「広島ブログ」

2023年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 2019年8月 | トップページ | 2019年10月 »

2019年9月

2019年9月30日 (月)

9月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

9月は月末まで暑いが続いた。ブルーベリー畑に敷いている防草シートを畳み、伸びた枝の剪定を優先して、草刈りは後回し。下旬に残っていたブルーベリーの実を摘みとり、その一部を安芸の郷のcafeさくらで提供するブルーベリージュース用に納品した。10月の第一週くらいまでお客さんに提供できそうだ。

Photo_20190929212801

藁ぶき屋根にトタンを覆った農園の屋根越しの空は初秋なのに真っ青。9月16日(月)

Photo_20190929212802

摘みとりの終わったブルーベリー農園の作業は3段ある畑の防草シートをはがして畳むこと。(9月28日)

Photo_20190929212901

つづいて始めたのが伸びたブルーベリーの枝を切る秋剪定。(9月22日(日))

Photo_20190929212902

切った後は背が低くなる。そして、9月末までに剪定をすると花芽がついてくれるので実が摘みとりやすくなる。(9月26日(木))

Photo_20190929213001

枝はまだ生木なので剪定鋏に木の水分がついてねちゃねちゃとねばりついて鋏が開きにくくなるのでこまめに水でこすって洗う。(9月26日)

農園にあるブルーベリーの全部は切れないので9月末までにできるところまで剪定を続ける。

Photo_20190929213002

田んぼは稲刈りが終わり法面の草刈り、切って乾かした草を焼く煙がたなびく(9月26日)

Photo_20190929213003

秋剪定しながら、残っているブルーベリーの実を籠に入れる。少量でもヨーグルトに入れるとぱりぱりおいしく食べられる。(9月28日(土))

Photo_20190929213101

ヒガンバナ。今年は開花が遅かった(9月28日(土))

Photo_20190929213102

富有柿。ちょっと黄色くなってきた。(9月28日(土))

Photo_20190929213103

キツネノマゴ。畑の下草であちこちに生えている。とても小さい花。(9月29日(日))

2019年9月30日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月29日 (日)

白島地区の被爆樹木を訪ねて―その1

今日から2回は、先日広島市の被爆樹木リストを手に、訪ね歩いた白島地区の被爆樹木についての報告です。

最初の訪れたのは、広島県立文化芸術ホールー上野学園ホール(旧郵便貯金会館)東側に並ぶクスノキです。アストラムラインの白島駅の北西の階段を下りた先から広島ホームテレビ方面に向かった14本の巨樹が並んでいます。

Dsc_4167

手元の被爆樹木リストには、「付近から移植」と書かれています。このクスノキは、アストラムラインが上を走る道路が拡張される前は、道路の上下線の真ん中にある緑地帯に植わっていました。原爆投下時は、在韓被爆者の郭貴勲さんが被爆した工兵第5大隊があった場所です。郭さんの回想録「被爆者はどこにいても被爆者」の中に、この場所のことが出てきます。「太田川の分かれる三角州の頂点に位置していて、堤防が周囲を取り囲んでいて、向こう側の川べりに行こうとすれば揺れるつり橋を渡らねばならなかった」と。このつり橋は、今も「工兵橋」の名前で現存しています。この記述で分かるように、クスノキは「堤防」の上に植わっていたものと想像されます。そういえば、拡張工事前の道路の真ん中の緑地帯は、少し高くなっていたように記憶しています。戦後ここに道路を造るとき、このクスノキを残すように設計されたと思われます。ですから祇園新道(国道54号線)の拡幅工事で道路の真ん中にアストラムラインの高架をつくることになった時にも、残すことになったと想像されます。そのため、工事完了までいったん別の場所に移植され、大切に管理されたのです。うろ覚えですが、植物公園だったような気がします。当時牛田新町に住んでいましたので、移植する少し前に、大きな枝が切り落とされた様子を覚えています。

Dsc_4164

当時は「あんなに枝を切り落として枯れないのかな」と感じたものですが、工事完了後現在地に移植され、すべてのクスノキが無事に根付き、今は大きく枝を広げ、堂々と立っています。一カ所に14本もの被爆樹木があるのはここだけではないでしょうか。

次に訪ねたのが、150mほど東にある安田学園の被爆樹木です。ここには、ソメイヨシノとクロマツ(5本)があります。現地に着くと、正門横にある守衛所で撮影の許可をお願いしました。守衛さんが、事務所に問い合わせた結果は「敷地内は私有地なので撮影はだめ」との返事でした。間もなく事務所から人が出てこられましたので、改めてお願いしたのですが、「門の外からなら構いません」との返事。

199283  

敷地内で樹木を見ることは許可されましたので、被爆樹木の近くに行くことができました。どうしたも近くに行ってみたかったのは理由があります。広島市のホームページに記載されている「(クロマツの)幹にある傷は、戦時中航空機燃料にするために松ヤニ(松根油)を採取した跡と思われます。」を確認したかったからです。実は出雲市の私が生まれた地区には幅650m長さ1.7kmの広大な砂山があるのですが、そこは砂の飛散を防ぐためのクロマツがびっしりと植えられています。この砂山は私の遊び場でもありましたので、そこの松も戦争当時、松ヤニ(松根油)を採取が行われ、その傷跡が残っていたのが強い印象として今も残っていたものですから、ここでもその傷跡を確かめたかったのです。安田学園でその傷跡をはっきりと確認できなかったのが、残念でした。

199284   

もう一本の被爆樹木ソメイヨシノは、門を入った正面に植わっています。もちろん今回は、花を見ることはできませんが、私は何度もこのソメイヨシノが満開になった風景を見ています。80年代に入って私が、牛田新町から転居した白島中町の選挙の投票所が、安田学園の講堂だったからです。統一自治体選挙の投票日にはちょうどこのソメイヨシノが満開の花をつけていました。

まだまだ被爆樹木めぐりは続きますが、残りは二回に分けて来月初めに報告することにします。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月28日 (土)

忘れないこと 思い出すこと 伝えること

「大気の状態が不安定です」と天気予報で聞くと、強風や落雷で被害が出るのではないか、 大雨が降るのではないかと不安になります。「線状降水帯」「バックビルディング現象」という気象用語が頻繁に聞こえ始めたのはこの数年ではないでしょうか?

赤や紫のきれいな夕焼けもあれば、真っ黒な雨雲や湧きあがる大きな白い雲など空の状況はとても興味深い反面、恐ろしいことも多くあります。

 つい先日、子どもの運動会に行きました。天気予報では「午後2時くらいから雷、天気の急変に注意」とのこと。結果、天気予報はみごとに的中。運動会は最後の紅白対抗選手リレーを残すところで、明るい空がゴロゴロと鳴り始めました。生徒、保護者へ室内退避を指示するアナウンスがされると、いつの間にか黒い雲が広がり、しばらくしてバケツを返したような大雨、そして稲妻と雷鳴。そのまま中止となりました。(リレー競技は翌日、先生方も含め全学年で開催したそうです。)

記録的な豪雨災害は、広島県内で記憶に新しいだけでも昨年7月、5年前の8月、9年前の7月と発生しています。

Photo_20190927075501

広島市のホームページによると「広島市内20の水害碑が確認できる」とあります。そのうち7つは5年前の2014年8月豪雨によって建立されたものです。

子どもの頃、家のすぐ近くに水害の碑がありました。漢字だらけで何が書いてあるのかわからず、祖父母からは「昔、大水が出て、亡くなった人がたくさんおった。お墓みたいなもんじゃ」と聞いていました。大きくもない浅い川なのにです。

Photo_20190927075601

昨年7月の雨の日、その川の上流から水があふれ、実家の玄関前まで水がきたそうです。そして、子どもの頃遊びまわっていた町の景色は、大きく変わってしまいました。よく見ていた家や道は崩れ、被害にあった知人、家族をなくした同級生もいます。まだ各地で生活を再建できない人も多くいらっしゃいます。

久しぶりに水害の碑まで行ってみました。小さな看板が碑のそばに作られていました。昨年は中止だった神社のお祭りは、今年は開催されました。

Photo_20190927075602

碑文を見てみました。内容がほんの少しですが読みとれます。災害発生前の村の様子や、地域と川についての説明。雨が続き、突然発生した土石流に村人たちは何もできなかったことなど書かれています。そして、多くの支援や援助により復興したことや、この災害は後世に伝えるべきであるという石碑を建てた目的も記されていました。

今年の夏、2016年4月に地震があって以来、行っていなかった熊本(阿蘇周辺)に一泊してきました。それまでは、年に最低一回は訪問していたので、本当に久しぶりに感じました。いつもの宿で「ご無沙汰しています。お元気でしたか」と挨拶を交わし、温泉でボーっとして、いつものおいしい物を食べて、いつもの野菜や果物を山のように買って帰りました。

Photo_20190927075701

人の記憶は薄れていくもので、すべてを忘れないというのは困難です。時に思い出して訪問し、話しかける相手がそこにいなくとも、昔話になっても、家族や知人に話していきたいと思います。

(はたや) 

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月27日 (金)

白島に建つ原爆文学者ゆかりの碑

22日、23日のブログで紹介した「原民喜」のお墓を真ん中に挟む位置に二人の原爆文学者ゆかりの碑があります。当日そこも訪ねていますので、今日はその二つの碑を紹介したいと思います。

北方向に200mちょっと離れた白島九軒町にある宝勝院の墓地の一角に、土台を除き縦約90センチ、横約120センチの「大田洋子被爆の地」という碑があります。

Dsc_4184

大田洋子は、原爆が投下された1945年1月に東京から広島に移転し、8月6日にはこの白島九軒町の妹中川一枝宅で被爆しています。大田洋子の著書「屍の街」には、こう書かれています。「私は、母や妹たちの住んでいる、白島九軒町の家にいた。(略)私たちも、母と妹と、妹の赤ん坊と女ばかり4人住んでいた。」と。ここが大田洋子の被爆地なのです。ところで、この碑は、被爆65周年の平成22年(2010年)7月に建立されているのですが、この地に作られた経緯を、当時の中国新聞は「宝勝院の前住職国分良徳さん(81)が29日、寺の南側にある墓所に文学碑を建立した。同作品(「屍の街」のこと)に国分さん家族の被爆体験が盛り込まれていたのがきっかけという。16歳だった国分さんは寺で被爆。母と妹、弟が下敷きになって死亡した。大田洋子は当時隣の家で被爆しており、『屍の街』には『寺では夫人と赤ん坊と五つの男の子の三人が、下敷きになつて死んだという』と、国分さん一家の状況に触れた文章がある。国分さんは、自分が大田さんにそのことを話した記憶があるといい、この記述に気付いて建立を思い立った。」と報じています。

Photo_20190923174701

碑銘には、「屍の街」の上記の部分が刻まれていますが、碑文では「五つの男の子」の部分が実際の「七つの女の子」に訂正されています。

ところで「屍の街」には、妹との興味深い会話の場面があります。「『お姉さんはよくご覧になれるわね。私は立ち止まって見たりできませんわ。』妹は私をとがめる様子であった。私は答えた。『人間の眼と作家の眼とふたつの眼で見ているの。』『書けますか、そんなこと』『いつかわ書かなくてはならなね、これを見た作家の責任だもの。』」と。その強い思いが、自らの被爆体験を克明に記録した発表されたのです。

市内には、もう一つ大田洋子の碑があります。基町市営アパートの南側にある中央公園の西側木立の中に立つ「大田洋子文学碑」ですが、今日は、写真での紹介だけにしておきます。ここでもちょっとした発見(私なりのですが)がありましたが、また機会があれば紹介したいと思います。

Dsc_4242

もう一つは、原民喜の墓から南に100m余り離れた日本郵便株式会社中国支社(旧中国郵政局)の敷地に作られた栗原貞子さん作「生ましめんかな」の詩がはめ込まれたモニュメントです。

Dsc_4225

このモニュメントは、中区千田町にあった旧貯金局が取り壊される際、被爆屋上タイルを保存するために作られたものです。旧貯金局の地下室の情景を詠んだといわれる栗原貞子さんの詩と一体のものとして作成されてようです。「生ましめんかな」は広く知られている詩ですので、ここでは紹介しません。

Dsc_4220

ところで、このモニュメントの周囲には、「慰霊碑」や旧広島逓信局の被爆石段などがあります。興味深いのは、旧貯金局のモニュメントの横に、「被爆アオギリ二世」が植えられていることです。平和公園の資料館北側に植えられている「被爆アオギリ」は、もともとこの場所で被爆し、1973年4月に庁舎改善などが行われた時、被爆の生き証人として広島市に寄贈され、平和公園内に移植されたものです。ここに植わっている「被爆アオギリ二世」は、被爆50周年の年「1995年」、子どもの代になって里帰りしたようです。

