臼は、餡入りのもちです。この餡入りのもちは、作業の途中で全員にふるまわれます。Dsc_4829  三臼目からは、それぞれが持ち帰る平もちです。

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全ての餅がつき上がると、裏山で捕れた猪肉入りのお雑煮がふるまわれます。

朝8時半ごろから始まった今日の餅つきも、合計19臼の餅がつき上がり、今年も無事に終了しました。心配された雨は、餅つきの間は降ることもなく、全ての片づけが終わったころポツリぽつりと落ち始めました。Dsc_4831

最後に私は、石田宅の裏にあるゆずを採取し、お餅や野菜などをお土産に帰宅の途に就きました。帰宅するとすぐに正月のお雑煮用に冷凍保存しました。

いのちとうとし

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2019年12月22日 (日)

子どもたちの幸せな未来のために、母と女性教職員が心をつなぐ

私たちが大切にしてきたとりくみに、「母と女性教職員の会」があります。

 朝鮮戦争を契機に再び軍備強化が押し進められていた1954年、「教え子を再び戦場に送らない」という思いから、女性教職員が「全国のお母さん、手をつないで立ち上がりましょう」とのアピールを発し、全国各地で「母と女性教職員の会」が始まりました。

1956年に「みんなの子どもをみんなの力で幸せに育てましょう」を合言葉に始まった「広島県母と女性教職員の会」も、その思いを連綿と受け継ぎ今に至ります。毎年300人前後の参加者が集い、記念講演と「平和教育」「解放教育」「ジェンダー平等」等の分科会を行う集会は、教職員、保護者、地域住民が子どもを中心に据えてさまざまな課題をともに考え・思いを伝え合う貴重な場となっています。

 今年は、国連で「子どもの権利条約」が採択されて30年。「子どもの権利条約」は、子どもを「権利をもつ主体」と位置づけ、「子どもに関係のあることを行うときには、子どもに最もよいことは何かを第一に考える」ことを原則に、「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」を規定しています。

日本も「子どもの権利条約」を批准していますが、その人権状況は国際基準から大きく遅れをとっています。2019年1月の国連子どもの権利委員会の対日審査においても、貧困、差別、虐待、性的搾取、体罰、いじめ、インクルーシブ教育や性教育が十分行われていない状況、福島原発事故後の子どもたちの実態、朝鮮学校の高校授業料無償化除外、過度に競争的な制度を含むストレスの多い学校環境の課題等が取り上げられ、是正勧告が出されました。

 子どもをめぐるさまざまな事象を考えるとき、この「子どもの権利条約」に立ち返ると、私たちのなすべきことが自ずと明確になります。子どもはおとなの所有物ではなく尊厳をもつ個人であることに立脚し、どの子も安心して自分らしく生き学んでいける社会を、そして、私たち女性自身も自らの意思で生き方を選択することが尊重される社会を、仲間とともにめざしていきます。

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【「広島県母と女性教職員の会」近年の記念講演】

2012年 第59回 「障害者の権利と特別支援教育」一木 玲子さん

2013年 第60回 「子どもの貧困と教育」鳫 咲子さん

2014年 第61回 「ジェンダーを考える~現代の子どもや若者にとって性別はどのような意味を持つのか?~」北仲 千里さん

2015年 第62回 「次の世代への伝言(被爆証言)」朴 南珠さん

2016年 第63回 「歯みがきするように社会のことを考えよう」おしどりマコ・ケンさん

2017年 第64回 「知らなかった、ぼくらの戦争」アーサー・ビナードさん

2018年 第65回 「檻の中のライオン」楾 大樹さん

2019年 第66回 「生まれつき悪い子なんていない〜奈良少年刑務所 絵本と詩の教室〜」寮 美千子さん

 

facebookページ https://www.facebook.com/hiroshimahahajo/

よりのぶ

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2019年12月21日 (土)

『数学書として憲法を読む』が好評です

《好評です》

今年の7月に法政大学出版局から上梓して頂いた『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』 (以下、『数学書』と略します) ですが、大変嬉しいことに、新聞や雑誌での書評や紹介記事で好意的に取り上げて下さっています。アマゾンのコメント欄にも『数学書』の内容の的確な要約が載っています。取り上げて頂くだけでも有り難いのですが、毎日、朝日、中国、沖縄タイムス等の書評に連動して、アマゾンが公表している「売れ筋ランキング」の順位が上がることに気付いて、取り上げて下さった方々への感謝の気持ちが倍増しています。まずは、アマゾンのレビューの中で、『数学書』の内容が簡単に分るものをお読み下さい。

Utah画像をクリックしていただくと大きくして読むことができます。

そんな中、特に驚いたのは、『東京新聞』が11月4日の朝刊の一面で取り上げて下さったことです。それも、[「問」憲法から「定理」を導け]、という導入から入って、[「解」9条は改正不可]、という事実を[「数学者」が「証明」]という、リズム感のある同時に意想外の見出しによって、しかも『数学書』のポイントをカラーでまとめるという離れ業まで使って、「数学書として憲法を読む」という意味を、分かり易い見事な記事に仕立て上げてくれていました。そのおかげで、11月4日中に、アマゾンの「売れ筋ランキング」では、憲法のジャンルで一位になっていました。論より証拠といいますから、この記事のコピーを御覧下さい。

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小著を読んで下さった方々から好意的な感想が寄せられているのは、「数学書として憲法を読む」ことが、特別に法律の勉強をした人や法律に深い関心のある人ではない、素人といっても良い人たちが憲法を読む際の読み方に近いからなのではないかと思います。同時に、このような読み方をしても、自動的に、憲法をあたかも「数学書として読む」ことになる訳でもありません。

 《憲法は死刑を禁止している》

例えば、憲法13条の最初の文章「すべて国民は、個人として尊重される」の中で、「個人」とは生きている人なのか、亡くなった人、つまり故人も含めるのかといった点にこだわる人はそれほど多くないのではないでしょうか。「普通に」、「そうか個人として尊重されるんだな」と受け止めて、それ以上の詮索はせずに次に進むことの方が多いのではないかと思います。

しかし、「数学書として読む」ことに慣れている人の場合には、しばしば、「個人」とはどのような人を指すのかを考え、そう考える一環として、「個人」とは生きている人なのかどうかを問う、といったことをする傾向があります。

そして一度この問を発してしまえば、結論は言うまでもありません。「個人」とは生きている人です。その人を尊重するのであれば、「死刑」という形でその人の生命を奪うのは、「尊重」の対極にある行為であることは、強調するまでもなく当然なのです。つまり、「生きている人なのか」という疑問を呈することが、当り前の結論を導き出すきっかけになっているのです。

そして、恐らく「反論」として出てくるであろう、13条の第二文中の「公共の福祉に反しない限り」という限定は、最初の文「すべて国民は、個人として尊重される」には掛からないことを確認すれは、憲法は死刑を禁止しているという結論しかあり得ないことになるではありませんか。

対して、「定説」あるいは「通説」では死刑は合憲だということになっています。その根拠は昭和23年の最高裁判所の判決です。『数学書』では、この判決に問題のあること、特に「数学書として憲法を読む」立場からは、この判決には合理性のないことを説明しました。

法律の世界では、このように条文の解釈について意見の分れることが多々あります。話し合いで解決できる場合もあるでしょうが、多くの場合、第三者、しかも司法権を持つ裁判所が判断をし、異なった主張をしている当事者たちはそれを受け入れる、という手続きが取られます。それに不満がある場合は、控訴という手続きも定められています。最終的には最高裁判所の決定によって一連の手続きは終る、というのが日本の司法の姿です。

となると、死刑が合憲か違憲かという判断も、最高裁がどこかの段階で決定的なことを言えば、それが最終判断になり、それに対しての異論を唱えても全く取り上げて貰えないということになるというのが通常の理解だと思います。でも、それで良いのでしょうか。憲法はそれを許しているのでしょうか。許しているとすると、憲法は、最高裁判所の判断には一切の間違いがないという前提を採用しているのでしょうか。以下、何回かに分けて、この点を考えてみましょう。

実は、この点を詰めて行くと、司法制度についての基本的な矛盾に行き着くことになります。そして、その矛盾を解消するために何ができるのかを考えて行くと、日本の社会や歴史についての多くの謎に直面しますし、その謎の解明のためには、必ずしも嬉しくはない大きな「仮説」を前提にする可能性さえ浮び上ってきます。

[2019/12/21 イライザ]

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2019年12月20日 (金)

まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて―その3

「まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて」のフィールドワークも今回が最終回です。

八丁堀から発した「平田屋川」は、鷹野橋まで、真っすぐに南進してきました。ここから、急の方向を転じて南東方向に流れを変えます。そして、運河というより、南に広がった三角州の間を流れる川の様相を呈してきます。このあたりから、川の名前も現在も地名として残る「竹屋川」に変わります。

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江戸時代の竹屋川の流路は、現在の東千田公園、千田小学校の裏手を通る街路だったようです。河幅も広くなっています。その街路から住宅街を超えて一本東に走る街路が土手道だったようです。ちょうどこの付近で、縮景園から発した流川が竹屋川に合流しています。そこには樋門が設けられ、その樋門を守護するための稲荷神社が設けられていたようです。

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この稲荷神社は、今もほぼ同じ場所に建立されています。

ここまでが江戸時代のことですが、私たちのフィールドワークはさらに続きました。

明治の初年になって「平野開」が拓かれて(干拓によって広がったと思われる)竹屋川は、さらに現在の御幸橋西詰め下流まで伸び、京橋川と合流することになります。

「平野開」が拓かれたことで、竹屋川に橋がかけられたのが、平野橋です。もちろん現在は、この橋はありません。フィールドワークでは、この橋の痕跡として、千田小学校東門の内側に「平野橋」の門柱が残されています。それが下の写真です。

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大正13年(1924年)に「平野橋」の西側に千田小学校が開校し、当時はこちら側が正門だったようで、その名残として現在の校内に門柱が移築され残されているそうです。千田小学校には、被爆樹木も多く、何度も訪れていますが、この「門柱」のことを聞いたのは初めてです。

