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2019年10月 5日 (土)

ヒロシマとベトナム(その5)

仏領インドシナ侵攻と廣島

月一回の寄稿をはじめて5か月になります。2回目の寄稿文(6月)に、「『ヒロシマとベトナム』を考える際、日本とベトナムとの関係、そして広島との関わりを、過去・現在・未来を貫いて捉える必要があると思います」と書き、古代、中世、近世と書き進めてきました。

先月は、1940年から1945年8月15日の敗戦まで続いた日本軍のベトナム侵攻で「200万人以上」とも言われる餓死者を出したことに触れましたが、日本軍の仏領インドシナを含む東南アジア侵攻がいかに凄惨なものであったかはあまり知られていません。

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マニラの虐殺

ビルマ(現ミャンマー)戦線の物資輸送のために連合軍捕虜やタイ、ミャンマー、マレーシア、インドネシアから徴用(強制連行)された「ロウムシャ」10万人以上が死亡した「泰緬鉄道」鉄道建設、栗原貞子さんが「ヒロシマというとき」で詠んだ「マニラの火刑」(マニラ大虐殺)では約10万人が殺され、「乳児を放り投げ銃剣で串刺し」にするというおぞましい蛮行はマレーシアやシンガポールをはじめ至る所で繰り広げられました。中国では「南京虐殺」だけでも30万人以上の命が奪われました。

アジア侵略の出撃基地「宇品港」

それら日本軍の出撃基地の一つが軍都廣島の宇品港でした。被爆地ヒロシマは戦争加害とも深くかかわっているのです。その意味で、私たちが本当に「平和を希求する人間」であろうとするなら、前回も栗原貞子さんが詠んだ「ヒロシマというとき」を紹介しましたが、「〈ヒロシマ〉といえば 〈ああヒロシマ〉と やさしくかえってくるためには 捨てたはずの武器を 本当に 捨てねばならない ・・・〈ヒロシマ〉といえば 〈ああヒロシマ〉と やさしいこたえがかえってくるためには わたしたちは わたしたちの汚れた手を きよめねばならない」という言葉を噛み締めなければならないと思います。

同時に、「赤紙」一枚で戦地に駆り出され、再び愛する家族のもとに帰ることができなかった数多くの人たちに思いを馳せなければなりません。それは、「二度と再びそのような事態を起こさせない」という強い意志の表れでもあります。

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出生兵士

宇品港から仏領インドシナ領に送られた兵士が何人なのか、記録があるのかもしれませんが知り得ません。旧厚生省援護局が調べた「アジア各地における終戦時の日本軍の兵数」(「東京新聞」2010.8.8「終戦の日を考える」)を見ると、陸軍が296万3,300人、海軍が38万1,800人、合計334万5,100人。そのうち仏領インドシナ3国(ベトナム、カンボジア、ラオス)は陸軍が9万400人、海軍が7,800人、計9万8,200人です。異国の地で命を失った戦死者数は、厚生労働省の資料によれば概数240万人とされています。今年7月現在の厚生労働省の資料「地域別戦没者遺骨収容概見図」によると、仏領インドシナでの戦死者は1万2,400名で、遺骨の収容は6,900体と記されています。

過去の歴史を通して将来を考える

余談ですが先日、『広島藩の志士』や『芸州広島藩 神機隊物語』を書かれた大崎上島町出身の穂高健一さんの「歴史講演会 志和の知られざる幕末 芸州広島藩の活躍」という講演を聞きました。幕末から明治維新にかけた騒乱の中で戦争回避に奔走した芸州藩の働きが歴史から消された経過と、その後の薩長土肥を中心にした明治から今日までの国家像についてのお話でした。その詳細は省きますが、とても印象に残った言葉があります。「人は誰でも過去の経験を通して将来を考える。だから、歴史を歪めたり曲げたりすれば後世の人のためにならない。過去(歴史)をしっかり(正しく)知り、広島から戦争史観を変えてゆこう」という意味の言葉です。

抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)と日本兵

再び、日本軍の仏領インドシナ侵攻と広島との関わりに戻ります。

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ベトナム独立戦争を戦った日本兵

1945年8月15日の敗戦によって日本軍のベトナム支配は終わり、9月2日にはホーチミンがハノイで「独立宣言」を発しました。一方、ベトナム独立運動組織のベトミンは再び植民地支配に乗り出したフランスとの抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)を戦います。そうした中、ほとんどの日本兵は帰国しますが、約600名(800名ともいわれている)がベトナムに残り、ベトミンに参加したといわれています。

2年前の2017年3月に前の天皇皇后陛下がベトナムを訪問された際、ベトナム独立戦争を戦った「ベトナム残留元日本兵家族と面会された」との報道を目にした人もいると思います。その報道後、ベトミンとともに抗仏戦争を戦った日本兵のことを調べ、初めてその中に福山市出身の石井卓雄という陸軍少佐がいたことを知りました。

2005年10月に東京財団がまとめた『ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越の在り方に関する研究報告』に石井卓雄少佐に関する記述がありますが、ここでは「ウィキペディア」から引用します。当時、チャン・チ・ズンと名乗り、グエン・ソン将軍の軍政顧問として軍政学校や軍政中学校の教官を務めベトミン将兵の育成に携わっています。その後、ベトナム中部で「どこでも勝てる第38小団」と呼ばれる精強部隊を指揮するなど作戦指揮にも携りましたが、1950年5月、ベトナム南部でフランス軍との交戦中に戦死したとされています。死後、靖国神社に祀られているとも記されていました。

なぜ、800名もの日本兵がベトナムに残り抗仏戦争に加わったのか、敗戦の混乱期とはいえ軍律厳しいなかでなぜ、上級将校や下士官などがベトミンに加わったのか、当時の現地軍上層部が「黙認」したような形跡が見られたり、軍を離脱し抗仏戦争に身を投じた人を靖国神社に祀っているのはなぜなのか・・・・など、幾つもの疑問がありますが、これらについては、引き続き調べてみたいと思っています。

ともあれ、この10月末からのベトナム訪問で在ホーチミン日本国総領事館を訪ねることにしており、福山市出身の河上淳一総領事に、ホーチミン市にあったといわれる石井卓雄少佐の石碑の場所お聞きし、訪ねてみたいと思っています。

(2019年10月4日、あかたつ)

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