ところで、この旧中国郵政局の敷地には、逓信病院がありました(今も同じ場所にあるのですが)。この逓信病院の原爆投下翌日の情景がことが、先に紹介した大田洋子の「屍の街」の「これを見た作家の責任だもの。」のすぐ後に「死体は累々としていた。どの人も病院の方に向かっていた。」と続き、かなり詳しく書かれています。モニュメントの立つこの場所を大田洋子が歩いたことが分かります。何か不思議なもを感じます。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月26日 (木)

9月の「ヒバクシャ国際署名」街頭行動

核兵器廃絶をめざして取り組みが進められている「ヒバクシャ国際署名」への協力を呼びかける街頭行動が、昨日午後0時30分から30分間元安橋の上で取り組まれました。この街頭署名行動は、「ヒバクシャ国際署名広島県推進連絡会」(広島県原水禁も加盟)が呼びかけ、2カ月に1回定例で取り組まれているものです。

Dsc_4260

やや日差しの強い昼下がりでしたが、被爆者の皆さんをはじめ推進連絡会のメンバー約30人が、平和公園を訪れた人たちに「署名」への協力をお願いしました。わずか30分間の行動でしたが、いつもより多めの(私の感じ)356筆が集まりました。

Dsc_4257

その中には、もちろん日本人の協力も多くありましたが、外国から訪れた人たちが署名に協力する姿も多くみられました。私も何とか8名の署名を集めましたが、そのうち3名は外国人でした。昼休みの時間ですので、近くで働く人と思える姿もありましたが、観光客と思える人たちは、日本人より外国からの訪問者が多いように見えました。ここ数年、外国からの旅行社が増大していると言われていますが、そのことが実感できる人の流れでした。もし署名を呼びかける人たちの中にもっと外国語に堪能な人たちが増えれば、外国人の署名はもっと増えるような気がします。それは資料館を見学している外国人の熱心な姿からも想像できることでもあります。

Dsc_4258

外国人旅行客以外で目に付くのは、修学旅行で訪れた子どもたちです。その中には自分たちから寄ってきて署名する子どももいました。署名を集めながらの写真ですので、なかなか良い写真がありませんが、雰囲気を感じてほしいと思います。

昨日の行動開始までに「ヒバクシャ国際署名広島県推進連絡会」に届けられた署名数は、527,022筆です。昨日も街頭署名以外にも、参加団体で集められた署名が持参されていますので、もう少し増えると思いますが、もう一踏ん張りが必要だと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月25日 (水)

どうして千葉県内の停電は長びくのか

9月9日に関東地方を襲った台風15号の影響による千葉県内の長びく停電、復旧の見込みも今月末頃になるという新聞報道、家屋が壊れている上に停電に、その不自由をしている人たちに対し本当に同情します。

「首都圏というのはあまり台風が来ないところだよねー」と最近まで東京に住んでいた友人に話したら、「よく来るんだけど、首都圏に来るまでに弱っていることが多いから、大きな影響は比較的少ないんだ」と友人は答えました。

それにしても1年前の昨年9月6日の北海道電力管内での「ブラックアウト」、これは地震により停止した大規模な火力発電所に、電力を依存し過ぎていたことや、本土側からの融通電力線の容量が少なかったことなどが原因とされていました。

この時「北海道全土が停電した」と報じられていましたが、奥尻島や礼文島では停電していませんでした。その理由は、これらの島には島の人たちに供給するための小規模な発電所があったからです。

大規模な発電所に頼るのではなく、電力の「地産地消」を進めるべきだと私たちは云いつづけてきたつもりです。

さて、この度の首都圏内での長びく停電、台風の勢力が強かったというのもありますが、最近の台風が強すぎるというのは電力会社も知っているはずです。

Yjimage4_20190924134001

また風速40メートルに耐えるように送電線鉄塔は建てられているとのことですが、鉄塔は2基倒れ電柱も数多く倒れました。鉄塔や電柱はきちんと点検されていたのでしょうか。

大規模な発電所から長い長い送電線を使って、都市に電力を送るのではなく、「スマートシィテイ」「スマートグリッド」といわれる方向に送電網を改めるようにとも提言されていました。そして、電線の地中化も促進すべきです。

原発建設には湯水のようにお金を使い、大事故を起こしてしまった東京電力の場合、実質的には倒産している状況の中では、福島第一原発事故への対応にしかお金が使いにくいということもあるでしょうが、いくら考えてもおかしなことだと思います。

来年4月からは、電力会社では送配電事業の法的分離が実施されます。そして最近特に疑問に思うことですが、実際に電柱を直したり鉄塔に昇って作業ができる電力会社本体の社員というのがどれくらいいるのだろうかということです。どうも下請け、孫請けに任せ過ぎるような傾向にあるように思うのです。

任せることをすべて悪いとはいいませんが、本体の社員も技術的なノウハウや現場を十分に知っていることが重要だと思います。本体の社員はパソコンに向かっての作業が主体で、現場を知らないのが多いのではないでしょうか。

それにしても大被害が起こっている最中に内閣改造を行い、大臣たちは笑顔で会見に臨んでいる姿、僕は「首相の動静」というのを数年切り抜いていますが、さすがに高級料理屋での食事はないようですが、首相が現地に行ったというのはありません。

まあー安倍晋三さんが現地に行けば、作業をしている人には迷惑で邪魔でしょうけどね。福島原発震災直後、当時の菅直人首相が現地に行って、作業を行っている人の邪魔になったというのを思いだしました。

木原省治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月24日 (火)

「戦争させないヒロシマ総がかり行動」県内各地で一体となった取り組みを―三原地区の行動から

9月20日のブログで発信がありましたようにヒロシマ総がかり行動実行委員会は、戦争法(安全保障関連法)が国会で強行採決・成立して4年目を迎えた9月19日、県内で一斉に「戦争法」廃止・9条改憲NO!をアピールする行動が呼びかけられました。ブログへの投稿の呼びかけもありましたので、三原での行動を報告します。

三原地区労センター、部落解放同盟三原市協議会、九条の会・三原などで構成する「戦争をさせない三原市民行動」は、2015年9月19日のあの悔しさを忘れることなく、毎月19日、17時30分から三原駅前において戦争法の廃止を求めて街頭宣伝活動を行っています。

今月の「19日行動」は、参加者20人。スピーカーは、寺田元子市議会議員(日本共産党)が「防衛費の増大ではなく年金や医療、介護、子育てなど社会保障の充実を」。藤本講治(地区労センター)が「4年前、国会前で戦争法強行採決阻止の行動に参加した。あの時の悔しさを忘れることなく憲法違反の戦争法の廃止を求め続ける」。齋尾和望さん(九条の会)が「徴用工問題など韓国敵視を煽り、日韓を敵対関係にするな」など5人がマイクを持ち、日本国憲法の基本である民主主義、平和主義、基本的人権の尊重をないがしろにする安倍政権の暴走を止めようと訴えました。なお、10月から2月までは冬季期間となりますので、19日前後の土曜日13時30分に変更して街頭行動を行います。

919

919_20190923150101

ここで総がかり行動について少し触れておきます。私が平和運動センター事務局としてかかわっていた2014年5月の「戦争をさせないヒロシマ1000人委員会」の結成にさかのぼることとなりますが、安倍政権の「戦争法制定に反対し、廃案にしよう」という目標を掲げ、弁護士会や市民団体とともに市民集会やストップ!戦争法ヒロシマ集会の開催。「NO WAR NO ABE・1万人の人文字行動」など1日共闘的な共同行動を展開しました。憲法違反の戦争法案は、2015年9月19日に強行採決され成立しましたが、その後も日常的な共闘として憲法統一集会、毎月「19日」行動を積み重ねました。現在は、「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」(略称:ヒロシマ総がかり行動)として「3日」行動を軸にして改憲阻止の共同行動を取り組んでいます。【実行委員会の主な構成団体=広島県9条の会ネットワーク・秘密法廃止!広島ネットワーク・戦争をさせないヒロシマ1000人委員会・憲法と平和を守る広島共同センター】

1000

913

このように総がかり行動は、過去の運動経過(労働運動、原水禁運動、部落解放運動、護憲運動など)を乗り越え、全国組織の運動形態のように3つの潮流(市民団体、旧総評・連合系団体、全労連・共産党系団体)が9条改憲NO!で共同行動を展開する画期的な取り組みとなっていることです。そして、その運動の中心的な役割を「戦争をさせない1000人委員会」が担うことが重要だと言われています。私も1000人委員会の一員ですので、三原において市民団体、民主団体からの大いなる期待をひしひし感じています。地区労組会議(地区労)をはじめとする1000人委員会が県内各地でヒロシマ総がかり行動の連帯の輪に加わるよう取り組みの強化を願うものです。

これからもともに頑張っていきましょう。

藤本講治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月23日 (月)

原民喜の墓

今日は、昨日のつづき原家のお墓についてです。「原民喜の墓」ではなく「原家のお墓」と書いたのは、この墓は原民喜の他の親族も埋葬されていることが分かったからです。そのことには、後で少し詳しく書きます。昨日も書いたように「原家のお墓」は、東白島町の円光寺の墓所にあります。南側の境界の塀に沿って北向きに並ぶ墓の一番東側で、墓所の東南の角です。

Dsc_4210

原家の墓は、北向きの一番東側にあるため、墓の正面に北向きの通路が伸びています。墓所にはびっしりとお墓が建ち、通路も狭くなっていますので、他家のお墓を正面から撮影するのに一苦労するのですが、原家のお墓は、正面から全体をきちんと映すことができました。

Dsc_4211

お墓の向かって右側の側面に、物故者の名前が刻まれています。他のお墓と同じように亡くなった順に右から名前があります。一番右側に原民喜の妻「貞恵」の名前があり「昭和十九年九月二八日没 三十四才」と刻まれています。ここには享年「三十四才」となっていますが、昨年岩波新書として発刊された梯久美子さんの著書「原民喜」の中では、「享年三十三」となっています。数え年と満年齢の違いだと思われます。その左には、昨日のブログで触れた「文彦」の名前があり「昭和二十年八月六日没 享年七才」と刻まれています。陸軍偕行社が運営していた済美小学校の一年生だったそうです。改めて、昨日引用した「夏の花」に書かれた、悲惨な姿が思い起こされます。その左に「民喜」の名前があり「昭和三六年三月十三日没 四十六才」と刻まれています。その左に「邦彦」の名前があり「昭和五十年十月二十五日没 四十三才」と刻まれています。墓碑の次に刻まれている「守夫 昭和五十三年六月三日没 七十五才」は、お父さんではないかと思われます(文生さんに聞けばよかったのですが)ので、邦彦さんも、被爆直後の死は免れたものの早い死といわなければならないと思いました。墓碑の最後には、文彦さん、邦彦さんたちのお母さんと思われる「良子 平成十年六月十七日没 八十八才」が刻まれていました。ご冥福をお祈りいたします

原家のお墓には、この墓碑の下の墓石の左右両面に文字が刻まれています。隣お墓と近すぎてその場では読みにくかったのですが、写真を撮り、帰宅して拡大してみるとようやく判別できました。

Dsc_4217

向かって右側は、原民喜の「碑銘」と題された短い詩が刻まれています。

遠き日の石に刻み

             砂に影おち

崩れ墜つ 天地のまなか  

一輪の花の幻

この詩は、原民喜が作家遠藤周作に宛てた遺書の裏面に記載されていたそうです。原爆ドーム横の「原民喜の碑」にも、この詩が刻まれています。

Dsc_4219

向かって左側は、写真を撮るのが難しかったです。ここには7月26日のこのブログ「『星は見ている』の初版に『読後感』が掲載された経緯」で少し紹介した「ゆうかりの友」の冒頭に掲載されている原邦彦作「ゆうかりの友」という短い詩が刻まれています。

ゆうかりのもとに つどいし友よ

ゆうかりのもとで ちりし友よ

その面影は 今も変わらず

寄り道のような形で訪ねた「原家のお墓」でしたが、文生さんとの出会いもあり、原民喜と原家の人たちが少し身近に感じられるようになったお墓参りでした。

P1130107

遊川さんが送ってくれた今日のお花は、彼岸花です。今日のブログにぴったりだと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月22日 (日)