さらに少し下ったところに被爆建物であるレンガ造りの「広電変電所」(現在は事務所として使用)がありますが、この建物も平田屋川の延長である「竹屋川」と深いかかわりがあることを知りました。

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もともとこの建物は、ちょうどそばを流れる「竹屋川」(写真の道路部分)を使って、石炭の輸送ができたことから、火力発電所として建設されたものです。昭和9年(1934年)に老朽化し、変電所になったとのことです。この歴史も初めて聞く話でした。

フィールドワークで最後に訪れたのは、御幸橋です。御幸橋は、明治18年(1885年)に完成するのですが、当初は竹屋川と京橋川の二つの河をまたぐ形になっていたとのことです。

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平田屋川(竹屋川も含む)は、昭和30年代に埋めたけられていますので、現在の橋幅となっていますが、被爆当時とは少し長さも短くなったようです。

ここで、「まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて」のフィールドワークは終了しました。

この3回のシリーズは、当日配布された資料をもとに書いてきましたが、私自身の感想を多く含んでいますので、当然のことですが誤りもあると思います。全ての文責は私にあります。

いのちとうとし

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2019年12月19日 (木)

広島市に対し「『拡声器使用規制条例』制定反対」の申し入れ

昨日、広島県原水禁、広島県平和運動センター、憲法を守る広島県民会議の三団体は、連名で「『広島市原爆死没者慰霊並びに平和祈念式』における『拡声機使用規制条例』制定には反対です」の申し入れを広島市に行いました。

午後1時から広島市役所で行われた申し入れの会議には、広島県原水禁からは金子代表委員、平和運動センターからは佐古議長、護憲県民会議からは檀上代表委員が、そして市議会からは太田憲二市議、若林新三市議、山内正晃市議、事務局から大瀬さんの7名が出席し、広島市の政氏市民局長に対し、下記の申し入れ書を提出しました。

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これに対し、広島市からは「厳かな環境の中で式典を開催したいとの思いであり、申し入れの趣旨は十分理解している。現状は、該当する団体に対し、『静かにしていただきたい』との要請を行っているところだ。」との説明があり、私たちからは「いずれにしても申し入れ書にもあるように、『言論、表現の自由』を踏みにじる『条例制定』には、反対である」ことを改めて強調し、条例の制定は行わないように強く求めました。その後、広島市と団体との間の話し合いの進展状況などについても意見交換を行いましたが、広島市からは「相手団体から情報公開請求が出されており、現在順次公開中で、年内にはすべての公開が終わるので、それからさらに話し合うことになる」との現状が報告されました。私たちは、「いずれにしても、問題の解決のためには徹底した話し合いが必要だ」ということを強調しながら、今後の推移を見守ることを表明し、今回の申し入れを終了しました。


「広島市原爆死没者慰霊並びに平和祈念式」(以下、「平和祈念式典」)における「拡声器使用規制条例」制定には反対です

 広島市は、8月6日に実施される「平和記念式典」開催中における拡声器使用を規制するためとして、条例制定を含む、拡声機使用の規制を強化しようとしています。式典中の拡声機による声が「多くの方の心情を害し、式典の趣旨を損なう」ことがその理由とされています。

 私たちは、日本国憲法に保障された「言論、表現の自由」を踏みにじる「条例制定」による規制強化には絶対に反対です。

 戦前の日本は、「集会、結社、言論、表現の自由」が著しく阻害され、その結果として政府の誤った政策により「戦争への道」を歩み、原爆投下による多大な犠牲を強いられる結果となりました。このことを私たちは決して忘れてはなりません。過去の過ちを繰り返さないためには、「集会、結社、言論、表現の自由」が保障される社会であり続けることが必要です。

 とりわけ、広島市民の多くが強く願う「核兵器禁止条約」への署名・批准を頑なに拒む安倍総理の政治姿勢や「平和記念式典」での式辞には大きな批判があります。仮に、こうした安倍総理の式辞への批判・行動を規制するという目的が「条例制定」の陰にあるとするなら問題はさらに深刻です。

 この度広島市が検討されている「拡声機使用規制条例」は、「平和記念式典」中に限定したものだとしても、それは必ず次への規制へと拡大していくことは、これまでの歴史が証明しています。市民の「言論や表現の自由」を規制することからは、決して「平和」を作ることはできません。問題解決の道は、粘り強く徹底した話し合いによる相互理解を深めること以外にはありません。

 先日来広したローマ教皇も、対話の重要性を強調されました。それは、核抑止論に対する戒めであると同時に、あらゆる問題解決の基本的な筋道でもあるでしょう。

 広島市が「拡声機使用規制条例」を制定されることなく問題を解決されるよう強く求めます。

 拙速に判断するのではなく、当該団体のみならず、幅広く市民の意見を聞く場を持たれることを強く要請します。


いのちとうとし

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2019年12月18日 (水)

「まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて」―その2

「まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて」のフィールドワークのつづきです。

下図を見てください。

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広島城の外堀に接続した中の棚橋から平田屋川は、南に下っていますが、平田屋橋(現在の本通り)までは、川幅が少し狭くなっています。幅は約6mだったと説明されました。はっきりとした理由はよくわかりませんが、この付近は町屋の中心部として町づくりが進められていたからのようです。当時川があった部分は、完全に埋め立てられ商店が軒を連ねていますので、その面影を全く想像することはできません。

平田屋橋の南側からは、川幅が14間=27.58mに広がり、南に延びていきます。この川幅は、現在の街では、東岸は、並木通りの歩道の東端、西岸は、袋町公演の東端です。

フィールドワークは、その川幅を確認するため、袋町公園に移動しました。公園の東端は、少し高くなっています。ここが、「西側の川土手の痕跡」ではないかとの解説です。ただ、図面ではそこまで広がっていないようにも見えますが。

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上の写真ではちょっと見にくいのですが、公園の東端と隣接する建物の敷地との間に段差があるのが確認できます。河土手の痕跡らしいものが確認できるのは、ここだけのようです。さらに南に平和通りまで移動しました。平和通りの南端辺りに中橋が、架かっていたそうです。中橋は、平田屋橋と鷹野橋(後で訪れる)の間にあったことからその名がつけられています。

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この橋の東詰めの辻には、地蔵がまつられていましたが、その地蔵は平和大通りの緑地帯に移され、今も鎮座しています。この地蔵が、「じぞう通り」の名前のルーツになっています。

フィールドワークでは、このあたりで「東寺町」や「雑魚場町」の由来などの説明がありました。東寺町には、幕末に11の寺がありましたが、現在でも金龍禅寺など6つの寺が残っています。この付近では、現在の禅林寺の敷地の東端が、おおよそ平田屋川の西岸と推定されるようです。雑魚場町は、被爆体験記にもよく出てくる地名ですが、「平田屋川」はちょっと意外ですが、「市民の描いた原爆の図」で検索しても出てこない名称です。広島市民の記憶からも忘れられた川のように思えます。

この付近まで来たときに疑問がわいたのは、開削当時(毛利の時代)の平田屋川の南端はどこだったのだろうかということです。残念ながら、フィールドワークの時、この大事なことを聞きそびれてしまいました。当たり前のことですが、古地図はかなりアバウトですので町の中心部分は確定できても、このあたりを確定するのは難しいと思われます。

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さらに南に下ります。次は、駅前通りと地蔵通りが交差する地点での解説です。この付近に「鷹野橋」が架かっていました。「鷹野橋」といえば、現在では大手町5丁目にある「タカノ橋商店街」が思い起こされるので、ちょっと不思議な気がします。しかし、説明を聞いて納得です。「西堂川(現在の電車通り)にも『鷹野橋』が掛けられていましたので、商店街の名称は、そちらに由来します。」さらに「広島はデルタ地帯ですので、南の方に土地が広がり、現在の国泰寺町一帯に藩主の鷹狩場があったことから、両方の橋に「タカノ橋」と付けられてようです。」

広島城下は三角州ですので、その後も南側に土地が広がっていきますので、「平田屋川」もさらに延長されます。その後の様子は、次回に報告します。

いのちとうとし

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2019年12月17日 (火)

「英語『を』しゃべる」ではなく、「英語『で』しゃべる」

最近の英語教育の報道を見て、思い出したことがあります。

もう、20年以上も前の話ですが、アメリカの大学でアジアの歴史の授業を受講した友人が、腹を立て私のところにやって来ました。

授業の中で、「原爆投下は正しかったか」との問いに、20人ほどの学生の中で、「まちがいだった」と手をあげたのは自分を含めて2人だったと言うのです。

クラスのほとんどのアメリカ人学生は「戦争を終わらせるため仕方がなかった」との答え。これはよく聞く話ですが、最近は地道な核兵器廃絶運動により、「原爆投下は間違いだった」と言うアメリカ人も、特に若い層に増えていると聞きます。

彼女と私が、より深刻な問題だと思ったのが、「正しかった」、「間違いだった」、どちらにも手をあげなかった学生です。

他の地域の歴史よりも、アジアの歴史の方が少しは馴染みがあると言う理由で、20人程の学生のうち、半分は日本人学生でした。

 

 「英語『を』しゃべる」ではなく、「英語『で』しゃべる」

国際社会で活躍する人材育成を教育に求めるのであれば、平和について自分の意見をしっかりと持つための平和教育、人種、民族、宗教、性別で、その人を判断しないための人権教育こそが追求すべき教育ではないだしょうか。

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「まちがいだった」と答えた私の友人は、横浜で生まれたが、両親は広島出身で、彼女は幼い頃から両親と帰郷した際には平和資料館を訪れたりしていました。そして、もう一人、「間違いだった」と答えたアメリカ人学生は、彼女の後のパートナーとなる人で、前年に彼女と広島を訪れていました。

彼女は今でもアメリカで生活をしていますが、日本に帰ってきたときは、子どもを連れて、家族で広島を訪れています。

広島を訪れ、被爆の実相にふれること、そして戦争の悲惨さ、平和の大切さを考え、語り継いでいくことの大切さを、彼女は教えてくれています。

「究極の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、それに対する善人の沈黙である。」マーティン・ルーサー・キング・ジュニア

藤原

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2019年12月16日 (月)

まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて

並木通りが、かつて川だったことをどれぐらいの人がご存知でしょうか。私は、以前に「西国街道を訪ねるフィールドワーク」に参加した時、「平田屋川」という川があったことを知りました。その時には、西国街道(現在の本通り)に「平田屋橋」がかかっていたこと、現在の中の棚通りには「中の棚橋」があったと説明を受けていましたが、「平田屋川の流れ」については説明がなく、何となく「並木通りを流れていたのだな」というぐらいの知識しか持っていませんでした。

今回、「広報ひろしま 市民と市政」で、広島市郷土資料館が「2019年度ひろしま郷土史講座 まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて」のフィールドワークの参加者を募集していることを知り、応募することにしました。幸いにして「参加OK」の返信はがきが返ってきましたので、夫婦で参加することになりました。

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集合場所のアリスガーデンには、募集人員と同じ20人の参加者が時間通りに集合。参加者のほとんどは、私たちと同じ、中高齢者がほとんどです。

広島郷土資料館の担当者からフィールドワークに必要な資料が配布され、特に道路を歩くので他の歩行者や車などへの注意などの説明を受けて、さっそく最初の地点、中の棚橋の跡へ移動開始です。今回の解説者は、本田さんです。

年末の土曜日ということもあり、本通は多くの人でにぎわっていました。中の棚橋の跡は、電車通りから一本南の中の棚通りの東側入り口、ちょうど福屋百貨店側から入ってすぐのところです。足元を見ると「中の棚橋跡」の表示があります。

まず、「平田屋川とは」の解説です。本田さんは、最初に「これから説明することは、ほとんど配布した資料に記載していますので、後でぜひ目を通してください」とのことでしたので、筆記を取らず安心して耳を傾けました。少し長くなりますが、配布された資料から引用して、「平田屋川」を紹介したいと思います。

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「平田屋川とは 天正19年(1589)に始まった広島築城時、建築資材を海から運ぶために開削された運河である。同時に西堂川も設けられている(現在の鯉城通り:紙屋町交差点から南に延びる電車通り)。工事を行ったのは、吉川広家。平田屋川の名は、広島城下町商人『平田屋惣右衛門』に由来する。海から城下中心部に物資を輸送することができたほか、排水路として大きな役割を果たしていた。そのため、近代に入って大正元年「1912」に西堂川が完全に埋めれられたのに対して、平田屋川は大正4年(1915)に川幅が3分の1程度になったものの残されている。しかし昭和30年代に残りも埋め立てられ、その姿を消した。」

並木通りには、昭和30年代まで、川が流れていたのです。実は、自宅から歩いて集合場所に向かっている時、並木通りでたまたま出会った広島生れの友人に「平田屋川フィールドワークに行く」ことを話したら、「ここに川があったことを自分も記憶しているよ」といわれました。私が、本格的に広島に来たのは、昭和40年代に入ってからですから、全く「川の風景」を想像することはできませんが、広島の人の記憶の中に残っている川なんだなということが分かります。

ところで平田屋川は、私の出身地島根とも深いかかわりがあります。この平田屋川を開削した「平田屋惣右衛門」の平田屋は、出雲平田(島根県出雲市)の出身で、宍道湖と近かった平田の町に水路を建設し町づくりを進めた経験があったため、その技術を広島の町づくりに生かそうと毛利氏が招いた人物なのです。この説明が今回は無かったのが、島根県出身者としてはちょっと残念でした。

フィールドワークはスタートしたばかりですが、その後の様子は、明日以降に報告します。

いのちとうとし

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2019年12月15日 (日)

12月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

今月は色々な障害児者の地域の行事があって農作業はまだ2日間しかできていない。14日も15日も行事が続くので、仕方なし。それでもブルーベリーは紅葉、落葉と姿を変えながら冬に備える。

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12月1日(日)。ブルーベリー畑を眺める位置に小さい畑があり富有柿やジャーマンアイリスが植えてある。その一角はいつも野菜を植えて気分を紛らせる場所。耕してちょっと遅いがソラマメの種をまく。

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ブルーベリー畑の中に1本あるムラサキシキブ。12月に入ると色合いが薄くなるが表面が銀色を薄く帯びたように見える。(12月1日)

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夏中手入れできなかった畑の溝を掘って補修。冬の水たまりはブルーベリーの根がダメになってしまうので少しでも水はけをよくしないといけない。12月8日(日)

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3段ある畑の晩生のブルーベリー(ラビットアイ系)の紅葉の様子(12月8日)

 ①上から眺める

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②下から眺める

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12月8日(日) 里山の一部に植えてある早生のブルーベリー(北部ハイブッシュ系)は落葉した。剪定の季節に入ったがしばらくは時間が取れない。

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里山の黄色の紅葉12月8日(日)

 サンショウ

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12月8日(日) カエデ

それぞれ木は小さいがこの姿で初冬を十分感じさせてくれる。

2019年12月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

 

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2019年12月14日 (土)

森滝日記からたどる「原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申」

先日のブログに「原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申」のことを書いて以降、当時の状況をもう少し詳しく知りたいと思い引っ張り出した本が、中国新聞社が1985年7月10日に発刊した「ヒロシマ40年森滝日記の証言」です。

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この本は、「あとがき」にもあるように「1984年(昭和59年)1月1日付から同8月1日まで、中国新聞紙面で200回にわたって連載された記事をもとに、その中から被爆者たちの平和への訴えや原水禁運動の分裂など大きな節目に力点を置いて、一部補筆した」ものが、書籍としてまとめられ出版されたものです。随所に、森滝先生の日記に書かれた文章が記載されています。

「原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申」について「森滝日記の証言」に書かれていることを振り返ってみたいと思います。答申が出された12月11日の日記には「午後3時から労働会館で広島の被爆者団体、平和団体、個人等が幅広く集まり、答申書検討。批判の声明書、政府への要請書案作る。村上忠敬氏と夕食を共にし、久々に語る。午後6時から労働会館ホールで答申書に対する批判、抗議の県民集会。宮崎氏司会。意見と陳述を述べる。」とこの日の日記には、淡々と事実が記載されています。

ところが、報道各社から意見書の内容を知らされた前日、12月10日付の日記には次のように書かれています。「七人委の答申書(報道関係に前渡しのもの)を持ち、ホームテレビ、共同、中国等来宅。まったく裏切られた内容で絶句。これが日本の『学識経験者』か。夕方、やっと冷静に熟読。『受任云々(云々)」のところに重大なあやまり。最高裁判決の『国家補償』を狭め、狭める。いたずらに『公平の原則』や『バランス論』を振りかざす法律論。『原爆死没者、傷害者』に日当たらず。あやまりの根源は、『旧来の戦争感』。そこから一般戦災の受任の論理が出てくる。夜遅く中国、共同など再来訪。感想語る。『答申書評価の二つの基準』」。

二つの基準は「①基本理念は少なくとも国家補償の精神を打ち出した最高裁判決=孫振斗=の内容を下回らない②原爆死没者と傷害者に日が当たる。」ことです。

森滝先生は、記者の質問に対し次のように語っておられます。

「私にとって問題なのは、死没者や原爆によって一生を台無しにした原爆孤児、傷害者への償いだ。そこが切り捨てられていることに怒りを感じる。また『戦争の犠牲を国民が等しく受任しなければならない』という戦争感は大きな誤り。民衆の被害、原爆の被害に手厚く償ってこそ、今後過ちを繰り返さない宣言となるのに…」

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七人委員会のメンバーが記者会見で「あくまでも科学的立場に立って結論を出した」「必要な人へ行き届いた対策をという必要原則が根本的な考え方だ」と述べたのに対し、森滝先生は同月18日の日記に「『人間的認識に立たずして被爆の傷跡の深さはわからぬ。『地底からの叫び』聞き取り得る『人間的認識』を持たずして「科学的合理的認識」を強調してみても空しいことである」と記されています。

七人委員会は、前年の12月6日に被爆者代表5人の意見を聴いています。森滝先生もその一人で、その日の日記には「ともかく深く受け取られた様子」と書かれていますので、答申に対し裏切られた気持ちはより強かったのだと想像できます。

原水禁は、今もなお「国家補償の被爆者援護法」を求め続けていますが、その実現のためにも改めて「国家補償」の意味を理解し、先人の歩みに学ぶことが必要だと思っています。

「ヒロシマ40年森滝日記の証言」は、絶版になっていますが、図書館などで手にすることができますので、一度読んでみてください。

いのちとうとし

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2019年12月13日 (金)

日朝友好広島県民の会が「2019年度総会」を開催

日朝友好広島県民の会は、「2019年度総会」を、昨日午後6時より広島留学生会館で開催し、この一年間の活動の総括と来年の運動方針を決定しました。

開会にあたって佐古代表委員は「日朝平壌宣言から17年、しかし、共和国に核実験、ミサイル実験、そして日本の経済制裁によって冷え込んだ関係になっている。今平壌宣言に立ち返って、日朝国交正常化が急がれる。そのためにも、高校無償化、幼保無償化の解決が必要。安倍首相は、無条件の話し合いといっているが、全く誠意はない。差別の助長が、日朝関係を困難なものにしている。多文化共生社会の実現に向かって運動を強化する必要がある」とあいさつ。続いて、渡辺事務局長がこの一年間の活動と次年度の方針を次のように提案しました。

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主な活動報告は、①朝鮮学園無償化裁判の支援行動②2019金剛山歌劇団チャリティー公演の支援③初めて広島で開催した「朝鮮統一支持運動第37回全国《広島》集会」などです。

活動方針としては、①日朝国交正常化の実現をめざす取り組みの強化②引き続き、朝鮮学校への「高校無償化」適用,朝鮮学校への補助金再開を勝ち取るため,無償化裁判の支援行動を取り組む③朝鮮学園支援の「民族教育連帯基金」への協力④訪朝団の派遣などを確認しました。

さらに当面の重点的取り組みとして「在日同胞との交流を通じて差別の歴史に学び、差別意識を克服し、朝鮮半島をめぐる情勢を学び、東アジアの平和のための運動につなげていきます。

