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2019年8月19日 (月)

フランシスコ・サビエルと山口

先日、山口に帰郷した際、少し寂しくなったアーケード街を歩いていたら下の写真の銅板を目にしましました。これまでにも歩いていた道でしたが気づいたのは初めてです。

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画が刻まれた真ん中の銅板は、布教の様子が描かれています。左右の銅板には、説明文が書かれています。向かって右側の銅板には、フロイスの日本史の一部「(前略)山口のわれらの教会の正面に、釈迦を拝む本國寺という法華宗の僧院がある。異教徒たちには我らの四句節にあたる彼岸という時期があるが、年間のその時期になると、おびただしい数の聴聞者が寺院を訪れて喜捨を行い、その他の寺院にも参詣する。(略)」が記載されています。

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後ろを振り返ると、本國寺の門柱が目に入ります。本堂は、シダレザクラの並木道を入ったぞっと奥にあります。

ところが、向かって左側の銅板には、「大道寺について」というタイトルが付けられ「大道寺とは、天文21年(西暦1552年)、大内義長が山口にいたキリスト教宣教師に対して、協会の設立を許可した書状に記された寺院(協会)の名前である大道寺があった場所については、2つの説が知られる。ひとつは金古曽町にあるサビエル公園付近で、もうひとつがここ道場門前の本國寺付近である。」と記載されています。かつて私の兄(キリスト教徒)が、山口を訪れた時に、ぜひ訪ねてみたいということで一緒にサビエル公園を訪れたことがありますので、ここ「本圀寺」付近という説は今回初めて知りました。サビエルは、日本国内の様々なところで「布教の許可」を与えられたようですが、「常設の教会設置」が許可されたのは、日本国内ではこの山口が最初でした。ちなみにこの場所は、当時大内館があったとされる場所(現在は龍福寺の境内)からは、サビエル公園は、東に600メートル、本國寺は、南西に1.2キロの場所です。距離的には、サビエル公園は、大内館から近すぎるように思いますが、果たしてどちらが?

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翌日家族とともに「サビエル公園」を訪れました。公園から少し離れた場所に立つ門柱は何か古めかしさを感じます。この門柱は、「ビエル公園」になっています。

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公園に入ると、真ん中にサビエル像をはめ込んだ高さ10メートルの「聖サビエル祈念碑」が建っています。見上げるような大きさです。公園の右手には、「サビエル記念公園」の由来が書かれて看板があります。そこには「明治22年(1889年)フランス人アマトリウス・ビリヨン神父は、山口におけるサビエルの遺跡について探求し、現在の公園の地をその跡と考え、有志の協力で土地を買い求めました。」とその由来が記載され、大正15年(1926年)にサビエル記念碑が建立されたことも書かれています。さらに、この説明版を読むと、「教会設置」の許可が出たのは、サビエルが山口を去った後の天文20年(1551年)9月、弟子のトルレスに与えられたことが分かります。「聖サビエル記念碑」を挟んだ反対側には、許可を与えた書状を銅板にしたものが碑として建立されています。しかし、今この公園には訪れる人も少ないのかちょっとさびれた感じがしました。

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ところで、山口でサビエルといえば「サビエル記念聖堂」が思い浮かびます。妻の実家のマンションからもその尖塔が見えます。1991年の火災で全焼した後、1998年に再建されたものです。これをめぐっては様々な意見がありました。消失前の聖堂が建っていた時期に憩いの場として何度も訪れていたというわが家の家族には、今も不人気です。さてみなさんは?

いのちとうとし

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