原民喜の墓前での不思議な出会い

台風の到来前にと思い20日の午前中、白島地区の被爆樹木を訪ねて回りました。その途中、以前から訪ねたいと思っていた原民喜の墓がある東白島町の円光寺に寄りました。バス通りから墓地に入るとびっしりと墓が立ち並んでおり、どこにあるのかすぐにはわかりません。ちょうど墓参りのご夫妻がおられたので、「原民喜の墓をご存知ですか」と尋ねると「墓所の右手の一番奥のところですよ」と親切に教えていただきました。教えていただいた通りに進むと、ちょうど原民喜の墓と思える墓前で、お花をあげてお参りされている人が見えます。近づくとやはり、原民喜の墓でした。「失礼ですが、原家の方ですか」とお尋ねすると「そうです。原家のものです。お彼岸が近いので、墓参りに来ていたところです」との返事が返ってきました。

Dsc_4209

さらに「私は、原ふみおといいます。私は、昭和22年生れですが、父が『この子は、文彦の生まれ変わりだ』といって、文彦の文に生まれるという字を付けて『文生』と付けてくれたそうです。」と話してくださいました。びっくりです。そんなゆかりのある人に偶然にもお会いするとは。「文彦」は、原民喜の「夏の花」にも重要人物として登場する民喜の甥ですから、びっくりするのは当然です。「夏の花」(1988年刊、岩波文庫より)のその場面を少し長いのですが引用します。被爆翌日のことです。

「馬車は次兄の一家族と私と妹を乗せて、東照宮下から饒津神社に出た。馬車が白島から泉邸の方へ来掛かった時のことである。西練兵場の空き地に、見憶えのある、黄色の、半ずぼんの死体を、次兄はちらりと見つけた。そして彼は馬車を降りて行った。嫂も私もつづいて馬車を離れ、そこへ集まった。見覚えのあるずぼんに、まぎれもないバンドを締めている。死体は、甥の文彦であった。上着は無く、胸のあたりに拳大の腫れ腫物がありものがあり、そこから液体が流れている。真黒くなった顔に、白い歯が微かに見え、投出した両手の指は固く、内側に握りしめ、爪が喰その側に中学生の屍体が一つ。それからまた離れたところに、若い女の死体がひとつ、いずれ、ある姿勢のまま硬直していた。次兄は文彦の詰めを剥ぎ、バンドを形見にとり、名札を付けて、そこを立ち去った。涙も乾きはてた遭遇であった。」

ここに登場する次兄こそが、文生さんのお父さんです。文生さんのお兄さんたちの名前には、「彦」(文彦、邦彦、時彦)の字が使われていますから、被爆後に生まれた文生さんには、文彦さんを原爆でなくした父親の思いが込められた名前が付けられたのです。

原水禁大会で「夏の花のフィールドワーク」を行ったことなど話しているうちに「あなたは、金子さんですよね」と言われ、再びびっくりです。選挙のたびに応援していただいたようで、私のことをよく知っておられたのです。だから初対面の私に、自分の名前の由来を話しいただけたのだと思います。その後は、私も遠慮を忘れて、本通のお店があった場所(原家の住居)など、いろんなこと教えていただきました。「お彼岸の中日23日は台風の影響で来られないと思い、今日お墓参りに来たのです」とのこと。もし、ここを訪れる時間が少しでもずれておれば、またが近づくという予報がなければ無かった出会いです。7月に、初めて原邦彦さんゆかりの広島一中の追悼式(7月30日のブログで紹介)に参加したことといい、この日の文生さんとの出会いといい、不思議な縁を感じます。

原文生さんのおかげで、私も線香の火が消えないうちにお墓に手を合わせることができました。

明日のブログでは、原家のお墓について紹介したいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月21日 (土)

核廃絶運動は歴史的厳しさに直面している (6) ――憲法の復権と民主主義の再生が必要――

今回そして次回は、このシリーズの最後として、結論を簡単にまとめて述べておきましょう。述べることは簡単にできますが、それを実現するためには、固い決意と忍耐強い努力が必要なことは言うまでもありません。

前回までは、日本政府の究極的な目標は「日本自前の核兵器を保有する」であり、日本政府が、核兵器禁止条約の署名と批准を頑なに拒否しているのはそのせいだと考えると、辻褄が合うことを確認しました。そして、それに対抗する核廃絶運動は、国内の政治を変えるという目標を実現する運動というよりは、国際的な場に参加する活動が主であり、日本政治のいわば「本丸」にも相当する様々な課題についての統一した勢力を創るだけの実績やエネルギーがあるのかについても厳しい環境にあることも見てきました。

しかしながら、核兵器廃絶への可能性が核兵器禁止条約という形で見えて来た今、日本政府が先導役を果すために一大方針転換をしなくてはなりません。それを可能にするのは私たち主権者ですから、何をなすべきなのかについて、再度確認をしておきましょう。

まず、日本の政治の主役は主権者ですが、その最終責任も当然、主権者が負うことになります。政府がとんでもない施策を展開しその結果として私たちが犠牲を払わなくてはならないとすると、一義的な責任は当然、政府にあるのですが、そんな政府を作ってしまった責任は主権者にあるのです。政治に関心を持ち、政府の批判をし続けてきた私たちに取って見逃し易い点なのですが、その政府がどのような施策を展開するのかを決める力は主権者にあるのですから。

それは、憲法にも明確に示されています。12条です。その前段を引用しておきます。

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。

日米の政府が揃って主張している路線を続けると、やがてどこかで核兵器が使われ、その結果として人類は滅亡するかもしれません。それは、究極の人権侵害ですが、そうならないように、私たち自身の人権を守る、つまり「保持」する義務を私たちは負っています。そのための努力は「不断」にしなくてはなりません。断えることがないとは言っても、寝ている間には努力はできませんので、これを言い換えると、「寝る間も惜しんで」ということなのです。

このブログをお読みの皆さんは、文字通り寝る間も惜しんで頑張っていらっしゃる方が多いと思いますが、世の中には、それほどの覚悟で政治的な問題に関わっている人は少ないのではないかと思います。その状態を少しは改善しなくては、日本政府に核廃絶の先頭を切るように説得することはできません。

政治は数という側面もありますので、もっと多くの市民に覚悟を新たにして貰わなくてはなりませんが、その覚悟の必要性を分って貰うことが、第一歩です。そのために、次の三つの事実は効果があるように思います。

  1. 国が作り、管理している年金制度による年金の支給額では、高齢者が生活できない。それとは別に2000万円もの貯金が必要だということを、政府の試算が明らかにした。現状では、そのツケは高齢者が払うことになっているが、それは全くのお門違いで、その責任は政府に取らせなくてはならない。
  2. 戦争とその犠牲について、政府の一貫した考え方は、戦争を起すのは政府だが、戦争の結果生じる犠牲は、国民が甘んじて受け入れ、耐え忍ばなくてはならないということだ。この考え方は「受忍論」と呼ばれ、被爆者援護法を作る上での基本的考え方として示されている。
  3. 福島の原発事故について、東電幹部に対する訴訟で明らかになったのは、国も、東電も、その他、原発についての施策を推進し、原発で金儲けをしてきた人たちの誰も、事故についての責任は負わなくて良いという無責任政治の本質だ。

  Photo_20190920222001

 このような形で、最終責任を負わされる私たちが現状を変えるためには、今は関心がない人でも、チョッピリ関心を持って政治に関わらなくてはならないのですが、そのためにはもっと多くの人に参加が必要であることを伝え説得して行く必要があります。そして覚悟を決めて政治参加をして貰わなくてはなりません。

そのために何をすべきなのかについても論じたいと思いますが、次回には、その点から始めて、日本政府説得の出発点としての被爆体験の理解、そして核兵器使用による「核の冬」や「核飢饉」等の世界的影響についての情報発信の重要性に言及します。

さらに、それを元にしての政治活動として、地方自治体の力を生かすいくつかの提案、さらにはインターネット利用による情報の共有についての問題提起をしたいと思います。

[2019/9/21 イライザ]

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月20日 (金)

戦争強行採決から丸4年―全県一斉アピール行動

4年前の9月17日未明、参議院で憲法違反の「戦争法」が強行採決されました。私たちは、これまでもこの「戦争法」を廃止せよと、様々な行動を取り組んできましたが、節目となる昨日「戦争させない!9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」の呼びかけで県内各地(府中市、福山市、尾道市、三原市、三次市など)で、街頭でのリレートークやチラシ配布行動が行われました。

Dsc_4159

広島市では、午後5時半から広電本通電停付近を中心に、約1時間の行動が行われました。

今日の街宣行動には、立憲野党5党の代表が揃いら、「安倍政権打倒」「消費増税反対」「戦争への道を歩むな」「福祉の充実を」など多岐にわたるテーマでそれぞれの立場から訴えました。続いてマイクを握った寺西環江弁護士は自らの弁護士活動で体験したことを話しながら「本当に困っている生活者に行政や国の援助がない。そのためには、政治を変えることがどうしても必要。みなさん選挙に行っていますか。若い人は、選挙に行ってもどうせ政治は変わらないと思っているかも知れませんが、それでは政治は変わりません。政治を変えるのはあなたです。有権者の皆さん選挙に行ってください」と呼びかけました。

Dsc_4161

次は秋葉忠利さんです。いま全国各地で起きている災害の問題を取り上げ、「いま必要なことは、この自然災害に対処するための予算をもっと増やさなければなりません。ところが、戦争のない今の時代の中で、軍事費だけは最大になっています。自然災害にこそお金を使うべきです。そういう政治に変えることができるのは、みなさんです」と訴えました。続いて「従軍慰安婦問題」に取り組む岡原さんの訴え。締めくくりは総がかり行動実行委員会事務局長の石口俊一弁護士。「戦争法成立4年目。立憲野党が一緒になって安倍の戦争への道をストップさせたい。映画『ひろしま』や『この世界の片隅で』は原爆の生々しい状況や戦争の被害をわかり易く表現しています。アジア・太平洋の地域で多くの命が奪われた。私たちの願いノウモアウォーは、憲法9条に繋がっています。戦争を否定する私たちの願いを踏みにじり、安倍は9条の枠組みを壊そうとしています。市民の皆さんと一緒に粘り強く運動を続けます」と訴え、行動を終了しました。参加者は、55名でした。

「戦争法」成立後も私たちの取り組みを通じ、同法による自衛隊の集団的自衛権の行使は阻止していますが、忘れてはならないことは、この4年間に日本政府による日米軍事共同行動や軍備の増強は格段に進んでいることです。日米共同訓練は、全国どこでも実施されるようになりましたし、米軍機の飛行空域も拡大しています。例えば、7月16日私たちが、原爆ドーム横で「核兵器禁止条約国連採択2周年」のためのキャンドルサービスの準備をしているその上空をオスプレー1機が、参加者の見上げる中、北から南へと平和公園を縦断する形で飛行していきました。ある人いわく「まるで原爆投下をしたエノラゲイの飛行経路をたどっているようだ」。そして「出雲の空母化」と米軍による使用などなど、日米軍事一体化がどんどん進んでいる事実を改めて見つめなおすことが必要です。それが、「戦争法」の狙いでもあることを。

この19日行動は、東京でも国会前行動として取り組まれ、全国各地でも展開されました。

行動を終えて帰宅すると三原での行動参加者が20名だったというメールで届いていました。三原の皆さんご苦労様でした。三原での具体的な行動内容は、きっと藤本さんから紹介があると期待しています。

この行動は、あきらめることなく、今後も継続して取り組みを続けたいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月19日 (木)

長崎から贈られた紫陽花

このブログで紹介した広島市青少年センター前にある「元廣島護国神社被爆鳥居台座」のすぐ横に、長崎から贈られてきた紫陽花があります。その由来を書いた石碑を取り囲むように5~6株の紫陽花が植わっています。

199191

石碑には、次のように書かれています。

「原爆の惨禍をくぐり抜け、生き残った広島・長崎の青年たちは、戦争を否定し、あらゆる核兵器の使用を許さない人道主義の立場を貫いているが、長崎青年団は、昭和五十年八月五日の平和文化都市連携に先立つ七月十四日さらに連帯を強固にするために、この紫陽花(長崎市花)を贈ってきた」(原文のまま)

石碑には、この解説文の上部に別のプレートで永井隆博士の歌が刻み込まれています。

「新しき 朝の光の さしそむる 美空にひびけ 長崎の鐘 永井隆」

その文字は、永井隆博士の直筆を刻んだもののように見えます。少し横道にそれますが、永井隆博士は、私と同じ島根県の出身です。島根県三刀屋(現在の雲南市三刀屋町)には、永井隆博物館(現在休館中。2012年4月オープン予定)があり、毎年永井隆平和賞の取り組みもあります。雲南市のホームページによれば「この平和賞は、雲南市三刀屋町出身で、白血病に侵されながらも世界に平和を訴え続けた永井隆博士の精神を受け継ぎ、『愛』と『平和』をテーマとした作文を募集するものです。今年は19都府県から1,142点の応募があり、5つの部門で20点の入賞作品が決定しました。」とあり、今年で29回目を数え、9月8日に入賞作品の発表式典が行われています。