無償化裁判、反動的判決を跳ね返すため、広島朝鮮学校を支援する取り組みを通じて、日朝友好の環境を広げていきます。

その一環として、広島無償化裁判を支援する取り組みに参加をしていきます。

①街頭行動:毎月19日を基準、事務局からその都度開催場所と時間を連絡します。

②控訴審裁判傍聴行動: 次回(結審) 3月16日(火)予定 (開廷時間等別途要請)

③裁判勝利を求めるために、2月中旬に全国統一集会に合わせて広島においても開催します。」ことを確認しました。

次に行われた役員選出では、広教組選出の幹事の交代を確認し、前任の西迫さんを新たに相談役に選任し、その他の役員の留任を決定しました。その後、村上敏幹事が「広島と全国の無償化裁判の状況について」の特別報告を行い、横間代表委員の閉会あいさつで総会は終了しました。

総会終了後、恒例の記念講演が行われました。今年は、大変多忙の中、時間を割いていただいた幼保無償化を求める朝鮮幼稚園保護者連絡会代表の宋恵淑(ソン・ヘスク)さんが、「朝鮮学校の子どもたちの学びの場を奪わないでー「幼保無償化」問題と朝鮮幼稚園」と題して講演。「すべての子どもが健やかに成長するよう支援するための世無償化」でありながらなぜ差別が起きているのかを、時系列的に詳しく整理して説明されました。高校無主化問題と同様、運動の輪を広げていくこと訴えて講演は終了しました。

「高校無償化」に加え「幼保無償化」問題が新たな課題となった日朝友好広島県民の会の総会でした。

いのちとうとし

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2019年12月12日 (木)

「原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申」から29年

今日は、1980年12月11日に出された「原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申」(以下『基本懇答申』という)について改めて考えてみたいと思います。そのきっかけとなったのは、不戦の誓いヒロシマ集会が行われた12月8日の午後、鷹野橋にあるユイポートで原爆被害者相談員の会が主催し開催された「12・11基本懇意見書にこだわる被爆者問題シンポジウム」に参加したことです。

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私が参加しようと思ったのは、このシンポジウム「現在の被爆者の生活課題と今後の支援~被爆75年を前にして~」のパネラーの一人に若い時から一緒に活動を続けてきた胎内被爆者でもある友人の名前があったからです。

シンポジウムは、高齢化する被爆者の間に多くの問題が出てきているかを中心に、5人のパネラーから、それぞれの立場から報告があり有意義な内容でしたが、私がはっと思わされたのは、集会のメインに「基本懇」という言葉があったからです。

多くの被爆者の期待を裏切った「基本懇答申」が、出されて39年が過ぎました。被爆二世裁判などでこの「基本懇答申」が引用されることはありますが、その他ではほとんど耳にすることも少なくなっています。

私は、原水禁大会などで「原水禁運動の歴史」を話す機会がありますが、その時には、「国家補償の被爆者援護法」との関連で、必ずこの「基本懇答申」に触れることにしています。

野党共同の「援護法」がまとまり、75年4月には、森滝市郎先生が衆議院社労委員会(現在の厚生労働委員会の前身)で参考人として意見陳述するなど、1970年代に入り、「国家補償に基づく被爆者援護法」制定を求める運動が強化される中で、1979年5月18日に茅誠司東大名誉教授など7人の委員で構成される厚生大臣の諮問機関である「原爆被爆者対策基本問題懇談会」が発足し、その意見書が80年12月11日に提出されました。

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 署名を集めて全国行脚(中国新聞社刊「ひろしまの記録」より)

「援護法制定」を求めて運動を続けてきた被爆者は、この懇談会に大きな期待を寄せ、その答申を待っていたのですが、発表された答申は、全く被爆者の期待を裏切るものでした。当日夕方、広島の被爆者団体や反核団体は南区金屋町の労働会館(現在のワークピア)に集まり、期待をして待ち受けていたのですが、その思いは裏切られ、集会は、抗議集会となったことを今思い出します。

国家補償の柱として求められていた「死没者への償い」は、次のように切り捨てられました。

「おおよそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命・身体・財産等について、その戦争によって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国をあげての戦争による「一般の犠牲」として、すべての国民が等しく受忍しなければならないところであって、政治論として、国の戦争責任等を云々するのはともかく、法律論として、開戦、講和というような、いわゆる政治行為(統治行為)について、国の不法行為責任など法律上の責任を追及し、その法律的救済を求める途は開かれていないというほかない。」(下線は、筆者) 

「戦争被害受任論」です。その影響は大きく、1994年に成立した「被爆者援護法」も、原爆の最大の犠牲者である死没者への償いは盛り込まれませんでした。

「戦争被害受任論」を決して忘れず、打ち破ることは、国家の戦争責任を追及する道でもあります。「国家補償の被爆者援護法」にこだわり続けなければならないと改めて感じた集会でした。

いのちとうとし

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2019年12月11日 (水)

「防災省」設置案・その6 災害後の対応・その2

災害後に大きな力を発揮するのが、重機だということは、ここ数年にわたって災害現場からの報道を御覧になった皆さんの記憶に刻まれていると思います。また医療等の専門的知識によって被災者の生命や健康を守る貴重な活動も忘れてはなりません。「防災省」の仕事の説明に当って、その他の活動にも触れたいのですが、今回は特にこの二つを中心に、 (E) について説明したいと思います。

 

[災害発生後に視点を移しての防災省の仕事]

  1. (略)
  2. (略)
  3. (略)
  4. (略)
  5. 災害救助のために必要な専門的知識、そのために使用する機器・重機等は、専門組織や民間の所有する機器等に依存せざるを得ない面が大きいため、消防団組織をモデルに、専門的なノウハウや重機を「ボランティア」として提供して貰う仕組みを、(D)で言及した3レベルそれぞれに対応する形で整備する。

《解説》

①.災害救助に当って、多くの人手が必要ですが、消防の正規職員だけではとても数が足りません。「ボランティア」として普段から訓練を受け、適切な災害対応能力を持つ「消防団員」が活躍する場になるのと同じように、重機にしても正規に消防が保有しているものだけでは到底数が足りません。自衛隊や消防庁の持つ重機もありますが、それを加えてもまだまだ足りないのが大災害のケースです。その不足分は、被災地域の建設業を中心に日常業務で重機を使っている企業に協力を要請し、「災害出動」をして貰うことになります。

②.地域の建設業関連の企業では、「○○市建設協会」(以下協会と略)といったような名称の団体を作って、その○○市と協定を結んで、災害時には重機や重機のオペレーターを提供することで大きな社会貢献をする仕組みを作っているケースが多く見られました。このような仕組みが円滑に機能するためには、行政と協会の緊密な連携が必要です。そして、災害時に利益を上げるような印象は避けたいのが人情ですから、「ボランティア」という側面が強調されます。善意の活動とは言え、企業側の負担が大きいことは言うまでもありません。

③.災害時に助けて貰うことから、行政の側から考えると「恩がある」という気持が強くなり、企業側ではマイナスになった分をどこかでプラスにしたいという気持があります。これまでには、そこから出発した談合が発生したこともあったそうなのですが、その是非はともかくとして談合の背景にはこうした事情のあったことも理解しておくべきだと思います。近年では、このような事例は減少し、行政と企業との関係は透明化され、完全なボランティアに徹するか、適正な対価が払われる方向に変ってきているようです。

④.ボランティアに徹した素晴らしい実践例として、NPO法人「未来の環境を考える会」を紹介しておきたいと思います。2005年に発足したNPOですが、以下の活動内容の説明は、ここで私が言いたかったことを簡潔にまとめてくれています。http://www.npo-nkyo.jp/rescue/index.html

⑤.「地元中小建設業者は、常に大型・小型の重機を自社で所有しております。日頃は下水道、道路工事等では住民の方々にご迷惑をかけ、ご協力を願っておりますお蔭様で、企業として成り立っております。重機等を使用して危険な作業に毎日従事していますので、災害が発生すれば、直ちに経験と技術力を生かして地域のため人命救助、災害復旧に協力できる体制です。地震災害時の緊急救助体制を整え、救助用重機だけでなくジャッキ、ポンプ等の機材も保有しております。また、重機の動力源の補給がたいへん困難であったことも現地で身にしみておりますので、対応として会員が燃料タンク車を自費購入して常備することに致しました。私たちは重機及び車両の種類、台数、緊急時の連絡体制整えております。」

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NPO法人「未来の環境を考える会」が提供できる重機の一例

⑥.水道事業は自治体の仕事ですが、ここでも民間の協力は必要になりますし、ガスや電気は民間企業の守備範囲ですが、それでも、自社の正規職員以外の協力も必要になります。

⑦.もう一つ、被災地で欠くことのできないサービスは医療です。そのために、2005年から都道府県単位で整備され始めた組織としてDMAT(ディーマット) があります。緊急時に立ち上がる一時的な組織ですが、ウィキペディアでは次のように紹介されています。

⑧.「災害派遣医療チームとは、医師、看護師、業務調整員(救急救命士・薬剤師・臨床工学技士・臨床検査技師・理学療法士・作業療法士・放射線技師・社会福祉士・コメディカル・事務員等)で構成され、地域の救急医療体制では対応出来ないほどの大規模災害や事故などの現場に急行する医療チーム」

⑨.このように、行政と民間との協力が一体になって初めて機能するのが災害救助ですので、「防災省」が立ち上ったとすると、この「行政 ⇔ 民間」の間の協力関係をさらに密にする方向に進化させたいと思うのは人情なのではないでしょうか。そこで、注目したいのが、消防における消防団です。重機を提供する企業やそのオペレーターたちも消防団員と同じような位置付けで消防組織の一部として、実地訓練に参加し、災害の現場に参加し、同時に適正な報酬や手当を受け取れる仕組みを作れれば良いのではないかと思います。医療という専門集団については、DMATがかなりまとまった機能的活動ができるようになっていますので、それ以上を求める必要はないのかもしれませんが、消防団員についての次の心配を視野に入れると、違った対応があるかもしれないとも考えられます。

