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2019年8月

2019年8月31日 (土)

8月のブルーベリー農園(東広島市豊栄町)その2

天候不順。8月の後半は秋雨前線がやってきて雨の日、薄曇りの日が続きブルーベリーも不安定で、甘さが増ざす、雨による水分過多で実が破れ提灯のように割れるものも多く、楽しい摘みとりも今一つ気分が高揚しないひびが続いた。そして、収穫も今年は極端に少なく8月25日の日曜日にボランティアによる援農の摘み取り作業が行われてからはもう熟れた実がないという農園はじまって以来の短い収穫期間となった。

その結果安芸の郷へのブルーベリーの納品も半減し、生食の予約注文をお断りしないといけない事態になってしまった。農園は標高約400mの所にあり朝夕の寒暖差が大きくおいしい実が取れるのだが、自然の気候に左右される農業は、人の思惑をせせら笑う気まぐれさんに思える。

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8月23日(金)色づいた実を摘み取った後の赤い実は、秋雨前線の影響でこれ以降はほとんど色づくことがむつかしいと思われる。

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子どもたちの夏の過ごし方の一つに農園のブルーベリーの摘み取りがある。ある友人の娘と孫が東京から帰郷ししばらく滞在しているのでその合間に農園にやってきた。その友人の姪の家族も合流して農園はファミリー交流の場にもなる。8月25日(日)。

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とにかく飽きることなく動き遊ぶ。8月25日(日)。

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8月18日(日)。農園は全部で5か所に分かれている。小高いところにある里山には東西2か所ある。写真は西側の農園。お盆前からしばらく摘み取りをしていないので実がよく熟れている。午後から農園の友人、知人、安芸の郷の職員の皆さんが一斉に摘み取り援農に入る。

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8月25日(日)。1週間後、同じ場所に摘み取り援農に来られた安芸の郷にボランティアに来ていただいている矢野民生委員、農園の友人のみなさん。ほとんどの実を摘み取ることができた。もうない状態に。

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8月25日(日)。帰り支度。ブルーベリーの摘み取りの際に足裏につくブルーベリーの実を水で洗い落す。

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農園のブルーベリーの伸びた枝を採取して夏の挿し木をする目的で広島大学の大学院生が8月24日、25日に来園。彼は来春卒業後農業に就く計画で、ブルーベリー栽培もその一つにしており、夏の挿し木も試みて苗木の確保を行う計画だそうで、申し出を快く受けた。今年の冬にも採取した穂木は挿し木で順調に育っているそうで、畑も小さいが2か所借りることができたと話していた。8月24日(土)

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8月24日(土)。農園近くの里山の中にある墓にお盆明けの片付けにいくと、墓標に座るアマガエルに出会う。

秋の気配。

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1.ハギの花。8月23日(水)

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 2.ドングリ。8月23日(水)

ブルーベリーを熟れさすお日様がほしい。9月に入るともうこのあたりの田んぼの稲刈りが始まる。それやこれやで日差しよ戻れ。

2019年8月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2019年8月30日 (金)

今年最後のブルーベリー

毎月15日と月末にこのブログにきれいに写真入りで季節の便りを送ってくれる遊川さんの東広島市豊栄にあるブルーベリー農園に、ボランティアで毎年何度もブルーベリーの摘み取り作業の手伝いに行っている友人から「今年最後のブルーベリーですよ」と、沢山のブルーベリーをいただきました。

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この友人からは、何度もブルーベリーを届けていただき、いつも美味しく食べさせていただきましたが、今年も終わりの時期を迎えたのかと大事に味わおうと思っています。私は、生食で食べるのが大好きです。

豊栄の農園には行ったことがないのですが、安芸区矢野にある社会福祉法人「安芸の郷」には、夏のブルーベリー祭りに行ったことがあります。ちなみに今年のブルーベリー祭りは、7月27日に開催され、1,300人の参加があってようです。なお、10月12日(土)には、「安芸のブルーベリーフェア」が開催されるようです。

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私は、ブルーベリー祭りには参加できませんでしたが、6月に「安芸の郷」を訪れる機会があり、屋上緑化で育てられているブルーベリー畑を見学し、すでに完熟した早生のブルーベリー摘みを体験させていただきました。

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「自分で育てたブルーベリーを食べてみたい」と、これまでに何度もブルーベリーの苗木を買い、育てようと努力しましたが、失敗続きでした。「ブルーベリーに身を付けさせるには、2本必要」といつか聞いたことがありますので、今年は、一鉢に二株が植わり、実もついている鉢(写真の左側)を買ったのですが、なぜか一株は枯れてしまいました。水のやり過ぎか、その他の原因なのか不明ですが、残った一株は、元気に育っています。一株枯れた頃、また鉢植えが売られているのを見つけましたので、二鉢目(写真の右側)を購入しました。今のところ、元気に育っていますが、最近葉が落ち始めましたので、この後どうなるのかちょっと心配です。他の鉢植えの多くは、年を超えて育っていますので、今年失敗すれば「ブルーベリーはわが家には不向きだ」ともうあきらめるしかないと思っています。

わが家のブルーベリーは育たなくても、友人のおかげで、今年の夏も「ブルーベリーを堪能」することができました。

いのちとうとし

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2019年8月29日 (木)

広島朝鮮歌舞団公演-成功裡に再スタート

一昨日午後6時30分から「広島朝鮮歌舞団公演」がアステールプラザで開催されました。私も、朝被協の金鎮湖さんから「妻がぜひ参加してほしいといっていますので」という電話をいただき、久しぶりの広島朝鮮歌舞団の公演に参加しました。

広島朝鮮歌舞団は、1967年に結成され、最大時には16名も団員がいたという歴史を持っていましたが、様々な事情で一昨年以来その活動を停止していたようです。しかし、これまで歌舞団で活躍してきた多くのOGなどが声を上げ、その努力が実り今回4名の団員がそろい、再スタートを切ることになり、今回の初公演となったのです。そのことを電話で聞きましたので、私も喜んで参加しました。

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当日配布されたプログラムにも書かれていますが、広島朝鮮歌舞団は「朝鮮の音楽と舞踊を学び、同胞たちには故郷の香りと夢と希望を与え続ける」存在でした。と同時に、私たち日本人との友好親善を深めるための大きな役割を果たしてきました。

私が、広島朝鮮歌舞団と最初に出会ったのは、1973年です。毎年夏に行われる今も続いている「青年女性平和友好祭」の会場でした。その歌や民族楽器の演奏、踊りは、初めて目にする舞台でしたので、そのあでやかな民族衣装とともに、出演者の絶えない笑顔は、忘れられない強い印象として残りました。その後は、平和友好祭だけでなく、朝鮮総連の行事等で見る機会が増えましたが、何時も変わらず参加者の大きな拍手を浴びる光景は忘れることができません。こんな体験を持っていましたので、「広島朝鮮歌舞団」が活動を停止したと聞いた時には、在日朝鮮人の人たちは、さぞがっかりされたことだろうなと想像していましたので、今回の再スタートは、私にとってもうれしいニュースでした。

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公演の中ほどで、最も若い団員黄玲実さんの語りがありました。ハングルでの語りでしたので、私には理解できなかったのですが、会場で配布された「プログラムの解説」には、日本文が付けられていますので、一部紹介します。タイトルは「私が行く道」です。

「ああ、ついに来た今日のこの日/私が行く道、青春をかける価値ある/広島朝鮮歌舞団    ・・・私が卒業を迎えた高校3年生の昨年/人生の歩む道を選択する進路の道で/どれだけ悩みと涙を流したことだろうか/(略) 幼いころからの夢/朝鮮舞踊で自分を生かせる夢/10歳から学んだ朝鮮舞踊/初級部から舞踊部で学び、研究所で習い/正月の平壌での舞台に立ち/高校から平壌大の舞踊課で/修練した幸せな3年間、そして/両親が注いでくれた愛と経済的な負担/  だから舞踊で愛国事業に寄与したい/恩恵と配慮に応えたい/この道を選ぶことになんの迷いもなかった/  だが/広島朝鮮歌舞団に団員がいない/団員がいないこの現実は/私の夢を叶うことができない絶望感だけ/(略)人生を選ぶ分かれ道で/私が選んだこの道の後悔しない/「私はできる、やる」/この信念だけが強くなる/  芸術の力で今で受けた/愛と恩と拝領に感謝し/民族教育で培われた自負心を胸に秘め/私の人生の主人公になる/この道を進むだけ広島朝鮮歌舞団/」

今回の公演は、この王さんの思いが伝わる本当に良い舞台でした。写真撮影禁止ですから、舞台をお見せできないのが残念です。

最後は、広島朝鮮歌舞団再スタートの中心的役割を果たされた朴美英さん(金鎮湖さんのパートナー)のあいさつ。「皆さんのご支援で今日を迎えることができました。これからも文化芸術の偉大な力を信じて技量の向上を続けていきますので、ご支援をよろしくお願いします。」

広島朝鮮歌舞団の再スタートを喜ぶ人たちの大きな拍手に包まれてフィナーレを迎えました。これからも、厳しい道が予測されますが、プログラムに書かれた「新しい響き」をつくり、多くの人々に感動を与え続ける広島朝鮮歌舞団の活躍を祈るばかりです。

いのととうとし

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2019年8月28日 (水)

生協虹のひろば

8月5日(月)日本生協連、広島県生協連主催の「2019ピースアクションinヒロシマ虹のひろば」が広島県立体育館(グリーンアリーナ)で行われました。各ブースでは平和のとりくみの展示、ステージでの催しなど全国の生協・諸団体からも参加があり、3時間半にわたり平和の活動のとりくみが紹介されました。

昨年は豪雨災害の影響もありましたが、今年は昨年より多くの参加者が全国から集まったように思います。今回のテーマは「ヒロシマの心を次世代のあなたへ~知って感じて動き出そう~」で、年々、被爆証言者の数が減り続ける中、深刻さを改めて認識しました。

そんな中、広島県内の高校生の活発なとりくみ報告には改めて驚かされました。基町高校創造表現コース美術部による原爆の絵は、2007年より継続して被爆証言を聞いて証言者の方と制作したものです。

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ステージでは、絵を描いた高校生それぞれの思いが紹介されました。

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展示会場前では来場者へ、被爆当時の状況や原爆の絵を制作する上で難しかったことなどを一生懸命丁寧に説明されていました。

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広島国際会議場では8月7日(水)から8月21日(水)まで9:00~18:00の時間帯で、高校生が描いたヒロシマ原爆の絵画展も開催されました。今年完成した11点とこれまでの37点が展示されました。

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福山工業高校のコーナーでは「VR爆心地」を紹介していました。被爆前後の街並みを復元した様子を体験できるコーナーで、多くの方が体験されていました。被爆前のモダンな建物や賑わいが、一瞬のうちに破壊された様子がとてもよくわかります。

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安田女子大学書道部による大書パフォーマンスは、とても迫力があり、多くの方が魅了されていました。平和の願いを込めた文字が並べられました。

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最後はわたしたちの展示ブースです。毎年広島平和教育研究所が制作している「ヒロシマ平和カレンダー」です。広島県では「文部省是正指導」以降、教室にこの平和カレンダーを掛けることが非常に困難となりました。今はほとんどが県外からの問い合わせ、または一般の平和活動に熱心な市民の方々です。

今年は本川小学校(当時本川国民学校)をテーマにしており、校内にある平和資料館を紹介しています。原子爆弾投下により、約400人の児童と10人の教職員が犠牲になりました。この平和資料館には被爆前後の学校や子どもたちの様子などの写真や、溶けたガラスなどが展示されています。学校という舞台が戦争、原爆により子どもたちの生活がどのように変わり、どのように復興していったのか、現代の子どもたちの心に響くものとなるよう工夫しました。核兵器廃絶と平和の大切さを考え、ヒロシマ・ナガサキを繰り返さないための教材として、学校や家庭、地域などで活用していただきたいといった主旨で制作しております。

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来年のテーマはまだ決まっておりませんが、今年のこのカレンダーはまだ在庫があります。学校に合わせて4月から来年3月までのカレンダーです。必要な方はぜひお問い合わせください。

一部 税込1,000円です。送料別途。

販売元 広島県教育用品㈱ TEL 082-262-5785

今年も被爆74年の夏が終わります。

以前2020年までに全世界から核兵器を廃絶するという目標がありました。その年が来年来ます。多くの国会議員は、市民を守る災害復旧に力を入れると言いますが、同じ市民を守ることに何の違いもない核兵器禁止条約への日本の賛同署名・批准はどうしてすんなり受け入れられないのでしょうか。当然のことですが、核兵器では市民は守れません。

(安佐南区の輝き)

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2019年8月27日 (火)

三良坂平和公園、平和美術館を訪れて

先日、庄原での用事の帰り道、少し帰り道を変更して、三次市三良坂町にある三良坂平和美術館を訪ねました。同美術館が建っている三良坂平和公園には、私の知っている人たちの作品も多数ありますが、まず美術館の展覧会へと足を運びました。

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展覧会は、「柿手と4人のなかま」のタイトルで開催されていた33回平和展の最終日でした。三良坂平和美術館は1986年に三良坂町が行った非核平和自治体宣言を記念し、地域文化への貢献を目的に1991年6月に開館しました。その時から、三良坂町出身で反戦画家の柿手春三の作品が常設展として展示されています。今回の展覧会は、柿手春三の作品とともに、この柿手春三に三次高等女学校(現三次高)で学んだ画家熊谷睦子さんが、ほかに3人の女性画家に呼び掛けて、作品78点を集めた展示となっていました。独特の画風で平和を訴える書き手作品を見ることができました。

美術館を出ると、三良坂平和公園に設置された様々なモニュメントが目に入ります。2年ぶりに訪れましたので、ゆっくりと見て回りました。その一部を紹介します。

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最初の目に飛び込んだのは、美術館の外壁を飾っている大壁画です。タイトルは「翔べ永遠に」です。この作品は、被爆50年の1995年に画家の吉野誠さんの指導で、平和と人権を大切にしようと当時の三良坂町民150人が力を合わせて完成したものです。壁画を飾っているハトや人間は、吉野さんが考案したアルミ板を切り取って作ったものです。

