ヒロシマとベトナム(その6)
HVPF第14次ベトナム平和友好訪問
10月27日(日)から11月2日(土)までベトナムを訪問してきました。その報告を含めながら前回からの続きを進めたいと思います。
石井卓雄陸軍少佐の石碑
前号の「仏領インドシナ侵攻と廣島」で、1945年8月の敗戦後もベトナムに残り、ベトナムの抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)に加わった日本兵のことを書きました。そして、その中でベトナム軍の軍事顧問を務めるなど重要な役割を果たし、フランス軍との交戦で戦死した福山市出身の石井卓雄陸軍少佐について紹介しました。
その石井少佐の「石碑」がホーチミン市にあったと伝えられており、「10月に予定しているベトナム訪問時に、同じ福山市出身の河上淳一・在ホーチミン日本国総領事にお尋ねしてくる」と、皆さんに約束しました。
まず、最初にその結果を報告します。
福山市出身の河上淳一・在ホーチミン日本国総領事(外務省Hpより)
実は31日の早朝、フエからホーチミンに向かう飛行機が台風の余波の影響で10時間余り遅れ、その日のホーチミンでのスケジュールすべてキャンセルせざるを得なく、総領事館を訪ね河上総領事にお会いすることができませんでした。
しかし、訪問前にメールで相談していましたので、返信をいただいていました。その内容を紹介します。
「お返事が遅れて申し訳ありませんでした。石井少佐の石碑の件については、報道等によれば,1969年に謝恩碑がサイゴンに建てられ、その翌年(1970年)に日本に移設されたようですが、そのわずか約1年間にサイゴンのどこにあったかは、調べてみましたが,当地では特に記録もなく、残念ながら手掛かりとなるようなものはありません。現在、陸上自衛隊第14旅団本部に残っているはずの現物の石碑の移送記録が同本部にでもあれば、何かの手掛かりが判るかもしれませんね。」というものです。
「石碑」のあった場所が分からなかったこともさることながら、お忙しい時間を割き調べてくださった河上総領事に直接お礼が伝えられなかったことが残念です。今度は私が善通寺市の陸上自衛隊を訪ね調べてみようと思っています。
意外と知られていない抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)
日本兵が加わった抗仏戦争は、1945年9月2日にハノイでホーチミンが発した「独立宣言」によって建国されたベトナム民主共和国とフランスとの戦いです。1945年9月のサイゴン侵攻から1954年11月のディエンビエンフーの戦いでフランス軍が敗退するまでの9年余り戦われました。
これまでも幾度も訪れたことのあるホーチミン市にある「戦争証跡博物館」では、いつになく抗仏戦争のコーナーに時間をかけていました。1968年のカリー米軍中尉が指揮した「ソンミ村虐殺事件」は記憶にありましたが、1947年11月29日にベトナム中北部のクアンナム省ミーチャック村で起きた「ミーチャック村虐殺事件」は知りませんでした。初めて入館した訪問団員が「ベトナムの戦争といえばアメリカとの戦争とばかり思っていた。」と漏らすほど、私たちは抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)のことを知らないことに気づかされました。
ベトナムの人々は、1862年にサイゴン(現ホーチミン)をフランス軍に占領されて以来、日本軍、再びフランス軍、そしてアメリカ軍との間で110年余りも民族独立と解放のために戦ってきました。
「平和の節目」となる年、2020年
ファン・ボイ・チャウのトンズー(東遊)運動、ホーチミンの抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)とベトナム解放闘争(第二次インドシナ戦争)、その長い戦いが終結したのが1975年4月30日です。
今回、初めてフエにあるファン・ボイ・チャウの墓に参拝し、チヤウを支援した医師、浅羽佐喜太郎の出身地静岡県袋井市の人たちが建立した「日越友好の碑」を訪れ、ベトナムの人々の長き苦難の道のりと日本人との関わりに思いを馳せました
来年はその「ベトナム戦争終結(南部解放)45周年」を迎え、ヒロシマは「被爆75周年」を迎えます。
この「平和の節目」となる年、私が専務理事を務める一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会(HVPF)は、記念事業を計画していますが、それはまたの機会に紹介させていただきます。
いまに生きる「ベトナム建国の心」
1945年9月2日にホーチミンがハノイで発した「独立宣言」を少し長いですが、冒頭部分と幾つかのセンテンス、結語部分を紹介します。
ベトナム独立記念式
「全国の同胞たちよ、全ての人はみな、平等な権利を持って生まれています。創造主は誰も侵すことのできない権利を与えました。その権利には、生存権、自由権、幸福追求権があります。この不滅の文言は、アメリカの1766年独立宣言の中にあるものです。より広く言えば、この文言は、世界の全ての民族がみな平等に生まれ、どの民族も生存権、幸福権、自由権を持つということを意味しています。」
「それにもかかわらず、この80年間、フランス帝国主義者たちは、自由・平等・博愛の旗を悪用し、私たちの国を強奪し、私たち同胞を抑圧してきました。彼らの行動は、人道と正義に反するものです。・・・・1940年の秋、連合国に対抗する拠点を更に築くため、日本のファシストがインドシナを侵略し、フランス帝国主義者らは跪いて日本に私たちの国を明け渡しました。そのときから、私たち民族はフランスと日本という二重の枷をかけられたのです。そのときから、私たち民族は、日増しに困窮し、貧困にあえぎました。その結果、ついに昨年末から今年の初め、クアンチから北部にかけて、200万人の同胞が餓死しました。」
「日本が連合国に降伏したとき、全国の私たち民族は立ち上がり政権を奪取して、ベトナム民主共和国を築いたのです。実際には、私たち民族は、フランスの手からではなく日本の手からベトナム国を取り戻したのです。・・・・私たち新ベトナム国の臨時政府は、ベトナム全国民を代表して、フランスとの関係を離脱し、フランスが署名したベトナムに関する全ての協定を破棄し、ベトナム国におけるフランスの全ての権限を破棄することを宣言します。」
「この80年以上にわたりフランスの奴隷であることに勇敢に対抗しました。数年にわたり連合国と共にファシストに対抗しました。私たちは自由を得なければなりません! 民族の独立を得なければなりません!これらの理由から、私たちベトナム民主共和国の臨時政府は、世界に向けて改めて宣言します。ベトナム国は自由及び独立する権利を持ち、実際に、自由で独立した国となりました。ベトナム全国民は、この自由と独立を維持するために、精神、軍隊、生命、そして財産のすべてを持つ権利があります。」(1945年9月2日)
(2019年11月4日、あかたつ)
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