ところで上の写真を写した今の時期は、花どころか葉も少なくなっており、ちょっと寂しい気がしました。

199192

来年の花の時期には、改めて訪れ、その様子を報告したいと思います。そういうわけで紫陽花の満開の花を写した写真を掲載できませんので、今日は、遊川さんが一昨日送ってくれた「コスモスの花」の写真を添付します。

199193

石碑の裏面には、この記念碑建立に協力された広島、長崎の人たちの名前が記載されています。広島市側として「故荒木武」「高橋昭博」さんなど51名の名前が刻まれています。長崎市側は「本島等」さんなど16名の名前が刻まれています。気になるのはその後に刻まれている「移転設置 平成6年8月26日」という文字です。「移転設置」とあるのですから、この紫陽花が長崎から贈られた「昭和50年(1975年)7月14日」に植樹した場所から現在の場所に変えられたとも考えられます。この場所は青少年センターの前ですので、本当は最初からここの植わっていたというのが自然だ(青年団から贈られたという経緯)とも考えられますが。とにかく最初に植樹された場所を特定したいと思い、青少年センターの事務局に訊ねたのですが、「ここではわかりません」との答えでした。その後すぐに広島市緑政課(中央公園などを管理している)を訪ね、問い合わせ見ました。残念ながら、「少し時間をください。調べてみたいと思いますので」と直ぐには経過を知ることはできませんでした。連絡があるのを楽しみに待っています。

石碑の裏面には、「この石は、旧広島市役所玄関手すりの一部で被爆したものです」という大切なことも記されています。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月18日 (水)

「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」

毎年、8月4日、午前8時より「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」前で、慰霊祭が行われています。

広島市内の小中学校の児童生徒・教職員のみなさんが参加をされています。もちろん遺族の方も参加されていますが、高齢になられて、ここまで来られるのも大変だろうなと思うことがあります。

Photo_20190917162601  

ちなみに、この「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」はどこにあるのか、ご存知でしょうか。平和公園の中ではありません。原爆資料館の隣に国際会議場がありますが、その建物の南側にある緑地帯の中にあります。つまり、平和大通り(道路)の側ということになります。通行人がこの緑地帯を横切って歩いている姿をよく見かけます。この碑に気づいてくれているかな?と、思うこともあります。

慰霊祭がはじまる15分ほど前から、「構成詩 未来を語りつづけて」が流れます。これは、碑の除幕にあわせてつくられたものだそうです。(レコードがあります。)

ちょうどはじまる前は、みなさん、受付をしたり、どこの席に座ろうか、席がないからこのあたりに立っていようか、などなど、バタバタされているので、じっくり聞いたことはないかもしれませんが、ぜひ、聞いてほしいなといつも思っています。

この中には原爆で子どもをなくしたお母さんが、子どもへの思いを書かれた手記や、生き残った人たちも、日にちがたつにつれ亡くなっていったことが語られています。戦争中、一生懸命、毎日を生き、子どもを育てていたお母さんが、わが子を亡くし、「なぜ、あの日の朝、子どもをしかってしまったのだろう。」と、ずっと後悔しているという思いを、多くの人に知ってほしいと思います。

Photo_20190917104301

この構成詩は、追悼の記として出版された「流灯」という本の中に掲載されています。

今年もたくさんの折鶴が献納され、花が手向けられました。あの原爆でなくなられた子どもたちや教職員のみなさんのことを思い、「やっぱり、核はだめだな、戦争はやっちゃだめだな。いつまでも、犠牲になられた人たちのことは忘れないよ。」と考えずにはいられない一日になったと思います。    

(かこ)

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月17日 (火)

故郷からの贈り物・二十世紀梨

毎年この時期、私の松江の実家から恒例のように贈られてくる「鳥取県産の二十世紀梨」が、今年は例年にないカラフルなデザインの箱とともにわが家に届きました。最近は、鳥取県の梨も新品種も多くなっているようですが、私にとっては、やはり「梨といえば鳥取の二十世紀梨」(広島県の生産者の方には悪いのですが)ですので、うれしい贈り物です。

Dsc_4145

早速箱を開けると、中には例年よりも大粒の梨が二段でびっしりと入っていました。大きいはずです、箱の横側には、「4L」の表示があります。この「4L」サイズは、二十世紀ナシでは、最も大きいサイズのようです。

Dsc_4148

受け取ってすぐに、実家にお礼の電話を入れました。電話に出たのは甥でしたが、「今年の梨は、出来がいいといっていたから、美味しいと思うよ」という返答です。電話を切ると、期待を込めて直ぐに一つ取り出して食べてみました。甥の言葉どおり、本当にみずみずしく、例年以上に甘さを感じました。いつも辛口の評価しかしないパートナーも今年だけは、「ほんとにおいしい」との一言。しばらくの間楽しめそうです。

Dsc_4153

ころで、箱の中に入っている生産者組合(鳥取西部農業協同組合大山果実部)のチラシには、ワンポイントアドバイスが書かれています。一つ目のポイント「おいしく食べるには・・・」は「食べる1~2時間くらい前に冷蔵庫に入れ、冷やして食べると美味しくいただけます。冷やし過ぎると甘さが感じられなくなるので注意してください。」と書かれています。わが家では、保存を兼ねてずっと冷蔵庫に入れっぱなしにして食べていたのですが、この方法では甘さが失われるようですので、これからは面倒でもこのアドバイスを参考にして、美味しく食べたいと思います。しかし二つ目のポイント「貯蔵するには・・・」では「ポリ袋で冷蔵庫に入れておくと長持ちしますが、お早めに召し上がりください。」と書かれています。「そうかポル袋に入れてか」と思いながら、この二つのアドバイスを読み比べながら「ちょっと待てよ、結局どうすればよいのだ」と迷うことになりました。「おいしく食べるには、冷蔵庫に1~2時間前に入れて冷やし過ぎないように」しなければならないし、保存しようと思えば「ポリ袋に入れて冷蔵庫へ入れ」なければならないのです。「どっちを優先すればよいのかな」と戸惑ってしまいますが、結局は「早く食べなさい」ということだなと変に納得しました。

実家の義姉のおかげで、今年も「大山のミネラルたっぶりの水に恵まれた自然に育まれた」(チラシから)鳥取の美味しい二十世紀梨を存分に食べることができます。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月16日 (月)

「ジュノー博士、第三の戦士」上映会

昨日午後2時から原爆資料館東館地下1階「メモリアルホール」で、スイス人医師マルセル・ジュノー博士の軌跡をたどる映画「ジュノー博士、第三の戦士」の上映会がありました。主催は、同映画上映実行委員会となっていますが、実質的には在日スイス大使館が企画した上映会でした。ちなみに今年は、日本とスイスは、国交を樹立して155周年を迎えるという深い関係にあるます。

Photo_20190915181301

広島にとっては恩人ともいえるジュノー博士への関心の高さを示すかのように上映会には、会場の定員312人の席がほぼ満席となる盛況ぶりでした。上映会は最初にあいさつが続きます。ジャン=フランソワ・パロ在日本スイス大使、続いてジュノー博士の息子ブノワ・ジュノーさん。「父は負傷者や犠牲者を救助するためには、いかなる手段をも使い、やり遂げる人だった」と語るとともに、「1979年に広島県医師会が建立した『マルセル・ジュノー博士祈念碑』の除幕式に参加するため初めて広島を訪れた時、原爆は悲惨なできごとであり、二度と起こしてはならないと思い、使用に反対してきました。」を訴えられました。

そして映画監督、脚本家と続き、いよいよ映画のスタートです。

映画の内容は、「広島、1945年9月8日。原爆投下の直後、ICRCの駐日首席代表として15トンの医薬品を携えて、破壊状態にあった広島に駆けつけ、自ら苦しんでいる被爆者の治療にあたり、救護活動に尽くしたジュノー博士はどのような人物だったのか、その軌跡をたどりながら、その精神を受け継ぎ、2017年コンゴ民主共和国で戦火からの救出にあたっているICRCアジア大洋州事業局長のクリスティン・チポラ氏の活動を紹介し、人道活動の大切さ」を訴えるもので、全体としてジュノー博士の足跡をたどりながら、国際赤十字の人道主義の精神を紹介することを中心に構成されていました。もちろん広島での活躍も登場はしますが。

上映会の最後は、知人の被爆者青木賢さんの被爆証言。15分という短い時間でしたが、良くまとまった内容でした。証言内容はまたの機会に書きたいと思います。

Dsc_4138

上映会終了後、平和公園内の「マルセル・ジュノー博士記念碑」と袋町小学校平和資料館横にある「マルセル・ジュノー広場」を訪ねました。「記念碑」の裏には、「無数の叫びが あなたの助けを求めている M.ジュノー著『第三の兵士』より」というジュノー博士の言葉が刻まれています。映画を見た後には、その言葉の意味が重く伝わってきました。

Dsc_4134

「マルセル・ジュノー広場」には、博士の肖像が入った直径約五十センチのレリーフが石垣に埋め込められ、功績をまとめた解説板があります。そこには「(前略)当時、救護所の一つであり、1日100人あまりの診療が行われていた袋町国民学校(現在の当校)においても、博士は被爆者の治療にあたられた。広島の恩人であるジュノー博士の生誕100年にあたり、その人道的・献身的な行為に心から感謝し、この広場をジュノー広場と命名するとともに、末永く広島市民に語り継がれていくことを祈念する。2004年10月2日」と書かれています。映画によれば、ジュノー博士は、市内10数か所に設置された救護所で活動されたようですので、ここもその1ケ所だったようです。入り口に「マルセル・ジュノー広場」と書かれた石碑が立っています。石碑には「レリーフが収められている石垣は、広島城外堀の石垣」ということも記されています。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月15日 (日)

9月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

農園のブルーベリーの摘みとりも例年だと9月に入っても援農の皆さんがお見えになるのだが、8月31日(土)に計画していた摘みとりも中止せざるを得なくなったほど不作の年となった。9月に入って晴れて暑い日が続くようになったので、ブルーベリーも小粒だが甘さが増してきた。本当にお日様次第のブルーベリーを痛感。

199151

9月7日(土)。暑さが戻ってきたが雲は初秋の形。

199152

9月7日(土)。夏中ほったらかしだったジャーマンアイリスの畑の除草を1日(日)に続き行う。手作業で頑張って全部の草を抜く。

199153

9月8日(日)。かって妻と子ども会の役員をしたこともある友人が妹、姪御さんの3人でブルーベリーの摘みとりに来園。

199154 

すっかり少なくなったブルーベリーの実を探し探し摘み取る。時折吹く風が気持ちいいと言いながら目標のブルーベリーを摘み取ることができた。とれたてのブルーベリーで作ったジュースを飲みながら話に花が咲いた一日だった。

199155 

それでもまだ色づいていない実もあるが、農園全体では数十本でしかないだろう。今日で援農においで頂いた皆さんも お わ り・・・。感謝。

199156

始まったのは稲刈りと(9月8日)

199-1572

初秋のススキや

199158-1

イワジャシンや、

199159

コスモスや、(9月14日)

1991510

ツルボなどの野の花(9月14日)。

お礼のブルーベリーへの施肥や防草シートはがしや草刈りがこれから晩秋までの作業となる。

2019年9月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月14日 (土)

湯来の森

今月6日、7日のブログで、「平和大通りの供木運動」を簡単に紹介しました。今日はその続きのような話です。

Dsc_4124

一昨日、広島市役所を訪ねた帰りに、同じフロアにある自治労広島市労働組合の書記局によりました。畠山書記長と話すうちに「ブログ」のことに話が広がりました。私が「供木運動で寄せられた平和大通り樹木には、どこから贈られたものか、表示がないんですよ」と話したところ、畠山書記長から「中国新聞社の前の方に『湯来の森』の石碑がありますよ」と教えられました。そういえば、何時かあのあたりを歩いたとき「なんでこんなところに『湯来の森』という石碑があるんだろう」と不思議に感じたことを思い出しました。でもその時は、それ以上深く考えることはありませんでした。畠山書記長は続けて「実は、湯来町は山林の多い町でしたので、林業が主要な産業でした。当時、湯来の木材のほとんどは、広島に送られていたんですよ。そんな関係から、当時湯来からもたくさんの苗木が送られたと思いますよ」さらに続いて「確かなことは言えないですが、当時あの場所から南の舟入地区には材木店が多かったと聞いていますから、湯来の木材業者とのかかわりが深いところということで、あの場所(河原町、西平和大橋西詰の平和大通り南側緑地帯)に湯来から送った苗木が植えられたように思います。」と。納得できる話です。湯来からは大きく育てば「森」と呼ばれてもおかしくないほどたくさんの苗木が送られたことが想像でします。この話を聞くと「湯来の森」の石碑が建っている理由が理解できます。