⑩.それは、災害現場での活動には命の危険が伴う、という事実です。消防団員の場合には特にその点が心配なのですが、避難の勧告を個別に伝えたり、避難誘導をしたりしている際に土砂流に巻き込まれるケースなどがこれまでもありました。これは、二次災害なども視野に入れれば、DMATのメンバーにも当てはまります。「危険箇所には近寄らない」が鉄則ではあっても、必要かつ適正な保険制度等の整備も含めて、消防団の制度を改善した上で、改善版をモデルに、重機や専門的知見、そして善意を提供してくれる企業・団体・個人と行政との関係を整理することも「防災省」の任務の一つだと考えています。

[2019/12/11 イライザ]

 

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2019年12月10日 (火)

「原爆ドーム世界遺産登録記念集会」開催

 今年で「原爆ドーム」が世界遺産登録されて23年となる昨日午後6時から、原爆ドーム前で「原爆ドーム世界遺産登録記念集会」が、開催されました。今年は、写真を中心に紹介します。

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この集会を主催したのは、連合広島や広島県原水禁、広島県平和運動センターなど12団体で構成する「核兵器廃絶広島平和連絡会議」で、それぞれの団体から100名が参加しました。これらの団体は、いずれも、原爆ドーム世界遺産登録に大きな貢献をなした「署名活動」の担ってきた団体です。

集会では最初に主催者を代表して連合広島久光博智会長があいさつ。久光会長は、原爆ドーム世界遺産登録への歩みを振り返りながら、トランプ政権の進める核政策を厳しく批判するとともに、来年のNPT再検討会議に向けて取り組みを強化する決意を表明しました。

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続いて、連合広島、広島県被団協、広島県原水禁、KAKKIN広島のそれぞれの代表による献花が行われました。

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次に、連絡会議を構成する他の8団体代表による献水です。

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献水が終わると、この記念集会の集会アピールが提案され、全員の拍手で採択されました。集会アピールにこの記念集会の意義が集約されていますので、情勢部分を除いて掲載します。


原爆ドーム世界遺産登録記念集会アピール

今から74年前の1945年8月6日午前8時15分、この広島に人類史上初の原子爆弾が投下された。

爆心地近くにあった広島県産業奨励館は、「原爆ドーム」と呼称を変え、その歴史とともにここに立ち続けている。

今から23年前の1996年12月7日、「原爆ドーム」のユネスコ世界遺産登録が実現した。

原子爆弾の恐ろしさ、愚かさを後世に伝えるために、この「原爆ドーム」のユネスコ世界遺産登録に向けて、多くの市民や県民が一体となって、4年の歳月をかけて署名活動などの運動を取り組んだ。その熱い情熱の結集である、164万を超える請願署名が政府を動かし、世界遺産登録委員会の決定を手繰り寄せることとなった。

私たち、ヒロシマが求めてきたものは、「原爆ドーム」の建造物としての文化的価値の評価ではなく、「原爆ドーム」に刻まれた被爆者の慟哭と被爆の実相を世界の人々へ伝え、核兵器の使用は決して許してはならないという警鐘を鳴らし続けることにある。

(中略)

これらの動きは、国連で採択された「核兵器禁止条約」をはじめとする「核兵器なき世界」を切望する国際世論に対し、完全に逆行するものである。

こうした危機的状況だからこそ、ヒロシマの果たす役割は重い。

私たちは、「原爆ドーム」世界遺産登録の意義を再認識し、国内外の世論喚起を図るとともに、被爆の実相を着実に次世代に継承していくなど、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けた運動を強化していかなければならない。

私たちは、74年前の惨劇を目の当たりにし、今もなお「核兵器廃絶と世界の恒久平和実現」を無言で訴え続ける「原爆ドーム」とともに、思いを共有する多くの人との連帯の輪をさらに広げ行動することをここに誓う。


最後に広島県被団協の箕牧智之理事長代行が「来年は75年という節目を迎え、若いといわれた被爆者も後期高齢をむかえ、一段と被爆者の高齢化が進みます。来年4月の国連でのNPT再検討会議では、ニューヨークに行き証言活動をする中で、世界の成果の胸に突き刺さるような言葉を考えていきたいとの強い気持ちです。」と決意を込めた閉会のあいさつ。

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その後参加者一人ひとりが献花をし、記念集会は終了しました。

いのちとうとし

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2019年12月 9日 (月)

「12.8不戦の誓いヒロシマ集会」を開催―決意を新たに

「開戦通告」もないまま旧日本軍がアメリカ・真珠湾を攻撃し、本格的な太平洋戦争に突入した12月8日を忘れず、再び戦争する国にさせないと誓うため、毎年この日に開催してきた「12.8不戦の誓いヒロシマ集会」が、今年も自治労会館で開催されました。

主催団体は、例年どおり「憲法を守る広島県民会議、広島県平和運動センター、原水爆禁止広島県協議会、8の日平和行動ヒロシマ女の会、戦争をさせないヒロシマ1000人委員会」の5団体で、参加者は約100名でした。

憲法守る広島県民会議赤木事務局長の司会で始まった集会、主催者あいさつは同じ憲法を守る県民会議の檀上代表委員、そして記念講演へと続きました。

今年の記念講演は、憲法学者で長崎大学名誉教授の舟越耿一(ふなこえこういち)さん。タイトルは「長崎原爆へ至る道―どうしてそうなったの?それで今どうなった?」です。

「1945年10月に鹿児島で生まれ30歳で長崎大学に赴任、その時始めって被爆者に出会った」という自己紹介から始まった舟越さんのお話。数年前脳卒中で少し発声が難しくなっているということで、あらかじめ話の原稿が参加者に配布されました。

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「憲法9条の実現を希求する強い意志を原爆被爆地が持たなくていったい日本のどの都市が持つだろうか、と自問してみる」で始まり、グラバー園の真正面に、自衛隊の艦船が浮かんでいることを紹介しながら、長崎の被爆実態にふれられる。そして「語弊があるかもしれないが、戦後この方、市民と行政が一体となって反核運動をやっている間に『長崎の兵器生産』は戦前並みといわれるまで復活した」。だから、「市民運動団体『ピースバス長崎』を結成し、貸し切りバスに乗って兵器生産の現場や遺跡、被災者追悼碑などを見て回るという活動をする」と自らの平和活動を紹介。

さらに「『真珠湾攻撃をした航空機魚雷は、三菱兵器作所で作られた』という事実が、長崎原爆の最重要の前史であると考えたい」ほとんどの参加者が初めて知る事実を紹介。そして再び、「原爆被爆都市が憲法9条を実現させる努力をしないで、一体日本のどこが9条実現の努力をしようとするのだろうか」と長崎の役割を強調しながらも私たち広島につながる課題が提起されました。そして「そのためには、国民の憲法体験、平和体験を学ぶことが必要だ」と指摘されました。

舟越さんは、この講演の中で二人の書籍を紹介されました。一冊は堀田善衛の「方丈記私記」、もう一冊は加藤陽子の「それでも、日本人は『戦争を選んだ』」です。ぜひこの機会に一読してみてください。

最後の一言。「出る杭は打たれる。出すぎる杭は打たれない」。出すぎるといわれるほどがんばれという激励だったように感じました。

講演が終わり、8の日平和行動ヒロシマ女の会の貴田さんが集会アピールを提案。今回のアピールでは、真珠湾攻撃に先立つ侵略の歴史にきちんと触れています。


 12・8不戦の誓いヒロシマ集会アピール

 「私は1927年(昭和2年)の生まれでございます。日本が国の政策として中国をはじめアジアの国々に侵略戦争を行ってゆく、私の青春は戦争とともにありました。」ある女性の回想です。

 日本近代史は、台湾・朝鮮半島の植民地化、シベリア出兵、柳条湖・ノモンハン・盧溝橋と続く侵略と戦争の歴史でした。そして、78年前の今日、アメリカ・イギリスなど連合国との太平洋戦争に突入しました。この戦争で2千万人を超えるアジアの人々が犠牲になり、戦争の当事者である日本も300万人を超える人が亡くなり、広島・長崎に原子爆弾が投下され、日本の無条件降伏をもって終了しました。

 私たちは国策として進められた侵略戦争と植民地支配という歴史的事実を直視し、「12月8日」を「8月6日」と並んで、ヒロシマ・日本が忘れてはならない日として位置付け不戦と民主主義の確立を誓ってきました。

 憲政史上最長となった安倍政権のもと、特定秘密保護法・戦争法・共謀罪などが次々と強行成立され、日本は戦争のできる国に変貌しつつあります。そして、「沖縄に新基地は要らない」と沖縄県民が示した度重なる意思を無視し、辺野古新基地建設を推し進めています。

また、在日米軍岩国基地への空母艦載機部隊の移転、イージス・アショアの配備計画、「自衛艦船」の「空母化」軍事力最優先の政治が強行されています。

 とりわけ、岩国基地拡張に伴う米軍機の離発着訓練・低空飛行訓練が繰り返され、騒音問題は近隣住民にとどまらず、中国地方全体の深刻な問題となっています。また、戦闘機の墜落・不時着・部品の落下など市民生活の安全に大きな影を落としています。

 今、自国第一主義が叫ばれ、格差の拡大が進み、自由に話せるという多様性が収縮しています。

 私たちは、こうした「他国との紛争」を助長する流れに抗して、戦争の悲惨さ、教訓に学び、「戦争をすることの愚かさ」を訴え、「平和と民主主義を守ろう」と日々奮闘している広範な人々とともに、活動を一層強化することを心に刻み、12・8不戦の日の誓いとします。


閉会のあいさつに立った平和運動センター西迫副議長は「過去と同じ過ちを繰り返さないとの誓い。『すべての人は尊い』という普遍的原理が大切。正しい判断のためには、情報が必要。だから、安倍政権は隠し続けるのです。『成功させる秘訣はあきらめないこと』今後もともにがんばりましょう。」と呼びかけ、集会は終了しました。

いのちとうとし

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2019年12月 8日 (日)

「前川秀樹像刻展」に行きました。

昨日から、並木通りの南詰にあるギャラリーたむらで始まった「前川秀樹像刻展―シャン・ノースー」に行ってきました。広島での開催は1年半ぶりです。

昨日は、初日ということで東京や神戸、福岡などから駆けつけた人を含め17~8人の愛好家が、開廊時間の午前11時を待っていました。いつものことですが、人気の高さに驚きです。