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そういえば、美術館の事務所にも吉野さんから送られてきたという作品が何点も並んでいました。昆虫をかたどったカラーの作品もあります。コカ・コーラの空カンなどがうまく利用されています。

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この壁面から目を反対側に転ずると、ここにも私たちの運動とかかわりの深い人の作品が目に入ります。メインは、1994年8月に建立された「原爆・戦争犠牲者追悼 非核・平和を願う 母と子――わたす像」という大きなモニュメントですが、その横の自然石には、このモニュメントを題材とした栗原貞子さんの詩「母と子 わたす像」を刻んだモニュメントもあります。

「インド砂岩の白い裸像の母は/白い裸像の子どもに/何を渡そうとしているのだろう//夕暮れの平和公園の広場には/白い灯篭がいく百も置かれ/五濁の世を清らかに照らしている/像の前に集まった人々は/母が子どもに わたそうとする願いを/胸に燃やして手をとりあっている//ここ 平和公園の白い灯篭の灯は/いまも絶えない世界の戦火を/しずめようとする祈りの灯/裸像の母が 子どもにわたそうとするもの//わたすの像よ/世界中の母と子にわたしてください/わたしたちの願いを」

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この平和公園では、合併後も三次市が主催し毎年8月に平和のつどいが開催され、灯篭が並べられるそうです。ちなみに今年は、8月3日に開催され、約千基の灯篭が並んだようです。三良坂の皆さんの反核・反戦・平和への強い思いを再認識した三良坂平和公園探訪となりました。

いのちとうとし

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2019年8月26日 (月)

戦後74年目の夏、被爆地「長崎」を訪ねて ―原爆被害とともに、加害の事実にも目を向ける視点を―

三原の藤本さんから、戦後74年目の夏の被爆地長崎訪問の報告が寄せられました。

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今年は、5月1日に「天皇代替わり」が行われ、あたかもすばらしい新時代が到来したかのように祝われました。私たちは「5.3ヒロシマ憲法集会」において、TBSニュースキャスター・金平茂紀さんの講演を聞き、あらためて「元号・天皇制」について考え合いました。

第22代高校生平和大使広島研修・結団式(6月15~16日)において、被爆者の証言を聞く場がありました。「あまりに悲惨なあの経験を繰り返してはならないというのが被爆者の原点。皆さんは『どうあるべきか』つなげてほしいと熱く語りかけられました。講話の中では、平成(明仁)・令和(徳仁)天皇を賛美する発言もあり、反戦・反核・平和運動を取り組む者から見れば違和感を持たざるを得ませんでした。

戦後74年目の夏、今年も原爆・戦争の犠牲となった人々を悼む慰霊の行事や核廃絶を求めた様々な集会が催されました。私は、長崎の平和運動を牽引してきた憲法学者・舟越耿一さん(長崎大学名誉教授)にお会いするため、「8・9長崎」を訪問し、犠牲者を悼み、核も戦争もない平和な社会に思いを巡らせました。

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早速、8月19日、三原駅前での戦争させない「19日行動」において、ヒロシマ総がかり行動共同代表の石口俊一弁護士を迎えて、「二度と戦争しない」と決めた憲法9条を守ろう!と街頭で訴えました。

 

★岡まさはる記念「長崎平和資料館」の見学

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8月8日、JR長崎駅近くにあるNPO法人「岡まさはる記念・長崎平和資料館」を見学しました。

この平和資料館は、1995年10月1日、日本の戦争責任と侵略の記憶と向き合い、史実に基づいて日本の加害責任を訴えようと市民の手で設立されました。強制連行、南京大虐殺、韓国・朝鮮人被爆者、戦後補償など加害の事実を知る良い学習となりました。

★長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会

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 8月9日、7時30分から「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」主催で爆心地公園内にある「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」前で、原爆で犠牲になった朝鮮人の追悼集会が開催され、広島の足立修一弁護士やピースリンク広島・呉・岩国の久野成章さん、新田秀樹さんとともに参加しました。

集会の中で在日本朝鮮人総聯合会長崎県本部のキム・ジョ ンデ委員長は、在韓被爆者の援護を長年訴えて勝ち取った郭 貴勲(カク・キフン)さんの「被爆者はどこにいても被爆者だ」という言葉を紹介し、「関心を 持って支援してほしい」と参加者に呼びかけました。長崎原爆では朝鮮半島から仕事を求めて移 り住んだり、徴用されたりした人もいて、約2万人の朝鮮人が被爆し、約1万人が死亡したと言 われています。なぜ被爆したのか深く考えなければならない歴史です。

 

★ピースウィーク市民集会

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追悼集会後、「長崎原爆資料館」の見学。10時から爆心地公園で開催された「ピースウィーク市民集会」に参加しました。主催者あいさつで舟越耿一さん(長崎大学名誉教授)は、「なぜ長崎・広島に原爆が落とされたのか。真珠湾攻撃の時の飛行機は三菱長崎で作られたことと無縁ではない」と日本政府・軍部・軍需産業の戦争政策が長崎・広島の被爆につながっていると訴えました。

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集会では、世界の平和と核廃絶を願う市民のリレートーク、保育園児たちによる「青い空は」の合唱、市民平和宣言の採択。最後に、原爆投下の11時2分に「原爆落下中心地碑」に向かって黙とうして集会が終わりました。

★九州電力へ「原発の即時停止と廃炉を求める」要請行動

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 集会終了後、九州電力長崎支社に対し「玄海原発および川内原発の即時停止と廃炉」を求めて要請行動を行い帰広しました。原発を持つ電力会社11社の原発政策に対する考え方は同じですが、アポなしでの訪問にも責任者が即対応するところは中国電力と違うなあと驚きました。

藤本講治

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2019年8月25日 (日)

中国電力の新聞一面広告

8月17日の中国新聞に、一面全部を使った中国電力の広告が掲載されました。大タイトルは、「中国電力から、変わったお知らせです。」というものでした。中みだしの文章は、「電気の使われかたが、変わりました。」で、本文は「電気給湯器や太陽光発電の普及、省エネ意識の高まり。この約20年間で、電気の使われ方が大きく変わりました。そして、私たち中国電力も変わっていきます。電気だけでなく、みなさまの快適なくらしに役立つ新しいサービスをお届けします。」とあります。

そして1日の電気の使われ方の変化(1年間の平均)と書かれた、グラフが描かれています。そのグラフは、「2000年度実績」と書かれ青線で記された電気の需要変化と、「2018年実績」と書かれ赤線で記された需要の変化をひと目で解るようにしています。

「2000年の実績」では、一日の内、夜明け前の時刻に電気使用量は最低となり、夜明けとともにその使用量は上がり始め、お昼休み時刻と思われる12時から13時の間は少し減少し、午後の仕事開始とともに上がり夕方から深夜にかけて減少するという傾向でした。

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それが「2018年度実績」では、夜明け前もそれなりに電気が使用され、昼休みもそんなに減らずに、13時から17時頃までも大きくは上がらず、17時から20時くらいにかけて上昇していくという傾向にあります。

ひと言で表現すると、2000年頃は1日の電気使用量の変化が大きかったのですが、2018年は1日中の変化がほとんどなく、フラットになっているといえます。最大使用量の時間が変化することを、ピークシフトと呼びます。

電気の使用量というのは、1日の内でも春夏秋冬でも変化し、休日・夏場ではお盆休み中、冬場では正月中は大きく下がります。これまでは夏場の猛暑時に「エアコンを使って高校野球をテレビで観ている時間」が最高ということが、いわれていました。そして1年の内に最低になるのは、1月2日の朝方といわれましたが、それも変化してきたように思います。

まず、冬場の寒い時刻に大きく伸びてきました。一昨年の場合、猛暑の夏より多いという状況でした。その理由は、まずはエアコンで暖房をするのが増えたことや、夏場は日照時間が長い分、太陽光発電が働く時間も長くなったことで、中国電力からの電力量は減りました。

そして1月2日の朝方が減らなくなりました。多くの商店で、1月2日から営業しているのが増えたからでしょう。現在、1年の内で最低になるのは、4月末から5月始めの「ゴールデンウイーク」中です。今年の場合は無理やり「10連休」とされた職場がありましたから、この期間が最低を記録しています。暑くも寒くもない時期だからでしょう。

ちなみに、このブログの原稿を書いている今日、8月21日午前9時50分の使用電力量は900万キロワットとなっています。最大は14時~15時で予想最大電力量は935万キロワットを見込んでいます。

今年の場合、気温が35度を超えた猛暑日は1000万キロワットを超えた時もありましたが、今日の予想最高気温は32度、少し蒸し暑い感じですが温度が少し下がるだけで、電気の使用量は大きく下がるのです。そしてこの時刻の太陽光発電からの発電量は175万キロワット、約19パーセントが太陽光からで、もちろん原発からの電気はゼロです。

こういうことに関心のある方は、中国電力ホームページの「電気予報」をチェックしてみてください。

木原省治

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2019年8月24日 (土)

「米軍機による爆音被害をなくすことを求める請願」署名26,594筆を提出

昨日、「異議あり!『基地との共存』市民行動実行委員会」(実行委員長岡村寛)は、中四国防衛局を訪れ、防衛大臣に宛てた「米軍機による爆音被害をなくすことを求める請願」署名26,594筆を提出しました。この署名は、昨年米軍岩国基地へ艦載機が移転して以降騒音被害が拡大していることに対し、「爆音被害をなくすこと」を求めて、昨年7月1日をスタートに山口県、広島県を中心にして1年間とりくまれてきたものです。26,594筆のうち、約22,000筆が、山口、広島の両県で集まった署名、残りは全国各地から寄せられたものです。

署名簿の提出は、午後1時10分から予定されていましたが、出席予定の地方調整課基地対策室長(責任者でもある)が時間になっても現れず、開始が15分間も送れるという事態からスタートしました。遅れて現れた室長は、「出席する予定でなかったものですから」と発言。出席者の怒りを買いました。実行委員会は、集約を終えた7月初めから、この場を要望していたにもかかわらず、何やかやと理由を付けて、1か月半以上延び延びとなっていたのですから、当然のことです。秋田県でのイージスアショアの説明会での防衛省側の不誠実な対応が思い浮かびます。

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そうした経過もあり、当初報道官が署名簿を受け取る(私はその話が出た時強く抗議したら、慣例だからと強弁)と言っていたのですが、今回は基地対策室長が受け取ることとなりました。

提出した請願事項は、「①平穏な市民生活を脅かす爆音は、いかなる訓練によるものでも、いかなる時間帯であっても認められません。爆音被害軽減の実効ある措置を米国に求めること。②基地滑走路の運用時間(午前6時半から午後11時)外の戦闘機の離着陸は、平穏な市民生活を破壊するものであり絶対に認められません。滑走路の時間外運用は中止することを米国・米軍に求めること。③爆音被害の実態を把握するために、市民への聞き取り調査を実施、市街地に新たな爆音測定器の設置をすること。④これまで、移駐後の『騒音予測コンター』を示してきたが、艦載機部隊の運用が安定したら『騒音実態のコンター』を示すと説明してきたがどうなっているのか説明を求める。」の4項目です。

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これに対し、出席した担当者から説明が行われましたが、いずれも「市民の負担軽減に努力する」にとどまり、具体的に対策が示されず、全く納得できるものではありませんでした。その後の意見のやり取りではっきりしたのは、艦載機移転後、岩国市上空を頻繁に米軍機が飛行しているにも関わらず、その実態を中四国防衛局が全く把握していないという事実です。これでは話し合いになりませんので、私が「実態把握が違うのであれば、話し合いが進まない。先ほどの回答では触れていない③で要望している『市民への聞き取り調査』を実施し、その結果に基づいて同じ土俵で話し合いを続けなければ、あまりにも現状に対する認識が違いすぎる」と「市民への聞き取り調査の実施」を強く求めました。結果しぶしぶですが「検討させてほしい」との答えがありましたので、1か月後に「検討結果を回答する」ための場を改めて持つことを約束させ、話し合いは終了しました。もちろん参加者からは、この他にも岩国市で起きている様々な問題の現状が訴えられました。

中四国防衛局との話し合いには、何度も参加していますが、今回はびっくりするようなお粗末な中四国防衛局の対応でした。

いのちとうとし

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2019年8月23日 (金)

「シベリヤ」それとも「シベリア」―「香月泰男・シベリア・シリーズを観る」のつづき

14日のブログのつづきです。

当日ブログの原稿を書くため、「香月泰男展覧会図録」など関連する本が何冊かあったはずと書棚を懸命に探したのですが、その時には見つけることができませんでした。原水禁大会などの資料を整理しようということで、書棚の入れ替えをしていたら、今日になって2冊、見つけることができました。一冊は、1994年に山口県三隅町(現在は長門市)にある香月泰男美術館が発行した「シベリヤ・シリーズへの原点展画集 私のシベリヤ」です。

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この図録は、1994年に同美術館が、香月泰男の没後20周年の節目の年に開催した「シベリヤシリーズの原点展」を記念し刊行したものです。私の手元にある図録は、発行年が2001年、第3版となっていますので、展覧会後も好評で版を重ねたようです。しかし、香月泰夫美術館のホームページのショップには、この図録は紹介されていませんから、今は絶版かもしれません。図録を見ていると「ちょっと気になることがあります」といっても大したことではありませんが。確か私が訪れた山口県立美術館の展覧会名は「シベリア・シリーズ」となっていました。ところがこの図録では、「シベリヤ・シリーズ」となっています。いつから「ヤ」が「ア」となったのでしょうか。

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もう一冊手元にある「山口県立美術館監修」で中国新聞社が2004年に発行した本のタイトルは「香月泰男シベリア画文集」となっていますので、今は「シベリア」ということになっているのでしょう。と思ったのですが、香月泰男美術館のホームページを開くと、依然として「シベリヤ・シリーズ」となっています。そういえば、わが家でも父の抑留の話が出た時の地名は「シベリヤ」でしたから、香月泰男もきっと「シベリヤ」といっておられただろうと想像できます。そう思いながら図録を読み進んでいくと、終わりの方に収められた「香月泰男のことば」として、これまで出版された本から引用されている文章は、やはりすべて「シベリヤ」となっています。美術館は、香月泰男が生前使っていた「シベリヤ」という呼び方を大切にされているということがよくわかります。

