広島一中の追悼式と広島二中の祈念コンサート―その1
昨日28日は、原爆によって多くの犠牲者を出した旧制広島一中と広島二中の追悼の行事に参加することになりました。今日は、この一週間余りの間に何度かブログに書き、今年は参加すると言っていました「広島一中原爆死没者慰霊祭」について書きたいと思います。
今も国泰寺高校に残る広島一中の門柱
私が会場(国泰寺高校の『追憶の碑』前)について時には、遺族や同窓会役員、そして在校生などで、ほぼ準備されていた椅子は埋まっていました。午前10時、開会の辞とともに「慰霊祭」がスタート。次に3人から追悼の辞。最初は、国泰寺高校の佐藤隆吉校長。佐藤校長のあいさつでは、遺族の手記集「星は見ている」の題名となった藤野敏江さんの手記の一部が紹介されました。「『座布団を敷いておいたよ、お母さん』と言いました。『有り難う、有り難う。まるで千両桟敷ね。なんと素晴らしい星空でしょうか、綺麗だね、戦争があっているみたいでないわね』と申しましたら、『だからお出でと呼んだんですよ』『博ちゃん北極星を知っていますか』『知っているよ、それくらい。それじゃお母さん、オリオン座知ってるの』『知らない』と申しますと『あそこよ、あそこよ』と指す彼方を見つめた時、二台の飛行機が赤と紫の火をつけて高く南へ南へと飛んでおりました」と。
続いて鯉城同窓会広島一中遺族原爆死没者遺族会担当参与の福間俊吉さん。福間さんの追悼の辞は、「校歌絶唱」と題された自作の短歌八首の朗読でした。うち四首を紹介します。
「慰霊碑に佇てば聞こえてくるんです被爆学徒の校歌絶唱」
「とこしえに十三歳と十五歳三百余名を刻む被爆碑」
「憧れの校門くぐり四月後に被爆死と記す高史の一章」
「中2にも工場動員令が出たあれは8・6一週間前」
次に在校生代表の追悼の辞。そして献花です。その二番目は広島一中一年生で現在出た一人の生存者の兒玉光雄さんです。その胸の内はどんなものだろうかと思いを巡らします。指名献花につづいて、参加者全員が次々と献花台へ。長い列が続きます。献花が終わると、国泰寺高校保護者会の女性コーラス隊「鯉城ステアコール」の献歌。
最後に広島一中原爆死没者遺族会会長秋田正洋さんのあいさつ。秋田さんのあいさつは、「35級とよく呼ばれますが、それは3年5組のことです。死没者名簿には3年生54人の名前があります。被爆後二十数年経って、県女の3年生だった大西さんから手紙をもらいました。」と、そしてその手紙が読み上げられました。手紙の中味は、「己斐の広島航空機製作所で一緒に仕事をしていた一中の3年生が、8月5日に出された命令によって8月6日土橋付近の建物疎開に従事し、被爆。その日の朝電車の中から元気な一中性の姿を見たこと。原爆投下時には、自分たちの工場のすぐそばに爆弾が落ちたと思っていたので、一中生は土橋にいてよかったと思っていた。しかし夕方になると大やけどをした人異様な姿で男女の区別もできない人たちがどんどんと近づいてきた。」ことなどが書かれていたようです。関千枝子さんがよく「生死を分けたのは運」と言われていますが、そのことを思い起こさせる話で、何とも胸を打たれるあいさつでした。
原爆の非人道性とあの日のわずかな違いで命の分かれ目に向き合わなければならなかった悲劇があったことをこの慰霊祭でも痛感しました。初めての参列でしたが、改めて多くを学ばせていただきました。
明日は、広島二中の祈念コンサートについて、報告したいと思います。
いのちとうとし
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