Dsc_4121 Dsc_4122

 昨日改めて、現地を訪ねてみました。立派な石碑が立っています。石碑の裏には、「1958年4月植樹」と刻まれています。61年が経過し、樹木も大きく育ちこんもりと茂っています。

Dsc_4125

西側からの写真

まさに「森」に近い形に成長しています。自転車で行っていましたので、少し周りをまわってみましたが、この他に、どこから贈られた木かを示すようなものを見つけることはできませんでした。

広島市が呼びかけた「供木運動」では、約6000本の樹木が届いたと言われていますので、もう少し樹木の出身地が分かればよいなと思いました。

もう一つ余談です。広島県原水禁の元事務局長佐藤次彦さんの話です。「自分の妻のおじいさんは、湯来で木材業を営んでおられてようですが、『昔は、切り出した材木をいかだに組んで広島まで流したものよ』と話しておられたと妻から聞いたことがありますよ」と教えてくれました。広島と湯来、昔からの深い結びつきが、平和大通り緑化にも大きな役割を果たしたと言えます。その湯来町も2005年の合併で今は広島市になっています。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月13日 (金)

多山恒次郎さんと広島電鉄・・・その時

 9日付のブログの中で、多山恒次郎さんが広島電鉄の社長だったことに触れました。その後「社長はいつごろだったのか」と気になり、いろいろと調べてみました。多山さんは、1945年(昭和20年)3月15日に就任し、1952年(昭和27年)4月26日に退任されたことが分かりました。

Img015

1945年8月6日、原爆が投下された時の広島電鉄の社長です。関心が深まります。当時の様子を調べたいと思い、私鉄広電支部に行き、広島電鉄の社史を借りました。社史は、「開業80年創立50年史」と「開業10周年創立70周年」の2冊があります。そのいずれにも被爆当時のことが、広島電鉄の社報「『輪苑71号』:昭和30年8月5日」(当時専務取締役で後に3代目社長となる伊藤信之さんの原稿)から引用したものが、掲載されています。そこに多山さんの名前が出てきます。全文は長いので多山さんの名前が出ている個所を引用します。「一瞬青い閃光が走ったかと思うと、アッという間もなく、にぶいような轟音がグワンと炸裂した。視界が俄かに暗くなり、(中略)当時の社長多山氏が血にまみれて今の鈴ケ峰開発(株)のある部屋の窓から顔を出しておられる。逃げ場を失った女子職員が二階の洗面所から泣き叫んでいる。(以下略)」この文章で、多山さんが広電本社で被爆されたことが分かります。社史では、多山さんの被爆時の様子はこれしか記載されていません。

Photo_20190912140201

ところが、社史と一緒に出された「被爆電車75年の旅」(ザメディアジョンプレス発行2017年刊)には、血まみれの多山さんがとった行動が、39ページから41ページにかけて次のように記載されています。「次の爆撃を恐れて、庭の防空壕へ向かう者。狂ったように何事か叫び出す者。半壊した社屋を、呆然と眺めている者・・・。だがやがて、防空壕の上に立った多山が叫んだ。『多山は健在である。これくらいのことでヘコたれてはならん。みんな会社再建のために頑張ろう!』その声を聞き、我に返ったのか、軽傷の社員たちは瓦礫の木材やコンクリートを取り除きだした。」さらに本社の悲惨な被爆状況が続いた後、再び多山さんの名前が登場します。「多山恒次郎は、電車復旧の援助を請うため、怪我を押して師団司令部を訪れた。しかし、司令部は他の官公庁ともども壊滅状態。ついで『宇品』の陸軍船舶司令部をたずね、東京電信隊の協力を取り付けた。」伊藤信之さんの原稿や社史には見当たらないこの様子が、どのような経緯で明らかとなったのか、広電本社から爆心地の真反対にあたる師団司令部へはどの道を通って行ったのかなど不明な点はありますが、誰かの証言に基づくものと思われます。これで多山さんの被爆時の行動を知ることができました。広電の被爆について知っているつもりでしたが、また新たな発見です。不思議なつながりを感じます。

今回は詳しく触れませんが、当時「チンチン電車」を運転していた女学生の被爆時の様子は堀川恵子さんの「チンチン電車と女学生」に詳しく書かれていますので、一読をお勧めします。私も一度は読んだ本ですが、これを機会にもう一度読み直してみようと思います。

多山恒次郎さんのことについては、「多山報恩会」のことなど、もう少し調べてみたいことがあります。その結果は、またこのブログで報告したいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月12日 (木)

旧廣島護国神社被爆鳥居―その2

今日は、9日のブログにつづき「旧廣島護国神社被爆鳥居台座」がテーマです。広島市青少年センター発行のパンフレットには、台座に取り付けられた銅板の説明文が全文書かれています。

Dsc_4100_20190911102801

原爆(昭和20,8,6 あさ、8:15)によって折れた 旧護国神社鳥居(北面)の脚部 昭和46年の公園内を南北に走る下水工事中現位置より北約20mのところで発見した。上記鳥居であることが確認されたのは、佐々木雄一郎氏(市内元宇品写真家)の貴重なフィルムによる。即ち氏は、被爆一ヶ月後からの「ひろしま」を数多く撮影しているがその中にこの鳥居に関したもの3枚があった。館内玄関に展示している。尚これが発掘、設置については、清水建設の協力を得た。 昭和46年12月22日 広島市青年センター」(原文のまま)

Photo_20190911102901

パンフレットにはこの説明文に加えて「この鳥居の台座は、青少年センターの北隣、爆心地から北方向に約370mに位置していた旧護国神社のものです。神社には、3つの鳥居がありました。原爆によって北側の鳥居は北方向に東側の鳥居は西方向に倒れました。この台座は、北側の鳥居の支柱2本のうち、西側のものとされています。」と記載されています。

この二つの説明文を頼りに、もう少し詳しく調べてみたいと思います。パンフレットには、鳥居の台座が設置された前日の中国新聞の記事(昭和46年12月21日付)も掲載されています。そこには注目すべきことが書かれています。「掘り出してから1ヶ月余り、これが台座であることが分からずに放置されていましたが、たまたま鈴木館長(当時の青少年センター館長)が、発掘地点が旧護国神社であったことから関心を持ち、古い写真などを手掛かりにして判明した。」当時の館長鈴木さんの賢明な判断が、この台座を被爆物として残すことになったのです。さらに新聞記事は興味あることを書いています。「写真を撮り続けている写真家、佐々木雄一郎氏の調べでは、この鳥居は、同神社に二つあった鳥居のうちの正面を入って北側に立っていたものらしく、左右どちらの台座か今のところは分からない。」この時点では、北側の鳥居ということは判明していてもどちらかわからないとしているのですが、パンフレットの説明文では、はっきりと「北側の鳥居の支柱2本のうち、西側のもの」としています。いつごろ、どんな経過で西側のものと判明したのか、気になります。その経緯をぜひ知りたいと思いますが、今のところその経緯までたどり着けていません。

Img011_20190911103001

毎日新聞社1977年刊「ヒロシマは生きていた 佐々木雄一郎の記録」より

鳥居の台座の決め手になった佐々木雄一郎さんの写真とともに鳥居の台座を見ると、改めて爆風の威力をまざまざと見せつけられます。と書きながら、気になることがあります。青年センターの西側本川土手に育つ「被爆樹木シダレヤナギ」です。この鳥居の台座と同じ、被爆距離370mの爆心地に最も近い現在地で被爆しています。鳥居が根元からぽっきりと折れるほどの爆風を受けたにもかかわらず、「シダレヤナギ」はどうして生き残ったのかと。やはりこのヤナギも幹が折れたようですが、その後根元から生えた新芽が成長し、いまのような大きな樹木に育ったそうです。生命力のすごさを感じます。

Img012

広島市1995年発行「ヒロシマの被爆建造物は語る」より

先に紹介したパンフレットの中国新聞の記事では「鈴木館長は、掘り出されたままになっている台座を青少年センターに据え付け、同センターを訪れる若者に原爆の悲惨さを知らせたいといっている。」と書いています。ところが鈴木館長の思いが伝わらなかったのか、この鳥居の台座は周りの植え込みの葉陰となり、長く埋もれた存在となっていました。しかし2013年の8月、9月に周りの樹木が伐採され、台座が再び現れ、多くの人が知ることになりました。鈴木館長の思いが、今後もきちんと継承されていくことを願わずにいられません。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月11日 (水)

自然災害の「ツケ」を払うのは? ――一番弱い立場の「労働者」に押し付けるな!――

十日に一度の投稿なのですが、今回も自然災害について、私たちがどう対応すべきかの問題提起です。台風15号でも亡くなった方、怪我をした方も多く、また雨と風による物的被害も大きかったことに、改めてショックを受けています。停電や断水等も大きな問題です。今回は西日本への被害はあまりなかったのですが、ほぼ毎日のように日本のどこかで、自然災害が起き、犠牲になっている人たちがいます。

日本全体という視野で物事を考える責任のある日本政府としては、全力を挙げてこの事態に対処すべきです。仮に「国を守る」という標語を使うのであれば、それは、これまで70年以上実害のなかった、外国による侵略からではなく、自然災害から国を守る、より正確には国民を守る、という方向転換をしなくてはならないことを明確に示しています。

役にも立たないイージス・アショアとか、オレプレイはすぐに注文をキャンセルして、自然災害対策のための予算に転換すること、自衛隊を災害対策専門の組織に改組することがそれこそ自然の流れなのですが、なかなか、その方向に舵が切れないようです。やはり世論を大きくすることが急務です。今以上に大きな声を上げましょう。

この私なりの「危機感」と、自然災害の度に不思議に思っていることとが重なりました。まずはこの行列の写真を御覧下さい。ネットからお借りしました。

Photo_20190910210801

テレビでも何回も報じていましたので、どのくらい混雑していたのかは御存知だと思いますが、台風が千葉に上陸し、茨城、福島方面に抜けた、午前9時過ぎの津田沼駅です。

こんな思いをして、つまり何時間も立ったまま行列を作ってホームに入れるのを待った末に、満員電車に乗って会社に出勤、その上、「遅刻」は認められず、半日は休んだことにされ、上司や同僚からは嫌味を言われるなら、スッキリ休んだ方が良いのではないでしょうか。

でも、真面目に行列に並んでいる人たちの反応や、彼ら・彼女らを通して聞えてくる会社の声は、「出勤して当り前だ」、「会社には出て来い」、「電車の遅れることが分っているのならそれに対して事前に対応して会社に遅れないようにするのは個人の責任」「朝の混雑が予想されるのなら前の晩は会社の近くに泊れば良い。もちろん宿泊費は個人持ち」といったものでした。

そんな中、「今日は休んだ方が良い」という、社員にとっては有り難い通知を出した「模範企業」、という触れ込みでインタビューを受けていた会社がありました。でもその内容は、「今日は有給休暇を取って休んでも良いよ」という内容でした。

自然災害には人間のコントロールがほとんど及びません。交通機関が安全のために運休するのも当然です。そのために駅や電車が普段より混雑するのは、一定程度なら我慢できるでしょう。しかし、そのツケをすべて個人が払わされる今のシステムで良いのでしょうか。

何時間も行列を作らないと電車にも乗れない状態に耐えなくてはならないのは、単純に時間のロスだけを考えても避けるべきことだと思います。常識として、社員の一人から連絡が入り、「今津田沼駅で電車を待っているが、ホームに入るまでに2時間以上かかる見通し」と言われたら、会社側では、「御苦労様。今日は出社しなくて良い」と言えないものでしょうか。さらに大切なのはその次です。

「これは、災害による特別休暇だから、一切のペナルティーなしだよ。」と言えないものでしょうか。

私の知識の範囲で考えると、1990年頃から、(そして恐らくはもっと前からのはずですが)、労働者の権利が次々と剥奪されてきました。「ブラック企業」という言葉が作られて、深刻な労働者の権利の侵害がそんな言葉の陰に隠されるという、巧妙な世論調査が行われるようになる、はるか前から、労働組合叩きが始まり、スケープゴートにされ続け、気付いた時には、「就職」というのは、正社員になることではなく、パートか臨時、派遣といった形で細々と仕事を得るような状態になってしまいました。そして、賃金は安く、身分は不安定、労働条件は劣悪、老後の保障はなしとあっては、何百年も前の貧民と同じ条件で働いているとしか考えられないではありませんか。