この図録を見ているともう一つの疑問がわきました。香月泰夫美術館の略年譜を見ていると「1974年3月香月泰男死去 同年11月 シベリヤ・シリーズ山口県に寄贈」となっています。ところが、1994年に第1版が発行されたこの図録に掲載された「シベリヤ・シリーズ作品」一覧では、57作品中51作品が「山口県立美術館蔵」となっていますが、「黒い太陽」「鷹」「避難民」「アムール」「涅槃」「渚〈ナホトカ〉」の6点は、なぜか所蔵先が記載されていません。ここにはどんな経緯があったのでしょうか。当然のことですが、中国新聞社発行の「香月泰男シベリア画文集」には、あえて所蔵先は記載されていません。

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本の内容も少し紹介しておきます。香月泰男美術館発行の「私のシベリヤ」は、「原点展画集」の名のとおり、作品の原点となった「素描」や「オブジェ」「版画」「油彩」などの関連作品が153点掲載されています。「シベリヤ・シリーズ」の作成の過程がよくわかります。その意味でも貴重な図録だと思います。私にとってもっと貴重に思えることは、展覧会にも付けられていた香月泰男の「自筆解説文」が、全文掲載されていることです。(もちろん中国新聞社版にもありますが)私が、展覧会に行って、絵とともに感動したのは、この「自筆解説文」でした。この解説文こそが、私が、私の家族のかつての旧満州時代や父の抑留生活のことを思い出させることになったのですから。やはり私にとっては、「シベリア」ではなく「シベリヤ」なのです。

いのちとうとし

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2019年8月22日 (木)

アーサー・ビナードさんの紙芝居「ちっちゃいこえ」

アーサー・ビナードが、丸木位里・俊夫妻作の「原爆の図」をもとに7年がかりで制作し、5月に完成したといわれる紙芝居「ちっちゃいこえ」をこの一月の間に2度見る(というか聞くというか)機会がありました。

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最初の出会いは、広島市中央図書館の企画展「ヒロシマの記憶を伝える ~町と人々の暮らし~」の関連イベントとして7月21日に開催された「ヒロシマの記憶を伝えること」の会場でした。もう1回は、8月6日にHANWAが主催した⌈8.6ヒロシマ国際対話集会 反核の夕2019」の特別公演として演じられた時です。幸いなことにいずれも、アーサー・ビナードさんの語りによる公演でしたので、「たかが紙芝居、されど紙芝居」、ググッと引き込まれる思いで見ました。

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7月21日の会場では、「写真お断り」といわれていましたが、8月6日にはその断りがなかったものですから、つい映してしまいました。公演のためには、写さないほうが良かったのですが。アーサーさん、すみません。

この紙芝居「ちっちゃいこえ」については、「なぜ丸木夫妻の原爆の図なのか」など制作に至る過程や思いについて、アーサーさんがいろいろの場所や紙面を通じて語っておられますので、ぜひそれらを読んでほしいと思いますが、特に印象深いことを少し引用させてもらいます。「原爆というのは核分裂の連鎖反応が起こされ、ピカァァァと破壊力が放たれるけど、それで終わるわけではない。放射線を浴び、放射性物質を吸い込んだり飲み込んだりした生命体は、そのダメージを一生背負い続けなくてはいけない。そこを紙芝居で伝えないと『原爆の図』を踏まえて語る資格はない。そう考えるようになったのです。」そして森滝春子さんとの対談では、丸木俊さんが作成した絵本「ひろしまのピカ」について触れながら「絵本は、広島の人びとがどういう体験をしたかを描いているけれど、ウラン鉱山から始まり黒い雨、残留放射能、死の灰、原子炉、劣化ウラン弾まで延々と続く核被害を描いていないでしょ。核被害の本質を子どもたちに手渡しているわけではない。でも、その本質を『原爆の図』は抱えもっている。」アーサーさんは、核被害の本質をこの紙芝居で表そうとしたのです。

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私も何度か、「原爆の図」は見ているのですが、あの絵がこんな形で「紙芝居」になるとは想像もできませんでした。

最後に紙芝居を見たのは何時だったかなと思いだそうとしましたが、思い出すことができません。それほど長い間紙芝居を見る機会はありませんでしたが、アーサー・ビナードさんの語りによるこの紙芝居を見て、紙芝居の新たな力を感ずることができました。そして何より、電気を使わずに演ずることができるのは魅力ですね。語り手のそれなりの技量が必要でしょうが。紙芝居といえば、どうしても子どもたちのものと考えがちですが、この紙芝居は大人にこそ見て欲しいと思います。

いのちとうとし

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2019年8月21日 (水)

核廃絶運動は歴史的厳しさに直面している (5) ――憲法の復権と民主主義の再生が必要――

長いシリーズになりましたが、前回までは、日本政府が、核兵器禁止条約の署名と批准を頑なに拒否しているのは、「日本自前の核兵器を保有する」が日本政府の究極的な目標であり、署名・批准はそれを諦めることと同じなのだという説明をしました。

それほど大きな「目標」貫徹のためには、決して核禁条約の署名・批准はできないのです。それに対抗しての私たちの立場は、どうしても日本政府に核禁条約を署名・批准させることです。でも、そのための運動を構築するに当り、私たちは再度、日本の「平和運動」のこれまでを振り返り、現在私たちの持っている力を確認しておかなくてはなりません。

その結果は、残念ながら、非常に厳しい状況にあることを認めなくてはならないのです。その理由を、三つ説明しておきたいと思います。論点をハッキリさせるために、以下、物事を極めて単純化して説明します。例えば、「○○は××である」式の言い方をしますが、正確には、「○○という状態の起きたとき、これこれという条件を勘案すると、多くの場合、××という結果につながることが多くあった」と書くべきことも多いということです。

 

(A)日本の平和運動は、国際的運動だった。 

別の言い方をすると、日本政府を説得し政府の方針を変えさせるという種類の運動ではなかった、と言って良いでしょう。

再度お断りしますが、「単純化」しての表現ですので、例外は多くありますし、100%の場合、これが真実だと言っている訳ではありません。国際的な舞台での成功例が多く、国内的な運動では、他の人たちの運動が主導権を握っていた、というような場合も多々あることを念頭に置いて、しかし、これからの運動構築の参考にするための総括として役立つ読み方をお願いします。

本題に戻りましょう。「戦後日本の最大規模の社会運動は平和運動であった」という総括をしているのは、元朝日新聞の記者で、「最後の原爆記者」の一人として今でも健筆を振っている岩垂弘さんですが、彼の近著『戦争・核に抗った忘れえぬ人たち』の最後に、「戦後平和運動の到達点」という短いのですが、優れた運動史が載っています。この本も多くの皆さんにお読み頂きたい物の一つです。

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その中で岩垂さんは、運動が達成した「成果」を三つ挙げていますし、四つの弱点も指摘しています。実はこれらの点をまとめると、ここで私が指摘したい三つのことは既に言い尽くされているのですが、同じ内容を別の言葉で表現しておくことも大切ですので、繰り返しを恐れずに、岩垂さんのまとめから見て行きましょう。

まず、日本の平和運動が達成してきた三つのことですが、①国際的な核軍縮の進展に貢献した。②日本の核武装を阻止してきた。③は、被爆者を救援する活動を続けてきたことです。

続けて、岩垂さんは運動の「弱点」を四つ指摘しています。(i)分裂によって力が削がれた。(ii)被害者意識一辺倒に基づくものであった。(iii)日本が抱えている矛盾に鈍感なまま来てしまった。それは、「核の傘」の下で反核を叫んでいることである。(iv)核エネルギーの利用についての意見の違いから、運動が共同してできなかったこと、とまとめられます。

こうした総括を最も象徴的に表しているのが、1982年の第2回国連軍縮特別総会に日本のNGOが提出した核兵器完全禁止要請署名で、全部で8,000万筆にも及んだことでしょう。問題は、これが日本政府の核政策を根本的に変えさせる役割は果していないという事実ですし、②の核武装阻止も、事実として核武装はしていなくても、それを究極的目標として着々と実績を積んできた日本政府の最後の足掻きに、対抗できる種類の運動だったのかは別問題なのです。また、③の被爆者援護の活動も確かに立派なのですが、1980年に「基本懇」が政府の方針として打ち出した「受忍論」を撤回させるまでの力にはなっていないことも事実なのです。

つまり、これまでの運動は国際的にはそれなりの成果を挙げてきたが、日本政府の政策を根本的に変えるという方向性は持っていなかった、と言っても良いのではないかと思われるのです。

 

(B)国際的な貢献にしても、日本の運動が自ら目標を掲げて世界の同志に呼び掛けた結果として国際的な目標の達成につながったのではなかった。

ここで注意が必要です。「だから日本の平和運動は駄目なのだ」といった、評価の問題に摩り替えないで下さい。そんなことは言っていません。国際的な市民運動の全体像を見ると、それぞれの地域や歴史等の複雑な要素が絡み合って、役割分担が決ります。日本の役割分担には、このような目標設定や、計画立案が入っていなかったという事実を虚心坦懐に見詰めることが自分たちの力を知る上で大切だという点に留意して頂きたいのです。

1963年の部分核停条約、1970年のNPT、1996年の国際司法裁判所による勧告的意見、南半球がほぼ全て非核地帯条約を締結したこと等、日本の運動も重要な役割を果していますし、核兵器の非人道性を世界に広める上で、被爆者ならびに日本の運動の果たした役割は、他の国の運動では決して実行できなかったほど貴重です。しかし、国内でそれが日本政府の政策変更にまでつながったかというと、答は皆さん御存知の通りです。国際的にも国内でも、目標の設定とその実現のための作戦立案、そして実行というシナリオから、これまでの運動を見詰める必要もあるのではないでしょうか。

 

(C)原発についての考え方の違いが、運動も野党も分裂させている。

もう56年前になってしまいましたが、当時の原水禁運動が分裂した原因の一つがこの点でした。そのしこりは、今でも続いていますし、参議院選挙でも明らかになったことの一つは、野党共闘の障害の一つがこの点なのです。「自前の核保有」と、原発の存続は切り離せない絆で結ばれています。この絆が私たちの想像以上に強い可能性もあります。つまり、現在では、核兵器反対派の中に、原発賛成派も反対派もいるという状況から、原発賛成派が中心になって、原発賛成かつ核兵器反対というグループを原発賛成かつ核兵器賛成に宗旨替えさせてしまう可能性も考えなくてはならない時期に来ているのです。

核禁条約の署名・批准を日本政府に迫る上で、私たちの置かれている状況が厳しいことはこれでお分り頂けたとして、それではどうすれば良いのでしょうか。何事でもそうなのですが、問題を解決するためには、まず基本に戻る、数学の言葉では原点に戻ることから始めるのが「王道」なのです。そして「王道」が何であるのかは皆さん良く御存知のはずです。

[2019/8/21 イライザ]

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2019年8月20日 (火)

高校生が描いたヒロシマ原爆の絵画展

今年の夏、多くのマスコミが取り上げた広島市立基町高校性が描いた「ヒロシマ原爆の絵画展」が、広島国際会議場地下2階中会議場コスモスで開催されています。会期は、21日までです。私は、昨日行ってきました。

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会場に着いたのは、午後2時過ぎでしたが、多くの参観者がいました。ざっと数えると25人を超えているようです。みんな熱心に見ておられます。その中に、絵に添えられたキャプションを熱心に読んでおられる人の姿が目に入りました。

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一度体験談をお聞きした安楽寺の前住職で被爆者の登世岡浩治さんです。登世岡さんが、見終えられたところで声をおかけしました。「登世岡さん、どう感じられましたか」と問いかけると、返って来た言葉が、「今晩は眠れそうにありません。あの皮膚の垂れ下がった姿を描いた絵を見て、当時を思い出しました。今晩は、きっといろんな体験が、次々に浮かんでくるに違いありません。」でした。そして「だから、私は今でも資料館には入ったことがないんですよ」と続きます。登世岡さんの体験談を聞いた時の「思い出すことが余りにつらく恐ろしい。だから、被爆から約50年間黙して語らずでした」という話を思い出しました。

さらに続きます。「実は、今年7月にこの基町高校から依頼を受け、全校生徒の前で被爆体験を証言したんです。この学校で取り組んでおられる『原爆絵画』のことを知っていましたので、話を始める前に『この中で、原爆の絵を描いている人がいたら、手をあげてください』といったら、後ろの方で数人の手があがりました。そこでさらにこう言いました。『被爆の体験を継承し、平和を訴えるためにがんばっているこの人たちに大きな拍手をしてあげてください』と。生徒さんみんなが大きな拍手をしてくれました。そして『私は、まだ見たことがありませんが、今度機会があったらぜひ見たいと思います』といったのです。ですから、今日はどうしてもこの会場に来なければと思い来たのです」と。そんな出会いがあったから、本当なら見たくないこの「ヒロシマ原爆の絵画展」に来ておられたのです。そして人一倍熱心に見ておられたのです。

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不思議な出会いを感じながら、私もゆっくりと見て回りました。何人かの知り合いの被爆者の名前が、見えます。そして、テレビで取り上げられた作品もあります。絵の横には、絵のタイトルと「絵がかられ情景」さらに「生徒のコメント」「被爆体験証言者のコメント」が書かれた説明文が添えられています。「人が黒くなっている想像できず、色を作って塗るのに抵抗を覚えた。・・・」どんなに大変な作業だったか作者の苦労のあとがうかがえます。「とてもイメージの湧きにくい場面だったと思います。絶望して死ぬ人など普通では一生見ないでしょうね。」被爆者のコメントです。

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ずーと見ていくと会場の真ん中に据え付けられた立て看板に目が止まりました。それは、絵画とは別に9月完成を目指して「原爆の絵本・紙芝居製作」が進んでいるということを掲示した内容でした。おどろいたことに、その証言者が旧知の小倉圭子さんだったのです。すでに何枚かの絵が出来上がっているようです。「原爆の絵本・紙芝居」が完成するのが楽しみです。小倉さんが、基町高校のこの企画に協力していることを初めて知りました。もう一度展示されている絵画をよく見ると、小倉さんの証言をもとにした絵画が2枚ありました。