私が作品を紹介する力はありませんので、送られてきたDMに書かれた紹介文を掲載します。雰囲気を感じてほしいと思います。

「遠い国のとあるシャン・ノース(古謡)は今日も細い雲の糸を明日へ紡ぐ。成就しない恋を語り、死を謡う。そしてどこにでもある、ありふれた未完の人の生をいくつもの物語へと羽化させる。羽化しなかったモノゴトは、全てが消えてなくなってしまうから、永遠に。一本の蜘蛛の糸のように儚げでもたとえそれが虚でも私のあと先に何かはつながっていてほしい、そう誰もが願うから。」 

会場には、約30体余りが展示されていますが、ここでは作家の了解を得て、その一部を写真で紹介します。

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自らが探してきた流木から作り出された「像刻」は、きっと見る人に癒しを与えてくれると思います。ギャラリーたむらの地図を添付しますので、ぜひ一度、足を運んでみてください。

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会期は15日までです。

 いのちとうとし

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2019年12月 7日 (土)

ローマ教皇と森滝市郎先生

在朝被爆者関係の資料を探している時、たまたま森瀧市郎先生直筆原稿のコピーが目に入りました。400字詰め原稿用紙13枚です。タイトルは「ローマ法王『いのちのためのアピール』一被爆者の感動―」と書かれています。

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「先日、この広島で、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が全世界に向かって『いのちのためのアピール』を発した。まさに発せられるべきに発せられるべきから、発せられるべきが発せられたのである。」これがこの原稿の書き出しです。そして「まさに核時代の危機の日日である。」と続きます。

この文章、ちょうど10日ほど前に広島の慰霊碑前で発せられたローマ教皇フランシスコのメッセージを先取りしたかのかと思わせられるほど、今に共通する中味となっていることにびっくりしました。

核状況を紹介した後、森滝先生は、「」について再び繰り返されています。「『』はまさに人類の『いのちの危機』なのである。ローマ法王はそんなに、そんなだからこそ、広島の来たのである。」今回のローマ教皇フランシスコの広島訪問も、まさに「そんな」なのです。

「核時代の危機に法王が『広島』というを選んで核廃絶のアッピールを出したのは、まことにその『』を得ていた。一発のウラン爆弾で一つの都市を廃墟と化し、二十数万のいのち悲惨きわまりない姿で奪い去り、・・・・ここほど核兵器の脅威をと人類の運命について真人の警告を発するにふさわしいところはない」

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「このように、この、このから発せられこそが『いのちのアピール』であったのである。私はいまだかつてこれほどの懇切丁寧でゆきとどいた平和アピールを聞いたことがない。本当に生きていてよかったと思った。」

読み進めば読み進むほど、ローマ教皇フランシスコのメッセージを聞いた今に共通する文書に思えてならないのは私だけだろうか。この後に、7節にわたる法王ヨハネ・パウロ二世のアピールに対する解説が続きました。そして締めくくりの部分では「法王の広島での平和アピールは勿論不朽の平和聖典であるが、これをしっかりと受け止めて実践する義務は私たちの側にある。」と私たちの役割を示唆されています。そして「ともすれば絶望し、悲観し、無力感におちいる私たちが、気をとりなおして、幾度でも立ち上がれる妙薬は法王の広島アピールを毎日読誦愛用することにあると私には思われる。」と記し、アピールの持つ力を強調されています。

同じことが、今回のローマ教皇フランシスコのアピールにも言えることです。「よかった」で終わることなく、繰り返しその意味を問いかけることが私たちに求められています。

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この文章は、森滝先生が、カトリック正義と平和広島協議会「平和を願う会」から、同会がヨハネ・パウロ二世の広島訪問を記念して発行された文集「平和への道」への原稿依頼を受けられて、訪問2日後の2月25日に書かれたものです。この全文は、2015年に発刊した「核と人類は共存できないー核絶対否定への歩みー」に収録していますので、ぜひ一読してほしいと思います。

現在は、ローマ教皇と呼ばれていますが、森滝先生の原稿では「ローマ法王」となっていますので、今回のブログでは、「ローマ法王」をそのまま使うことにしました。

いのちとうとし

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2019年12月 6日 (金)

被爆建築物「旧陸軍被服支廠」の保存を考える

先日来、被爆建築物である「旧陸軍被服支廠」の保存について、「広島県が『所有する3棟のうち1号棟の外観を保存し、2号、3号棟を解体する』とする原案を、県議会総務委員会に示した」という報道が続き、全国ニュースとしても流れました。

私も、この1日に「旧被服支廠の保全を願う懇談会」が呼びかけた「赤煉瓦の被爆建築物を守ろう!現地での慰霊祭と説明会」に参加したばかりでしたので、驚きをもってこのニュースに接しました。

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「旧陸軍被服支廠」は、95年ごろには倉庫の利用が中止され、その後、その保存活用をめぐって様々な検討がされてきたと聞いています。当然のことですが、当初は3棟すべての保存を前提にした検討が進められてきたと思っています。そう考えていた私にとっては、突然と言ってよい今回の広島県の方針転換です。

改めて考えたいことは、「被爆建造物の保存」をどう考えるかです。広島市は、93年にこの「旧陸軍被服支廠」を被爆建物として登録するとともに、被爆50周年を契機に、市内に残る被爆建築物を調査し、「被爆50周年 未来への記録 ヒロシマの被爆建造物は語る」として集大成し、保存の大切さを訴えてきました。その本の最初の「ごあいさつ」では「被爆の体験と実態を次世代に継承し、世界に広げていくことがますます重要になっています。・・・原爆により、壊滅的な被害を受け、かろうじて利用することのできた被爆建造物は、救護活動やその後の復興活動に、大きな貢献を果たしました。」とし、その重要性を訴えています

しかし、その後、民間が所有する被爆建造物は、特に建築物は多くが解体され姿を変えることになりました。例えば、ちょうど再建中のアンデルセンの建物もそうです。アンデルセンとしても様々な検討をされたようですが、結果としては壁の一部を保存し展示されることになったようですが、被爆建物全体が保存されることにはなりませんでした。民間所有という制約の中で、保存することがいかに困難なことなのかを示した事例でもあると言えます。

そうした経過を考えると、国や自治体が所有する被爆建築物がいかに大切なものかがよくわかります。ですから被爆遺構の保存に積極的な役割を果たすべき広島県の今回の方針提案には、大きな疑問を感ずるのは私だけでしょうか。しかも、あまりにも拙速な方針決定と言わざるを得ません。聞くところによる、広島県から「旧被服支廠の保全を願う懇談会」に対して意見の照会があり、それに「懇談会」から回答をされてようですが、その後広島県からは何の説明もなされていないようです。このこと一つとっても、県民・市民の声を聴いたうえで、今回の方針が出されたとはとても思えません。

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原爆資料館本館の「8月6日の惨状 破壊された街」のコーナーに展示されている「広島陸軍被服支廠のレンガ塀」は、2号館と3号館を繋ぐものでした。原爆資料館を見学した人が、この場所を訪れ、現場で実感することは、非常に大切なことだと思います。と言うより、むしろレプリカでもよいから、現地に復元させることによって、資料館と被服支廠を繋ぐ見学コースを作ることができれば、より広島を実感することができると思います。それほどの価値がある被爆建物だと言えます。

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2日に広島県に「陸軍被服支廠の存続」を申し入れた旧被服支廠の保全を願う懇談会代表の中西巌さんは次のように訴えておられます。「物が無くなれば、心まで無くなるのです。原子爆弾の惨状が風化した先に何があるか いったん廃棄したら元には絶対戻らない」

2年前の原水禁学校で、中西さんに被服支廠の前で貴重な証言を聞いた時のことを思い出します。

広島県が、こうした声に真摯に向き合い、「保存・継承」へと方針を転換することを強く望みます。そして被爆建造物の保存を進める広島市も「県のこと」と傍観するのではなく、積極的に「保存」のために役割を果たすべきです。

いのちとうとし

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2019年12月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その7)

前回と前々回、ベトナムのフランスからの独立戦争に加わり戦死した福山市出身の石井卓雄陸軍少佐について触れました。在ホーチミン総領事館の河上総領事(福山市出身)から、「陸上自衛隊第14旅団(善通寺市)の資料館に石井少佐の石碑が展示してある」とお聞きし、先日、行ってきました。

午前7時、西条を出発し本四連絡橋を渡り善通寺へ。9時半、冬時雨の駐屯地正門に到着。

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真っ直ぐに伸びたたカイズカイブキ並木の奥に、目指す1898年に建てられたという古びた建物、資料館があります。2階の奥まった一室の隅に石井卓雄陸軍少佐の遺影とサイゴン(現ホーチミン)から移されたという「石碑」が展示してありました。

「石井卓雄氏の履歴」には、明治8年(1919年)12月3日、福山市北吉津町で出生とありました。幾つかの軍歴の後、「昭和20年(1945年)、第55師団参謀部付きとして終戦処理に当たり、9月越南独立軍に身を投じてベトナム独立に挺身し、昭和25年5月20日戦死」と記されていました。※内の西暦は筆者が付しました。

「ベトナム民主共和国」建国当初から抗仏戦争に加わった石井卓雄少佐

終戦時25歳の「当時、最年少の佐官であった」石井少佐が、なぜ、越南独立軍に参加したのかは「説明文」には書かれていません。朝日新聞社初代ハノイ支局長を務めた井川一久さんは『ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のあり方に関する研究』(2005年10月、東京財団研究報告書)に、「いささか乱暴に分類すれば、ベトミンに参加した日本人は、ほぼ次のような類型に分けられよう」として、「成り行き・義理人情型」、「状況追随・諦念型」、「過程的理念構築型」、「自覚的参加型」をあげ、「日本敗戦直後(しばしばしそれ以前からも)からベトナム独立に奉仕したいとの意志ないし情熱を持ち、自発的にベトミンに加わった人々。・・・・井川・石井少佐はその典型である。」と書かれています。

