多山恒次郎さんと広島電鉄・・・その時
9日付のブログの中で、多山恒次郎さんが広島電鉄の社長だったことに触れました。その後「社長はいつごろだったのか」と気になり、いろいろと調べてみました。多山さんは、1945年(昭和20年)3月15日に就任し、1952年(昭和27年)4月26日に退任されたことが分かりました。
1945年8月6日、原爆が投下された時の広島電鉄の社長です。関心が深まります。当時の様子を調べたいと思い、私鉄広電支部に行き、広島電鉄の社史を借りました。社史は、「開業80年創立50年史」と「開業10周年創立70周年」の2冊があります。そのいずれにも被爆当時のことが、広島電鉄の社報「『輪苑71号』:昭和30年8月5日」(当時専務取締役で後に3代目社長となる伊藤信之さんの原稿)から引用したものが、掲載されています。そこに多山さんの名前が出てきます。全文は長いので多山さんの名前が出ている個所を引用します。「一瞬青い閃光が走ったかと思うと、アッという間もなく、にぶいような轟音がグワンと炸裂した。視界が俄かに暗くなり、(中略)当時の社長多山氏が血にまみれて今の鈴ケ峰開発(株)のある部屋の窓から顔を出しておられる。逃げ場を失った女子職員が二階の洗面所から泣き叫んでいる。(以下略)」この文章で、多山さんが広電本社で被爆されたことが分かります。社史では、多山さんの被爆時の様子はこれしか記載されていません。
ところが、社史と一緒に出された「被爆電車75年の旅」(ザメディアジョンプレス発行2017年刊)には、血まみれの多山さんがとった行動が、39ページから41ページにかけて次のように記載されています。「次の爆撃を恐れて、庭の防空壕へ向かう者。狂ったように何事か叫び出す者。半壊した社屋を、呆然と眺めている者・・・。だがやがて、防空壕の上に立った多山が叫んだ。『多山は健在である。これくらいのことでヘコたれてはならん。みんな会社再建のために頑張ろう!』その声を聞き、我に返ったのか、軽傷の社員たちは瓦礫の木材やコンクリートを取り除きだした。」さらに本社の悲惨な被爆状況が続いた後、再び多山さんの名前が登場します。「多山恒次郎は、電車復旧の援助を請うため、怪我を押して師団司令部を訪れた。しかし、司令部は他の官公庁ともども壊滅状態。ついで『宇品』の陸軍船舶司令部をたずね、東京電信隊の協力を取り付けた。」伊藤信之さんの原稿や社史には見当たらないこの様子が、どのような経緯で明らかとなったのか、広電本社から爆心地の真反対にあたる師団司令部へはどの道を通って行ったのかなど不明な点はありますが、誰かの証言に基づくものと思われます。これで多山さんの被爆時の行動を知ることができました。広電の被爆について知っているつもりでしたが、また新たな発見です。不思議なつながりを感じます。
今回は詳しく触れませんが、当時「チンチン電車」を運転していた女学生の被爆時の様子は堀川恵子さんの「チンチン電車と女学生」に詳しく書かれていますので、一読をお勧めします。私も一度は読んだ本ですが、これを機会にもう一度読み直してみようと思います。
多山恒次郎さんのことについては、「多山報恩会」のことなど、もう少し調べてみたいことがあります。その結果は、またこのブログで報告したいと思います。
いのちとうとし
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