本当ならば絵画の感想を書かなければなりませんが、ここでも人との出会いを感じましたので、そのことを中心にした報告になってしまいました。

今日、明日の二日間しかありませんが、ぜひ多くの人に見ていただきたい「絵画展」です。

いのととうとし

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2019年8月19日 (月)

フランシスコ・サビエルと山口

先日、山口に帰郷した際、少し寂しくなったアーケード街を歩いていたら下の写真の銅板を目にしましました。これまでにも歩いていた道でしたが気づいたのは初めてです。

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画が刻まれた真ん中の銅板は、布教の様子が描かれています。左右の銅板には、説明文が書かれています。向かって右側の銅板には、フロイスの日本史の一部「(前略)山口のわれらの教会の正面に、釈迦を拝む本國寺という法華宗の僧院がある。異教徒たちには我らの四句節にあたる彼岸という時期があるが、年間のその時期になると、おびただしい数の聴聞者が寺院を訪れて喜捨を行い、その他の寺院にも参詣する。(略)」が記載されています。

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後ろを振り返ると、本國寺の門柱が目に入ります。本堂は、シダレザクラの並木道を入ったぞっと奥にあります。

ところが、向かって左側の銅板には、「大道寺について」というタイトルが付けられ「大道寺とは、天文21年(西暦1552年)、大内義長が山口にいたキリスト教宣教師に対して、協会の設立を許可した書状に記された寺院(協会)の名前である大道寺があった場所については、2つの説が知られる。ひとつは金古曽町にあるサビエル公園付近で、もうひとつがここ道場門前の本國寺付近である。」と記載されています。かつて私の兄(キリスト教徒)が、山口を訪れた時に、ぜひ訪ねてみたいということで一緒にサビエル公園を訪れたことがありますので、ここ「本圀寺」付近という説は今回初めて知りました。サビエルは、日本国内の様々なところで「布教の許可」を与えられたようですが、「常設の教会設置」が許可されたのは、日本国内ではこの山口が最初でした。ちなみにこの場所は、当時大内館があったとされる場所(現在は龍福寺の境内)からは、サビエル公園は、東に600メートル、本國寺は、南西に1.2キロの場所です。距離的には、サビエル公園は、大内館から近すぎるように思いますが、果たしてどちらが?

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翌日家族とともに「サビエル公園」を訪れました。公園から少し離れた場所に立つ門柱は何か古めかしさを感じます。この門柱は、「ビエル公園」になっています。

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公園に入ると、真ん中にサビエル像をはめ込んだ高さ10メートルの「聖サビエル祈念碑」が建っています。見上げるような大きさです。公園の右手には、「サビエル記念公園」の由来が書かれて看板があります。そこには「明治22年(1889年)フランス人アマトリウス・ビリヨン神父は、山口におけるサビエルの遺跡について探求し、現在の公園の地をその跡と考え、有志の協力で土地を買い求めました。」とその由来が記載され、大正15年(1926年)にサビエル記念碑が建立されたことも書かれています。さらに、この説明版を読むと、「教会設置」の許可が出たのは、サビエルが山口を去った後の天文20年(1551年)9月、弟子のトルレスに与えられたことが分かります。「聖サビエル記念碑」を挟んだ反対側には、許可を与えた書状を銅板にしたものが碑として建立されています。しかし、今この公園には訪れる人も少ないのかちょっとさびれた感じがしました。

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ところで、山口でサビエルといえば「サビエル記念聖堂」が思い浮かびます。妻の実家のマンションからもその尖塔が見えます。1991年の火災で全焼した後、1998年に再建されたものです。これをめぐっては様々な意見がありました。消失前の聖堂が建っていた時期に憩いの場として何度も訪れていたというわが家の家族には、今も不人気です。さてみなさんは?

いのちとうとし

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2019年8月18日 (日)

福島からの贈り物

今年も福島県郡山市にある「生活協同組合 あいコープふくしま」から、福島県産の桃の贈り物が届きました。送り主にお礼の電話を入れたところ「今年は雨が多く、少し甘みが少ないようなので、ちょっと時間をおいて食べてみてください」とのことでしたが、毎朝食後の果物として美味しくいただいています。

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「あいコープふくしま」の理事長を務めている佐藤さんが、私の古い友人というつながりから、毎年8月4日5日に広島に来る「子ども派遣団」の子どもたちと、4日の夜(原水禁世界大会開会総会終了後)1時間ほど、宿泊先のホテルで交流を続けることが恒例となっています。今年は、子どもたちがあまりにも熱心に話を聞いてくれましたので、時間がたつのを忘れ2時間程の交流になってしまいました。今回は、旧中島地区の復元地図や私が大切の保管していた中国新聞が20年ほど前に特集を組んだ「建物疎開の作業を行うため動員された広島二中の犠牲者」の新聞紙面を持参して、原爆被害のことを話しました。子どもたち(と言っても今年は二人でしたが)は、犠牲になった広島二中生と同じ年齢でしたので、私の持参した資料に興味を持ったようでした。コピーして返却してもらうことを条件に、預けてホテルを後にしました。翌日、帰りの新幹線の中から子どもたちに同行されていた橋本さんからショートメールが届きました。「お話を聞いてから慰霊碑をまわったので、より想いをもって見て考えることができました。」「いま新幹線の中ですが、広島二中の子どもたちの新聞をずっと読みながら帰っています。ハンドタオルが涙でびちょびちょになりました。」「子どもたちが何をどう感じたのか感想が楽しみです。」とも書かれていました。私も聞いてみたい気がします。この子ども派遣団からは、今年の「高校生平和大使」も誕生しています。その子からは、「高校生平和大使に応募したのは、子ども派遣団で広島に来たこと、そして話を聞かせてもらったことが、大きなきっかけです」と聞いています。私の交流も少しは役に立っているのかなと思いました。

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今日のブログは、子ども派遣団のことを書こうと思っていたわけではありません。書きたかったことは、届いた桃の贈り物の箱の中に入っていた1枚の紙のことです。「放射性物質簡易検査報告書」と書かれています。昨年も入っていたのでしょうが、恥ずかしながら気づいたのは今年が初めてです。生産地である須賀川市が行っている検査のようです。詳しく検査結果が書かれています。検査結果「検査対象品目 モモ 核種セシウム134 検出せず セシウム137 検出せず』検査機器名「ベルト―ル社製ガンマ線スぺクトロメーター」、そして検査限界値についての説明、食品中の放射性セシウム基準値についても記載されています。最後に「注意 この検査結果は持ち込まれた飲料をそのまま簡易分析した結果であり、あくまでも目安の値です。結果の数値については証明するものではありません。」と記載されていました。

東京電力福島第一原発事故が起こした大量の放射能放出。送られてきたモモの生産農家吉田果樹園は、原発事故のあった場所から西南西約60kmの地点です。今も福島では、この放射能と向きあう生活が余儀なくされているのだなと強く感じました。

いのちとうとし

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2019年8月17日 (土)

大陸に思いを馳せて

今年も8月9日が過ぎました。この日は言うまでも無く長崎原爆の日で有名ですが、それと同時に実はソ連軍が対日参戦をした日でもあります。日ソ中立条約を破棄し、旧満州国に侵攻し、日本人引揚者に暴虐の限りを尽くす日々の始まりと言われています。ネットで検索すると読むに耐えないページに突き当たります。嫌悪感をつのらせながらも、ふと見方を変えると、なぜそこに日本人がいたのか。そもそも「旧満州国」とは何か。日本人が大陸侵略の足がかりにするために、清国のラストエンペラー愛新覚羅溥儀を利用してつくった日本の傀儡国家にすぎないということになります。

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現在の中国では「偽満州」としか表現しません。日本人から見ると新天地を求め、希望をもって入植したのかもしれませんが、現実には、ある中国人少女の一言に象徴されます――「ここはわたしのうちだった・・・」。住んでいた家を関東軍にとりあげられ、日本人入植者に与えられ、その家の召使いにされた少女です。

中国に行ってみると多くの人々に親切にしてもらいますが、日本人とみると囁かれるのが「日本鬼子」です。私も、中国語が分からないと思ったのか何度も聞こえるように言われたことがあります。その言葉に反応して中国語で返事をすると、驚いて「中国語分かるの?あなたのことじゃないよ。ただ歴史の話をしていただけだから。」と、口調がとてもやさしくなりました。決して年配の方に言われたのではなく、自分とたいして年の変わらない人に言われたのです。人間不信にもなりそうですが、上記の歴史を考えると、やはり「怒る」こともできません。

戦後74年が経ちますが、決して忘れることができない事実が今も存在します。

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2019年8月16日 (金)

木内みどりの朗読「絵本 おこりじそう」―原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい

  毎年、敗戦記念日の8月15日に開催される「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」が、今年は台風の接近で危ぶまれましたが、無事広島市ひとまちブラザで開催されました。私も、今年の企画のメインとなっている俳優の木内みどりさんの「絵本 おこりじぞう」の朗読を聞くため参加しました。

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主催者の一人である広島文学資料保全の会代表・土屋時子さんの司会で始まった今年の「市民のつどい」は、最初に四國五郎さんの長男・四國光さんの「四國五郎が『おこりじぞう』に込めた思い」と題しての講演でした。「子どもの時から絵描きになることしか考えていなかった」という四國さん話。そして三つの戦争体験「戦争、シベリア、弟の原爆死」が紹介されました。四國さんも香月泰夫と同じようにシベリア抑留を体験していますので、先日の展覧会のことがたぶってきます。こんな短い間に二つのシベリア体験を聞くことになるとは思いませんでした。そして帰国後の広島での活動が非常にわかり易く話されました。この中で私の印象に強く残っている話は、四國五郎さんが光さんに繰り返し言っていたといわれる「つまらんことで怒るな。世の中には悪い奴はいろいろいるが、本当に悪い奴というのがいて、それは戦争を起こす奴だ。これはけた違いに悪い奴。だからつまらんことで怒らずに、戦争を起こす奴に本気で怒れ」という言葉が紹介されてことです。まさに8月15日のふさわしい、そしてこの日だからこそ改めて思い起こさなければならない言葉として伝わってきました。「父の価値観の背骨だった」と光さんは語ります。もちろん、帰国後知る弟の被爆死、峠三吉さんとの出会いなどなど感銘を受ける話が続きました。その中で、もう一つ印象の残ったのは、NHKが中心となって取り組んだ「市民が描いた原爆の絵」プロジェクトに参加されていたということです。光さんは、この「市民が描いた原爆の絵」を高く評価しています。

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光さんのあとは、いよいよ木内みどりさんの「絵本 おこりじぞう」の朗読です。やはり迫力があります。訴える力があります。木内さんの「絵本 おこりじぞう」の朗読は、今回が9回目。木内さんがこの本の朗読を始めようとしたきっかけは、友人がこの本を広島のおみやげとして買って帰ってくれたこと。そしてかつて訪れた丸木美術館で原爆の図を見た時、絵の力をすごく感じ、その丸木美術館で「四國五郎展」が開催されるのを知り、「ぜひその展覧会で朗読をさせてくれ」とお願いし、初めての朗読が実現したそうです。その朗読は、絵本そのものを読むのではなく、聞く人にも絵を見てもらいたいとの思いから、展覧会で展示されていた原画をスライド化させて、それを上映しながらの朗読会となったのです。

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そして「全身全霊で読みたい」という自分の思いが、観客に届いたという実感を得ることができたので、継続してやり始めたことになりました。木内さんの朗読の意味をこう呼びかけました。「自分で声を出して読んでみてください。その声を聞くと、ただ絵本を読む時と違うものを感じることができます。自分の体をとおすことで、記憶の継承ができるのではないかと思っています」と、体験を持たない私たちに対する示唆を与える話で今日のつどいが終了しました。

いのちとうとし

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2019年8月15日 (木)

8月のブルーベリー農園(東広島市豊栄町)その1

8月に入り遅い梅雨明けがあり、日差しが強くなりブルーベリーも甘さが増してきた折、8月1日鹿が西側の里山のブルーベリー農園に侵入したのを発見。その後8月8日まで防戦一方の日々が続いた。

安芸の郷からの農園へのブルーベリー摘み取り研修が盆前の8月9日まで天気にまぐまれ順調に続けられ。

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鹿の被害①。

柔らかい枝の皮をまるでトウモロコシをがりがりがりとかじられている。(8月1日の西側の里山のブルーベリー農園)

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鹿の被害②。

枝をかじって太い首を左右に振ってボキリと折る。(8月1日の西側の里山のブルーベリー農園)

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鹿の被害③。

鹿が通った後。土に背中をこすりつけていった跡もあった。(8月1日の西側の里山のブルーベリー農園)

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鹿の被害⑤。

ガードが甘くて立て掛けてあったワイヤメッシュの出入り口をこじ開けて侵入。(8月5日の西側の里山のブルーベリー農園)

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鹿の被害⑤。

侵入が防げたところでブルーベリーの幹と枝の後処理。切り詰めて癒合材を塗っておく。またわき芽が出て再生する。(8月11日の西側の里山のブルーベリー農園)

全部で30本位が被害にあった。

農作業の記録によれば2013年8月31日から9月4日まで、2014年には7月28日から8月13日まで連続して3段ある畑や2か所ある里山に侵入している。2014年の9月に畑の周囲に電気柵を設置してから鹿の侵入はなかったが、その際、里山には電気柵の設置が無理なのでワイヤメッシュとネットで周囲をかこっていたが2m位の高さだったので楽々飛び越えたのだろう。冬場に柵の再点検と整備の作業が必要となった。

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上手いものへの期待。富裕柿も大きな青い実がついている。(8月12日)

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イトトンボ。8月1日。

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ブルーベリーの枝の中にいるアマガエル。まだ小さい。(8月11日)

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猛暑だが摘み取りに励む利用者。時々吹く風がうれしい。摘み取った実を事業所に持ち帰って選別と生食1キロパック詰めをする食品班ににバトンタッチ。(8月8日、森の工房みみずく・就労継続支援B型ひいらぎ班)。

10_20190814211601平行して農園では畑の法面に伸びる草刈り作業。(8月11日)

