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2019年9月 2日 (月)

高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭

昨日は、庄原市高野町の高暮ダムで「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭」が開催され、私も昨年に続き参加しました。

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日中戦争中1940年に始まった高暮ダム建設工事に朝鮮半島から労働者約2000人が、送り込まれ劣悪な条件で、労働が強制されていた事実は、1975年李実根朝鮮被爆者協会会長が中心となってこの地を訪れたことがきっかけとなり、多くの人たちの努力で明らかになりました。李さんたちの訪問が契機となって、地元に有志によって「県北の現代史を調べる会」が結成され、地道な調査活動によってその全体像が明らかになりました。

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そのことは、調べる会が1989年にその成果をまとめた小冊子「戦時下広島県高暮ダムにおける朝鮮人強制労働の記録」に詳細に記載されています。なかなか手に入りにくくなった本ですが、図書館には所蔵されていますので、是非一読して欲しいと思います。この冊子は、第1部では「高暮ダム」の歴史、第2部は「証言」という構成で102ページにわたっています。第2部の「証言」には、「調べる会」の皆さんの努力で明らかになった事実が次々と書かれていますが、特に地元高暮の人たちからの聞き取りが大きな力となっています。「はじめに」に書かれているように「この問題の当事者である朝鮮半島から直接高暮ダムへ連行された労働者にはとうとう出会うことができなかった」調査だったようですが、その実態を可能な限り明らかにしているもので、その努力には頭が下がる思いになります。

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その後、多くの人たちの努力によって、1995年7月に高暮ダム堰堤のすぐそばに「高暮ダム朝鮮人犠牲者 追悼碑」が建立されました。昨日の「碑前祭」には、当時寄付金集めに努力された関係者や高校生の後輩も出席し、当時の様子とその取り組みの意義が訴えられ、改めて参加者がこの日の持つ意味を再確認しました。

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「碑前祭」終了後、雨が降っていたため、会場を「ふるさと村高暮」に移し、「県北現代史を調べる会」の一員であった四車ユキコさんから、聞き取り調査で明らかになった当時の実態を聞き、その後焼き肉を食べながらの交流会がもたれ、朝日高校生たちの歌声などによりに親睦を深めました。

ところで、最初に「昨年に続き」と書きましたが、今年は少し様変わりをしていました。その一つが、集いの名称です。昨年までは、「ふるさと村高暮平和のつどい」として開催されていましたが、今年から先述の「碑前祭」とお替りました。その二は、昨年まで参加していた行政(庄原市)からの参加がなかったことです。この集いは、2000年に高暮小学校が廃校となり、その跡を利用して「ふるさと村高暮」が作られたことを機会に地元の自治会が中心となって「何かきちんとした行事を」ということで始まったそうです。といってもそのことを知ったのは今日が初めてですが。ところがさまざまな事情で、今年から名称の変更となり、行政からの参加もなくなったようです。今日の情勢を反映した結果ではないかと危惧せざるを得ません。もちろん、自治会としての取り組みではなくなったとはいえ、今年も地元有事の方々の大変な努力と献身的なお手伝いなしには、「碑前祭」が終了しなかったことは言うまでもありませんが、少し気になったところです。

いのととうとし

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