「秋の散策」―浅野氏入城400年記念コース
毎年秋のこの時期に開催される広島市観光ボランティアガイド協会主催の「秋の散策」が、今年は11月2日に開催されました。昨年の「西国街道めぐり」には一人で参加しましたが、今回は夫婦で参加しました。
今年の「秋の散策」は、「浅野氏入城400年記念コース」と銘うち、広島城と縮景園をめぐるコースが設定されていました。
集合場所は、広島城大手門前。しかし、菊花展の最中ですので混雑を避けるため、少し西側の広島城南側広場に集合しスタートです。40人を超える参加者で、6~7人でのグループ分け。私たちは第1班で6名、ガイドは、ボランティア協会会長の持永義孝さんでした。
最初の案内は、広島城天守閣が最もきれいに映る場所を紹介。RCCの塔や周りの住宅が写らないスポット。集合場所のすぐそばにある圓鍔勝三作「花の精」の北側のお堀沿いです。
確かに私の腕でもきれいに撮れました。天気が良く、堀の水面には天守閣が写っています。
いよいよ広島城の案内ですが、今日は回った道順の紹介と初めて知ったことを記載します。大手門をくぐり、二の丸へ。多門櫓の由来、太鼓櫓の時を告げる太鼓などなどの説明。残念ながら広島城では、今は時を告げる太鼓は打たれていませんが、今も太鼓を鳴らして時を告げているのは彦根城だけとのこと。
本丸へ移動です。二の丸から本丸へ移動するとき通る中御門跡で石垣の組み方の解説。
2枚を比べて石組みの違いが分かりますか。左側の写真では、石の側面が揃っていますが、右側の写真では、石の長い方が右・左と交互に組まれています。こちらが新しい時代のものです。広島城を築いた毛利輝元は、石垣づくりの集団・穴太衆(あのうしゅう)に頼らず、自力で築いたと言われています。それが左側の石垣です。
石垣の中にちょっと珍しい石がありました。よく見ると牡蠣殻がついています。瀬戸内海から石を運んだことがよくわかります。この石のことは初めて知りました。
いよいよ本丸です。鬼側のこと、破風のつくりなどなどの解説。
ここでは、持永さん持参の「被爆前まであったといわれる大天守閣と東小天守を結ぶ渡櫓が写った写真」での解説。戦前はこの渡櫓から天守閣に登るようになっていたようです。帰宅して「財団法人広島市文化財団広島城」が発刊した「広島城壊滅―原爆被害の実態」を見ると、そこに上の写真が掲載されていました。今は天守閣のみですので、この姿を見ることはできません。
本丸の東北角に、壊れかけた石垣があります。広島大学も三浦教授の説によると、浅野の前の城主だった福島正則が、自らの潔白を証明するために壊した跡だと言われています。しかし諸説があるようです。私が知りたかった「福島正紀はどこの石垣を修理したのか」ということは、残念ながらわからないとのことでした。
ここで広島城は終わりです。最後に向かったのは、縮景園です。
縮景園では、抹茶とお菓子が用意されていました。茶店で一休みした後、持永さんの解説を聞きながら園内を散策。途中で、予定の午後4時になり「先の散策」は終了しました。
最後の集合場所へ移動する途中に、菰巻きされた松が並んでいましたので、一枚パチリ。
観光ボランティアガイドの皆さんありがとうございました。来年も楽しみにしています。
自宅を出発して帰宅するまでの歩数は13,314歩でした。
いのちとうとし
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