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山の西側のブルーベリー園の一部に早生のブルーベリーがある。ここだけは6月から防鳥ネットをかけている。収穫時期が終わったことと。台風10号が明日やってくるので取り外す。春から伸びた竹がネットを突き破って茂ってしまった。切ってからネットを折りたたみ作業終了。

いろいろと忙しい季節が続く。

2019年8月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2019年8月14日 (水)

香月泰夫のシベリアシリーズ展を観る

12日、13日と妻の実家がある山口に墓掃除のため、帰郷しました。街を歩いているといたるところに「香月泰夫シベリアシリーズ展」のポスターが張り出されていました。

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山口県立美術館開館40周年記念コレクション特別展として、7月23日からスタートし、8月18日まで開催されています。このシベリアシリーズは、全部で55点ありますが、すべて山口県立美術館が所蔵しています。同美術館が所蔵しているといっても、全作品が一挙に展示されるのは、8年ぶりとのことです。ちょうどよい巡り会わせとなりましたので、さっそく美術館を訪れました。入場料のシニア料金600円(大人は800円)を支払い、展示場へと歩を進めます。

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展示会場は、Ⅰ.応召―戦地の香月泰夫、Ⅱ.敗戦、そしてシベリアへ、Ⅲ.セーヤ収容所、Ⅳ.チェルノゴルスク収容所、Ⅴ.復員―日本海をめざして、Ⅵ.〈私の〉シベリアの6章で構成されています。展示場に入って、まずびっくりしたのは、並んでいる作品が、私の想像を超える大きさだったことです。入り口に置いてあった「出品目録」を見ると、ほとんどが100cmを超えています。

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特に大きい作品は「涅槃」で、130.3cm×194.3cmあります。最も小さな作品「湿地」でも72.9cm×49.9cmですから、作品の大きさが分かると思います。この大きさだけでも圧倒されますが、一枚一枚丁寧にキャプションを読みながら、進んでいきました。キャプションには、こんな経歴が書かれています。「香月泰夫は、1911年生まれ。32歳という遅い年齢で1943年に召集を受け、満州へ配属となり、奉天(現在の瀋陽)で終戦を迎え、進駐してきたソ連軍によってシベリアに抑留され、1年9カ月ほど過酷な労働に従事した後、1947年4月に解放され帰国しています。」キャプションを読む進むうちに、何とも言えない思いに駆られてきました。それは、私の父親がたどった道でもあったからです。父は、家族とともに満州・奉天で魚屋を営んでいましたが、終戦もまじかになった1945年7月25日(と聞いていますが)にすでに40歳を超えていたにもかかわらず、現地召集を受け兵役に就き、そのわずかな時間にもかかわらず、香月と同じようにシベリアへの抑留の道を歩んだのです。厳しい抑留生活に耐え、香月と同じように1947年に帰国しています。残念なことですが、当時の様子を生前父から聞くことはありませんでしたので、父も同じような体験をしたのだろうなと思いながら、全作品をじっくりと見ました。

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さらに香月泰夫のシベリアシリーズには、満州に住んでいた日本人が貨車で運ばれる様子を描いた「避難民」という一枚がありますが、それを観ながら、今度は残された私の家族(母と子ども5人)もこんな様子だったのだろうかと想像せずにはいられませんでした。これまでもいくつもの展覧会を見に来ていましたが、こんな思いをしながら見た展覧会は、今回が初めてです。そんなことから、最初から見直し、結局2度観ることになりました。

この展覧会をぜひ多くの人に見てほしいという気持ちですが、残りの期間は後わずかです。本物を見るのが一番ですが、「シベリアシリーズ」については、何冊かの出版物で紹介されていますので、ぜひそちらを読んでみてください。

いのちとうとし

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2019年8月13日 (火)

長崎くんち

8月7日原水禁世界大会長崎大会の開会総会の終了後、いつものようにちゃんぽんを食べに永楽苑に行きました。もちろんちゃんぽんを美味しく食べましたが、今回は意外なこと遭遇しました。

お店の向かい側の公園に多くの人が集っています。何が始まるのだろうと尋ねると、10月7日8日9日の三日間開催される「長崎くんち」のための練習が今から始まるということでした。踊町は長崎市内に全部で59カ町あり、全町が7つの組に区分けされ、奉納踊りを出す当番は、7年に一度回ってくるとのことでした。この地域、江戸町は今年が当番ということで、そのための練習が行われる日にたまたまめぐり合わせてようです。

そろいの濃紺のTシャツに身を包み、頭にはねじり鉢巻き姿の男性陣。そしてその周りには、オレンジのTシャツを着た子どもたち。

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       7年前の江戸町の奉納踊り

公園の隅に作られた倉庫❓から、江戸町の山車(と呼ぶのかどうかは不確か)オランダ船が、引き出されていました。大人の男性が曳く「オランダ船」は、お囃子を奏でる小学校3年生から6年生までの子どもたちを乗せると、直ぐに別の場所に移動し始めました。もっと広い場所で練習するそうです。

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このオランダ船とは別に、船上が花で飾られた小さな船もありました。この山車は、小学校2年生から幼稚園の年長組の子どもたちによって運行されます。指導されている大人の方に話を聞きました。「小さな子どもたちなので、まだまだ力が足りません。今は、筋力をつける訓練です。」

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そうするうちに、子どもたちの何人かが、大人を力いっぱい押し始めました。子どもたちの筋力を確かめながら、船のどの位置に配置するか決めておられるようです。

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ようやく両側4人づつの配置が決まり、いよいよ船の引き回しの練習です。なかなか回り始めないのですが、旗振り役の指示に従いながら、精一杯の力を出し、何とか回り始めました。途中でストップする場面もありましたが、何とか360度の回転を終えました。指導する大人の顔にもほっとした表情が現れます。子どもたちの頑張りに、ちょっと拍手です。お盆までは、週2回の練習ですが、盆明けからは連日練習するそうです。

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7年前の江戸町の子どもの奉納踊り

きっとこの子どもたちも、10月7日からの本番には多くの観客から大きな拍手がもらえるようになるのだと思います。とにかく、7年に1度しか回って来ないのですから子どもたちにとっても、一生忘れられない思い出になることでしょう。

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翌日、原水禁大会の行事が終わった後の時間で、踊りが奉納される諏訪神社を訪ねてみました。数年前、テレビの番組で「長崎くんち」の勇壮な様子を見たことがあったのですが、現地を訪れたのは初めてでした。奉納が終わると、山車は急な石段を下り、街に繰り出すそうです。ここで出会った人に聞くと「江戸町、あーオランダ船ですね」とすぐに返ってきました。長崎市内の人は、誰もが「長崎くんち」のことはよく知っているなと思いました。それにしても、長崎には古い町名がたくさん残ってます。これも「長崎くんち」と関係があるのでしょうか。

いのととうとし

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2019年8月12日 (月)

「8・6ヒロシマ」で拾った言葉

 一連の「8・6ヒロシマ」の行事が終わりました。74年目も多くの友人・知人が広島にやって来て、話しをしたり聞いたりの長い数日間でした。その中で拾った言葉を順不同で書いてみたいと思います。

なんといってもインパクトが大きかったのは、市民団体が8月4日に開催した集会の「ヒロシマがヒロシマでなくなる日」というタイトルです。集会のチラシには、その理由として、なぜ、核兵器禁止条約に日本は署名しないのか。なぜ、日本は核保有国に廃棄を求めないのか。なぜ、日本では、福島の大事故後も、原爆はNOでも原発はOKなのか。なぜ、被爆者としての被害性ばかりが語られ、戦争の加害責任がおろそかにされるのか。とありました。

「ヒロシマがヒロシマでなくならない」ように頑張っているつもりの僕としては、ここまでずばり指摘されると、あまり良い気持ちになりませんでした。「あえて言われたくないよ」という気持ちになります。

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次はある集会で講演者が語った言葉です。それはオリンピック聖火と被ばくのことでした。1964年の東京オリンピックの時、最終走者で聖火台に点火したのは広島に原爆が投下されたその日に広島県三次市で生まれた、坂井義則さんでした、来年のオリンピックの聖火は、福島原発事故の作業拠点となっている福島県楢葉町のJヴィレッジがスタート地点になっています。オリンピック聖火と被ばくの関係を考えさせられた発言でした。

次は東京から来た人が、宿泊先のホテルで受付けの女性から「明日の朝食の時は平和の人がたくさんおられますから…」と言われたという話しです。これには本当に苦笑いしてしまいました。私たちのことを『平和の人』という言葉で一括りにされていることです。

原爆が落とされた時刻の8時15分には、広島では区役所などから1分間サイレンが鳴ります。その時刻の20分くらい前に、区役所から放送がされました。「原爆が落とされた時刻の8時15分にサイレンが鳴ります」という予告の放送でした。予告をしておかないと、なんでサイレンが鳴ったのか理解できない人がいるのだろうと思いました。原爆が落とされた時刻の分からない人が多くなったという状況の中では、仕方のないことかも知れませんね。

6日の夜に、「8月6日を語る会」という飲み会をしています。もう何十年もやっている会で、今年の参加者は7人でした。その会の場で「なぜドイツに原爆を落とさずに、広島に落としたのか」というのが話題になりました。これまでは何となく、人種差別で日本に落としたのだというように理解していたつもりでしたが、会の中では、ドイツはこの時点で原爆技術の開発を進めていた。投下した原爆がもし不発弾だったら、そのノウハウがドイツに伝わってしまう。日本は研究もしていなかったから、不発弾だったとしても心配無用だったという話しになりました。この会は毎年とても盛り上がるのです。ちなみに会長は私です。

市民団体の主催した集会で、「棄民の国 被曝安全神話」と題しての講演がありました。その中では、今なおフクシマでは、「原子力緊急事態宣言」が続いている。このままだと後100年も緊急事態だろう。今もっとも大切なのはこの「原子力緊急事態宣言」を一刻も早く解除できるよう、国の総力を挙げて働くことである。フクシマ事故の下で苦しみ続けている人たちの救済こそ最優先の課題である。少なくとも、罪のない子どもたちを被ばくから守らなければならないと話され、心に残りました

8月6日は、4年生の孫が通学している小学校の登校日でした。「じいちゃん、被爆二世いうのは何だ?」と質問してきました。丁寧に説明しましたが、話し半分くらいのところで友だちと遊ぶと言って外出してしまいました。「じじバカ」ですから、将来が有望な孫だと期待していました。

最後に自慢話しですが、原水禁大会の「ひろば」で約40分間「厳しい状況の中、過ちを繰り返させないために」というタイトルで講演しました。来年のNPT再検討会議を控え、核兵器禁止条約を署名・批准させるための内容でしたが、「とても分かりやすく良かった」という感想が何人かの人から寄せられました。誉められるというのは嬉しいですね。

木原省治

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2019年8月11日 (日)

核廃絶運動は歴史的厳しさに直面している (4) ――憲法の復権と民主主義の再生が必要――

長いシリーズになりましたが、前回までは、日本政府がこれまで一番固執してきたのは核抑止論であること、それは核兵器が国際法上合法であるという主張と表裏一体の関係にあることを確認してきました。しかし、その事実は究極的には、日本が自前の核兵器を保有するという、より大きな目標があってこそ意味を持つことも指摘しました。

「自前の核兵器保有」は、昨日今日始ったキャンペーンではなく、日本社会の底に流れる黒い「通奏低音」とでも表現した方が分り易いのかもしれませんが、もしこのような考え方があまりにも現実離れしていると感じる皆さんは、このことを一つの「仮説」だと考えた上で、ではその先はどうなるのかといった議論に参加して頂ければ幸いです。

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国家として、このように大きな目標を掲げる際には、あたかも赤ん坊のように「ボク、あれ欲しい」と言うだけで事が進まないことは言うまでもありません。目標に関連するいくつもの事柄をそれらしくアレンジしあたかも高邁な思想の元に事が進んでいると思わせるための「シナリオ」や「お膳立て」が必要なのです。以下、箇条書きにしておきましょう。

① 大義名分――日本が核超大国になって、世界の政治を日本の思うままに操ると言った秘密の目標があるのかもしれませんが、仮にそうだとしてもそんなことは口が裂けても言えません。「核は国際法違反ではない」「核兵器があることで世界の平和が守られている(核抑止論)」という形の大義名分が掲げられているのです。

② 目標達成のための具体的手段――かつて、科学技術庁という金食い虫のお役所がありましたが、その科技庁の二大目玉政策は、原発の推進とロケット技術の開発でした。

 (ア)原発の推進--言うまでもなく、原発と核兵器とは表裏一体の関係にあります。原発によってプルトニウムを生産しそれを使って核兵器を生産するという「サイクル」が必要だからこそ、経済的にも環境という面からも計算の合わない原発を推進し続けているのです。

 (イ)最近になって、DPRK (北朝鮮ではなく正式の国名の略称を使います。朝鮮民主主義人民共和国の英語名の略です) が短距離の「飛翔体」を発射したことが大騒ぎになっていますが、日本のロケット技術の高さはそんなレベルとは懸け離れた実績を持っています。

③ 国内法の整備――核兵器推進派の主張は、「現行の日本国憲法は核兵器の保有を禁止していない」なのですが、念には念を入れて9条を改正し、核兵器の保有や使用を表立って、憲法に認めさせようとしています。多くの国の憲法が核兵器を合憲だと認めれば、それは、国際的な場で核兵器禁止条約(以下、「核禁条約」と略)に対抗する力を持てるからですし、「核抑止論」が仮に国際的舞台では認められなくなっても、国内では「合憲」になる仕組みを作っておかなくては安心できないからです。

④ 反対勢力の力を削ぐ――核兵器廃絶運動、平和運動等の集会で目立つのは、圧倒的多数が高齢者だという現実です。高齢者が中心になって大きな反政府運動が起きるかどうかは疑問かもしれませんが、煩い高齢者を潰すことだけはやっておこうと、政府が考えたとしても不思議ではありません。年金を減らし、移動手段を奪い、高齢者が気軽に反政府運動を起せない、あるいは参加できない状態を作っておけば、ほとんどが「草食系化」してしまった若者たちが反旗を翻すことはないだろうという、若者に対しては許せない判断がその根底にはあるのかもしれません。

