ヒロシマとベトナム(その4)
ベトナム200万人の餓死
先月、ベトナム人が親日的な一つの背景としてフランスからの独立運動を展開したファン・バオ・チャオの「トンズー運動」が、フランス政府と日本政府の弾圧によって危機に陥ったとき、日本人医師、浅羽佐喜太郎が支援したことを紹介しました。「トンズー運動」は失敗しますが民族独立運動の灯は消えず、1945年9月2日のホーチミンよる「独立宣言」につながります。
今回は、「トンズー運動」(1904年~1909年)以降、1945年9月2日の「独立宣言」までの日本の関わりを見たいと思います。
日本は朝鮮半島の植民地支配を始め、1931年の柳条湖事件に始まる満州事変から日中戦争へ、さらに太平洋戦争へと侵略戦争を拡大していきました。10年におよぶ日中戦争で泥沼にはまり、国際的な孤立とともに戦略物資や食料の欠乏をきたしていた日本は、表向き「ヨーロッパ列強からの解放」をうたう「大東亜共栄圏」を掲げ、ヨーロッパでのナチスの華々しい侵攻を好機とばかりに、石油や鉱物などの資源、米やトウモロコシなどの食料の確保を狙いフランス、イギリス、オランダなどの植民地に侵攻しました。
戦略物資を求めた日本軍侵攻
ベトナムへの侵攻は、1941年12月8日のハワイ真珠湾攻撃とイギリス領マレー半島攻撃が始まる一年余り前の1940年9月に北部のハノイ、翌年7月に南部のサイゴン(現在のホーチミン)に始まりました。
日本軍によるベトナム支配は、日本が敗戦を迎える1945年8月15日まで続きました。この間に、200万人以上といわれる餓死者を出したことは、日本ではあまり知られていません。しかし、一方で「餓死者数が多すぎる」「政治的プロパガンダだ」、「原因は日本軍とは関係ない」「ベトナムは年中飢饉」などの異論・反論は意外と熱心に繰り返されています。
早乙女勝元さんの『ベトナム“200万人”餓死者の記録』(大月書店、1995年)を今回あらためて読み直しました。早乙女さんは、天候不順による凶作が続いたことも原因の一つだが、米の生産量が減ったにもかかわらず「強制買付量」は増え、食料米を補ってきたトウモロコシなどの雑穀も日本軍が買い占め、加えてジュート、チョマ、落花生、胡麻など繊維性・油性作物栽培の強要が飢饉を深刻にしたこと。また、連合軍の爆撃や戦闘で南部のメコン地帯から北部への輸送が途絶したことによる、と詳細なデータや証言を基に述べています。
今回、驚いたことは200万人の餓死者を出した1945年の上半期、ベトナムには餓死せずともすむ充分な米が日本軍の手にあったという事実です。下の表は、1941年度から1944年度までにインドシナ(ベトナム)から三井物産を通して日本に送られた米の量の統計です。日本からの「要求目標量」と輸送権を独占した三井物産の「買付実績量」、そして「日本に送られた量」を表しています。
|
1941年度 |
1942年度 |
1943年度 |
1944度 |
日本からの要求総量 |
700,000トン |
1,074,000トン |
1,125,904トン |
900,000トン |
三井物産の買取実績 |
585,000トン |
973,908トン |
1,023,471トン |
498,525トン |
日本に輸送された量 |
562,600トン |
973,100トン |
662,100トン |
38,400トン |
注目すべきは1944年度です。凶作で「買取実績」は目標の55%余りですが、制海権も制空権もなく輸送自体ができない状況のもと、日本に送られた量はその7.7%に過ぎません。すなわち、凶作で飢饉に苦しむベトナム人から「強制的に買い取った」米の92%余りは残っています。現地軍のための調達米は含まれていませんので、飢饉で餓死しているベトナムの人々の前に実に大量の米があったということです。なぜ? 米を配給(返す)しなかったのか! 問うだけ、むなしいのかも知れません。それが侵略であり、戦争なのだと思います。
今回、読み直し、表にして見て、あらためて戦争の本質、事実に触れた気持ちです。
早乙女さんは第6章「誰に責任が?」の最後にこう書かれています。「これは南京大虐殺のように、日本軍が血まみれの日本刀を振りかざしての虐殺行為とは異なる。しかし南京大虐殺の数倍にもおよぶ間接的な恐怖地獄であり、そもそもの元をたどれば、タイルオン村で家族9人を餓死させたファン・スンさんが憤怒の声でまくし立てたように、「こっちが来てくれと言ったわけじゃないのに、向こうから勝手に押しかけてきた」という侵略に非があるのは誰の目にも明かである。日本人にとっては、忘れてはならない歴史の一ページであり、いつまでも心に刻まなければならないはずの重い負債である」と。
ヒロシマとベトナム、類似性と相違性
ヒロシマとベトナム、核兵器と化学兵器という大量無差別に殺傷し、後障害を含め幾世代にもわたって身体と心を蝕み、生命を奪い続けるという非人道的な兵器による戦争被害を受けました。そこに「核も化学兵器も、そして戦争もNO!」という共通の願い、友好と連帯の絆があります。
しかし、同時に私たち日本人は、ヒロシマは加害の日本であり廣島でもあったことを決して忘れてはならないと思います。栗原貞子さんの「ヒロシマというとき、ああ ヒロシマと やさしく返ってくるだろうか」という問い、「そのためには 捨てたはずの武器を 本当に捨てねばならない」との誓いを心に刻みながら、今年も10月の「第14次HVPF平和友好ベトナム訪問団」の準備を進めています。
2019年9月4日、あかたつ
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