それほど厳しい環境に置かれている皆さんに、「災害の時くらい、大きな声を上げましょう」というのも気が引けるのですが、我慢できるから我慢するのではなく、自然災害を最優先する国政実現のためにも、せめて災害時とその直後には、(パートも派遣も含めて) 「災害時くらい社員を大切にしろ、人間扱いしろ」という大合唱を起こせないものでしょうか。

[2019/9/11 イライザ]

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月10日 (火)

中国電力、会長経験者が相次いで逝去

今年に入って、中国電力の会長経験者が相次いで亡くなっています。3月13日には、5代目社長の多田公煕(ただ こうき)さん95歳。8月1日には、6代目社長の高須司登(たかす しとみ)さん87歳。そして8月11日は、副社長からいきなり会長になった福田督(ふくだ ただし)さん77歳です。

中電の場合、社長から会長になり、会長就任とともに中国経済連合会という中国地方経済団体の連合体の会長を兼任するというのが、(問題なく?)出世した役員の進む道で、その後は相談役や顧問という立場になります。社長を経ずして会長になるとか、社長から会長にならずに相談役に就くというのは、「良きにつけ?悪しきにつけ?」問題があって歩んだ道となります。

3人の死去のニュースを、地元の中国新聞は単に死去というだけでなく、関連記事を大きく載せていました。多田さんについては「優れたバランス感覚」、高須さんは「高い志 構想提言も次々」、福田さんは「緻密 アイデア豊富」と、その「功績」を称えました。

この3人が会長に就任していた時代は、1989年から2011年までで、忘れてはならない事件があります。それは岡山県新庄村(しんじょうそん)にある中電の土用ダムの「データねつ造&隠ぺい」事件です。

Doyoudamu1

土用ダム:岡山県新庄村ホームページより

事件は06年10月31日の朝日新聞に1面で大々的に報じられ、同様の事件が他の電力会社でも起こっていることが明らかになりました。他電力会社とは、東京、関西、北陸、東北、電源開発という具合です。中電のケースが特に悪いのは、内部告発情報をある人物から得た地元新聞社が、その情報を中電に連絡し、中電は自らが犯した「データねつ造&隠ぺい」はそっちのけで、執拗に告発者探しを行い、その取り調べのやり方は警察顔負けだったとされているのです。「公益通報者保護法」など、そんなもの知るものかというやり方で、「犯人」とされた人は、子会社に出向させられたということでした。

やり方が、「国(建設省:現・国土交通省)」と中電が、手を組んでやったということで、「森友・加計事件」顔負けという感じです。事件のことを知っている筈の中国新聞が、揃って3人の行いを称えるというのは、なんともいえないほどキモイ感じがしました。「死者に鞭打つ」ことはしたくありませんが、この事件を報じた週刊誌の見出しを紹介しておきたいと思います。大手の全国週刊誌は、「中国電力・欠陥ダムのデータ捏造&隠蔽事件。善意の通報者を危険にさらす、『企業』と『国』の疑惑のタッグ… スクープ 国土交通省は『内部告発者』をこうして裏切った!」でした。

地元を中心に発刊されている物は、これは連載記事となっていますが、ある号では、「燻り続けるお家騒動!!真実に蓋をした企業再生は名ばかりの〝高須チルドレン〟驚くべ虚飾体質!『中国電力・経営陣』の罪と罰」という具合です。

先月8月28日、中電は島根原発2号機で原子炉の水位が低下した場合、水位の低下を検知する測定器の反応時間について、誤入力があったと発表しました。

思い出すだけでも、中電の不正事件は後を絶ちません。明らかになっただけでも、最近では2015年6月25日に発覚した、島根原発の低レベル放射性廃棄物の水量計の校正記録不正事件。事件を中電が記者発表したのは6月30日、この年の株主総会は事件が発覚した同じ25日に開催されているのです。株主総会ではひた隠しにしていたのだと思います。事件では、解雇者が出ています。またこの事件からさかのぼること5年前の2010年、島根原発で機器点検・交換漏れ事件が発覚しました。この時では、担当部長さんが宿泊先の松江市内のホテル10階の窓から飛び降り自死しています。まだまだたくさん在るのですが、多すぎてこのブログの中に収まりそうにありません。

今、あえて言いたいのは、現役で働いている中電や関連会社の人に、こういう過去が在ったことを、忘れないで欲しいということです。

木原省治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月 9日 (月)

旧廣島護国神社被爆鳥居―その1

自宅で、資料を整理していたら広島市青少年センターが発行した「旧廣島護国神社被爆鳥居台座」というパンフレットが出てきました。広島市青少年センターの前に置かれている下の写真の「鳥居の台座」についての説明が書かれています。

Dsc_4100

このパンフレット読みながら「護国神社の鳥居」について興味がわき、調べてみました。

原爆投下の爆心地といわれる島病院の前には、広島市が設置した「原爆被災説明版」があります。その説明版には、解説文とともに被爆後米軍が映した写真もはめ込まれています。

写真は、島病院近くから北の方向を写したものです。よく見ると、その右端の方に白い鳥居を見つけることができます。最初にこの鳥居について調べてみました。

Dsc_4099 

この鳥居はすくっと建っています。この写真を見た時、ずっと疑問に思っていたことがあります。当時の護国神社はもっと左手奥にあり、正面は東を向いていたはずなのに、なぜこの鳥居は、正面が南向きで立っているのだろうかということです。私が知っている限りでは、故郷出雲では出雲大社をはじめ神社の鳥居は、すべて本殿の正面に立っていましたので、それが普通なのだと考えていました。ですから、島病院前にある写真を見た時、どうしても違和感を持たざるを得なかったのです。

ところが、今回調べてみると、「旧廣島護国神社」には、3本の鳥居があり、そのうち2本は、境内の東側と北側に建っていたようですが、写真に写っているこの鳥居は、少し離れた電車通りの入り口に立っていたものです。他の二つの鳥居が倒壊したのに、なぜかこの鳥居だけ倒壊を免れました。理由は、この鳥居が、爆心地(といわれる島病院)からわずか140mという近距離の位置にあり、原爆の炸裂ともに起こった爆風が、ほぼ真上から直撃する形になり、倒壊を免れたそうです。そのため被爆後もそのままの姿で写真に納まったのです。

Dsc_4104

倒壊を免れたこの鳥居はその後、護国神社の移転(1976年・広島城跡の現在地)とともに、広島城の裏門・RCC南側に移設され、現在に至っています。鳥居そのものは倒壊しませんでしたが、裏側(当時の北側)の額は、失われたそうです。

Dsc_4106 

確かに現在の鳥居の裏側を見ると、額が掛けられていた跡と思われる金具がそのまま残っています。ここで新たな疑問が起こります。真上からの爆風を受けながら、表(南側)の額は残り、裏側(北側)の額だけが失われてしまったのかということです。確かに裏側の額の場合は、裏側が爆心地の方向といることになりますが、鳥居の厚みは50cmしかないのですから、そのぐらいの違いで、影響がそんなにも違うのだろうかということです。これについては、今後調べてみたいと思います。落ちたり落ちなかったりするのだろうかということです。ところで、昨日改めてこの鳥居の立つ現地に行ってみたところ、表の額もなくなっていました。近くにおられた警備員の方に聞いてみると「1カ月ほど前、額の下部の金具が落下したので、今取り外して点検修理中です」とのことでした。

鳥居をよく目を凝らして見ると、RCC側の鳥居の柱の右側に「奉献 昭和9年11月吉日 多山恒次郎 妻千代」と刻まれているのかすかに読み取ることができます。この鳥居は、昭和9年(1934年)は、二葉の里から西練兵場西側に移転した時に献納されたことが分かります。当時は不思議なことではなかったかもしれませんが、個人の寄付にはちょっとびっくりです。この鳥居を献納された多山恒次郎さんご夫妻について調べてみました。多山さんは「広島瓦斯電軌格式会社取締役、鈴ケ峰学園理事長、広島電鉄株式会社社長・会長」などを歴任されるとともに「『むらさき生』という匿名で、貧困な家庭やその他母子等への同情金を送っていた」(いずれも「一般財団法人多山報恩会」のホームページによる)「社会奉仕人」であったそうです。ところで、もう一つ調べたいことがあります。広島護国神社が、全壊した被爆後から現在地への移転までは、小祠で祭祀が続けられていたようですが、この鳥居は、どこに立っていた(保管)のかということです。護国神社の鳥居のことを調べるきっかけとなった青少年センターの「旧廣島護国神社被爆鳥居台座」については、次回(12日)のブログで書きたいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月 8日 (日)

9月7日が「沖縄戦」の終結日

昨日(9月7日)午後6時から市民交流プラザで、沖縄・辺野古に新基地をつくらさない広島実行委員会主催の「9・7 沖縄戦終結74年 ヒロシマ集会」が開催されました。

集会は、2018年に作成された映画「宮古島からのSOS」の上映と、南風原(はえばる)九条の会事務局長平田善之さん「辺野古新基地建設の現状報告」という内容で60人余りの参加者がありました。

041921

映画「宮古島からのSOS」は、「地元の反対の声にもかかわらず『当初防衛』の名の下で、自衛隊配備が強行されている宮古島」の様子とそれに立ち向かう宮古島島民の姿が描かれていました。平田さんは、「7月21日投開票の参院選でも再び『辺野古NO』の声が示されたにもかかわらず、現在も辺野古への新基地建設を強行する安倍政権に対し、抗議行動を展開し続ける沖縄の現状」について報告。両方の問題とも本土の住む私たちが、けっして無関心であってはならないことを、改めて認識させられる集会でした。

Yjimage9

今日は、集会のタイトルにある「沖縄戦終結74年」について、少し考えてみたいと思います。多くの人が、「沖縄戦が終わった日」と問われたら「6月23日」と答えるのではないでしょうか。確かに毎年6月23日には、沖縄では「慰霊の日」として、「沖縄戦全戦没者追悼式」が行われます。1945年6月23日は、日本軍のトップであった牛島指令官が自決をし、日本軍の組織的な戦闘行為が終わった日と言われています。ですから沖縄では、「6月23日」は1972年の本土復帰前も公休日とされ、復帰後は1974年に沖縄県が条例によって「慰霊の日」と定めて、今日に至っています。この沖縄県「慰霊の日」を定める条例では「 第一条 我が県が、第二次世界体制のおいて多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため、慰霊の日を定める」とその意義を定め、「 第二条 慰霊の日は、6月23日とする。」となっているだけで、「なぜ6月23日なのか」については条例には書き込まれていないようですが、沖縄の人たちにとっては、何の疑問もないところのようです。ただ調べてみると1961年に定められた時には、「6月22日」となっていたようですが、条例の改定に合わせた再調査によって「6月23日に牛島指令官は自決した」ことが判明し、1965年3月の改定で「6月23日」に改められてそうです。

P0231

「6月23日の慰霊の日」の話が長くなりました。今日の主題は「沖縄戦終結日」のことです。先に沖縄では、「6月23日に組織的な戦闘行為が終わった」と書きましたが、実際はトップの自決も知らずに、6月23日以降にも多くの人が戦闘行動などで亡くなっています。久米島では8月にかけて、日本軍が住民を殺しています。米軍が「沖縄戦を終えた」と宣言したのは7月2日だそうですが、沖縄市のホームページには「宮古郡島や八重山郡島では8月15日まで戦闘状態が続いており」という記載もあります。しかし、9月2日に東京湾のミズリー号上で、日本が連合軍にたいして公式に降伏調印をしたことをうけて、ようやく沖縄でも9月7日に旧越来村森根(現沖縄市の嘉手納飛行場内)で「降伏調印式」が行われ、正式に「戦争が終結」したのです。ですから沖縄の「修正終結は9月7日」となっているのです。なぜ日本が降伏調印した9月2日が、沖縄の戦争終結日にならなかったのかと考えさせられます。ところで、9月2日という日は、全くといってよいほど忘れさられていますが、調べてみると沖縄市は、「1993年、全国で初めて市町村独自 の『平和の日』を条例で制定」し「条例制定により、『9月7日』を沖縄市民平和の日と定め、毎年9月7日に記念行事を実施」するとともに「8月1日~9月7日を平和月間と定め、市民団体や市民の方と連携し、様々な平和に関する企画を実施」しているとのことです。

沖縄戦の体験を継承し、日常的な平和へのこうした取り組みが、「辺野古基地建設反対運動」を支える柱にもなっているように感じます。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月 7日 (土)