こうしたシナリオを推進しているのが、キム・ジョンウンとかドナルド・トランプといった、独裁的な政治家であれば、誰が発信源であるのかがハッキリ分りますので、シナリオの全体像やその輪郭も鮮明に把握できるのですが、我が国の場合、安倍政権が推進しているとは言え、肝心要のところでは、責任者が誰なのかが霞んでしまっている感があります。つまり、「忖度」に依存する責任体制のように見えるのです。

この点は、太平洋戦争の遂行に当っての、当時のわが国の中枢部の責任体制を踏襲していると考えると分り易いかも知れません。「忖度」による決定が日常的に行われており、天皇という、当然責任を取るべき立場にいた人物に塁が及ばないようなシステムを構築していたからです。しかし、結果として事が上手く運んだ場合には、それはトップが優れていたからだという後付けの説明が付いて「神格化」が進むこととも一体のシステムでした。

しかし、仮に責任者の存在が隠されていたとしても、その結果として例えば核兵器の保有とか使用といった重大な事態に至るのであれば、私たちは、責任の所在とは別次元の判断でそのような結果を阻止するための行動を取らなくてはなりません。主権者は私たちなのですから。そして、被害を受けるのも私たちであり、私たちと同じ立場の世界の人々なのですから。

結論だけ簡単に述べておくと、現在の日本政府の方針である「核兵器禁止条約に反対。当然、署名も批准もしない。」を変えさせることが必要です。つまり、日本政府が核兵器禁止条約を批准する、また核兵器禁止条約が効力を持つよう、日本政府が世界の国々に働き掛ける、といった結果になるよう、私たちの力で政治を変えなくてはならないのです。まず第一歩として、と言っても良いでしょうし、最低限という「限定」にしても良いのですが、日本政府が核兵器禁止条約に対しての積極的反対という立場を再検討するような政治環境を作ることが必要です。

しかるに、このような目標を実現する上で、日本の平和運動はこれまでにない厳しい自己点検を行い、新たな戦略を策定しなくてはならないのです。

この項、続きます。

[2019/8/11 イライザ]

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2019年8月10日 (土)

被爆74周年原水爆禁止世界大会が閉幕

7月27日に福島でスタートした「被爆74周年原水爆禁止世界大会」は、広島大会、長崎大会と引き継がれ昨日閉幕しました。閉会総会の模様などを中心に昨日の行動を報告します。

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午前9時、長崎総合体育館で始まった「長崎大会・閉会総会」は、松田圭治長崎実行委員長(長崎原水禁会長)のあいさつ、原水禁・非核平和行進のタスキが長崎から沖縄に返還。来年への引継ぎです。

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タスキを受けた山城博治沖縄平和運動センター議長が、「民主主義を破壊する安倍政権に絶対負けずに戦い抜く。皆さんも一緒にがんばりましょう」と力強く沖縄からのアピール。会場から大きな拍手が沸き上がりました。やはり沖縄です。体を張ってがんばっている山城さんのことは、誰もが知っているのです。

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続いて高校生のアピールです。第22代高校生平和大使と長崎の高校生1万人署名活動実行委員会のメンバー約100人が、ステージ中央へ。圧巻です。長崎大会の主役は、毎年平和大使と1万人署名活動実行委員会の高校生です。

海外ゲストの紹介、代表からのアピール、そして大会のまとめを藤本泰成大会事務局長が提案。最後は、山下薫長崎大会実行委員が「被爆74周年原水爆禁止世界大会・大会宣言」が提案し、全体の拍手で確認しました。以下に大会宣言を私が要約した(かなり長文ですので)ものを掲載します。

大会宣言

「74年前の暑い8月の空の下、広島14万人余、長崎7万人余の命が、たった2発の原子爆弾によって奪われました。その一瞬で奪われた命、苦しみながら奪われた命、無念の死を強いられました。そして、生存した者も生涯にわたって放射線の後遺症に苦しんできました。その悪魔の爆弾は、今なお1万4先発も存在し、人類の大きな脅威となっています。」「①INF全廃条約の失効、核兵器廃絶への枠組みを破壊する米トランプ政権などによって、核開発競争の再燃が懸念される。2021年に期限を迎える新戦略兵器削減条約の延長に向け、米ロが真摯に話し合うことを要請。②2017年国連で採択された『核兵器禁止条約』批准・発効に向け、条約の署名批准に背を向ける日本政府に対し、『核兵器廃絶1000万署名』を全力で取り組むとともに、来年のNPT再検討会議に向けて、NPTの存在意義がしっかりと捉えられるような議論となることを求める。③福島第一原発事故後8年、事故集束のめどはたっていない。政府は、「復興」の名のもとに、被災者の生活や健康など様々な問題を放置して、原発の再稼働を強行している。原発の重大事故によって、多くの人々が被曝を強いられた。人権侵害の当然の権利として、フクシマ被災者の医療と生活を支援する法整備を求める取り組みを進める。」「安倍政権の、国会での多数を背景にした、平和と安定を願う市民社会の思いを踏みにじる横暴を許さず、高齢化する被爆者の援護、被爆二世、三世や在朝被爆者の課題解決を急ぐとともに、命の尊厳を基本に取り組みを進める」「世界のヒバクシャに寄り添い、世界のヒバクシャと連帯し、核兵器廃絶・脱原発、ヒバクシャ援護に向けたとりくみを、さらに強化していきましょう。ヒロシマ・ナガサキを忘れず、フクシマを二度と繰り返すことのないよう、私たちは、今日、この原水禁世界大会の場所から、決意を新たにとりくんでいきましょう。

ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア フクシマ、ノーモア ヒバクシャ、ノーモアウォー」

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その後大会参加者は、長崎爆心地公園に向かって1.2Kmを非核平和行進。爆心地公園到着後、川野大会実行委員長と海外ゲスト代表のサマンサ・ハナーグ(マーシャル諸島・被曝三世)が全ての参加者を代表して中心碑に献花。原爆投下時刻の11時2分のサイレンを合図に全員で黙とうをし、すべての被爆74周年原水禁世界大会の行事が終了しました。

私たち広島県代表団18名は、閉会総会に先立ち、恒例の城山小学校慰霊碑参拝を行いました。

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学校に着くと子どもたちが、すでにそれぞれの場所で感化など平和行事を行っていました。私が写真に収めた子どもたちは、小学校5年生、資料館に献花していました。私たちも校庭に設けられた慰霊碑に献花し全員で黙とう。

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校内を移動中、被爆樹木カラスザンショウを見ましたが、2016年7月に枯れ死が確認されて以降も保存に努力されているようですが、年々その姿は朽ちているように見えました。子どもたちの平和学習のためにも、いつもでも残ってほしいものです。

いのちとうとし

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2019年8月 9日 (金)

長崎・城山小学校「原爆殉難者之碑」墓参

今日8月9日は、74年前長崎に原爆が投下された日です。被爆74周年原水禁世界大会長崎大会は、午前9時から県立体育館で閉会集会を開催し、終了後爆心地公園までデモ行進を行い、投下時間の午前11時2分鐘の音に合わせ、全員で黙とうをささげ、すべての行事を終了します。長崎大会参加者は、最終日の今日、閉会集会前に各県ごとに長崎県実行委員会が指定する長崎市内各地の慰霊墓参を行います。

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広島県代表団は、例年長崎市立城山小学校に建立されている「原爆殉難者之碑」(受難者名簿奉納)にお参りします。ここでの慰霊式は、午前9時35分から実施されますので式には参列できませんので、献花と全員による黙とうを行って、広島県代表団の墓参は、終了し、被爆樹木などを見ながら、閉会集会の会場へと移動します。

城山小学校では、午前8時40分から学校主催の「平和記念式」が行われますので、私たちが墓参に訪れる時刻には、子どもたが登校してきます。いつも元気な「おはようございます」をあいさつの声を聞くことができます。行われているそうです。「原爆殉難者慰霊式」の後、今度は児童会主催の「平和発信の会」が、行われているようです。ところで、学校のホームページによるとこの「平和祈念式」は、被爆後6年目1951年8月8日に「少年平和像」(学校入り口の正面)が建立されて以来、その後毎月9日に実施され、今回で817回になるそうです。これだけ長く続いているというのは、本当に素晴らしいことだと思います。

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ところで、この城山小学校にも悲惨な被爆実相があります。簡単にですが、城山小学校の被爆の様子などを紹介します。城山小学校は、原爆中心地から最も近い国民学校です。爆心地から西約500Mという近距離、浦上川のほとりの小高い丘(標高差10m余り)の上にあります。当時白亜の九州初の鉄筋コンクリート3階建て校舎で威容を誇っていたようですが、丘の上にありましたから、なんの遮るものもなく原爆の強烈な爆風、熱線により破壊焼失し、緑豊かな美しい森もすべてなぎ倒されてしまいました。被爆当時、学校にいた教職員は31人のうち28人が亡くなり、約1,500人の児童のうち1,400人余りが自宅または自宅周辺で死亡したと推定されています。このほか、三菱長崎兵器製作所の一部が事務所として学校を使用していたため、その職員(58人)、女子挺身隊員(10人)、学徒報国隊員(41人)あわせて109名が悲惨な被爆死を遂げています。

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全壊を免れた旧城山国民学校校舎の一部が、現在は「被爆校舎 城山小学校平和祈念館」として保存され、資料館としての役割を果たしています。城山小学校は、広島の本川小学校とよく似っています。本川小学校も広島市内の公立小学校として初めての鉄筋コンクリート造りの校舎として建設され、爆心地から350mという近距離にありながら、崩壊を免れ、現在は平和資料館として原爆の実相を伝えています。この建物(城山小学校)は、2016年10月3日には、「長崎原爆遺跡」として国の指定史跡となっています。

「原爆殉難者之碑」を訪れる前、広島県代表団の参加者もこの資料館を見学します。また学校の裏手には、被爆樹木「カラスザンショウ」がありますが、2016年1月の寒波によって枯れ死してしまったようですが、現在は保存措置が行われて、原爆のすさまじさを伝えています。学校の敷地内をぐるりと回りながら、閉会集会会場へと向かう坂道を下ります。

いのちとうとし

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2019年8月 8日 (木)

ヒロシマとベトナム(その3)

フランスのベトナム支配

前回(7月5日)、古代から近世の日本とベトナムとの関わりを概観しました。今回は近代に入っての関係を見ることにします。近代は1867年の大政奉還により成立した明治維新以降という説と、1858年の日米通商条約締結以降という説があるようですが、いずれにしろ幕末期から明治以降と捉えておけばよいでしょう。

日本で将軍を頂点とした幕藩体制(封建社会)が崩壊し、商人を中心にした中央集権国家(資本主義社会)に移った頃のベトナムは、1862年にサイゴン(現在のホーチミン)をフランスに占領され、植民地化が進められていた頃です。当然、フランスへの抵抗は起こり、1885年に14歳の阮朝(グエンちょう)8代皇帝咸宜帝(ハムギてい)の蜂起に呼応する抵抗闘争が各地で戦われましたが、相次いで鎮圧。皇帝はアルジェリアに追放され、1887年には仏領インドシナが成立しました。

日露戦争と「トンズー運動」

この頃の日本は、鉄道や通信、官営工場建設などの殖産興業化と教育令(学制)、徴兵令(兵制)、地租改正(税制)を柱に富国強兵政策を進め、1877年の西南戦争と1889年の大日本帝国憲法の制定を経て、近代国家としての歩みを強めていました。そして1904年に朝鮮半島と満州の権益をめぐるロシアとの日露戦争が起こり、翌年、バルチック艦隊との日本海海戦を制しました。

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フランスの植民地支配に抵抗していたベトナムの人たちは、大国ロシアに東洋の小さな島国が勝利したことに鼓舞され、1905年に「トンズー運動」を始めました。ベトナムの独立を目指す抗仏活動家の一人ファン・ボイ・チャウが展開した「トンズー運動」は文字通り、東(日本)に遊学(留学)する運動で、その目的はベトナム人の教育水準を高めて人材の育成を通し、フランスからの独立を図ろうというものでした。しかし、韓国と台湾での権益確保を狙う日本政府とインドシナ権益確保を意図するフランスとの利害の一致から結ばれた「日仏協定」によって、日本政府から解散命令を受けるなど弾圧された留学生は生活にも困窮しました。

何時の時代も国家権力というものは、人の暮らしや生命を大切に考えてはいません。

 浅羽佐喜太郎が結んだベトナム人との友情

困り果てたファン・ボイ・チャウが援助を求めたのが、以前、同胞が助けてもらったことがある現在の静岡県袋井市梅山出身の医師、浅羽佐喜太郎でした。佐喜太郎は私財を投じて、1,700円(現在の4,000万円相当)をつくり彼らを支援しました。日本政府からの退去命令を受けたチャウは、1909年に香港に逃れ「トンズー運動」は失敗します。その後、ファン・ボイ・チャウは中国の広東を拠点に独立運動を続けますが、フランスの官憲に逮捕されフエ近郊で軟禁生活を送っていた1940年10月25日に75歳の生涯を閉じました。

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チャウの死の翌年1941年から5年間、ベトナムはフランスから支配権を奪取した日本軍の占領支配を受けます。そして、大日本帝国政府が「ポツダム宣言」受諾による「降伏文書」に調印した日、1945年9月2日、ベトナム民主共和国初代国家主席ホー・チ・ミンによって「ベトナム独立宣言」が発せられました。ベトナム独立の父“ホーチミン”は日本でもよく知られていますが、もう一人の民族独立運動の指導者であるファン・ボイ・チャウのことは意外と知られていません。

ベトナムの人たちが親日的であることはベトナム人と接した人だけでなく、大方の日本人の認識になっています。その根底にはフランス政府や日本の官憲に追われているファン・ボイ・チャウやベトナムの若者を、庶民のもとで働く医師、いわば「市井の人」である浅羽佐喜太郎が救援したことにあるのだと思います。そして、“ファン・ボイ・チャウをはじめ多くの人たちによる抵抗闘争と独立運動の上に、ベトナム民族の独立があるのだ”という気持ちの表れだと思います。

