忘れないこと 思い出すこと 伝えること
「大気の状態が不安定です」と天気予報で聞くと、強風や落雷で被害が出るのではないか、 大雨が降るのではないかと不安になります。「線状降水帯」「バックビルディング現象」という気象用語が頻繁に聞こえ始めたのはこの数年ではないでしょうか?
赤や紫のきれいな夕焼けもあれば、真っ黒な雨雲や湧きあがる大きな白い雲など空の状況はとても興味深い反面、恐ろしいことも多くあります。
つい先日、子どもの運動会に行きました。天気予報では「午後2時くらいから雷、天気の急変に注意」とのこと。結果、天気予報はみごとに的中。運動会は最後の紅白対抗選手リレーを残すところで、明るい空がゴロゴロと鳴り始めました。生徒、保護者へ室内退避を指示するアナウンスがされると、いつの間にか黒い雲が広がり、しばらくしてバケツを返したような大雨、そして稲妻と雷鳴。そのまま中止となりました。(リレー競技は翌日、先生方も含め全学年で開催したそうです。)
記録的な豪雨災害は、広島県内で記憶に新しいだけでも昨年7月、5年前の8月、9年前の7月と発生しています。
広島市のホームページによると「広島市内20の水害碑が確認できる」とあります。そのうち7つは5年前の2014年8月豪雨によって建立されたものです。
子どもの頃、家のすぐ近くに水害の碑がありました。漢字だらけで何が書いてあるのかわからず、祖父母からは「昔、大水が出て、亡くなった人がたくさんおった。お墓みたいなもんじゃ」と聞いていました。大きくもない浅い川なのにです。
昨年7月の雨の日、その川の上流から水があふれ、実家の玄関前まで水がきたそうです。そして、子どもの頃遊びまわっていた町の景色は、大きく変わってしまいました。よく見ていた家や道は崩れ、被害にあった知人、家族をなくした同級生もいます。まだ各地で生活を再建できない人も多くいらっしゃいます。
久しぶりに水害の碑まで行ってみました。小さな看板が碑のそばに作られていました。昨年は中止だった神社のお祭りは、今年は開催されました。
碑文を見てみました。内容がほんの少しですが読みとれます。災害発生前の村の様子や、地域と川についての説明。雨が続き、突然発生した土石流に村人たちは何もできなかったことなど書かれています。そして、多くの支援や援助により復興したことや、この災害は後世に伝えるべきであるという石碑を建てた目的も記されていました。
今年の夏、2016年4月に地震があって以来、行っていなかった熊本(阿蘇周辺)に一泊してきました。それまでは、年に最低一回は訪問していたので、本当に久しぶりに感じました。いつもの宿で「ご無沙汰しています。お元気でしたか」と挨拶を交わし、温泉でボーっとして、いつものおいしい物を食べて、いつもの野菜や果物を山のように買って帰りました。
人の記憶は薄れていくもので、すべてを忘れないというのは困難です。時に思い出して訪問し、話しかける相手がそこにいなくとも、昔話になっても、家族や知人に話していきたいと思います。
(はたや)
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