平和公園内の寄付樹木―海外からの贈り物

 
昨日のブログで、平和大通りの「供木運動」について、簡単な紹介をしました。私の思いの中では、この「供木運動」で寄せられた樹木は、平和大通りだけでなく、平和公園にも植えられたと思っていましたが、違うようです。「供木運動」で寄せられた樹木は、約6000本と言われていますが、そのほとんどは、平和大通りに植えられたようです。平和公園の緑化によせられた樹木は、「供木運動」が呼びかけられた1957年(昭和32年)に先立つ1954年(昭和29年)に、当時の広島市長が全国の市長に樹木の寄付を呼びかけたことがきっかけとなって寄せられた樹木が植えられたようです。平和公園は、全国から寄せられた樹木、そして平和大通りは県内から寄せられた樹木によって緑化が進んだということになります。

Img010

私が初めて平和公園を訪れたのは、1960年(昭和35年)小学校6年生の時の修学旅行です。古いアルバムには、その時の写真が何枚は貼り付けられています。今も修学旅行生が記念写真ととるのと同じように慰霊碑前での集合写真です。広島市長が樹木の寄付を呼び掛けてから5年経っていますので、少し大きくなっているのが分かります。それでもよく見ると、まだ添え木が残っています。大きな樹木に覆われた今の平和公園の姿は想像できません。

Dsc_4093    

ところで、平和公園には、国内だけでなく海外から送られた樹木も多く見ることができます。その多くがバラです。平和公園内では、折り鶴のこの像の横と、原爆ドームの南側の2か所にバラ園が作られています。いつも近くを通っているのですが、じっくりと見ることがありませんので、昨日は、このバラ園を見るために平和公園を訪れました。チェコスロバキアから送られたバラを見たかったからです。それには、こんなエピソードがあります。私が青年運動に関わっていた当時(1980年代中頃だったと思います。)、交流のあったチェコスロバキアの青年代表団が、広島を訪問する機会がありました。東京に着いた代表団から、「広島を訪れた時、ぜひ先年チェコスロバキアから送ったバラを見たいので、予定に入れてほしい」という要望が入りました。すぐに広島市役所に問い合わせました。ところが広島市からの返事は「確かに贈られていますが、どの木かはっきりしないのですが」というものでした。最終的には、何とか広島市の努力で、「この木だろう」ということで、広島入りした代表団を案内することができたのですが、当時の管理のずさんさに驚いたものです。

Dsc_4096
 

昨日バラ園を訪れると、当時はなかった名札「語り継ぐ平和の緑」が取り付けられ、そこには「品種、寄付者、寄付年」が書かれていました。そして「寄付の経緯」を知ることができるQRコードが付けられています。チェコスロバキアから送られたバラは、原爆ドーム南側のバラ園に植わっています。ちなみにチェコスロバキアから送られたバラについての経緯をQRコードで検索すると、次のように書かれています。「原爆ドームの設計者、故ヤン・レツル氏の取り持つ縁で、昭和53年(1978年)12月、チェコスロバキアのアロイス・インドラ連邦議会議長が来広の際、市長との間でバラ苗交換の話がまとまりました。広島市からは昭和54年(1979年)2月8日、かがやき、天津乙女(あまつおとめ)など、日本作出のバラ6種類18株をプラハ郊外リディツエバラ園に寄贈しました。このバラ園は、第二次世界大戦中ドイツ軍により、村全体が地上から抹殺され、戦後イギリスの平和運動家の呼びかけで、村の跡地に友好と平和の象徴として作られたものです。 昭和54年11月15日シュトロウガル首相が大平首相を訪問、バラ苗木100本を手渡し、そのうち95本が外務省より11月21日に広島市に届けられました。」かなり詳しく書かれており、ヤン・レツル氏が取り持つ縁なのだということ知ることができます。

広島市のホームページの「寄付樹木一覧」の「更新履歴欄」を見るとほとんどが「新2019.3.22」となっていますので、ここ数年で管理が進んだようです。今後も大切に管理されることが望まれます。

Dsc_4090

イギリス政府から送られたバラには「ピース」の名前がついていましたが、つぼみもできていません。まだ秋の開花期に早いようで、咲いていたのは僅かでした。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月 6日 (金)

「被爆者の森」を知っていますか

平和大通りの東端(田中町交差点から鶴見橋西詰)の両側に、「被爆者の森」があるのをご存知ですか。

先日、平和会館を訪れた時、棚にある「被爆者の森」とタイトルの付いたアルバムが目に入りました。アルバムの最初のページに「広島県被団協理事長坪井直」さんの「『被爆者の森』の現状についての報告」という文章が貼り付けられています。その文章には、「皆様方の核兵器廃絶の願いを結集して造った『被爆者の森』を15年後(1990年建設)の写真に託して現況をお知らせします。」と書かれています。そして、次のページからは、各県から送られた樹木の成長ぶりを写した写真が貼り付けられています。

Dsc_4074

この「被爆者の森」は、日本被団協が1990年に、全国各都道府県に住む被爆者に呼び掛け、その人たちの核兵器廃絶と平和への願いをそれぞれの「県の木」に託して、被爆地に一堂に集め、全国、全世界へ発信したいとの思いからつくられたものです。その後、広島市に寄贈され、今は広島市が管理しています。

Dsc_4077

そして「被爆者の森」の中ほど北側の緑地帯(ちょうど福山通運の倉庫前)に、「被爆者の森」の碑と並んで、「樹木一覧と位置図」がありますので、それを見れば、簡単に自分の出身県の木を見つけることができます。

Img002 Dsc_4067

私が、現地に着いて最初に探したのは、出身地島根県の県木「クロマツ」です。あらかじめ位置を調べていましたので、簡単に見つけることができました。平和会館のアルバムの写真(左)と比べるとずいぶんと大きく成長しているのにびっくりしました。すぐそばには、鳥取県の木があります。鳥取県の県木は「ダイセンキャラボク」ですが、植わっている木は「ナシノキ」です。「ダイセンキャラボク」は、低地では育ちませんから「ナシノキ」が代木として選ばれたようです。「ナシ」はいまが取り入れのシーズンですが、残念ながら実は一つも付いていませんでした。

Dsc_4071 Dsc_4073

一番南の沖縄県はどうだろうと探すと何故か「カンヒザクラ」が植えられていました。県木は、「リュウキュウマツ」ですので、これも代木です。当初は、表示がなかったようですが、広島県被団協などの働きかけもあり、現在では「都道府県名、樹木の名称、被団協名」などが記載された表示板が付けられています。これらを含め13道府県の県の木が、気候が適さないなどの理由で、代木となっています。ちなみに広島県の県木である「ヤマモミジ」も、中国地方の他県と同じブロックに植わっています。

最近、「県の被団協が存続できず解散した」というニュースを聞くことが多くなっていますが、今であれば「被爆者の森」は誕生しなかったと思います。ですから、各県被団協から送られた「県の木」によってつくられた「被爆者の森」は、各県に被爆者組織があったことをいつまでも語ってくれる役割も担っているような気がします。

平和大通りの緑化が進んだのは、1956年(昭和31年)から57年に、当時財政難だった広島市の呼びかけに応えた県内市町村の団体や個人の供木運動で寄せられた樹木によってだと言われています。この「供木運動」とともに「被爆者の森」の建設経緯も決して忘れてはならない歴史だと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その4)

ベトナム200万人の餓死

先月、ベトナム人が親日的な一つの背景としてフランスからの独立運動を展開したファン・バオ・チャオの「トンズー運動」が、フランス政府と日本政府の弾圧によって危機に陥ったとき、日本人医師、浅羽佐喜太郎が支援したことを紹介しました。「トンズー運動」は失敗しますが民族独立運動の灯は消えず、1945年9月2日のホーチミンよる「独立宣言」につながります。

今回は、「トンズー運動」(1904年~1909年)以降、1945年9月2日の「独立宣言」までの日本の関わりを見たいと思います。

日本は朝鮮半島の植民地支配を始め、1931年の柳条湖事件に始まる満州事変から日中戦争へ、さらに太平洋戦争へと侵略戦争を拡大していきました。10年におよぶ日中戦争で泥沼にはまり、国際的な孤立とともに戦略物資や食料の欠乏をきたしていた日本は、表向き「ヨーロッパ列強からの解放」をうたう「大東亜共栄圏」を掲げ、ヨーロッパでのナチスの華々しい侵攻を好機とばかりに、石油や鉱物などの資源、米やトウモロコシなどの食料の確保を狙いフランス、イギリス、オランダなどの植民地に侵攻しました。

戦略物資を求めた日本軍侵攻

ベトナムへの侵攻は、1941年12月8日のハワイ真珠湾攻撃とイギリス領マレー半島攻撃が始まる一年余り前の1940年9月に北部のハノイ、翌年7月に南部のサイゴン(現在のホーチミン)に始まりました。

Photo_20190904220501

日本軍によるベトナム支配は、日本が敗戦を迎える1945年8月15日まで続きました。この間に、200万人以上といわれる餓死者を出したことは、日本ではあまり知られていません。しかし、一方で「餓死者数が多すぎる」「政治的プロパガンダだ」、「原因は日本軍とは関係ない」「ベトナムは年中飢饉」などの異論・反論は意外と熱心に繰り返されています。

早乙女勝元さんの『ベトナム“200万人”餓死者の記録』(大月書店、1995年)を今回あらためて読み直しました。早乙女さんは、天候不順による凶作が続いたことも原因の一つだが、米の生産量が減ったにもかかわらず「強制買付量」は増え、食料米を補ってきたトウモロコシなどの雑穀も日本軍が買い占め、加えてジュート、チョマ、落花生、胡麻など繊維性・油性作物栽培の強要が飢饉を深刻にしたこと。また、連合軍の爆撃や戦闘で南部のメコン地帯から北部への輸送が途絶したことによる、と詳細なデータや証言を基に述べています。

今回、驚いたことは200万人の餓死者を出した1945年の上半期、ベトナムには餓死せずともすむ充分な米が日本軍の手にあったという事実です。下の表は、1941年度から1944年度までにインドシナ(ベトナム)から三井物産を通して日本に送られた米の量の統計です。日本からの「要求目標量」と輸送権を独占した三井物産の「買付実績量」、そして「日本に送られた量」を表しています。

 

1941年度

1942年度

1943年度

1944度

日本からの要求総量

700,000トン

1,074,000トン

1,125,904トン

900,000トン

三井物産の買取実績

585,000トン

973,908トン

1,023,471トン

498,525トン

日本に輸送された量

562,600トン

973,100トン

662,100トン

38,400トン

注目すべきは1944年度です。凶作で「買取実績」は目標の55%余りですが、制海権も制空権もなく輸送自体ができない状況のもと、日本に送られた量はその7.7%に過ぎません。すなわち、凶作で飢饉に苦しむベトナム人から「強制的に買い取った」米の92%余りは残っています。現地軍のための調達米は含まれていませんので、飢饉で餓死しているベトナムの人々の前に実に大量の米があったということです。なぜ? 米を配給(返す)しなかったのか! 問うだけ、むなしいのかも知れません。それが侵略であり、戦争なのだと思います。

Photo_20190904220601

今回、読み直し、表にして見て、あらためて戦争の本質、事実に触れた気持ちです。

早乙女さんは第6章「誰に責任が?」の最後にこう書かれています。「これは南京大虐殺のように、日本軍が血まみれの日本刀を振りかざしての虐殺行為とは異なる。しかし南京大虐殺の数倍にもおよぶ間接的な恐怖地獄であり、そもそもの元をたどれば、タイルオン村で家族9人を餓死させたファン・スンさんが憤怒の声でまくし立てたように、「こっちが来てくれと言ったわけじゃないのに、向こうから勝手に押しかけてきた」という侵略に非があるのは誰の目にも明かである。日本人にとっては、忘れてはならない歴史の一ページであり、いつまでも心に刻まなければならないはずの重い負債である」と。

ヒロシマとベトナム、類似性と相違性

ヒロシマとベトナム、核兵器と化学兵器という大量無差別に殺傷し、後障害を含め幾世代にもわたって身体と心を蝕み、生命を奪い続けるという非人道的な兵器による戦争被害を受けました。そこに「核も化学兵器も、そして戦争もNO!」という共通の願い、友好と連帯の絆があります。

しかし、同時に私たち日本人は、ヒロシマは加害の日本であり廣島でもあったことを決して忘れてはならないと思います。栗原貞子さんの「ヒロシマというとき、ああ ヒロシマと やさしく返ってくるだろうか」という問い、「そのためには 捨てたはずの武器を 本当に捨てねばならない」との誓いを心に刻みながら、今年も10月の「第14次HVPF平和友好ベトナム訪問団」の準備を進めています。