しかし、ベトナムの人たちが真の民族独立と平和を獲得するまで、まだまだ険しい道のりがあり、日本や広島も深く関わっています。次回(9月)、そのことに触れたいと思います。

~追記~

浅羽佐喜太郎はファン・ボン・チャウ退去の翌年亡くなります。チャウは逃れて9年後、再び日本を訪れましたが既に浅羽佐喜太郎はなく、村人の協力を得て、追慕の思いとベトナム独立の悲願を込めた「浅羽佐喜太郎公紀念碑」を建立しました。

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1918年に建立された記念碑(左、静岡県袋井市梅林、「常林寺」境内)

 

《碑文訳》
われらは国難(ベトナム独立運動)のため扶桑(日本)に亡命した。
公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。
思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。
蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。

 

蒙空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。
我ハ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年
           大正七年(一九一八)三月 越南光復会同人

(「記念碑建立85周年記念式の報告」より)

(2019年8月4日、あかたつ)

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2019年8月 7日 (水)

被爆74周年原水禁世界大会広島大会まとめ集会

昨日午前9時30分から、4日の開会総会、5日の分科会など広島大会の活動を集約する「被爆74周年原水禁世界大会広島大会まとめ集会」が県民文化センターで開催されました。この集会に出席することができませんでしたので、この「まとめ集会」で発表された「ヒロシマアピール」を掲載します。

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被爆74周年原水爆禁止世界大会・広島大会「ヒロシマ・アピール」

 1945年8月6日午前8時15分、広島に投下された原子爆弾は、強烈な「熱線」、「爆風」、「放射線」のもと、その年の内に14万人もの生命を奪い去りました。あの日から74年、被爆者の高齢化は進み、限られた時間の中で、援護対策の充実と国家の責任を求めることが急務となっています。さらに、親世代の原爆被爆による放射線の遺伝的影響を否定できない、被爆二世・三世の援護を求める運動も重要です。

 2017年7月7日、「核兵器禁止条約」は、国連において122ヵ国・地域の賛成多数により採択されました。現在、条約に調印した国は70ヵ国、批准した国は24ヵ国にのぼります。発効に必要な50カ国に達するまでにはまだ努力が必要です。日本政府は、核抑止力論に固執し、被爆者や多くの国民の声を無視し、交渉に参加しなかったばかりか署名・批准を拒んでいます。

来年2020年には核拡散防止条約(NPT)再検討会議が行われます。原水禁、連合、KAKKINは再検討会議にむけて、日本政府に条約の批准、NPT再検討会議の成功を求める「核兵器廃絶1000万署名」を取り組むことに合意しました。日本政府の「核兵器禁止条約署名・批准」を実現させるため、原水禁運動の総力を挙げ、1000万署名を成功させましょう。

 核兵器をめぐる情勢は、大変きびしくなっています。特に、トランプ米大統領は、イランとの核合意からの一方的離脱、ロシアとの中距離核戦力(INF)全廃条約の失効、さらには使える核兵器開発を含む核態勢の見直し(NPR)を進めるなど、核廃絶の流れに逆行しています。私たちは、米朝首脳会談、南北首脳会談などが切り開いた新たな状況に、日本をはじめ、関係各国がどのように対処していくのか、私たちが求めている東北アジア非核地帯化構想の必要性について、改めて確認し、東北アジアの平和と非核化に向けた取り組みを進めていく必要があります。

日本政府は、南シナ海での米軍との共同演習などを通じて、日米軍事一体化を進めています。そのための軍事力強化を、米国からの対外有償軍事援助(FMS)によって、莫大な財政負担の下で強行しています。沖縄県辺野古では、沖縄県民の強い反対がある中で、在日米海兵隊辺野古新基地の建設を強行しています。東アジアでの共通の安全保障の確立によっては、軍事力によらない安全保障の構築は夢ではありません。自ら、周辺諸国との対立を呼び込み安全保障環境を悪化させ、市民社会と誠実に向き合うことのない安倍政権を許さず、沖縄県民の総意とともに辺野古新基地建設阻止にむけて、粘り強くたたかいを継続しなければなりません。

東日本大震災による福島第一原発の事故から8年が経過する中で、未だに4万人を超える被災者がきびしい避難生活を余儀なくされています。しかし、安倍政権は、避難指示解除準備区域や居住制限区域の解除を強引に行い、被災者の切り捨てを進めています。さらに安倍政権は、私たちの強い反対にもかかわらず、これまで9基の原発再稼働を強行し、原発に依存する政策を進めています。

私たちは、放射能汚染を強いられた人々の健康不安、特に子どもの健康にしっかり向き合い、「被爆者援護法」に準じた法整備を国に求めるとともに、原発再稼働や新・増設を許さず、全ての原発の廃炉、再生可能エネルギーへの転換を求めます。

原水禁運動の原点は被爆の実相です。被爆地ヒロシマを体験した私たちは、9条を守り、憲法を守り、一切の戦争を否定し、二度と悲劇が繰り返されないよう訴え、行動していきましょう。

これまで、私たちは原水禁を結成し、54年にわたり一貫して「核と人類は共存できない」、「核絶対否定」を訴え続け、核のない社会・世界をめざして取り組んできました。現在、暴走し続ける安倍政権の戦争への道、原発再稼働への道に対抗していくことが喫緊の課題であり、未来ある子どもたちに「核も戦争もない平和な社会」を届ける取り組みを全力で進めましょう。

ノーモア ヒロシマ、ノーモア ナガサキ、ノーモア フクシマ、ノーモア ヒバクシャ

2019年8月6日

被爆74周年原水爆禁止世界大会・広島大会

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私が、この「まとめ集会」に出席できなかったのは、同じ時刻に開催された広島県原爆被害者団体協議会の追悼式典に参加していたからです。6年ぶりの参加でしたが、ちょっとびっくりしたのは参加者の減少です。地域被爆者組織の中には、被爆者の高齢化で組織の維持ができなくなったという組織も出始めていることが近年言われてきましたが、今日の会場を見てそれを実感しました。そして、言葉だけではなく本当に被爆者が一人でも多く命があるときに、なんとしても核兵器廃絶への確かな道筋を付けなければと決意を新たにしました。

いのちとうとし

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2019年8月 6日 (火)

被爆74周年原水禁世界大会分科会と核兵器廃絶1000万署名キックオフ集会

昨日は、原水禁世界大会の二日目。分科会が午前9時30分から、それぞれの会場で始まりました。私は、第8分科会「見て、聞いて、学ぼうヒロシマ」の講師として参加しました。

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この分科会は、原水禁大会に初めて参加した人たちを対象にした入門編です。「広島の被爆の実相」に学ぶとともに「核と人類は共存できない」という原水禁運動の基本理念がどんな運動から生まれたかを学ぶ内容です。最初に原水禁国民会議が2001年に作成したDVD「君たちはゲンバクを見たか」(23分)を上映した後、原田浩元資料館館長から自らの「被爆体験」を話していただくとともに、元資料館館長として「被爆の実相をよりリアルに伝えるためには、原爆資料館の展示はどうあるべきか。そして広島市はどう伝えようとするのか」などの、被爆者が高齢化していくなかで考えていかなければならない、広島のこれからのあり様を問いかける問題提起がありました。続いて私が「核と人類は共存できない 原水禁運動の歴史に学ぶ」と題しての講演を行いました。参加者は、約380人余り。その8割以上が原水禁大会に初めて参加したという人たちでした。どれだけ私たちの思いが伝わったのかちょっと心配ですが、何とか役割は果たせたと思っています。予定通り午後0時半前には、この分科会は終了。

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午後2時からの国際会議の会場アークホテルに向かいました。北村事務局次長の司会で始まった国際会議では、最初ni川野議長のあいさつ。続いて藤本事務局長のキーノートスピーチ。続いて3人のパネラーから問題提起。最初は、韓国・参与連帯のソン・ヨンフンさん。ここで私は、連合集会に参加するため、会場から退席しました。後に予定されていたパネラーは、米国・ピースアクションのスージー・アリソン・リットンさんとピースデポ特別顧問の梅林宏道さんでした。全員のスピーチが聞けなかったのが残念です。

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タクシーで移動した上野学園ホールでは、午後4時30分からは連合主催の「被爆74年連合2019平和ヒロシマ集会」が始まりました。原水禁は、共催団体の一つですので、広島県原水禁の代表として参加しました。その集会が終了後、同会場で午後5時15分から連合、原水禁、KAKKIN三団体主催による「2020核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議に向けた平和シンポジウム~核兵器廃絶1000万署名に向けたキックオフ!~」がスタート。三団体が来年のNPT再検討会議に向けて取り組む署名行動のスタートの集会です。このプログラムの中には外務省軍部管理軍縮課今西靖治課長による「外務省報告」がありました。予想された通り、「こんなことをやっている、あんなことをやっている」との話はあっても、「核兵器禁止条約」には全く触れずじまい。しかもNPT再検討会議への決意も伝わりませんでした。メインは、中国新聞の藤村順平論説委員による講演。「NPTとは」から始まる話は、多くの人に参考になったと思います。特に力を入れて語られたのが「市民の力」ということ。世界の核状況を動かす、ほどの1000万署名活動にしなければならないなと改めて確認。被爆者からの訴えは、広島県被団協の箕牧智之理事長代行。後は決意表明で閉会。

長い一日でした。

今日は、74回目の原爆記念日。午前9時30分から原水禁世界大会の「まとめ集会」。私は同じ時刻に開催される広島県被団協の慰霊祭に広島県原水禁の代表として6年ぶりに出席する予定です。

いのちとうとし

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2019年8月 5日 (月)

被爆74周年原水禁世界大会広島大会―折り鶴平和行進―開会総会

被爆74周年原水禁世界大会広島大会が始まりました。

スタートは、折り鶴平和行進です。厳しい暑さの午後3時40分、折り鶴平和行進は、平和公園資料館前に集まった全国からの代表団、そして県内参加者に海外代表が、開会総会会場県立体育館グリーンアリーナをめざしたスタートしました。

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日陰に集まっていた参加者もスタート時には、タクシーだまりに整列し、順次歩き始めます。先頭は、例年通り海外代表です。その数、1300人余り。私も最後尾の出発を確認し、県立体育館に向かいました。

スムーズに行進団は進み、開会総会が始まる時刻には、すべての参加者が会場に到着しました。

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午後5時ちょうどに、第18代高校生平和大使・脇原華怜さんの司会で、開会総会が始まりました。流れだけを書いておきます。最初に全員での黙祷。続いて川野浩一大会実行委員長のあいさつ。広島市長のメッセージが代理出席の政氏昭夫市民局長により代読。続いて海外ゲストの紹介と代表のあいさつ。今年は、マーシャル諸島から核実験による放射線被曝の被害者支援運動家のラニー・クラマーさんとサマンサ・ハナーグさんの二人が参加。二人は、いずれも二世。代表してのあいさつは、アメリカ・ピースアクションのスージー・アリソン・リットンさん。

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ここで壇上の主催者、海外ゲストは、広島県被団協の高品健二さんの「被爆証言」を聞くため壇上から降壇。高品さんは、1937年生れ。8歳の時に爆心地から2.5キロの自宅付近で近所の仲間と遊んでいる時に被爆。お父さんを戦争で、お母さんを原爆でなくされた。一人っ子になり、叔父のうちで無事に理髪の教習所を卒業し、理髪業を営み大阪で仕事を終えた後、広島に帰郷。約30分の限られた時間での高品さんの被爆証言でしたが、終わると大きな拍手。やはり被爆体験を参加者の胸を打つことを感じました。

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続いて第22代高校生平和大使三人の紹介と牟田悠一郎さんの代表スピーチ。今年の福島からの訴えは福島県平和フォーラム事務局次長瓶子(へいし)高裕さん。

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藤本事務局長が「大会基調」を提案。その内容は、・核兵器禁止条約・核兵器廃絶1000万署名への決意・トランプの核政策・中距離核戦力全廃条約の失効・日本の軍備状況の危険性・おきなわのきちもんだい・韓半島をめぐる情勢と日本政府の役割・核エネルギー問題・とりわけ福島原発事故への国と東電による賠償問題などすべての課題を網羅し、最後にこ「命と命に付随する人間の全てを、私たちは決して『納得せずには』奪われない。その権利を持っていることを、改めて確認したいと思います。そして、そのことを原水禁運動の基本に据えて、更なる運動の展開をめざそうではありませんか」と呼びかけました。

いよいよ開会総会も最終です。広島県音楽サークル協議会の皆さんの指揮による「原爆を許すまじ」を全員で合唱。そして閉会のあいさつで全ての行事が無事終了しました。今年の開会総会の参加者は1900人でした。

今日大会二日目は、午前中8つの分科会での討論、午後は国際会議、5つの広場と今年初めて企画した「原民喜『夏の花』を歩く」など3つのフィールドワークが実施されます。少しでも広島を感じてもらえることを期待します。

いのととうとし 

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2019年8月 4日 (日)

被爆74周年非核平和行進・安佐北コース

8月2日,猛暑の中被爆74周年非核平和行進,北部・安佐北コースが行われました。昨年度は西日本豪雨災害の発生により中止されたため,2年ぶりの実施となりました。この日は奇しくも1987年にアメリカと旧ソビエトで調印された中距離核戦力全廃条約(INF)が大国同士の思惑で破棄され,失効した日と重なりました。

 国際情勢は,残念ながら核兵器保有国が拡大しており,核兵器のない世界をめざす被爆者の願いに逆行する歯止めのきかない状況になっています。しかし,こうした状況だからこそ,ヒロシマから核兵器廃絶の声を上げ続けていくことが益々重要となっています。被爆者の高齢化が進む中,何としても核兵器廃絶を早期に実現しなくてはなりません。

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JR可部駅を元気よく出発

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国道54号線を南下

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2014年「広島市豪雨災害」の爪痕がまだ残る安佐北区を行進

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シュプレヒコールを上げながら進みます。まだまだ元気です。

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 県道70号線に入り,三篠川付近で一休み。

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休憩も終わり,行進再開!

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中継点,広島市高陽公民館に到着

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お疲れ様でした。

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引き継ぎ式。ここから行進する人,引き続き行進する人,皆さんご苦労さまです。

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県道37号線。ここからは峠を2つ,3つ越えて行きます。

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もうひと踏ん張り頑張ろう!