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石井少佐の真意は知る由もありませんが、ホーチミンが主導したベトナム民主共和国建国当初から越南独立軍(ベトミン)に加わり、南部メコンデルタ地域でベトミンの訓練や戦術指導の後、中部クアンガイ省に設立されたクアンガイ軍政学校の教官を務め、南部メンコデルタでフランス軍と交戦中に戦死したと伝えられています。

私が専務理事を務める一般社団法人広島ベトナム平和友好協会が10年余り交流を続けているベトナム中部のまち、クアンチ省もクアンガイ省から近く、転戦する石井少佐の足跡があるとの情報もあり、引き続き調べてみたいと思います。

「石碑」に込められた感恩(カムオン)の心

石井少佐の戦死は、 ベトナム独立同盟軍(ベトミン)がフランス軍を破り、フランスによるインドシナの植民地支配を終わらせるきっかけとなった1954年5月のディエンビエンフーの戦いから遡ること4年のことですが、この戦いの勝利への道を含め石井卓雄少佐たちが残した功績がいかに大きかったか「石碑」から窺えます。

「石井卓雄先生之霊魂稚鋻」碑の由来の説明には、「この碑は、大東亜戦争の終戦前後を通し、故石井卓雄氏の指導を受けた、グエン・バン・タン氏他有志が故石井卓雄氏の遺徳を偲び、その偉業を顕彰されんと作成持参されたものである。なお碑文は安岡正篤先生の原文を翻訳したものである。」と記されていました。

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 説明文を紹介します。


「石井卓雄先生の霊魂を稚鋻(ご高覧の意)意味とする。

「死は富士山よりも重く有り」の言あり。

この言、実に石井卓雄先生往生(死して世を去るの意)の意味とする。

先生は扶桑(日本の意)民族の戦闘精神を有するとともに、英雄烈士の熱血を有す。

故に、太平洋戦後において、先生は、なお、ベトナムに駐留するを堅く決し、ベトナム志士と肩を並べ、

ベトナムの独立を勝ち取ることに努力する。

この種み重なる犠牲の精神といささかも自利の心なきことは、これ、先生の人類、同胞に対する仁の心に基づくものにして、ベトナム人民の外来の侵略を抗拒(こばむ意)するを幇す。

数載(数年の意)の奮闘を経て、ついに瘁つきて死す。

先生は己の世を離れ甚だ久しいといえども留めのこされた豊功偉業は、多数のベトナム同志をして、永く去思(徳望を忍ぶ意)を懐かしむ。

先生は、世を逝りて19年なり。その形は滅したと、いえども、(「深刻」は前後の意味から訳さぬ方が良いと思いますので、省略しました。)

その季節は、なお磅礴(満み広がるの意)として、ベトナム人士の潜んだ意識の内に留在し、先生に対する感謝の情と崇高な尊敬を永く懐く。

ベトナム首都1969年5月20日

ベトナム諸同士が特に碑を立て、敬を示すとともに仰敬の文字を刻み、碑をかりて先生の崇高な功徳を記念す。

阮文靑 莊文一及び同人(同志の意)尊立


 石井少佐の人柄を偲ばせる逸話が井川一久氏のまとめた「研究報告書」に納められています。「彼(石井少佐)らは、ベトナム潜入直後、メコンデルタで離隊した召集兵を帰隊させるための説得活動も行ったという。敗戦後に他国の独立戦争に加わるのは死を覚悟した職業軍人の任務であって、家族に責任を負う一般召集兵は早々に帰国すべきであるとの、いかにも陸士出身者らしい確信が窺える」と。その後、石井少佐はクアンガイ省に向かい軍政学校の教官に就いたのです。

父とヒロシマとの意外な関わり

 資料館を訪れ、「石碑」の由来と石井少佐に寄せられたベトナム人民の思慕を知ることができました。しかし、サイゴン(現ホーチミン)のどこに立てられていたのか。終戦時に所属していた第55師団の基幹部隊である第11師団が編成された善通寺の14旅団の資料館に「石碑」が移されたのは頷けるにしても、何時、どのような経緯で善通寺に移されたのかなど、説明に当たってくれた旅団の三等陸曹の女性広報官に尋ねましたが「分からない」とのことでした。それらの疑問点については調べて貰い、後日の連絡を約し善通寺を後にしました。

帰路は、父が16歳で入った予科練・松山海軍航空隊のあった松山経由「しまなみ海道」を選びました。現在、91歳の父は岡山の施設で過ごしています。父の戦争体験(予科練)とその後の人生、そして意外にもヒロシマとの関わりについて、次回書いてみたいと思います。

(21019年12月4日 あかたつ)

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2019年12月 4日 (水)

説明責任果たさぬ安倍政権―今年最後の「3の日行動」

臨時国会の会期末(12月9日)まで、後一週間となった昨日、「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり実行委員会」は、定例の「3の日行動」として午後5時半から1時間、本通電停前で、街宣行動を行いました。

今年最後の「3の日行動」ということで、ビラ配布とともにリレートークによる訴えを行いました。

最初の代表世話人が、安倍首相の桜を見る会に象徴される「政治の私物化」を許さないとの訴え。次は、昨日広島の有権者として「自民党の河井克行前法務大臣、河井案里参議院議員」を公職選挙法違反の疑いで広島地検に告発状を提出した市民グループ「『河井疑惑』をただす会」のメンバー代表が、「夫婦そろって行方をくらまし、説明責任を果たしていない。地検は真実を明らかにすべきだ」「選挙中、ちょうどこの場所で河井案里杏の応援演説を行った、安倍首相も菅官房長官も同罪」などと真相究明を求める訴え。

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続いて、今回はじめてマイクを握った若者のグループ「権利の行動」の岩下翔平さんが、自分たちが行っているパソコン画面などを使っての「パブリック・ビューイング」を紹介しながら、国会の模様を写したタブレット端末を手に「若い人たちにもっと政治に関心を持ってほしい」と、呼びかけ。私も久しぶりにマイクを握り、事務局から要請された「憲法審査会の役割と動き」について報告。

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そのあと全員が横断幕の後ろに集まり「河井夫妻は説明責任を果たせ」「真相を明らかにしろ」などのシュピレヒコール。最後は石口事務局長が、台風19号襲来時の安倍首相の動きを「首相の動静」をもとに「六本木での食事中だったこと、対策本部の立ち上げが翌日になったこと」など、と対応の遅さを厳しく批判。「やっぱり安倍政治は終わりにするしかない」と訴え、行動を終えました。

配布したビラのタイトルは「政治腐敗に怒りを!安倍政治を終わらせよう 『河井夫妻』の疑惑解明」でした。

ところで、今国会は、安倍首相主催の「桜を見る会」の国会論議に象徴されるように、安倍首相の無責任ぶりが強く印象に残るものとなりました。「国会に呼ばれれば説明責任を果たす」とはよく言ったものです。次の常套句が「国会がお決めになること」です。本当にその気持ちがあるのであれば、積極的に働きかけて自らが出席して説明が可能な「予算委員会」を開催させれば済むことです。

「憲法改正」問題では、積極的な改憲発言を行い、「行政の長としておかしい」と問い詰められれば、「私は自民党の総裁」と立場を使い分けながら、自分にとって都合の悪い問題では、ホウカムリを決め込んだしまう安倍首相。自民党総裁である安倍晋三が「私は、国会で堂々と説明するから予算委員会を開催してほしい」と与党(自民党)の国会対策の責任者に指示すれば、明日にでも予算委員会は開催することができるのです。自民党の幹部は、「2日の参議院本会議での質疑で十分説明した」としているようですが、本会議での質疑は、質問も一括、答弁も一括というやり方ですので、委員会質疑のように一問一答形式ではないため、深まった論議にはならず、「十分説明した」どころか疑問は残ったままです。

こうした安倍首相の無責任な姿勢は、「安倍さんがそうなんだから」と他の議員の政治姿勢にも大きな影響を与えています。その一つが、河井克行、案里夫妻の雲隠れに最もよく表れています。

「説明責任を果たさない」のは、安倍自民党政治の普通の姿のようです。

いのちとうとし

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2019年12月 3日 (火)

上関原発に伴うボーリング調査を中止せよ

中国電力が11月8日から準備作業を始めようとしていた、上関原発計画地の海面ボーリング調査の作業は、地元の人たちの抗議行動でまったく出来ない状態が続いています。

準備作業はボーリング調査予定海域での、測量から始まるのですが、作業が行われるという日には、祝島の漁師さんたちの漁船が朝早くから予定地にやってきて、漁を始めます。

そこに中電側の船がやってきて「作業を始めますから、移動をしてください」と呼びかけを始めます。「刺激してはならない」という理由で、拡声器などは使わず肉声で行います。それに対して漁師さんたちは「ボーリング調査は認められない」と応じます。こういう状況が夕方4時頃まで続き、中電船は引き上げていきます。

天候の悪い日、休日には行わず、「激しい」攻防はなく、見方によれば「のんびり」した抗議行動(地元の漁師さんは「監視行動」と呼ばれます)と言えるかもしれません。

しかし皆さんに知って欲しいのです。漁師さんたちは、その日には仕事を休み、船の油代もバカにならない負担です。そして高齢化の中で肉体的にも堪えることです。

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中電は地元の原発推進派漁師も、監視船として動員しているようです。こちらの方は仕事として日当をもらってのことですから、心に「悪いこと」という認識を持たなければ、「楽」な仕事でしょう。

中電の上関事務所も「誠意を持って話し理解を求めることが一番の近道」と話していますが、上関原発計画が公けになって37年間、こんな長期間、現実に原発が建たない、海の埋め立てもできない、何もできない、使ったのは莫大なお金です。

そして何よりも腹が立つのは山口県が「事故やトラブルの防止に努めるよう」と言い、村岡嗣政山口県知事は「県(山口県)が急いで進めたいわけではない」と「中立」を装い、「事業者が安全を考えながらやってほしい」と他人事のようにする態度です。

地元の新聞に、ある反対派漁師のコメントが載っていました。「中電もすぐに進められないと分かっているはず。反対派の抗議で困っているポーズを取りながら、次の免許延長のことを考えているのでは」と指摘していたようです。