2019年9月4日、あかたつ

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月 4日 (水)

「3の日」定例街宣―ヒロシマ総がかり行動実行委員会

「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」は、昨日本通電停・青山前で久しぶりの「3の日」定例街宣を行いました。

午後5時半からスタートした街宣では、最初に「歌声9条の会」のメンバーによる「青い空」の歌声。続いて、いつものように参加者によるリレートーク。今回は5人。間に何度か歌声のアピールが入りました。

Dsc_4063

リレートークの中では、やはり久しぶりの参加となった総がかり行動実行委員会の共同代表の一人秋葉忠利さんの演説が圧巻でした。私のメモから少し紹介します。

秋葉さんは、最初にこのブログでも紹介した自著「数学書として憲法を読む」に触れながら、次のように訴えました。「憲法が蹂躙されている理由は、私たちがきちんと憲法を読んでいないことにあるのではないか。そんなことから、憲法を素直に読む。自己完結で読むことの大切さをこの本では紹介しています。例えば、9条の解釈。『自衛権がある』というけれど、憲法には『自衛権』など書いてない。憲法に書いてあることのみで、憲法を解釈することが大切。」と話しながら、「死刑」についても同じように「憲法には書かれていない」ことを紹介し、「そこから出発しよう」と呼びかけました。続いて憲法99条について言及。「第9条以外に大事なことは、99条に書かれている『公務員は、憲法を守らなければならない』ということ。しかし、政治の世界では、それが、『道徳的な要請にすぎない』ことなってしまっている。これでは、日本の政治は、良くなるわけがない。この考え方を変えることができるのは、私たち市民です。その権限が私たちにはあるが、それを行使していない」。ここから、市民の意識の変革を求める訴えへと転換。「市民が権利を行使していないことは、選挙での投票率を見ればわかること。50%を切るのだから」「年金問題での民間の世論調査によれば、50代の半数の人が、年金では生活できないと思っている。しかし、政治に対し声をあげていない。」と年金問題にも言及。そして「今様々な問題が世界で起きているが、それらの全ての原因は、格差の拡大にある。」と指摘し、その矛盾の先に「戦争」があることを紹介し、最後にこう訴えました。「自分たちの利害をもっと真剣に考えて欲しい。周りと一緒に声を上げて欲しい。そのことがなければもっと悪くなる。『そんなはずではなかった』といっても、遅い。生活の周りで起きていることをもう一度見つめなおして欲しい。間違った憲法解釈の中で政治が行われている限り、良いことが起こるはずがない」と改めて、憲法をきちんと読むことの大切さを訴え、秋葉さんの街宣は終わりました。久しぶりの3の日行動への参加、力強いメッセージでした。一生懸命メモを取ったつもりですが、秋葉さんの演説をすべて伝えることはできませんが、雰囲気だけでも感じてほしいなと思い、その演説の一部を紹介しました。

41h8jwlkaql_ac_uy327_ql65_1

秋葉忠利著「数学者として憲法を読む」を読めばもっと理解が深まると思います。一読してください。最後に、同じ共同代表の山田延廣弁護士のまとめの訴えで定例街宣を終了しました。参加者は、45人でした。みなさんご苦労様でした。

4年前「戦争法が参議院で強行採決された」今月19日に、もう一度同じ場所で、街宣行動が予定されています。ぜひ参加して自分の意思を表明してください。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月 3日 (火)

広島市シェアサイクル・ぴーすくる

最近、街中で赤い電動自転車を見かけるようになりました。昨日も、自宅前の道路を5台の赤い自転車が通り過ぎました。乗っている人は、小さな自転車が少し窮屈そうに見える外国からの観光客のようです。

Dsc_4054

この自転車は、広島市が「自転車を活用した観光振興や地域活性化を図る取組として、国内外の観光客等の来訪者が観光施設等を快適に巡ること」を目的に、2015年2月22日に供用を開始した「広島市シェアサイクル・ぴーすくる」です。この事業は、調べてみてびっくりしたのですが、NTTドコモが、受託して運用しています。

私が最初の目にしたのは、資料館東館南側の自転車置き場に設置されたサイクルポートでした。その後、当初の目的である観光振興や地域の活性化に加えて、市民の日常生活の移動手段としても利用されるようになり、昨年からは商業施設などにもサイクルポートが新設され、現在(7月末)では66か所に増えている(といっても、ほとんどが市の中心部と広島駅周辺ですが)そうです。そうですというのは、この情報はいずれも広島市のホームページから情報を得ているからです。

Dsc_4057

Dsc_4055

そういえば、最近は旅行者とは思えない市民が利用している姿もよく見かけるようになりました。外国人の利用者を見かけた時一緒にいた新聞記者も「私も時々利用しますよ。便利ですから」といっていましたので、市民生活の一部としても活躍するようになっているようです。

私が、最初にこうしたレンタサイクルを見たのは、2017年に中国を訪問した時です。同じ色(黄色とオレンジ)に塗られた自転車が、道路上に多数放置(と思える状態で)されている現場を見た時はびっくりしたものです。この写真は、整理員がいてきちんと整理している場所です。

Dsc_0643

日本と中国、どちらが最初にこの事業を始めたのかわかりませんが、いま中国では、このシェアサイクル事業が、曲がり角に来ていると言われています。昨年5月時点で、全国で3000万台を超え、利用者も17年末には2億人にもなりました。ちょっと気の遠くなるような数字で利用されていますが、問題も発生しています。最初に問題になったのが、不法な放置自転車が大量に発生し、その対策費が増大したことです。次に問題になったのは、車両のメンテナンスです。シェア自転車は24時間、365日、街頭で雨ざらしに置かれていますので、故障することも多いようです。このうち、放置自転車の問題は、日本ではサイクルポートで借り、サイクルポートに返すことになっていますので、あまり問題は発生しないと思われます。しかし、車両メンテナンスの問題は、広島市内の自転車も同じように雨ざらしの状態で、駐輪させてありますので、これからこの問題が課題になってくるはずです。

Dsc_4006 

そしてもう一つ人件費がかかると思われるのは、アンバランスな配置となったサイクルポートの自転車をどう適正に、それぞれに配置するかです。ちょうど中区図書館を訪れた時、トラックで自転車を移動させているところに出くわしました。台数が中国のように多くはないとはいえ、サイクルポート数が増えれば増えるほど、これもなかなか大変な作業のように思われます。

広島市内は、橋を渡るとき少し坂道を上ることになりますが、そんなに苦になるほどではありませんので、私も市内はほとんど、自転車で移動しています。観光客が、手軽に移動手段としてさらに利用されるようになれば良いなと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月 2日 (月)

高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭

昨日は、庄原市高野町の高暮ダムで「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑・碑前祭」が開催され、私も昨年に続き参加しました。

Dsc_4022

Dsc_4026

日中戦争中1940年に始まった高暮ダム建設工事に朝鮮半島から労働者約2000人が、送り込まれ劣悪な条件で、労働が強制されていた事実は、1975年李実根朝鮮被爆者協会会長が中心となってこの地を訪れたことがきっかけとなり、多くの人たちの努力で明らかになりました。李さんたちの訪問が契機となって、地元に有志によって「県北の現代史を調べる会」が結成され、地道な調査活動によってその全体像が明らかになりました。

Img006_20190901202301

そのことは、調べる会が1989年にその成果をまとめた小冊子「戦時下広島県高暮ダムにおける朝鮮人強制労働の記録」に詳細に記載されています。なかなか手に入りにくくなった本ですが、図書館には所蔵されていますので、是非一読して欲しいと思います。この冊子は、第1部では「高暮ダム」の歴史、第2部は「証言」という構成で102ページにわたっています。第2部の「証言」には、「調べる会」の皆さんの努力で明らかになった事実が次々と書かれていますが、特に地元高暮の人たちからの聞き取りが大きな力となっています。「はじめに」に書かれているように「この問題の当事者である朝鮮半島から直接高暮ダムへ連行された労働者にはとうとう出会うことができなかった」調査だったようですが、その実態を可能な限り明らかにしているもので、その努力には頭が下がる思いになります。

Dsc_4033

その後、多くの人たちの努力によって、1995年7月に高暮ダム堰堤のすぐそばに「高暮ダム朝鮮人犠牲者 追悼碑」が建立されました。昨日の「碑前祭」には、当時寄付金集めに努力された関係者や高校生の後輩も出席し、当時の様子とその取り組みの意義が訴えられ、改めて参加者がこの日の持つ意味を再確認しました。

Dsc_4051

「碑前祭」終了後、雨が降っていたため、会場を「ふるさと村高暮」に移し、「県北現代史を調べる会」の一員であった四車ユキコさんから、聞き取り調査で明らかになった当時の実態を聞き、その後焼き肉を食べながらの交流会がもたれ、朝日高校生たちの歌声などによりに親睦を深めました。

ところで、最初に「昨年に続き」と書きましたが、今年は少し様変わりをしていました。その一つが、集いの名称です。昨年までは、「ふるさと村高暮平和のつどい」として開催されていましたが、今年から先述の「碑前祭」とお替りました。その二は、昨年まで参加していた行政(庄原市)からの参加がなかったことです。この集いは、2000年に高暮小学校が廃校となり、その跡を利用して「ふるさと村高暮」が作られたことを機会に地元の自治会が中心となって「何かきちんとした行事を」ということで始まったそうです。といってもそのことを知ったのは今日が初めてですが。ところがさまざまな事情で、今年から名称の変更となり、行政からの参加もなくなったようです。今日の情勢を反映した結果ではないかと危惧せざるを得ません。もちろん、自治会としての取り組みではなくなったとはいえ、今年も地元有事の方々の大変な努力と献身的なお手伝いなしには、「碑前祭」が終了しなかったことは言うまでもありませんが、少し気になったところです。

いのととうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月 1日 (日)

なんでわざわざ旭日旗? ――惻隠の情はどこへ行ったのでしょう?――

日本中どこで犠牲が発生するのか分らないような異常気象が続いています。北九州も大きな被害を受けています。中でも武雄市の被害の大きさが、連日報道されていました。消防、警察、自衛隊の皆さんの献身的な活躍に感謝しながら、一人でも多くの人が危険な状況から救われるよう祈っていました。

そんな中、映像的に余りにも目立つので違和感を持たざるを得ないことがありました。それは、「旭日旗」です。画像は、テレビ朝日のニュースと、西日本新聞からお借りしました。最初は、地元の消防の救助艇です。

Photo_20190901050901

このボートがどこの所属なのかは、ボートの脇に書いた文字で分るようになっています。救助作業の邪魔になるようなものは一切、見当りません。

次に、海上自衛隊の救助ボートです。

Photo_20190901051001

バカでかい旭日旗が目立ちます。そして率直な疑問です。

災害救助の際には、救助に直接必要な装置があることは当然なのですが、こんなに大きな旗は、救助の邪魔になっても救助作業の役には立たないことは明白です。遠くから旭日旗を見て「助けが来てくれた」という精神的な支えになるという言い訳が聞えてきますが、ボートの存在そのもので十分にその役割は果せているでしょう。

そして、日本の軍隊は伝統的に「武士」の集団であることを誇りにしてきました。その精神は「武士道」と呼ばれます。藤原正彦氏によれば、「武士道」精神の中で重要な柱の一つは「惻隠の情」です。

「惻隠の情」とは、他人を思いやる心という意味ですが、それも、「思いやってやったぜ」というように、自らの行為を誇示することとは反対に、謙虚にそしてしばしば表に出ないような形での心遣いを意味します。

しばしば引用されるエピソードですが、大東亜戦争中の1942年、イギリスの戦艦エグゼターとエンカウンターは、ジャワ近海で、日本帝国の艦艇に撃沈され、約450人の兵士が海の藻屑に消えようとしていました。たまたま近くを航行中の駆逐艦「雷」の艦長、工藤俊作中佐は、英国兵442人を救出しましたが、この美談は、後に助けられた将官の一人、サー・サムエル・ホールが1990年代後半、ロンドン・タイムズに投稿して公にするまでは知られていませんでした。工藤艦長は、あくまでも謙虚に行動し、自分が良い事をしたのだという自己PRをしなかったのです。

翻って、今回の旭日旗を見てみましょう。「助けてやったのは、俺達海上自衛隊だぞ」という自己宣伝の臭いがぶんぶんするではありませんか。「惻隠の情」はどこに行ったのでしょうか。そして、日本の軍隊が「武士道」精神による規律によって、美しい伝統を継承していると言われても、ちょっと違うのではないかと、という疑問を持ってしまうくらい「ハシタナイ」行為のように見えるのですが。

[201998/1 イライザ]

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

« 2019年8月 | トップページ | 2019年10月 »