 

照り付ける日差しの中での行進でしたが,一人の体調不良もなく,無事歩き切ることができました。

                             (T.N)

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非核平和行進 平和公園慰霊碑前に到着

先月27日に広島県入りし東部の瀬戸内海沿岸自治体をリレーしてきた東部コース、今月1日に広島県入りした西部コースの非核平和行進団、そして連合を中心として横川からスタートした平和行進が、昨日午後3時に相次いで平和公園慰霊碑前に到着しました。

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この非核平和行進集結式に参加するため、私は午後2時半過ぎに平和公園を訪れました。慰霊碑前の芝生広場には、すでにテントの設営が終わり、慰霊碑東側広場は合唱団用のテント、慰霊碑前には、献花台の設営作業が、厳しい暑さにも関わらず、懸命につづけられていました。

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そして慰霊碑前には、次々の参拝者が立ち、黙とうをささげていました。外国人の姿が目立ちます。

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資料館方面から広島市役所の職員に案内された外国からの賓客が慰霊碑前に進み、大きな花輪が献花されました。どこの国から来られたのかなと、その花輪に付けられた札を見ると「スリランカ民主社会主義共和国国会議員 ナマル・ラージャパクサ」と読めます。8月6日の祈念式典に参加するため来広されたようです。今日、明日とさらに海外代表の慰霊碑参拝が続くと思われます。

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こんな慰霊碑前の人の流れを見ているうちに、平和行進団が次々と到着し、約300名余りの集結式が始まりました。最初に連合広島久光博智会長が「暑い中ご苦労様でした。いま核をめぐる情勢は、INF破棄条約の失効など、大変厳しいものがありますが、核兵器廃絶に向けで連合、原水禁、KAKUKINの三団体が力を合わせて取り組みを強化しましょう。連合広島は6日の正午、県内の全地協で来年のNPT再検討会議に向けた『3千万署名』の街頭署名活動をスタートさせます。」と決意を表明。続いて、三団体の代表による献花を行いました。私も原水禁代表として参加しました。そして全員で原爆犠牲者に黙とうをささげ、集結式を終了しました。

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いよいよ今日から、被爆74周年原水禁世界大会広島大会がスタートします。

今日の予定は、大会に参加する海外代表、全国の代表団、県内参加者によって実施される「おりづる平和行進」が、午後3時30分平和公園を出発し、世界大会会場の県立体育館グリーンアリーナをめざします。そして午後5時から、開会総会が行われます。厳しい暑さが続いていますので、無事に大会がスタートすることを祈っています。さらに私は、開会総会終了後も、午後8時半ごろから、毎年実施している「生活協同組合あいコープふくしまの子ども派遣団」との交流がありますので、帰宅は午後10時ころになりそうです。

いのちとうとし

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2019年8月 3日 (土)

「数学書として憲法を読む」ー秋葉忠利代表委員の新著発刊

広島県原水禁代表委員の秋葉忠利さんは、これまでにも多くの著書がありますが、この度「数学書としての憲法を読む」という新著を発刊されました。サブタイトルは「前広島市長の憲法・天皇論」となっています。私にも「著者謹呈」として一冊送っていただきました。

本来なら、本を読んだ感想を書くべきですが、私の能力では、それを待っているとずいぶん遅くなってしまいますので、取り急ぎ新著が発刊されたことを紹介をさせていただきます。署名を見た時、私の頭に浮かんだ書名は「数学書」ではなく「数学者」でした。「数学者秋葉忠利」の憲法解説本と思ったからです。

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「数学書」など読んだことのない私には、大きな?がつくのですが、本にまかれた帯には「原理原則などどこ吹く風 ごまかしだらけの政治の時代―文字通りに、素直に読んでみませんか?」と書かれていますので、素直に読めばよいのだなとちょっと安心です。さらに裏表紙側の帯の「憲法を基本に据えて、本当の意味での立憲政治を実現するための出発点として私が選んだのは、憲法全体をもう一度、数学書を読むように丁寧にそして論理的に読んで、その内容を理解することでした。その試みから得た教訓は、99条の(復権の)重要性です。これが私にとっても貴重な『発見』だったことから、多くの皆さんと共有したいと考えるようになりました。」との紹介で、この本が書かれたゆえんが、憲法99条にあることが分かります。安保法制の審議を機に、クローズアップされた99条の「憲法尊重擁護義務」について、その実践のための具体的な提案も含めて、その重要性が本書では書かれています。(ちょっと斜め読みで受けた印象)

ところで、この本、開いてみるとちょっとびっくりします。最初に出てくるのが「はしがき」です。これは、「はじめに」や「まえがき」と同じような意味を持つ本の書き出しだと思います。ところがこの本では、この後に「前口上」、そして「序章」と続きます。「まえがき」とも思える部分が、こんな組み立てで出てくる本は、見たことがありません。と言っても私の少ない読書歴での感想にすぎませんが、ここでまず「秋葉さんらしいな」という印象を強く持たされます。その「前口上」「序章」がなぜ必要だったのかが、「はしがき」に書かれています。「なぜ、『数学書として読む』ことに意味があると思ったのか、それが『広島市長』とどう関わっているかについては『前口上―なぜ前広島市長が憲法を語るか』で説明したので、そちらをお読みいただけると幸いです。」ということです。そしてさらに「はしがき」を読み進むと「本書を読む順序」について記載されています。「論理的には最初から順番に読んでいただくことを想定しています。しかしながら、難しいかもしれないと危惧をお持ちの方は、第5章からはじめてみてください。その他、興味のある章から、始めてくださっても本筋はご理解いただけるでしょう。」となっています。ちなみに第5章のタイトルは「憲法は死刑を禁止している」となっています。そもそもこの章は、3章で構成される「第Ⅱ部 憲法は死刑を禁止している」の最終章として登場しています。

今のところ、ここまでぐらいしか読んでいませんので、これ以上のことは書けません。

秋葉代表委員の憲法論については、このブログでも何度か登場していますので、なじみがあると思います。ぜひ一人でも多くの人に読んでいただけることを期待します。

いのちとうとし

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2019年8月 2日 (金)

被爆74周年非核平和行進(西部コース)広島入り

広島平和公園慰霊碑前をめざし山口県内を行進してきた被爆74周年非核平和行進西部コースが、昨日(8月1日)午前10時に広島県入りをしました。

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山口県最後の中継地・岩国市を出発した非核平和行進は、桝本山口県原水禁議長を先頭に約30名が、県境の栄橋を渡り、広島県大竹市に入りました。栄橋南詰では、大竹地区労の仲間約30人が、拍手でこの行進団を出迎えました。

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早速引継ぎ式。最初に山口県行進団を代表して桝本議長が「無事に今年も『非核平和行進』の横断幕を届けることができました。今年は、来年のNPT再検討会議に向けて、1000万人署名など様々な取り組みを始める重要な年です。また被爆国日本と言いながら2017年7月に成立した『核兵器禁止条約』に反対の姿勢をとる日本政府の政策を変えさせなければなりません。広島県の皆さん。この平和行進を成功させ、4日からの原水禁世界大会を何としても成功させましょう」とあいさつ。そして「非核平和行進」の横断幕が、山口県から広島県代表団に引き継がれました。これを受け、広島県を代表して私が、「山口の皆さんご苦労様でした。皆さんの思いを引き継ぎ、3日の広島平和公園をめざしてこれから広島県が行進を行います。桝本議長も言われたように今年の原水禁大会は、非常に重要です。来年の被爆75周年の節目の年に向け、被爆者の願いである『核兵器禁止条約』を何としても発効させなければなりません。そのために全力で運動を進める大会としなければなりません。」とあいさつし、山口の仲間に見送られて栄橋南詰を元気に出発しました。

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私も、わずかに1.3kmという短い道のりでしたが、大竹駅前まで、大竹の仲間とともに平和行進に参加しました。8月に入り一段と厳しさが増していますが、西部コースも無事に行進が進むことを祈られずにはいられません。3日の午後3時には、東部コース、北部の連合平和行進、そしてこの西部コースの到着式に参加するため、平和公園慰霊碑前で出迎える予定です。

いのちとうとし

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2019年8月 1日 (木)

参議院選挙を振り返って ――ブレないことと実現可能性と――

我が国の核廃絶運動が歴史的な厳しさに直面していることを論じてきましたが、その続きは次回に回して、今回は参議院選挙からの教訓をまとめておきましょう。

今回の選挙の特徴を最もはっきり表しているのは、れいわ新選組 (以下、「れいわ」と略します) とNHKから国民を守る党 (以下、「N国」と略します) の躍進でしょう。もっとも選挙後、「れいわ」には秋波を送る野党が続出しているように見えるのに対して、「N国」の国会議員に対する入党の勧誘が否定的に報道されているという違いがあります。それぞれ大切なことではありますが、ここで取り上げたいのは、この二つの政党が何故、多くの人にアピールしたのかという点です。

2年前の衆議院選挙のときにも同じような感想を抱いたのですが、有権者そして国民の多くは、政治の問題点がどこにあるのかをかなり正確に理解しているのです。2017年の選挙では希望の党が生れてからの混乱の中で、立憲民主党が立ち上る意味を多くの人が理解し支持しました。それは、政治とは政治家の野心のためにあるのではなく、国民・市民・生活者のためにあること、そして政治家はこのような人たちのために「全体の奉仕者」として働かなくてはならないという簡単ではありますが、大切な考え方です。しかも、そのような政治を実現するためには、憲法を基本にした民主主義政治が必要不可欠であることも、多くの人が重視した点でした。だから立憲民主党は伸びたのです。

さて今回は、立憲民主党に代って、「れいわ」と「N国」が目立ちました。立憲民主が勢いを失っている理由については、稿を改めたいと思いますが、今回は躍進した二党の主張が多くの人の共感を呼んだ点を強調したいと思います。

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《「れいわ」の主張》

「れいわ」の主張は、徹底した「弱者」の救済です。そんな言い方では弱過ぎるかもしれません。「弱者」の人権が守られて初めて、「政治」が機能していることになるという考え方が基本です。それも、イデオロギーとして、あるいはスローガンとして掲げれば良いというレベルではなく、一人一人の人間の「生活」に直結した場で、眼に見える結果が生じるという条件付きです。

「消費税廃止」「安い家賃の住宅」「最低賃金の1500円補償」「障がい者への「合理的配慮」を徹底、障がい者福祉と介護保険の統合路線は見直し」「沖縄・辺野古基地建設は中止。普天間即時の運用停止。」等、こうした考え方を忠実に反映しています。

《「N国」の主張》

さて、「N国」の主張は、NHKを見たくない人にはその権利が保障されること、そしてNHKが、国家主義的な偏向番組を作らないようにすることくらいなのかなと単純に思っていたのですが、もう少し複雑でした。党のホームページの説明です。

    NHKからの3つの被害

   ①経済的被害者【受信料支払い者 約50%】

   支払い者【不払い者の分まで支払わされている】

   現在50%しか払っていないので月額2,220円、全員が支払えば月額    1,110円に【年間26,640円が13,320円になる】

  ②精神的被害者【受信料不払い者 約50%】

   24時間体制でやって来るNHK集金人【反社会勢力関係者も多数在籍】  からの脅迫行為や裁判の被告になってしまうかも?という不安による精神的被害

  ③情報的被害者

   ★公共放送なのに国営放送のような放送をされている。

   ★反日的な報道をされている。

   ★福島第1原発の放射能漏れの真実を約2ヶ月間報道しなかった。

   ★NHK受信料制度の紹介番組を制作していない。

  ★野球賭博や八百長をしている大相撲を年間30億円の放送権料を支払って  中継している。

  まず約800【21,000人】ある全国の市議会や東京都区議会の条例で、 NHK集金人の個別訪問を禁止する条例を制定する。

  NHKだけ視聴できないテレビを希望する家庭には、NHKの電波を供給し ない条例を制定する。【NHKスクランブル放送の実施】

  ★この条例を制定する事により、安心してNHK受信料を不払い出来る。安 心で安全な街づくりを目指します。

 

「れいわ」の政策に共感し支持したいと考える人が多いことは御理解頂けたとして、「N国」の主張にも耳を傾けたくなるいくつかのポイントがあります。これら両党の主張にアピール力があるのは、現在のわが国の政治・経済・社会が上手く機能していないことの結果として、このような問題が生じているという因果関係も多くの人が理解してからなのだと思います。

しかしながら、それだけでは今回のような「躍進」にまではつながらなかったのではないかと思います。多くの人が漠然とではあっても、現在の政治の問題点だと考えていたような事柄を指摘し、何とかしなくてはという気持を持ったとして、次に目を向けるのは、ではどうすればその問題を解決できるのか、という「解決策」です。

《解決策》

簡単に説明すると、「れいわ」の場合は「消費税の廃止」です。消費税がなかった時代を覚えている人も多くいるでしょうし、消費税率を上げることが可能なら、それを下げたりゼロにしたりすることも当然できる訳ですから、「実現可能性」という点からも合格点を取っている政策だというのが大切なのです。

しかし、それ以上に大切だったのが、特定枠で立候補していた二人です。ふなごやすひこさんと木村英子さんは、重度の障がいのある候補者ですが、社会的弱者自身が国会で自分たちの権利だけではなく、その立場から他の人たちの人権についても発言することの重要性は、言葉ではなく事実として多くの人に伝わりました。

「N国」の場合も、具体策として掲げられているのが、「スクランブル放送」です。有料チャンネルと同じように、お金を払った人だけがNHKを見られるようになるのですから、実現可能性だけではなく、三種類の被害を受けずに済むというメリットがすぐに分る点も多くの人にアピールした理由なのではないでしょうか。

そして、「れいわ」も「N国」も、一貫して何年もこの主張を繰り返してきています。姿勢が全くブレていないのです。これも説得力が増すための大きな力になりました。

最後に、「れいわ」も「N国」も、代表の顔が見え、SNSでも街頭でも、パッションを持って語り続けている姿が、多くの人たちに「この党で行こう」という気持を起させたのではないかと思います。

[2019/8/1 イライザ]

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