こうなってくると山口県、政府という政治の責任を痛感します。まさに政治に絶望という感じになります。安倍政権の強い意向で、小中学校に道徳という教科が導入され、教師には採点を義務づけられたそうですが、これからどんな大人が育つのか、バッカみたい。

木原省治

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2019年12月 2日 (月)

2019日米共同訓練反対日本原集会

12月1日、岡山県奈義町で、「2019日米共同訓練反対日本原集会」が開催されました。

この集会は、12月2日~4日に自衛隊日本原演習場で行われる日米合同訓練に反対するため、岡山県平和運動センターを中心に組織された集会実行委員会が現地集会として開いたもので、200人が参加しました。

主催者を代表して挨拶した宮田好夫実行委員長は「合同訓練は2010年以来9年ぶり。来年3月には2回目となる米海兵隊の単独訓練も計画されている。日本原演習場での訓練強化が進んでいるのは間違いない」と訓練への抗議と中止を求めました。

続いて、来賓として挨拶した「戦争をさせない岡山県1000人委員会」の奥津亘弁護士は、「訓練の規模は数十人の小銃訓練のみで、演習自体に大きな成果はないだろう。問題は、こうした訓練が日米地位協定のもとで、いつでも使える状態にあることを示すことに意味があると思われる」など、日米地位協定の問題点も合わせ、合同訓練の問題点を指摘しました。

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そして、現地の日本原共闘会議の内藤秀之さんも、「今回の訓練は小銃部隊だが、オスプレイも参加するような訓練へと発展する危険性は十分にある。現地としても平和を守るためにさらに活動を強めていく」と決意が述べられました。

集会には、中国各県の平和運動センターも参加。広島県からは5人が参加し、渡辺宏事務局長が連帯のあいさつを行いました。

集会の最後に次の決議が全員の拍手で採択されました。


日本原演習場における日米共同訓練反対を求める決議

昨年4月、板門店で行われた南北首脳会談とその後に開かれた米朝首脳会談によって、一時は緊張緩和かと思われた東アジア情勢であったが、今年10月に米朝協議が決裂し、北朝鮮がミサイル発射実験を再開するなど、再び緊迫の度合いを深めている。さらに、米中の経済摩擦、日韓関係の悪化は改善の見通しが立たない状況となっている。

 一方、中東地域では、トランプ大統領が米軍のシリアからの撤退を表明し、トルコとクルド人勢力との衝突の恐れが高まっている。また、サウジアラビアの石油施設が攻撃されたことを受け、サウジアラビアとイランとの対立が激化している。

 このような混迷した世界情勢の中でも、私たち日本国民は、戦争がいかに悲惨なものか、そしてこれらを解決する道は対話と協調しかないことを知っている。そして世界で唯一の戦争被爆国であり、世界で随一の平和憲法を有する日本国の政府が果たすべき役割は大きいはずである。

 しかしながら政府は、核兵器禁止条約に批准せず、平和憲法を守るどころか、「戦後日本国民の悲願」と偽り、憲法を改悪し自衛隊を明記しようとしている。そして、集団的自衛権行使と東アジアの脅威に対する備えだとして、イージスアショアの配備やF35の大量購入など、軍備拡張路線をますます強めている。

 そもそも集団的自衛権行使が、「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」をうたう憲法9条に反していることは明らかであり、私たちはこれまでも、「安全保障関連法」の違憲性を強く訴えてきた。さらに、この「集団的自衛権行使」がいかに危険なものかは、南スーダンPKO及びイラク派遣の日報隠蔽問題が発覚したことで、国民誰もが知るところである。それにもかかわらず、政府は今年10月、自衛隊の中東独自派遣を本格的に検討するとした。国民に正確な情報が開示されない不透明な状況の中で、自衛隊員をはじめとする日本国民の命が脅かされるような事態は、絶対に許すわけにはいかない。

 このような影響は、ここ日本原の地でも例外ではない。昨年10月には、米国海兵隊単独訓練が行われた。このときはヘリパッド敷設訓練が中心であったが、今後毎年実施することを明言しており、年々規模が拡大することは明らかである。さらに、現在の日米地位協定のもとでは、沖縄での数々の事故があったにもかかわらず、約束や合意による保障が一切ないように、日本原周辺地域に及ぼす影響や危険は計り知れない。

 そして今月には、4回目の日米共同訓練が実施されようとしている。これまでの米軍ヘリやオスプレイの度重なる事故等、安全軽視の運用が明らかとなっており、地元住民に被害が及ばないか、非常に懸念される。

 このように、米軍と自衛隊の一体化が進んでいるが、日米共同訓練と日本原周辺住民及び県民の平穏な生活とは絶対に両立しない。私たちが求めることは、力と力で均衡を保つ世界ではなく、全人類が手を取り合い助け合う世界である。

 私たちは、この日米共同訓練に強く抗議し、即時撤回を求める。

 平和を希求する多くの国民の思いを大切にし、安心して生活できる当たり前の世界を構築するため、戦争をしない国づくりを目指していく。そして、国際紛争は武力によっては解決しないという日本国憲法の理念の実現に向けたとりくみを強力に推し進めていく。

 以上、決議する。

2019年12月1日           

日米共同訓練反対日本原集会実行委員会 


T.O

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2019年12月 1日 (日)

「防災省」設置案・その5 災害後の対応・その1

このシリーズに力は入っているのですが、どんどん長くなっています。切りがありませんので、少し端折りつつ、全体像が見えるように工夫をして行きたいと思います。ということで今回は災害発生後に焦点を合せ、まずは、人命救助の際にも復旧のためにも欠かせない重機その他の装備について考えて見たいと思います。

[災害発生後に視点を移しての防災省の仕事]

(A)  (略)

(B)  (略)

(C)  (略)

(D)  災害発生後は、それまでの予測を元に、また被害状況に照らして、都道府県単位で災害対策本部を立ち上げる。「防災省」直轄の実働部隊は、この対策本部の下に入り都道府県知事の指揮の下、災害救助や復旧・復興の仕事に当る。災害救助等の必要な装備については、「直轄」「都道府県」「市町村」という3つのレベルで整備する仕組みを作り、現在の消防制度を元に、市町村レベルでは整備し切れていない装備は、都道府県レベルで拡充整備する。「防災省」では、最新の装備についての研究を元に、世界的に貢献可能な高性能の装備の開発に当り、災害の予測モデルに従って、「直轄」「都道府県」「市町村」という3レベルに適切な装備を配置する。

(E)  災害救助のために必要な専門的知識、そのために使用する機器・重機等は、専門組織や民間の所有する機器等に依存せざるを得ない面が大きいため、消防団組織をモデルに、専門的なノウハウや重機を「ボランティア」として提供して貰う仕組みを、(D)で言及した3レベルそれぞれに対応する形で整備する。

 

《解説》

①  大雨や台風についてのデータの収集や予報、地震や噴火についてのデータ等は、現在では気象庁や国土交通省等の担当ですが、それらについては基本的には現状をそのまま引き継ぐことにします。その中で「災害」そして「人命救助」という視点からのデータの整理や分析等は「防災省」が、各担当部署との連携の下に行うことにします。

②  災害後の現地での対策は、「現場主義」を採用し、都道府県知事が指揮を執る形にします。その際、現在の都道府県の役割が、「中二階的」であるという批判を踏まえて、災害対応をその活動の中心に据えるような大改革をすることも視野に入れるべきだと思います。一般的なレベルでの詳細情報を持つ「防災省」と、現地での詳細情報を持つ都道府県が緊密な連携を取る必要は言うまでもありませんが、緊急を要する場合の最終判断は、現地を良く知る知事が行えるような権限を与えておくことが重要です。

③  このような形での連携が上手く機能するためには、「防災省」と都道府県、そして基礎自治体である市町村とが、実地訓練を何度か経験しておく必要があります。また、経験値を考えると、各都道府県が災害を経験する頻度と、「防災省」が全国各地において災害救助に当たる頻度とを比較すると、後者の方が多いのですから、それを生かさなくてはなりません。当然、現場では、「防災省」の指揮官が知事に指示を出すという形の方が全体として上手く機能する場合も多いはずです。そのような経験値は当然生かすべきです。そのためには、知事が自分の権限を「防災省」と一時的に共有する宣言をすれば良い訳ですから、それもシステムに組み込みます。しかし、最終的に現地の判断が優先されなくてはならない場合もあり得ますので、「これは現地の判断で行います」という権限だけは、確保しておくことが大切になる、という意味なのです。

④   愛称が「レッドサラマンダー」という、「全地形対応車」が、愛知県岡崎市に配備されています。朝日新聞の「キーワード」によると「全長8.7メートル、総重量12トン。最高速度は時速50キロ。搬送用の車両を含め、総額9765万円。10人乗りで、災害現場への人員、物資の輸送が役割。岡崎市への配備は、南海トラフ地震の発生が懸念▽日本のほぼ中心に位置する▽津波の心配がほとんどない▽高速道路のインターに近い、などの理由だったという」という説明です。約1億円のレッドサラマンダーですが、災害時に八面六臂の活躍をしてくれるのであれば、各都道府県に一台配備しても、一機280億円のオレプレイの台数を減らせば、十分にお釣りが来ますので、それも可能性として検討すべきでしょう。

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⑤ しかし、東日本大震災後の2013年に急遽配備されたこのレッドサラマンダーは、これまで二度の災害現場でしか使われていないのです。一昨年7月の九州北部豪雨の際に大分県日田市に出動しました。そして昨年の西日本豪雨では、岡山県に入っています。この6年間にたった2度の出動実績には理由があるのでしょうが、可能性として考えられるのは、(a)災害現場で役に立たないから (b)出動して貰うには費用が掛り過ぎるから (c)要請すれば来てもらえることが周知されていないから (d)現地に到着するまでに時間が掛り、その間に他の手段で問題は解決されている場合が多いから、等です。こうした点についてもきちんと検証し、後に提案する国際災害救助隊の「サンダーバード」にも役立つような先進的な道具を整備するのも「防災省」の役割ですので、新装備開発の一助としてまずは全国で活用するための方法を考えるべきでしょう。

 

[2019/12/1 イライザ]

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